上野の森美術館所蔵作品展

なんでもない日ばんざい!

@上野の森美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、上野の森美術館で開催中の「なんでもない日ばんざい!」展を取り上げます。

新型コロナウィルスの感染問題により、私たちは日常生活を見つめ返す時間が増えたことと思います。この「なんでもない日ばんざい!」展はこういう時期だからこそより味わえる「日常」がテーマとされています。

展示室風景

日常は実は多面的で、様々な顔を持っている。そんなことを自分では思いつかない表現の作品を見ていくと気づかされます。タイトルの「なんでもない」というネーミングのせいか、内容が平坦で驚きのないというイメージを持ってしまうのですが、とんでもなくて、斬新さ不思議さ美が十分過ぎるほど味わえる「ギャラリー」でした。

日常の中で表現や言葉にされないことで心の底に沈んでいたものがそっと浮かび上がり、気分がほんのり軽くなるそんな内容溢れる現代アート展覧会でした。

公式サイトはこちら

この展覧会は現代アート展そのものです。しかも、啓蒙的要素がないので、絵についてじっくりと向き合えるおすすめの展ではないかと思っています。最近の現代アートは展は少し理屈が過ぎるものが多い気がします。

内容豊かで日常に関わる多岐に渡るテーマと、絵画表現をしげしげと眺めていて何枚か「いいなー」と思える作品があったのですが、このいいなーと思える絵が一概に「上手い絵」ではないことに気がつきました。

今回はこの気づきと現代アートの構成要素ついて書いて行きます。

絵が上手であること=名作でなない

今回展示されている幅の広い作品群を見ていて、なにがしかを感じ取れる絵を見ていくと、そういう絵が決して技巧的な要素だけで成り立っているわけではないことに気がつきます。

かつての絵画は主に技巧が重視されていた時代がありました。今と違いコピー機も写真も、編集ソフトも無い時代です。それからそういう写実的描画や複製が機械でもできるようになり、逆に機械ではできない創造が重視されるようになったーていったというのが本当に大雑把な絵画史です。

技巧はある程度は重要ですが、技巧的に突き詰める必要がなくなってきたとも言えます。

『Landscape01』(長友紀子 鉛筆画 1975)は特にそれが感じ取れる作品でした。巨大なキャンパスに鉛筆だけで絵が描かれている。それも山、湖等が要所要所に描かれているだけで全てが描かれてない。その上描かれている部分も精緻な描写ではない。にもかかわらず、「絵」としての力を放っている。この一枚には現代アートのエッセンスが凝縮されているようでした。

感覚的な美と精神的な美

現代アートについて触れていくと、ジャンルが抽象画であれ表現主義であれ写実的であれ、いいなと思わせてくれる絵画には感覚的な美と精神的な美があるように思います。

感覚的な美は、一目で「ああセンスある」と感じられる美です。わかりやすい。色彩のセンスといえばいいのでしょうか。感性がまだ押さえ込まれていない子供が絶大な力を発揮できる美です。一方で精神的な美というのは、同じ直感でもじわじわ感じ取れるタイプの美です。これは、むしろ色々人間として経験した作家の作品から感じ取れるタイプの美だと思います。このタイプの美は、観る側にも一定の経験があった方がより感じられるものかもしれません。

私はこの2つの要素がある絵を名作だと感じることが多いです。悲劇的とまでもいかないまでも、喪失が付き纏うのが人生です。この経験は、感覚的な美の表現について消極的になるのが避けられません。しかしそれを乗り越えて、感覚的な美をもう一度表現できるようになった画家の名作からは次元の違った美しさが現出してくるように私には思われます。

話を展覧会に戻します。この展覧会では、精神的な美が感じ取れる作品が多かったように思います。

こうやって、考えてみると絵画、そしてそれを描くことができる人間の奥深さ、複雑性や秘めたる力が見えてきます。わたしもこういったものを持っている人間なのだと思うと、ささやかながら「わたしも捨てたもんじゃないな」と根拠のない思いを抱くのでした。

以上、お付き合いありがとうございました。

「上野の森美術館所蔵作品展 なんでもない日ばんざい!」
[会期]7月23日 (木) 〜 8月30日 (日)

