木梨憲武 フェアリーズ展

NORITAKE KINASHI Fairies

@東京建物 Brillia HALL

今日は歩いていると景色がゆがむような暑さです。公園の鳩も「あぁ、あついなぁ」というため息をついているようです。

筆者撮影

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、東京建物 Brillia HALLで開かれている「木梨憲武 フェアリーズ展」をとりあげます。当展覧会は入場料無料、ポスター、作品等のSNSアップは「是非」にということでした。

さっそく展覧会入口看板を引用

アートにはさまざまな力があり、純粋な芸術らしい芸術もあれば自由さなどが挙げられます。この展覧会は軽やかさが感じられる展覧会でした。

『木梨憲武×フェアリーズ』公式HP

以下内容をふくみます。

意表をつかれる「フェアリーズ」

わたしは、この展覧会の予備知識もなく、木梨憲武さんについては「絵もかくお笑いの人」程度の情報しかありませんでした。そして、東京建物 Brillia HALLのまえをたまたま通りがかり、展覧会に足を踏み入れたのでした。

タイトルをみた直後の感想は「お笑い芸人がある意味でいじりずらい「アート」をやるリスクをしょってやっているからには本物かもしれない」という気持ちを3パーセントくらいもって入館しました。どちらかといえば芸術家の真面目な側面かもしれない、という先入観をもったまま彼の「フェアリーズ」に遭遇してしまったのです。軽い衝撃でした。

不思議であり、かわいいのですが、明らかに不細工で奇妙なのです。この不細工さが先ほどの先入観と「フェアリー」という言葉がもつイメージにはまらない、むしろ振り切ってる。振り切ってるがゆえに愛嬌があるん。しかもこの「フェアリー」が百花繚乱の体をなしているのです。300,400体はいらっしゃったのではないでしょうか。

正直、初見はくだらないっと思いました。しかし、せっかくきたのだからウォーリーを探せのように、お気に入りの一体を探してみようと思い立って探しているうちに、思ったより楽しんでいる自分を発見しました。彼の創るフェアリーをみていくにつれて、彼がこの「フェアリーズ」を制作中の姿がすけて見えるようなきがしました。「楽しんでるぜ」っという雰囲気が感じとれる。そういう雰囲気が感じ取れるとみているこちらも少し気が晴れる思いがするから不思議です。

木梨憲武とは一体

わたしは、この展覧会まではかれのお笑いの姿(とんねるず)しか知りませんでした。彼らのお笑いは、リアルっぽいコントみたいな喜劇だと私はおもっています。演者が「笑い」のために自発的に演じているのだ、とみれば問題ないと思うのですが、上下関係をベースにしている「いじり」が、最近は賛否両論あるようです。

しかし、今回わたしはくすっとさせられたのですが、それは彼らの「お笑い」スタイルにある「いじり」笑いというよりは、自分もふくめた含めたユーモアを感じさせる笑いだったように思います。芸術表現は外からの縛りに制約されないいわば聖域なので、結構表現者の自然体が現れます。もしかしたら、かれはいじりのような笑いよりはユーモアよりの笑いの人なのかもしれません。

実は巨大なオブジェクト

彼の作品群は正方形の木枠に収められそれが天井が高い展示スペースの黒い立方体に貼り付けられています。少し引いた視点で眺めると、一体一体の「フェアリー」は識別でしなくなる代わりに、漆黒の立方体の側面に幾何学模様が描かれてるように見えてきます。これがとても不思議でいいのです。古代文字が刻まれた壁画を刻まれた岩石まるごと持ってきたこのような。謎を追っていく探検家のロマンが漂うようなそんな感じでした。実はこのアングルが不思議な魅力が感じられるベストなのかもしません。

木梨憲武 フェアリーズ展 展示室風景

ザ・「フェアリー」ベスト5

さて、以前「おいしい浮世絵展」でやってみたザ・ベスト5を今回の「木梨憲武 フェアリーズ展」でもやっていきたいと思います。おそらく300体以上の「フェアリー」の中から選ばれたザ・ベスト5を紹介してて結びのとさせてただきます。

(注)これは筆者の独断と偏見をもとにランキングされています。ちなみに、「おいしい浮世絵展」でやってみたザ・ベスト5はこちら

第5位 「プッチンプチンらしきものが母体のフェアリー」(名前はわからないので憶測です)

木梨憲武 フェアリーズ展より引用

なんか、わかりませんが、いいんです。

第4位 「だし醤油のフェアリーさん」(名前はわからないので憶測です)(写真一番右上)

同上

このフェアリーは「アイ・ヘイワ!」にカテゴライズされています。だし醤油という響きがまさにその両者を包含し、パッケージから生まれたこの「フェアリー」のフォルムと相まってまさに、愛と平和の化身と化してらっしゃいます。

第3位「バブリン」

同上

寒々しい心も、硬く強張ったからだも温めてくれそう。バブリンという名前もそれ以外ないようなフィット感。

第2位「ソウダンノルヨ」

同上

いろいろな今に至るまで逆境のなか生きてきたであろう、ルックス、なのに飄々たる明るさ。幾多の困難を克服してきたに違いない。是非相談にのってもらいたいです。

第1位「ワタシトベナイノ」

同展覧会より引用

なんだこれは、と一週目を疑う不思議さ満点。意味深な言葉「ワタシトベナイノ」とは裏腹なさっぱりしたほほ笑みボディーフェイス。「トベナイ」あなたで、いいんです。堂々代1位。

以上、ザ・「フェアリー」ベスト5でした。

おつきあいありがとうございました。

木梨憲武 フェアリーズ展
[会期]2020/8/3(月)~8/16(日)入場料無料
[会場]東京建物 Brillia HALL
企画/制作:コッカ製作委員会
Copyright © 木梨憲武/コッカ製作委員会

「いわさきちひろ 子どものしあわせ」展

-12年の軌跡

@ちひろ美術館・東京

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は前回取り上げた広瀬康男展と同時開催されている、「いわさきちひろ 子どものしあわせ」展をとりあげてききます。

「いわさきちひろ 子どものしあわせ」展、公式サイト

いわさきちひろは、雑誌「こどもの幸せ」の表紙イラストに12年間携わりました。この表紙イラストは彼女に裁量がゆだねられており、彼女の絵心が存分に発揮されています。また、この12年もの間、彼女がいかに自らの表現方法を押し広げようかの試みと葛藤の過程をみることができます。

わたしはいままで彼女のファンではなく、そんな予備知識もなくふらっとこの展覧会によったのですが。いわさきちひろの世界観を堪能できる、内容豊かな展覧会でした。そして彼女の作品のファンになったのでした。

今回は、彼女の絵の特徴であるファンタジー性についてちょっと探っていきます。

イラストという枠をこえて

わたしは、雑誌「子供の幸せ」の表紙の特に後半のほうの作品を眺めているうちに、ふと、「イラストの枠を超えてるなと思うようになっていました。たまたま、わたしは先日、三菱一号館美術館で開催されている「画家がみた子供展」(この展覧会の記事はこちら)に行き、、世界に名だたる大家が描く子供の絵を拝見しました。「イラストという枠を踏み出している」と思ったのは、彼女の絵がもし、あの展覧会に大家の作品群のなかで見かけたとしても違和感がないと思ったのです。

 例えば、フェリックス・ヴァロットンの作品の横に彼女の後期の水彩のイラストがあっても見劣りしない。表現方法やイラストと絵画という条件は違えど愛らしさと情緒感においては彼女の表現はもはやイラストの枠を超え、日本という枠さえも超えているな、といったら言い過ぎでしょうか。

しかし、わたしには、彼女の12年間作品を見ていて全てに、このような感想を抱いたわけではないのです。

では、そうではない絵との違いはどこにあるのでしょうか。

淡いと余白はファンタジーの源泉

絵が愛らしいけども「ただのイラスト」と彼女の後期の「イラストを超えている作品」にあってないものがあります。それは写実的にすべての色を塗らないこと、または塗切らないこと、もしくはそれは余白があるかないかです。

彼女の作品で「ただのイラスト」だと思った絵にはこれらがない。カラフルで明るいのだけど、描かれきってあるがゆえに、見る側が新たにイメージをする必要がない。野暮ったく、子供向けの「イラスト」です。(イラストとして仕事をなさっていたのでこれで十分なのですが)一方で「イラストを超えている」印象を受けた絵にはこの三つのうちどれか一つは当てはまります。とても情愛らしいのに憂いもあり、それでいて、とても幻想的な奥行きがあります。つまり調子を感じるのです。

またこれは、線にもいえることです。かすれやつなぎ切らない部分、部分的な太い線これらが、全てを描き切ってしまう過去の彼女の作品との違いとして見て取れます。

展示を見ていると、彼女は徐々にこのような「余白の創出」を試行錯誤の中でつかんでいったようです。パステルから水彩へ、かすれや思い切った省略、勢いのある線を試みと失敗の先に、彼女はこのあわい、とも余白ともいえる部分を表現するに至ったようです。

答えの前例がない中で、試行錯誤をし表現を続けていくことは、とても勇気と忍耐力がいるはずです。今展覧会では、彼女の創作のなかでの葛藤も、紹介されている彼女の文章から知ることができます。

生み出すことの中での悩み

彼女は、自身の絵がファンタジー色が強すぎで、本来こどもがもつ泥臭さに欠けることを自覚していました。一貫してブレがないような彼女のスタイルですが。彼女が自身のスタイルを完全にうけいれ擁護し自信ももって発表していくには少なくない時間と悩みがあったようです。

こういうエピソードを知ると、わたしは励まされます。大成したひとも例外なく完璧でなく悩みがあり、時に弱気になることがあることがわかると、わたしが少し肩の荷がおりてほっとするのです。失敗ばかりの自分への自責が和らぎます。 

同時に悩みを乗り越えた作家の作品は、はるかに試行錯誤前よりいいのだということを、理屈ではなく見て感じ取れるます。わたしもいまは悩んでいるし試行錯誤のなかにいてしんどいけどしんどいも、彼らと同じ人間なんだから、乗り越えられるかもしれない。とは励まされるのです。

以上、いわさきちひろのファンタジー性についてのちょっとした考察でした。お付き合いありがとうございました。

「いわさきちひろ 子供の幸せ」展
[会期]2020年3月1日(日)~10月11日
[会場]ちひろ美術館・東京
[主催]ちひろ美術館
[協賛]株式会社ジャクエツ

「没後10年 広瀬康男 垣雲停日乗」展

絵と物語の間(あわい)

@ちひろ美術館・東京

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、ちひろ美術館・東京で開かれている「没後10年 広瀬康男 垣雲停日乗」展についてとりあげます。

「没後10年 広瀬康男 垣雲停日乗」展、公式サイト

この展覧会は、瀬川康男の没後10年を節目に企画された個展です。彼の絵画と彼が記してきた日記にある言葉が平行して紹介されていました。彼は絵本作家であり、画家であったそうです。

彼の絵本に描かれるキャラクターは、ゆるキャラのような愛らしさとは少し違う、どこか懐かしい感じの愛らしさをわたしは感じます。最近のイラストは似たような感じが多いと思っていたので、かれのイラストは懐かしいのにとても新鮮に映りました。

一方で、かれの絵画は、とても気高く荒々しいなかに理知的なものを感じました。

物語作家であり同時に純粋な画家でもあった彼の作品を見ることで、絵本の挿絵と絵画の違いや共通点。その浮かび上がった断片を手がかりにして、絵と物語の間にある不思議な関係について、多くの発見ができました。また、彼の重みある言葉がその気づきの助けになりました。

彼は芸術家ですが、彼の言葉は、芸術に携わらないひとにも、響くものがあるとわたしは思います。仕事を真剣にしたとき、いい仕事を取り組もうとするときに遭遇する困難と画家がなにかを想像するときにぶちあたる困難は、俯瞰してみれば同じ要素をはらんでいると思うからです。

ところで、この展覧会のサブライトる「絵と物語の間(あわい)」とはいったいどういったものなんでしょうか?この点を探求していこうと思います。

ここからは一部内容をふくみます

挿絵の親しみやすさ、絵画の優雅さ

彼の絵本を見て改めて思うのは、絵本の挿絵はとにかく親しみやすさがキーだということです。幼い児童読み手と想定されているから当然なのですが、この親しみやすさという軽さは、物語に関心が向けるような効果があると考えられます。絵が「浅い」からこそ物語の筋に入っていけるし、言葉からイメージしにくかったり集中が途切れたときに、一旦物語という因果関係からはなれて、挿絵にもどってこれる、という具合にです。

一方で、彼の絵画をみると、一枚で世界観が語られています。そこには気品と気高さがあり、近寄りがたい存在かがあります。わたしは、この圧倒的な存在感があるかないかが絵本の挿絵と絵画のおおきな違いではないかと思うのです。この存在感は見る側にもその存在感に対面するだけの力量と一枚の絵に凝縮されている物語を読み取る能力みたいなものを鑑賞者側にある程度もとめてきます。

どちらも共通しているところは、一枚で完結していようが、言葉で補完されていようが、絵には物語が宿っているという点です。

展示されたことばに「絵が物語をうみ、物語は絵を生む」という言葉がありました。これはいったいどういうことなのでしょうか。

絵が物語をうみ、物語は絵を生む

ところで、ここで一旦、アンパンマンの作者やなせたかしさんを特集したテレビ番組で知ったエピソードを一つ紹介します。「面白い話がでない時に彼がどうやって乗り越えてきたのか」というエピソードをです。かれは毎週、毎週子供たちを楽しませる質の高い物語を信じられないほど生み出してきました。これは、ほんんとに驚くべきことです。当然彼も、神様ではなく、一人の人間です。書いている途中にどうしてもその先の物語が全然思い浮かばないなんてことは珍しいことではなかったそうです。

そんな時、彼は話が止まった直前のシーンの下絵をひたすらペンでなぞるそうです。ひたすらなぞっていくうちに、次につながるシーン(物語の続き)がふと思い浮かぶ、そしてその物語が分かれば絵が描けるようになり危機を脱してきた、というものでした。

ここに、広瀬康男の言葉と通じるものがあるのが分かります。絵そのものは時に、作者の意図をこえて物語そのものを生むのだということです。そして、物語そのものには絵が内包されている。作家は自らのうちそれを聞き取ったり拾ったりしてしるわけです。人間の持つ創造力がいかに人知を超えた力があるのかということがわかります

この点は、理知の極みであるAIが人間の知性(測量可能、で計算的な暗記的な知性)を超えたとしても、足を踏み入れることができない領域でしょう。絵と物語の間(淡い)にある領域、心理学でいう「集合知」がある場所です。

生みの苦しみ

”——苦しみの中で”、できるだけ遠くに運ぶ

「没後10年 広瀬康男 垣雲停日乗」:展示室にプリントされた言葉より一部引用

この言葉が印象に残っています。この言葉がプリントされている先からの大作群が展示されています。かれの仏像をモチーフにしている作品世界は力にあふれると同時に幾何学模様が配置されていて知的です。わたしは彼の子の大作に対面してすぐは正直怖ささえ感じたのですが、じっとこちらが腰を据えてみていると、ある種のバランス、均衡のようなものがあることがわかり、じわじわと彼の絵がもつある種の秩序の美しさに引きこまれていきました。

わたしは正直、彼の初期の絵画は色彩や構図があまりしっくりきませんでした。ですが、彼の作品を順をおってみていくとそれが気にならなくなってくる。そして、大作群にたどり着くころには、この絵はこういう表現以外にないかもしれないなと感じたのです。彼の大作は、かれの生下院の秩序を発展させた先にあったのです。

つまり、彼は初めから大作を描けたわけではなく、感性は磨いて輝かせたわけです。改めて彼の言葉に戻ると、その過程の困難への矜持みたいなものが感じとれます。 

彼が取り組んでいた平家物語の絵のなかではとくに夕日が印象的な絵があります。わたしにとって、その一枚は、かれがどれだけ自らの絵画表現を「遠く」に運んだのかが分かる「証拠」ようなものに映りました。力みなく、同時に、内に力を宿した美しい一枚だったからです。

絵と物語の間(あわい)とは一体何なのでしょう。それは、人間だけが持つ内面的で精神的ものと通じていると同時に理知の外にあるものなのかもしれません。ひょっとすると私たちの歓喜や悲哀、そして好奇心が生まれる場所もその「あわい」にあるのではないでしょうか

以上、ながながとおつきあいありがとうございました。

[主催] ちひろ美術館
[会期]2020年3月1日(日)~10月11日(日)
[協力]エプソンアヴァシス株式会社、株式会社オフィス渋谷、遊美、株式会社一兎舎
[協賛]株式会社ジャクエツ
[後援]絵本学会、(公社)全国学校図書館協議会、(一社)日本国際児童図書評議会、日本児童図書出版協会、(公社)日本図書館協会、杉並区教育委員会、西東京市教育委員会、練馬区

メルセデス・ベンツ・アートスコープ2018-2020

MERCEDES-BENZ ART SCOPE

@原美術館

こんにちは、 matsumoto takuya です。今回は、北品川にある原美術館で開催されている「メルセデス・ベンツ・アートスコープ2018-2020」展をとりあげます。

「メルセデス・ベンツ・アートスコープ2018-2020」展公式サイト

この展覧会は、メルセデス・ベンツ日本による、日本とドイツの間の文化交流を図る文化・芸術支援活動です。原美術館は展覧会の形でその発表の場を提供するパートナー関係にあるようです。

率直な感想からいうと、ふり幅がとても広い展覧で新しいことへの挑戦的な表現に重きを置いているような雰囲気でした。佇むアートから刺激的なアートまで、とても広範囲の内容の展示が凝縮されている、そんな感じです。

以下、内容を含みます

キャッバスからこぼれる温かさ

わたしは展覧会はさまざまで、必ずしもいいな、と思える作品と出会えるわけではなく、そこがまた出会いの面白さを深めてくれる醍醐味だと思うようにしています。

このような前振りを書いておいてなんですが、「resume」久門剛史2020年というインタラクションは、「出会い」でした。

真白な空間の床にキャンバスが裏にして壁にそって立てかけられています。これが不思議なことに、何とも控えめでささやかで、温かい色彩を優しく放っているのです。そう想像したのではなくて可視できるのです。「優しく放っている」こういう表現にピンとこない方がいらっしゃるかもしれないですが、百聞は一見にしかずということわざにもあるように、この不思議は是非自分の目でみるのが良いと思います。

このインタラクションは、すっと心が落ち着く上に、その空間に長く落ち着けられる癒しがあるような気がしました。絵画の名作はずっと長時間の鑑賞に堪えられるそうですが、この作品は長時間その場にいられるタイプのもののように感じられたのです。

このインタラクションのメインオブジェクトに対面した時、「おや」っと思った部分がありました。

わたしは、内装工の仕事を手伝っていたからわかるのですが、まるでクロスを張る前の下地処理した壁面が利用されているのです。壁紙(クロス)を張る前に、ボードの隙間やビスの穴があり、張った後の見栄えに影響するため、石膏(パテ)をへらで埋めてやすりで平面を作ります。この下地処理した状態の壁面の一部が作品の構成材料にに使われていたのです。

わたしは依然下地処理した壁面を現場で見たときに、佐倉のDIC記念美術館が所有するロスコ(抽象画家)の扉の抽象画を連想したことがあります。淡い色のボードに幅をもったス薄黄色い石膏がとても幾何学てきな直線で巨大な壁面に塗り付けられている光景に、どこか魔力のようなものを感じたものでした。

建築現場の風景:クロスを張る前の下地処理した状態の壁に囲まれた空間

なので、「ああ、わたしと同じ感覚をもった人がここにいた」と親近感みたいなものを感じたのを覚えています。

この作品は自然光に依存しており、天候や時間で作品が変化していくようでした。わたしは、日さす時間に入館し夕暮れ時に退館したのですが、表情が全く異なることに驚かされました。

まさに過激な非日常

光とオーディオを用いたインタラクション、「抗夢」小泉明朗#1(彫刻のある部屋)は、久門剛史「resume」とは対極の表現だと感じました。暗示的なオーディオが頭のなかで漂いながら光の派手な動きがそのオーディオかき消そうとするような感じでした。日常をゆさぶるようなインタラクション。とにかく不思議、奇天烈、予想外。刺激にうえている人にはおすすめです。世にも奇妙な経験をができるかもしれません。

建物がとっても魅力的

原美術館は、”東京国立博物館の現・本館(上野公園)や和光ビル(旧服部時計店・銀座)を手がけた渡辺仁”によって設計されたもので、、1930年代の洋風館の代表建築物だそうです。(Hara Musiun Web:美術館んについてより参照

面白いつくりをしていて、バウハウスの影響を受けているように感じました。(現在東京ステーションギャラリーで「開校100周年 気たれ、バウハウス」が開催されています。この展覧会の記事も書いておりますので、気になる方はこちらへどうぞ)

展三階の展示室に通じる階段は味わい深く、ホワイトベースの壁には補修のためのパテ処理がなされていてそれがむき出しのままになっているのですが、それがかわいい窓から入る光にやさしく照らされているのがノスタルジックで素敵でした。いい建物や庭園は時代が立つと味が出るのだとよく思います。とくに夕暮れ時の西日に楠の木の影が照らしだされ、タイル張りの側面に移っているさまはとても情緒的で美しかったです。

以上、おつきあいありがとうございました。

「メルセデス・ベンツ・アートスコープ2018-2020」
[会期]2020・7・23(木)~9・6(日)
[主催]原美術館、メルセデス・ベンツ日本株式会社
[後援]ドイツ連邦共和国大使館
[協力]ホルベイン画材株式会社
[企画協力]レジデンス・プログラム:NPO法人アーツイニシアティブトウキョウ[AIT/エイト]

「ソール・ライターのすべて」

All about Saul Leiter

Book Review

(株)青幻舎

こんにちは、matumoto takuya です。今回は前回とりあげた「永遠のソール・ライター」展に関連して、彼について書かれた本「ソール・ライターのすべて」(株)青幻舎についてレビューしていきます。

前回とりあげた「永遠のソール・ライター」展

この本には、ファッション、ストリート、ヌード、絵画まで彼のとった写真が、彼の言葉とともに網羅的に収められています。基本的には彼の写真がベースで、ページをめくっているうちにぽつりぽつりと彼の言葉に出くわす構成となっています。

彼の美しい写真に劣らず、詩のようなたたずまいで読者を待っている彼の言葉はとても魅力的で温かい。展覧会でみた彼の作品と通じるものを感じました。欧米からも「美しい本」と評価されているそうです。

写真はもう見たよ、というお方がいるかもしれません。そんなかたにも彼の言葉だけでも十分読むに値しますよとお伝えしたいです。それに、彼の言葉が写真を眺めているうちに出くわす感じが、また味わい深く言葉に説得力を感じました。

これから、彼の言葉をメインにとりあげていき、彼の作品はいったいどんな思いがあって生まれたのか、筆者の拙い考察をふまえながら探っていきたいと思います。

以下、本の内容をふくみます。

ソール・ライターが魅了された美とはなにか

“The secret of happines is for nothing to happen.”

‘幸せの秘訣は、何も起こらないことだ。’

「ソール・ライターのすべて」(株)青幻舎:1頁より引用

上記の言葉からこの本は始まります。初見でこの言葉を読んだとき、わたしは正直しっくりきませんでした。安直に考えればとても消極的なものに感じられるからです。しかし、すぐに、

”I had the hope that the result would like a photograph rather than a fashion photograph.”

‘私が望んだのは、撮影の結果がファッション写真以上の”写真”になることだった’

同上:5頁より引用

と続きます。かれは、普通の写真からそれ以上の”写真”を望み、そのために彼は写真家になり、さらには「普通」の写真家の大通りを通ることに甘んずることなく粛々と自分の道を切り開いていったわけです。決して消極的な意味で冒頭の言葉をいったわけではなかったのです。彼はその望みを成し遂げたのですが、かれはどうやって「ファッション写真以上の”写真”」を撮ったのでしょうか。その心構えや被写体になるものをどういった眼差しでとらえていたのでしょうか。

「とるに足らない存在でいること」、と「とにかく多すぎる」

”There is tremendous advantage of being unimportant”

‘取るに足りない存在でいることは、はかりしれない利点がある’

”There is just too much.”

’とにかく多すぎる’

同上:(上)10頁、(下)12頁より引用

この二つの言葉は上述の禅問答のような言葉のすぐ後にでてきます。 この二つ言葉にわたしは彼の思想が集約されているように感じました。

彼のいう「取るに足りない存在」とは、名声だとか肩書だとかがないことを指します。それらは、なくても「ファッション写真以上の”写真”」を撮れるようになることとは関係がない。それどころかむしろ、「取るに足りない存在」でいることが、いいのだといっているのです。まず、看板だ、肩書がなければ、成功の実績がなければダメだと自分を窮屈にしてしまうわたしにとって、励まされほっとさせられます。彼は、こんなこともいっています。

”I have a great respect for people who do nothing”

’私が大きな敬意を払うのは、なにもしていない人たちだ。’

同上:48頁より引用

この言葉を読んだとき私の肩がすっと軽くなりました。よくよく考えてみれば、何もしないことは確かに罰すべき悪事を働いているわけではありません。わたしたちは、知らず知らずに経済原理、広告の暗示とうですっかり、なにもしないでいることに罪悪感を刷り込まされています。かれの言葉はその「呪いの暗示」を薄めてくれます。

話を冒頭の二つの言葉のうち、二つ目へ。

「とにかく多すぎる」と彼はいいます。では、一体何が「とにかく多すぎる」のでしょうか。ここには、精神的な写真をとるまえに世界を見つめるときの態度のについての意味と、具体的な写真に映す対象に対しての意味という、二つの内容が含まれていると考えられます。

肩書や虚栄心や成功への野心などで頭のなかが「いっぱい(just too much)」の状態になると移ろいゆく世界の美を見逃してしまうのではないかということです。「見る」ということは、いま、ここで行われます。彼は「いま、ここに」で「見る」ことができるから、多くの人が見落としてしまう、移ろいゆく美を見逃さずにとらえられたのです。それは、周りの多数派うの評価や権威によって自身の評価をすることから卒業していていたからともいえます。

”It is not where it is or what it is that matter but how you see it”

’重要なのは’、どこで見たとか、何をみたとかということではなくて、どのようにみたかということだ。

同上:90頁より引用

世界の美を見逃さずに「見る」には, 実はそういう知らず知らずに自分自身にこびりついてしまっている世界のへの見方を剥がしした先にあるといえるかもしれません。

話を戻しますと、そうやって、頭のなかがいっぱいでなければ、いま・ここにある美に気づくことができる。そうやって世界をみることができれば、フレームに写すべきもの外すべきものが直感でつかめる。そして直観にしたがったフレーム内の余計な部分を捨てることで、彼の写真には情緒的な余白がうまれ、不思議な美しさをもった「とにかく多すぎない」写真が生まれるというわけです。従来のファッション写真がファッション写真以上のになりえないでいたのは「とにかく多すぎ」たわけです。

自分を信じることと無頼漢は違う~孤独と孤立の違い~

”I don’t attach as much importance to sequencing(in an art book, for example)as other people do.

To me the content is more important.”

‘私は、他の人々ほど(例えば、美術書の中での)配列に重きを置かない。わたしにとって重要なのは内容だ。’

同上:156頁、より引用

かれは、権威や見栄、多数派にいる安楽さよりも、写真自体のの内容が良いか悪いかが肝心だと思っていました。これは一見当たり前のようですが、少し務めた経験がある人なら、そういうことを実行できているひとは多いとはいえないと分かるはずです。

そこには、勇気と想像以上の労力が必要とされるからです。ある意味で保身よりも孤独を引き受けることだともいえます。これがわたしたちはなかなかできないのです。

それは自分勝手で意固地でそんな人とは仕事なんか一緒にできないよ、という意見があるかもしれません。しかし、かれは、複数の有名雑誌のもと共同する仕事もこなしていました。受動的な「絆」による「群れ」と、主体的な意思の元に集まる「連帯」の区別がついてないのではないかと思われます。

”Max Kozloff said to me one day、”You’re not really a photographer ”you do photography,but you do it for your own purposes-your purposes is not the same as others’.”I’m not quite sure what he meant, but i like that. I like the way he put it.”

‘マックス・コズロフ(美術史家・評論家)が、ある日私にこう言った。「あなたはいわゆる写真家ではない。写真は撮っているが、自分自身の目的のために取っているだけで、その目的はほかの写真家と同じものではない」彼の言葉が何を意味するかがちゃんと理解できたかどうかわからないが、彼の言い方は好きだ。’

同上:194頁より引用

肩書や多数派より自分の感性を信じることと、それらを否定し拒絶することは同じではありません。また、じぶんとは異なる意見を否定し説き伏せることでもありません。意見に反対なら、粛々と自分の信じながら自分の考えを押し付けるのではなく、他社と共同する。自信とは自分を信じることであり、いいかえれば孤独だということです。しかし、彼の言葉からわかるように、孤独は孤立とは違うのです。

そのうえ、この言葉からは軽やかさがうかがえます。なんというか、かっこいいですね。しかし彼の考えを語るのは簡単ですが実践するのはやさしくはありません。かれは、いったいどういった経緯があってその境地に至ったのでしょうか

幼少期に傷つけられた自尊心とその克服、そして大成

かれがこのような生き方になった理由のひとつとして、彼の父が大きく関係していたようです。

”I’ve never been overwhelmed with a desire to become famous.

it’s not that I didn’t want to have my work appreciated,

but for some reason — maybe it’s because my father disapproved of almost everything i did — in some secret in my being was a desire to avoid success.”

‘私は有名になる欲求に一度も屈したことがない。

自分の仕事の価値を認めてほしくなかったわけではないが、

父が私のすること全てに反対したためか、

成功を避けることへの欲望が私の中にどこか潜んでいた。’

同上:210頁より引用

彼の父であったウルフ・ライターはユダヤ教のラビでした。厳格で子供の意思に無関であった父親とソール・ライターは良好な関係を築けませんでした。彼の父は、精神的なものに気づくことができないためか、「しつけ的」にしか子供と接することができないタイプだったようです。

彼の父は、精神的なことへ無関心な代わりに、成功や名声といった価値に重きを置いていました。彼の意思や感性、芸術といったものに打ち込もうとする彼の内面性をことごとく、「成功」することと関係がない、否定的なものとみていたようです。

全ての子供にとって父親は生活を握っている絶対的な存在です。ソール、ライターは自尊心を損なう犠牲をはらいながらラビ養成大学まで、父の期待に応えるために我慢します。うすうす、父親とは心がかよった関係を築くことは不可能なのだと知りながら、心のどこかで父親に愛されることを諦めきれない、そんな暗澹たる気持ちがこの経歴から透けてみえます。

その後、彼は父親への愛着から卒業し、自らが主人として選択し生きていく過程を繰り返すことで自信を取り戻していったようです。最終的に、かれは意思をもった寛容な伝説の写真家となり、幼少期のトラウマを克服したいえます。

彼の、「成功」への特異な低評価は、幼少期に自尊心を傷つけられた過去の傷や、精神的に父親から独立を果たす戦いの名残りのようなものからの大きな影響があったとみることができるのです。

着目すべきは、かれが幼少期の不幸を乗り越えたという点です。かれの言葉はその経験から紡がれています。自信を持ちたい、自尊心を深めたいと思っているひとは少なくないと思います。かれの生き方やそこから産み落とされた言葉には、そのヒントが隠されているかもしれません。

何気ないソール・ライターの言葉を探っていくと、かれの言葉に潜む裏テーマのようなものが見えてきます。それは、あなたであることはすでに世界を味わうために必要なものは実はすべてもっているんだよ。あとは、自分を信じてあなたとして、不思議で美しい世界と関りをもってごらん。というメッセージです。かれの言葉の側面には、わたしたちへのエールが隠されているのです。

「ソール・ライターのすべて」
著者:ソール・ライター
発行者:安田 英樹
発行所:株式会社青幻舎
印刷・製本:山田写真製版所
プリンティング・ディレクター:熊倉 桂蔵
制作管理:板倉 利樹
企画:砂糖 正子(コンタクト)
ブックデザイン:おおうちおさむ(ナノナノグラフィックス)
編集:鎌田 恵理子(青幻舎)

2017©Saul Leiter Foundation

「永遠のソール・ライター」展

ニューヨークが生んだ伝説の写真家

@東急文化村 ザ・ミュージアム

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は渋谷の東急文化村の展覧会「永遠のソール・ライター」展について取り上げます。

「永遠のソール・ライター」展公式サイト

2020年1月、「永遠のソール・ライター」展は一度、東急文化村により開催さましたが、新型コロナウイルスの影響で惜しまれながら、中止を余儀なくされました。その後、写真を提供してくれたソール・ライター財団のあるニューヨークでの新型コロナウイルスの流行が勢いを増したことで返還が難しくなり、彼の作品は日本で保管されることになったそうです。そして、この経緯を活かしたい東急文化村の展覧会再開催のオファーをソール・ライター財団が快諾してし、急遽アンコール開催が決定したといういきさつがあったそうです。

前回の展覧会を知らなかったわたしにとって、このアンコール開催のおかげで彼の作品を見ることができたわけです。なにか不思議な縁を感じました。

’’伝説’と呼ばれた写真家

ソール・ライターはニューヨークを拠点に活動していた”伝説”の写真家です。なぜ、伝説といわれるか。それは、彼がほとんど権威や広告といった力を借りずして、世代を超えて人々に支持され続けているからです。名前は有名でなくても、とにもかくにも写真がいいと人々に支持される、つまり「本物」なのです

展覧会では、すでに公開された彼の写真はもちろんのこと、非公開の写真、彼が描いた絵や、彼のパートナー(彼女はモデルでした。)ヌード写真や彼女の絵まで、’伝説’とよばれた彼の仕事の全容が見渡せる内容となっています。

’伝説’とよばれた彼が、好んで映していた風景はニューヨークの近所の風景でした。’伝説’という形容詞はどこか他人事のような気がしていたのですが、展示作品を観ていくにつれて、彼が一人の生身の人間なんだと感じられるようになります。とても情緒的な雰囲気を纏っているのです。

彼の作品に添えらるよな形で、彼の言葉が壁のところどころにプリントされています。これがまた、忘れがちな大切なものを思い出させてくれるようないい言葉ばかりなのです。また彼の言葉には、写真について、さらには彼の美についての思想が見え隠れしているようでした。

こころが安らぎ喜ぶ

とっても素敵な展覧会でした。わたしは写真の展覧会で、彼のざっくりとした生い立ちと読み、写真をただ眺めただけです。それなのに、退館時には人間味あふれる美しい物語を聞かせてもらった後のような余韻を感じました。ああ、人間って捨てたもんじゃないな。とそういう言葉が心に浮かんだくらいです。

アンコールしてくれた人たち、それにこたえてくれた開催者側の方たちにはに感謝します。いい活動、仕事とはこういうものを言うんですね。何かとげとげしくやかましい、閉塞的なこのご時世、こういう展覧会日があると少しほっとしますし、なんだか嬉しくなりました。

今回の、アンコール開催はとても貴重なものですので、まだ訪れていらっしゃらない方がいたらお勧めです。

それにしても、どうして彼の写真にはこれほど人を魅了するのでしょうか。

以下、展示の具体的な内容が含まれます

彼が写真をとった動機

興味深い点は、彼が成功に執着がなかったことです。彼が57,8歳のころ、写真家としての腕も、名声もコネクションも要した成功しやすい条件が整うなかで、自身の商業用スタジオをたたんでいます。そして、その後、公の舞台で大々的に広告・発表することはなく(個展や展覧会への出展はポツリポツリあったものの)2013年、ニューヨークで息をひきとります。

今回の展覧会では、引退してから晩年に至るまで、彼によって取られた写真を見ることができます。彼は、写真をやめたわけではなかったのです。その未公開であった写真をみても現役のそれと遜色ないように感じました。

これらのことから、かれが写真を撮ることにおいて何を一番大事なものとしていたかが見えてきます。それは、世間体や名誉でもなければ大金でもなく、日常や近所においても見る側に世界の面白さを気づかせることができる写真への愛だったということです。

ここに、彼が世を去ってのなお、彼の写真が国境を越えて人々に愛されて、リバイバルされる重要な要素があるような気がするのです。

彼の写真は、多数派にいる安楽さや褒められたい誘惑よりも、じぶんが良いと感じるものを優先した結果の生まれたものです。受動的な動機ではなく、自らの心を掘り下げていき取られた写真だからこそ、同じように心を持つ万人に通じる写真になったのではないでしょうか。

写真はおもしろいと気づかせてくれる

わたしは正直なところ、写真という表現について、あまりピンとこないたちでした。嫌いだっったというわけではないのですが、おしゃれだなーと思うていどでそれ以上ではありませんでした。感心はするが心が揺らぐようなものではなかったのです。

しかし、彼の作品に触れることでその見方は大きく修正されました。彼の写真には、何とも言えない惹きつける力があり美しく不思議が内包されています。抵抗なく見入ってしまう力があるのです。彼はこのことに、自覚的でした。

”I had the hope that the result would like a photograph rather than a fasshion photograph”

‘私が望んだのは、撮影の結果がファッション写真以上の”写真”になることだった。’

永遠のソール・ライター:展示室壁面より引用

どうやら、彼は写真の可能性を自ら押し広げていったようです。ここで面白いなと思うのは、ファッション的な美とファッション以上の美は違うということです。この二つの美の違いなんなんだろうということです。少なくともかれの残した美しい写真のなかで古臭さを感じさせないという点においては、彼が商業的に撮ったバージョンよりは、かれが媚びることなくとった近所を舞台に撮った写真のほうがまさっているような気がします。

真の芸術の美は世代を超えると言われます。つまり永続性があるのです。その点で、この展覧会に「永遠」という言葉が冠せられているのも納得です。

ソウルライターの写真の秘密

ソール・ライターの手にかかると、つまらない日常の風景は、情緒的にミステリアスに切り取られます。

ところで、彼が映す写真と、普通の写真とでは何が違っているのでしょうか。

私はその秘密の一つとして、映し切らない部分を用意することだと思います。

写真は馬鹿正直に映すとあまりに世界を細緻に描き出しすぎてしまう。わたしたちの視界は焦点があり、周縁はぼやけているもので、写実的すぎるものなものはかえって不自然に感じるものです。このはっきり全てを描かない部分から、不思議な魅力が漂い始めるのではないかと思ったのです。映し切れていないわからない部分があると逆に注目してほしい部分にすっと目がいく。同時に移し切らない部分があるとに見る側の心には自由な想像ができるゆとりみたいなものが生まれるからです。これによって観る側が適度にリラックスでき、同時に集中できるのです。

そこにわたしは彼の写真の秘密があるように思います。

父と妹からの影響  ~後天的ファクター~

まだアマチュア時代にソール・ライターが被写体のモデルにしていた人がいます。妹のデボラです。彼らの父親はユダヤ教のラビであり、とても厳格(とくに「気持ちへの配慮」に欠けるタイプ)な人だったそうです。感性の高かった彼は父子関係で精神的な繋がりを感じることができなかったのか、内気になっていきます。そんななか絵を描くことに救いを見出していたようです。

そのような環境の中、デボラは彼の気持ちを汲むことができ、彼の才能や意思を後押しする存在だったそうです。彼女は高い感受性と知性をもちユーモアあふれる女性だったそうです。

父親に自らの感性や意思を全く評価されず、むしろ、ラビ(名誉ある職をえて社会成功すること)になるためには邪魔なものと決めつけられてしまっていた彼にとって、デボラのような人間が身近に一人いたことはどんなに救いであり、支えであったことでしょう。

どんなに才能があろうと、磨かれなければ光りません。そして、そのせっかくの才能は幼少期の近しい人たちとの関係のなかでわりと簡単に折られ消されてしまうことは珍しくありません。そう考えると、まだ写真家とは名乗るにいたらなかった彼を写真界の巨匠へとそっと導いたのは彼女だったのではないでしょうか。いたたまれないのは、彼女が20歳を過ぎたころ精神バランスを崩し精神病院に入院しその後外の世界に戻ることなく亡くなったということです。

この展覧会では、彼女をモデルにとられた写真が一つのコーナーにキュレートされ見ることができます。他の写真と違う点は、素直な方法で彼女の屈託ない自然体が映されていることです。そこには、自然な温かみが宿っているようでした。妹の写真を撮るときの彼の気持ちが宿っているのだと思いました。いてくれてありがとうという感謝の気持ちです。わたしも、彼の仕事にいいなと思えた一人として彼女に感謝を伝えたいです。デボラありがとう。

写真から見る精神性の豊かさ

彼の写真には、色彩の美しさのみならず情緒性があります。映されている人物や景色に奥行きがあるということです。これは偶然そのように映り込んだのではなく、彼がそうゆう構図になるべく撮ったのです。別の角度から見れば、かれがそのような深さで世界を眺める能力を磨いて有していたとえます。そのように見るための高い精神性と洞察力や人間存在への理解があったのだろうとおもいます。

何が言いたいかといえば、彼の写真が色彩の美だけでなく、知的さや精神性が豊かな広がりを持ち、わたしたちはそこに惹かれるのではないかと言うことです。

以上、私が思った彼の写真の秘密でした。ながながとお付き合いありがとうございました。

p.s

「ソール・ライターのすべて」という彼の写真と言葉が収められた総括的な本が出版されています。そこでは彼の写真とともに、珠玉ともいえる言葉が収められています。こちらの本も進めです。ここでは一つだけ紹介します。

”I have a great respect for people who do nothing”

’私が大きな敬意を払うのは、なにもしていない人たちだ。’

ソール・ライター「ソール・ライター」のすべて:48頁より引用

彼の写真には間違いなく人生感が反映されています。彼の作品と同じく、急き立てられがちな生活のなかで彼の言葉はほっと一息つく一助になります。以上p.sでした。

本「ソール・ライターのすべて」についてはブックレビューも書いておりますので。興味のある方は是非こちらへお越しください。

筆者がこの展覧で触発され、撮った一枚
  • 「永遠のソール・ライター」展
  • [主催]Bunkamura 読売新聞社
  • [期間]2020/1/22(水)~9/28 (月) *8/18(火)・9/8(火)のみ休館
  • [時間]10:00-18:00(入館は17:30まで)
  • [会場]Bunkamura ザ・ミュージアム
  • [協賛・協力等]
  • 協力 ソール・ライター財団
  • 後援 J-WAVE
  • 企画協力 コンタクト

オリジナルイラスト

バンクシー展 

天才か反逆者か

@ASOBUILD

こんにちは、matsumo takuya です。今回は横浜にあるアソビルで開催中「バンクシー展 天才か反逆者か」展についてとりあげていきます。

なお、今回の展覧会は、

※本展は謎に包まれたアーティスト「BANKSY」によってオーソライズやキュレーションされた展覧会ではなく、コレクターのコレクションが集結する世界巡回展です。

バンクシー展公式サイトより引用:

だそうです。世界巡回展なるものに初めて足を踏み入れました。

「バンクシー展 天才か反逆者か」展公式サイト

抜け感ただよう躍動的な空間

バンクシー展の感想を言うとしたらこの見出しだと思います。とにかく、躍動的で、いい意味で抜け感があり、動きが感じられる。時間的に静的な美術の展覧会で、ここまで動的な印象は珍しいと思います。インスタレーションをメインにする展覧会でも躍動的な展覧会はあると思いますが、どこか「芸術」というかしこまった真面目さがあるのは否めません。しかし、この展覧会はそんな雰囲気ではないのです。どこか危うげだけど自由でわくわくするそんなストリート感に満たされていました。バンクシーがストリートを活動のメインの舞台とし、活動の内容に公共物へ軽微な棄損を内包しているからでしょうか。ストリートの趣が漂っていました。会場がアソビル(ASOBILD)なのもしっくりきます。横浜のもつラフエッジな魅力や港町の開かれたイメージとがぴったりはまっているなと感じたのです。

バンクシー展展覧会風景

アートとアクティビティー

バンクシーはストリートの壁に絵を描く活動をして世界で注目をあつめているアーティストです。また、彼はイギリスを活動拠点にしている以外ほとんど素性がつかめない謎のアーティストでもあります。そのうえ、多くのストリートを舞台にした活動は無許可で行なうので、賛否両論の評価をされています。この展覧会のサブタイトル「天才か反逆者か」はそのような経緯から決められたのでしょう。

この展覧会では、そのミステリアスなアーティスト、バンクシーとは一体何者なのか?その謎をストリートから公式な展示会に至るまで彼の作品を見ながら探っていけるような配置がなされていました。。。

公共物を軽微とはいえ犯している彼がなぜ、活動し続けられているのか。彼の絵にはいったいどういった意味があるのか、もしあるとすれば彼はいったい何がいいたいのか、といった謎をにせまる探っていくことは面白かったです。

最近は、「わからない、答えがすぐ得られないもの」についての評判がよろしくありませんが、「わからない」からこそ人や物事に面白さが出てくるものなんだなと実感させられます。

それと同時に、経済的に無力な絵画や芸術表現のが潜在的に持つ力や可能性といったものが彼の活動内容や作品をとおして見えてきます。

左:BANKSY:LOVE IS IN THE AIR、中央:BANKSY:GANGSTAR RAT、右:BANKSY:GREEN REEPER

壁にかかれたバンクシーのメッセージ

この展覧会では、バンクシーの絵が、警察機構、物資主義や戦争といったカテゴリーに分けて展示がなされています。この、カテゴリーに沿う形で、バンクシーが彼の公式ホームページ等でしてきた発言を原文のまま壁に刻み込む演出がなされています。原文そのままで、訳文はありません。

一見、不親切なようですが、私はそうは思いませんでした。むしろ、日本語で翻訳をそえてしまうと、なんか嘘っぽいくなってしまったり、逆に説教くさくなったりしてしまうからです。加えて、彼が選ぶ言葉は平易な言葉が選ばれています。今の時代スマホで翻訳しようと思えばすぐできます。自分で、完璧でなくても訳してみる、というのが謎をといていくわくわく感を膨らませバンクシー展をより味わえるのではないかと思います。

めんどくさいし、時間がかかってコスパは悪いでしょうが、面白い、楽しい、冒険はコスパの外にありますし、ぜひ自分で彼のメッセージから謎のつつまれたアーティストバンクシーの姿を探っていくことをお勧めです。

彼のメッセージを読むと、彼の派手な活動には移りにくい知的な謙虚さをもった冷静さや活動の真意などが分かってきます。より展覧会を味わえることは間違いなかったです。

展覧会風景

※ここからは、個別作品についてです。ネタバレを含みます。

バンクシーは「天才」か「反逆者」か?

上述したとおり、この展覧会の副題には「天才か反逆者」という副題つけられており、公式サイトでは投票ができるます。はたしてかれは「天才」なんでしょうか?はたまた「反逆者」なんでしょうか?わたしの解答は、

「彼は「天才」であり「反逆者」ではない、しかしVANDAL(「反逆者」の訳前の言葉)だ。」

です。その理由を少し掘り下げます。

彼のどのような側面を天才ととるか

まずは、「天才」かどうかについて。わたしは今回の展覧会で彼の作品と言葉を一通りながめて、彼は芸術家であると同時に、社会の問題提起し変革を促す活動家であるということにきづきました。彼の才能についてはこの二つに分けて考えるのが妥当です。何故ならこの二つは毛並みが異なるからです。

彼はめちゃくちゃ絵がうまい

展示作品を見ていると、多くは路上にそっと書かれた「落書き」で、多くは風刺画であり、ともすると簡単に描けそうな印象を受ける軽いタッチで描かれています。そして、彼の描く絵には、タイムリーな物語性がありおもしろい。一方で絵画そのものとしてはどうかなんだ、といった疑問がわくかもしれません。

わたしは、彼の作品は絵そのものでも十分面白いものだと思います。彼の技術においては、さまざま古典の絵画をユーモアをもってパロディーできている時点で、わたしがとやかくいえるものではありません。フィメールのパロディーを民家の二階付近の壁?にあれほどのクオリティーを短時間で描けるでしょうか?ただ、かれが描く少年や少女の豊かな表情をみて、話題性がなくてもいい絵だなと思ったのです

またわたしは彼の色彩のセンスが好きです。特にモノトーンのなかに原色の明るい色を置くセンスはとんでもないなと驚かされます。最低限の着色で絵が生き生きする様は赤い傘の少女の絵だけでなく彼の表現に通じているものだと思います。どこか、伝説の写真家ソール・ライターの赤い傘の写真を思い出させます。

バンクシーは「反逆者」ではない、しかし「VANDAL」だ

ではもう一つの選択肢である「反逆者」かどうかについて。

彼は、「反逆者」なのだろうか?わたしは、疑問をもちます。彼はたしかに、意図して公共物に落書きをしているので、迷惑行為に該当します。だからといって社会全体を攻撃し壊すことは、していないし、また彼自身も望んでいません。かれは、過去に警察機構についてした発言でこんな言葉を残しています。

‘some people become cops because they want to make the world a better place,

some people become VANDALS because they want to make the world a better looking place’

(以下わたしの意訳です)

”世界をましなところにしたくて警察になる人もいれば、世界をより美しいところにしたくてVANDALになる人もいる”

BANKSY:バンクシー展より引用

ここからわかるように、かれは社会への反逆者でななくて「ヴァンダル(VANDAL)な人」なのです。今回この「VANDAL]の翻訳として「反逆者」が当てがわれているのですが。本来の意味は「反逆者」よりもっと規模も内容も個別的で「公共物を故意に傷つける人」という意味です。イベント開催する側としては、ゴロがいいとか、展覧会を盛り上げなければならない、といった事情があるので仕方ないのでしょうが、少し乱暴な訳だと思います。

ではこのヴァンダルが許される線引きはどこにあるのでしょうか。これは社会情勢やその国の法律や地域の住民の国民性や価値観と関り、常に移動しているものであろうとおもいます。この曖昧模糊とした一線を超えてしまえば、彼はただの「反逆者」でしかないし、かれが愛し手段としている芸術をも辱めますし、彼の活動は無理解のまま無視されていたでしょう。

しかし、実際彼はその手段については賛否両論を巻き起こしていますが、手段とは相反する人道的要素をもった思想に多くの人々が共感しています。中には自分の家に有料で「落書き」してくれと懇願されたという逸話もあるくらいです。シリア支援イベントのような慈善活動、イベントとのコラボレーションを求められることもあるみたいです。

出典:バンクシー展
シリアへの支援イベントにて:シリアの平和をいのるシンボルの塔にライトでバンクシーの「赤い風船を持った少女」が映し出されているところ。

この「一線」に対するバランス感覚を考えると、彼は紛れもなく「天才」で、かつ「VANDAL」なのです

勇敢な行動力と社会への洞察、そして私たちを不快に傾きすぎないレベルで芸術を手立てに刺激してくれる人。公共物棄損を伴う活動をする自分勝手な不完全さをもってはいるが、とてもやさしい人間味と尽きない情熱を備えた人物。それが謎に満ちたバンクシーという人間像への私なりの解答です。

書いていて気づいたのですが。これって、人間っぽいなとおもいます。知性があり人情があり、不完全。しかし、これほど、自らの才能と社会の折り合いをつけ(?)自由に活動してる人が世界にどれほどいるのでしょうか。めちゃくちゃ楽しいはずです。うらやましい。

以上長々とお付き合いありがとうございました。

p.s

2020年7月30日18:00時現在 投票結果は

「天才63%、反逆者37%」(バンクシー展公式サイトより引用:https://banksyexhibition.jp/

となっています。

「バンクシー展 天才か反逆者か」

[期間]2020年3/15(日)~9/27(日)                           

  10:00~20:30(最終入場20:00)*会期中無休

[会場]アソビル

[主催]BANKSY~GENIUS OR VANDAL?~政策委員会

[後援]tvk(テレビ神奈川)、日本放送、J-WAVE、FMヨコハマ

[企画制作]IQ ART MANAGEMENT CORP

開校100年、きたれバウハウス

―造形教育の基礎―

@東京ステーションギャラリー

先日冬物が入っていいるクローゼットをたまたま開けたら、大事なアウターが薄っすらかびてました。はやく梅雨があけてほしいです。

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は東京ステーションギャラリーで催されている『開校100年きたれ、バウハウス』展について書いていきます。

バウハウスってなんなんだっけ

今回このギャラリーに顔を出そうと思ったのはパウル・クレーがバウハウスにて教鞭をとっていたからです。もしかしたらまだ見たことのない彼の絵がみれるかもしれないなーくらいのものでした。

ところで、バウハウスってそもそもなんなのかわからない、なんとなく教育機関で昔教科書で、集合団地みたいなものを残した学校みたいなことをちらっと耳にしたくらいだ。なんなのかわからない、けど、とりあえず、なんかおしゃれだ。どういうところがおしゃれなのかと聞かれれば、カタカナでおそらく英語ですらない、、、なんかその、、、っぽいからだ、、、夏目漱石がみてたら「ハイカラ」と呆れられるだろう。

そんなこんなで、バウハウスってなんなのかわからない。という軽い気持ちで展覧会に足を踏み入れていきました。

全てはヴァルター・グロピウスの言葉の中に

「すべての造形活動の最終目標は建築である。」

by ヴァルター・グロピウス
開校100年、きたれバウハウス:no.1 ヴァルター・グロピウス 『バウハウス宣言』解説文 より引用 

入館して早々、上記のヴァルター・グロピウスの言葉が含まれたバウハウスの説明がなされています。どうやらこの学校は、造形学校であり、ものつくりの教育機関として1919年にヴァルター・グロピウスが開校したそうです。

1933年ナチスの弾圧を受け閉鎖されます。このわずか14年の短い活動期間に終わった経歴をもちます。しかし、このわずかたった14年で世界中の建築、広告等のデザインに途方もない影響をあたえたそうです。造形学校はどちらかというと、ある目的のための造形されるデザイン技術者を育てる教育機関です。グロピウスはバウハウスには既存の古典的な芸術を締め出したく、当時の前衛的な芸術をとりれようとしたそうです。

感慨深いのは、昔のドイツ国家が全否定した教育機関であるバウハウス、そのバウハウスを再評価する意味合いがある当該展覧会の後援がドイツ連邦共和国大使館というところです。その時代の持つ価値観は覆しがたいほどの力があるよう思いこみがちですが、真実の姿は、暫定的、相対的なうつろいやすい不確かなものなのだと考えさせられます。

デザイナー教育に時代を代表する芸術家が指導にあたる

二つ目の展示群はバウハウスの教育について展示されていました。バウハウスが行っていた最も個性的な部分はここにあるようです。ヴァシリ―・カンデンスキー、パウルクレーなど時代を代表する芸術家がどのように指導していたか授業内容を紹介しています。カンデンスキーの『分析的デッサン』はとてもロジカルに風景から幾何学を抽出する方法を教えられていたことがみてとれますし、『紙による素材演習アルバースの授業』では紙から円のフォルムを利用して立体を作る演習をのぞけます。

『アリー・シャロン』(生徒)等の残したっこの演習作品は、当時バウハウスに留学していた水谷武彦が後年、自身がバウハウス教育を紹介する中で彼が作った解答例と比較ができるのでおもしろい。アリー・シャロンの解答例がいかに柔軟でシンプルであったかがわかります。

そしていよいよ、パウルクレーの授業内容を拝見です。、、、結論から言うとよくわかりませんでした。幾何学模様、それっぽい命題のうちにだされる課題。わたしがついていけないのはおいといて、生徒たちも、クレーの表現方法それゆえの難解なクレー独自の言葉遣いに振り回されていたそうです。想像すると少しおもしろい。最終的にはクレーの絵を通して生徒は理解していったとまとめられていました。このエピソードをを知った後に、改めて、自身の教室に腰をかける聡明で神経質そうなクレーの写真をみるとなんだか以前より身近に感じられました。この発見がこの展覧会で、一番人間味ある部分だったかもしれません。

ファインアートと応用芸術 その1

この展覧会を見て回っているうちに、わたしのなかでもやもやするものが溜まっていきました。うーん、これって造形だけど芸術ではなくない?というもやもやです。そこでその点を掘り下げてみたいと思います。

感動を引き起こす力をもった芸術作品は技術をただマスターしたからといって作れる代物ではないのだということが改めて分かります。この展覧会で感じる面白さは展覧会というよりは展示会(例えば新築展示会)のような感じに映りました。デザインは応用芸術であり、そもそも何か実利的な目的をかなえるための手段や方法です。ギブアンドテイク(経済原理)の要素が強いのです。

一方で、実利的な目的や制限からはなれて主体的に生み出されるののが芸術です。ここらへんの定義がしっくりこないのでざっくりWikipediaをのぞいてみると、芸術的価値を専らにする活動や作品をさす概念はファイン・アート(fine art)といそうです。わたしのもやもやはこのあたりにあるようです。まだ、すっきりしません、、、。

ファイン・アートと応用芸術 その2

ファインアートみついてすこし深堀するためにざっと芸術の歴史を調べてみると、

芸術の起源は、”「建築物、家具、食器、衣類などへの装飾」”でした。その後文化の発展に伴い絵画、彫刻等が元の建築物等から独立していきました。つまり、”「装飾性が実用的機能と切り離され」”て制作され発展した結果、装飾性は芸術性に格上げされたそうです。

*wikipedea:ファインアートより一部引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88

応用芸術という言葉は少し誤解を招く言い方なのかもしれませんね。

バウハウスを造形学校、技術者の教育機関であり主軸はデザインにあるのだということが改めて整理してこの展覧会を振り返ると、しらけることもなく、むしろバウハウスの芸術にたいする敬意や旧態依然に果敢に挑む創造者、実験精神といった面が際立ちます。なるほど、だからこそ新しい発想や面白いデザインが生まれてたのだな、と納得できました。

最後に、冒頭のグロピウスの言葉に戻っておわりたいと思います。

「すべての造形活動の最終目標は建築である。」

by ヴァルター・グロピウス

とあります。わたしはこれをちょっといじっちゃいたくなります。「造形活動の目標は建築である。もちろんすべてでも最終ともいいきれない」

とはいえ、彼らの新しく何かを生み出そうという姿勢とその結果には驚愕です。既存の社会規範から新しく理想を持ってそれを打ち出したことはすごい。必ず猛烈な向かい風にあったはずです。このような社会活動をしてきた人の勇気には脱帽です。そしてわたしも彼らと同じ人間の一員なのだと思うと誇らしくおもえます。

デザインや芸術、教育関係の人でなくても、何かをしたいのに壁を感じている人ならば、是非ともお勧めしたい人間の熱量・輝き・活気の余韻がただよう展覧会でした。

「開校100年 きたれ、バウハウス‐造形教育の基礎‐」
開催期間:2020年7月17日(金)~9月6(日)
開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)                            
休館日 :月曜日(8/10、8/31は閉館)                             
会場:東京ステーションギャラリー TOKYO STATION GALLERY
主催:東京ステーションギャラリー[公益財団法人 東日本鉄道文化財団]、バウハウス100周年委員会                                              協賛、協力等: 

[後援]ドイツ連邦共和国大使館、スイス大使館、ハンガリー大使館、一般社団法人 日本建築学会   [特別協力]ミサワホーム(株)、東京国立近代美術館                       [協力]専門学校 桑沢デザイン研究所、大阪芸術大学、(株)アトリエ 二キティキ         [企画協力](株)アートインプレッション、(株)ミサワホーム総合研究所 [協賛]アウディ ジャパン(株)、株式会社インターオフィス            


『開校100年きたれ、バウハウス』展公式HP

「おいしい浮世絵」展

~北斎 広重 国芳たちが描いた江戸の味わい~

           @森アーツセンターギャラリー

こんにちは。matsumoto takuya です。今回は、森アーツギャラリーで催されている『おいしい浮世絵展』をとりあげます。浮世絵そのものの魅力を伝えるだけでなく、描かれた食のシーンを追いかけていく展示となっていて、さらに食が接点となる形で歌舞伎、旅、江戸の日常風景といった当時の江戸の生活の大部分を浮世絵をとおして観ることができます。食べることは生きることそのものなんですね。

『お庭の花あそび』にみる、現代の日本画のルーツ

入ってすぐの部屋に展示されているこの作品は、河川を背景に梅(か桜)が咲き誇る前で立つ女性たちが描かれています。わたしはこの絵をみたとき、ふと、郷さくら美術館(目黒)が頭に浮かびました。郷さくら美術館は、日本画家がさくらをテーマに描いた作品を展示している美術館で、そこに展示されている何枚かの桜の絵の構成というか色使いのバランスがとてもこの絵にとても似ていると感じたからです。日本画の表現形式の一つの理想形なのでしょうか。

『北斎漫画』の一つには町人の飲食シーンやたばこに似たもので煙をくゆらす仕草がコミカルに描かれています。しぐさや表情をみていると、漫画家井上雄彦さんの宮本武蔵を描いた漫画『バカボンド』に出てくる人物たちの小さいコマでみせるそれととても似ている。影響のあるなしはわかりませんが、今の漫画で描かれている人物の動作や表情の原型を感じました。

それにしても、彼の日常への好奇心の強さには驚かされます。彼の日常生活へ、というか人間への関心の強さがなければ、北斎漫画は生まれなかったはずです。彼は本当に人が好きだったんですね。

江戸時代の生活の中から生まれた歌舞伎

『中村座内外の図』は満員御礼の中村座を描いた歌川豊国の作品です。この絵からは、当時の歌舞伎への熱狂のようなものが感じ取れます。それに、よくもまぁ、役者のとどまらずお客の一人一人の表情しぐさまで描いたものです。

その絵で描かれている一人一人の服装、表情、態度を観ていると、現代の私たちに通じる共通した感覚や、当時の歌舞伎と現代の歌舞伎の違いが浮かび上がってきます。

中村座に入っているお客の服装や髪型は当たり前ですが当時の生活様式です。役者は奇抜な外見をしていてもやはり当時の生活様式の延長上にあります。つまり、イケメンがチョット着飾って化粧をし日常の言葉遣いをやや誇張するのが役者なのです。現代を生きるわたしにとって、歌舞伎の格好はわたしにとって、はあまりに浮世離れしているので、今まで考えたことはなかったのですが、当時の民衆にとって歌舞伎役者の奇抜な外見やセリフまわしは、今でいうビジュアル系バンドくらいの位置だったのかもしれません。つまり、そこまで日常感覚からして不自然ではなかったということです。ビジュアル系を愛する嗜好が脈々とわたしたちの中に流れているようです。

この作品からみてとれる今の歌舞伎との違いについては、劇の物語を演じる役者、受け手のお客が、同じ髪型、家屋、和服や四季の生活行事などの「生活」を共有していたかどうかではないか、という点にあるようです。この共有された「生活」によって民衆は作り物の物語にリアルを感じることができるので、演劇の世界にすっと入っていける。この絵だけでなく、展示されている、他の浮世絵画家が描く江戸の風俗を見ていてもそう思います。日本人の「私」が、シェークスピアの劇を観るときに西洋の人に比べると物語に没入しずらいのと同じ理由です。おそらく当時の初代名だたる歌舞伎役者は今の感覚の「歌舞伎」を演じているというよりは、現代劇や映画やドラマをやっているという感覚だったのではないでしょうか。今の私たちの生活は300年前の江戸の生活スタイルからあまりに劇的に変化してしまっています。文化は実際に生きている人々の「生活」を基盤とする。では、「生活」そのものが大きく変わってしまったらどうなるのか、そこに引き継ぐ難しさがあるように思えます。

おちゃめな浮世絵コーナー

 わたしは最近になって、浮世絵は美術の中でも比較的重すぎない要素を大事にしていた、「軽い気持ち」で眺めるものではないかと思うようになりました。義務教育の過程で、何やら西洋の大芸術家が影響を受けたという頭でっかちな知識が邪魔して、真面目になりすぎていたようです。「「ああ、飽きる」とか「くだらねぇ」と感じるのは自然なんだし肩の力を抜いて気軽にみてみなよ」ということを、少し前に浮世絵そのものから教わったのです。この軽さというか軽やかさが実は浮世絵の美点なのではないでしょうか。名作ばかりの大きな美術館を巡っている中で終盤にシャガールが描く突拍子もないそして、簡素すぎる絵、少し笑える絵に出合うと、フッと心がかるくなるように。絵の中に私たちは美や力をみいだします。これらの構成要素に、ユーモアもあるんだという意味でです。

ここで、今回の展覧会で展示されたものの中から、わたしが独断と偏見をもとに、お茶目な浮世絵ベスト5を選抜していこうとおもいます。

  • 5位  『大名出世双六』   

モノポリーの日本版、古今東西、人種をこえて、出世欲があるのが私たち人間なんですねぇ。

  • 4位  『江戸花夜の振り』『市川海老蔵太田川小文吾』市川高麗蔵作

日本女子の好きなイケメンのタイプの系譜がわかります。スラっとした清潔感のある色白イケメン(ジャニーズ、宝塚系)と、彫ぶかいくりくりした目の浅黒イケメン(エグザイル、建築現場の職人)。()は今でいうとという意味です。

  • 3位  『だるまさん』の絵 数枚

今以上に当時言わずと知れた、民衆から尊敬されていたであろう、インドの高名な禅僧『達磨大師』が出てくる絵。このだるまさんのデフォルメが親しみやすさをの一線をこえているように思えるのはわたしだけでしょうか。 

  • 2位 『魚づくし ぼらに椿』

ぼら(ニシン科の魚)に椿を合わせる発想がおもしろい。おしゃれの新しい表現である。

「いやいや、生魚の絵がおしゃれなわけないじゃん。キモっ」とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれない。そんなお方には、西部池袋東口のルイス・ヴィトンのショーウインドウを是非ご覧あそばせ。そこにはここに描かれているぼら(ニシン科の魚)のに似た魚のオブジェクトの背中に高級バックが乗せられていますよ。(2020年7月21日現在)世界的高級ブランドのデザイナーが発表する300年近く前に、すでにわたしたちの先輩がアイデアを形にしていたわけである。誇らしい。

  • 1位  『北斎漫画 十二編』葛飾北斎作

くねくねと立ち上がろうとしている巨大なウナギに情けない風体の男数人ががまとわりついていますす。その奇妙な構成や男たちの表情の、なんとも気の抜けた間抜け面は必見です。これを描いているときの北斎を想像するとこころが和みます。

以上 お茶目な浮世絵 ザ・ベスト5でした。  

 結びに     

 絵画と同列で文化を解説すると、どこか純粋に絵を眺められなくなることがままあります。が、この展覧会ではそこまで気になりませんでした。浮世絵が本来的に、民衆の日常をユーモアとともに描いているタイプのだからかもしれません。展示をみているとお腹がすいてきました。近くの人が何か食べているの見るとそれを無償に食べたくなるあれです。夕飯がいつもよりおいしくなりました。

     

『あいだみつお』展

~みつおの言葉力~

@相田みつお美術館

その時にならないと分からないという言葉がありますが。まさにその言葉どおりの展覧会でした。

こんにちわ、matsumoto takuya です。今回は東京国際フォーラムにある相田みつお美術館で開催中の『みつおの言葉力』について書きます。

彼の詩は書道と二つで一つ

冒頭に書いたとおり、わたしは期待を見事に裏切られたのですが、もちろんそれはいい意味においてでした。そもそも、わたしは相田みつお美術展には全く期待していなかったのです。彼の詩については、メディアでたびたび大きく取り上げられていますし、その人気にあやかってか道徳ポスターにやプロモーション(広告)等に相田みつおスタイルをあまりによくみかけるからです。親しまれすぎたといった感じが強かった。感動するような発見はないだろうけど。とはいえ、まあ、行っていみないとわからないしなぁ、、、ということでやたらと重い腰をあげた経緯があります。

しかし、嬉しいことに実際わたしは感動するような彼の作品に出会いました。筆で書かれた彼の詩(原作)と鑑賞するために設けられた整った空間の中で対峙すると、ウェブや、進行プロットが決まっているテレビで見るときよりもはるかに説得力があるのです。やはり、本物は実物を自分の目で見ることではじめて感じ取れる何かがありました。

これは、彼の詩の力は原作に触れた時に一番感じ取ろことができるということです。つまり彼の詩は、詩と書の二つで一つの体をもったアートだということです。

詩の雰囲気がのびのび広がる展示空間

この美術館は相田みつを氏が生前足しげく通っていた近所の森にある古墳をモデルに作られています。とても包容力がある、落ち着いた温かみが感じられました。展示室をつなぐ会談やスロープには足にやさしい珪藻土でできているそうです。東京は直線的で清潔さと利便性があり快適ですが、たまには少し自然にもどって息抜きしたいものです。相田みつおの原作と触れ合う前準備のようなものを美術空間が促してくれます。

等身大の言葉がもつ力

今回の展覧会では、彼の成功の裏に隠された、人しれない葛藤がわかるショートムービーが用意されていました。「詩について」と「書について」の二本立て(約5分ずつ)です。創造することを仕事や活動の核になされておられる方にはお勧めかもしれません。ちなみにわたしは、「ああ、右往左往して転んでばかりいるのはわたしだけではなかったのね」とほっとしました。

なぜわたしが思いもよらず感動したのかは、このショートムービーで彼のことをを知ったから、ともいえます。彼の詩が愚直な告白スタイルのわけ、習字がうまいのにわざと崩してかく書体のわけ、ショートムービーから見えてきます。すると、知る前より気にならなくなるどころか筋がとおったような気がしてかえって腑に落ちたのです。そのうえ、原作をみると活字だけよりはるかに説得力があります。そんなこんなで半ばすこし引き気味に彼の原作を眺めていたわたしが、次第に彼の詩に自分を重ね、素直に慰められ、励まされたのでした。

彼が見栄がなかった聖人でななく、わたしたちと同じ欲ぶかな一人の人間であると彼はいっています。そんなわたしたちと同じ煩悩まみれの彼が、自らの言葉に精一杯に誠実に向かい、出てきた言葉は相田みつをという人間が一切責任を持つという自負によって形になったものが原作です。この勇気と矜持といったものも作品に込められてていて、原作から滲み出ていたのかもしれません。

また、ぶらりといってもいいなと思える個展でした。