[時間]午前10 時─午後5 時(入場は閉館30 分前まで)
[休館日]月曜日(ただし8月10日は開館)、8月11日(火)
[主催]日本美術協会 上野の森美術館、フジテレビジョン
[後援]フジサンケイグループ

月岡芳年(前期)展

~血と妖艶~

@太田記念美術館

こんにちわ、 matsumoto takuya です。今回は太田記念美術館で開催されている「月岡芳年 血と妖艶」展をとりあげていきます。

 タイトルに「血と妖艶」と冠されているにふさわしい、人間のもつ一つの側面である闇がもつ魅力が凝縮されている展覧会です。蒸し暑い猛暑真っただ中の今、ひやりとさせてくれるこの展覧会はこれ以上ベストなタイミングはないかもしれません。太田記念美術館は浮世絵をメインの展示に据えている美術館で、今回の展覧会の主役「月岡芳年」も歌川国芳に師事し、幕末から明治初期にかけて活躍した浮世絵師です。

なお、「月岡芳年 血と妖艶」展は前期と後期に分かれていて、展示作品が変わります今回は前期の展覧会についてとりあげます。

月岡芳年(前期)展公式サイト

浮世絵というと、どこか同じような印象を受けますが、彼の作品からは、ある種の彼らしさ、個のようなものが感じ取れました。「血と妖艶」という内容への好奇心をぬきにしても、一味違った浮世絵といった印象です。

では、この違はどこにあるのでしょうか。

「浮世絵」にリアル感をもたせること

彼の作品をみていくと、従来の浮世絵より人物がリアルに描かれているように映りました。そのリアルさが妄想、狂気そして闇ととてもよく調和しているのです。彼はひとみの中に灰色の色彩を導入したり、人物がの瞼をリアルな二重にしたりと従来の浮世絵の「型」から離れ、写実的に描こうとする試みをしていたみたいです。写実を当時の時勢に合わせてデフォルメを洗練させっていったものが浮世絵です。彼は浮世絵の世界観に写実を再びとりいれることで一つ上の高みを目指していたようです。

印象として、浮世絵の型で、部分的にリアルさを導入していった彼の描く人物は、少し不気味な印象をうけます。目は口ほどものをいうということわざにあるといいますが、快活な印象に怪しげな印象にもおなじくらい主張力があるのです。

浮世絵 × リアル = 血と妖艶

では、この不気味さは、一概にダメだとはいいきれません。ある種の対象を描くときにはむしろ有効に作用します。それが「血や妖艶」といった人間の持つ闇・狂気の側面です。新聞という新しい娯楽が生まれ奇譚集の需要が高かったとはいえ、彼が浮世絵をリアリズムの方向に発展させたことと、グロテスクな内容を得意にしたことは偶然ではなかったようにわたしには思われます。浮世絵という表現の型の中で偉大な先人がすでに表現をし尽くし、しかも武士の時代が幕を引いた激動の期間が彼が活躍した時代です。時代が大きく変化するなかで、浮世絵もこうやって変化していった一致は興味深いことです。

ダークアート中のダークアートが成立したこの時代の空気感、興奮と期待と不安がごちゃ混ぜの空気感はいったいどういうものだったのでしょうか。今現在、世界は新型コロナウイルスの出現により生活様式が従来のものから変わろうとしています。もしかしたら現代アートも大胆な変化が生まれるかもしてないですね。

現代アートのさきがけ

『義経記五条橋之図』には弁慶の動きが荒い荒しく太い簡略された線で描かれていました。これが、絵に迫力と臨場感を持たせている。表現としてはどこか、現代アートに通じるものがあり、こういう表現を浮世絵で見られることも月岡芳年の良さだと思います。

以上、「月岡芳年 血と妖艶」展についてでした。おつきあいありがとうございました。

「月岡芳年 血と妖艶」展

[会場]太田記念美術館

[会期]2020年8月1日(土)~10月4日(日)前期 8月1日(土)~8月30日(日)後期 9月4日(金)~10月4日(日)※前後期で全点展示替え8月3、11、17、24、31、9月1~3、7、14、23、28日は休館

[開館時間]

東京現代美術館からの風声

「オラファー・エリアソン」展

ときに川は橋となる

@東京現代美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は東京現代美術館で開かれている「オラファー・エリアソンーときにに川は橋となる」展をとりあげます。

光のインスタレーションが特徴的な展覧会で、そのほかにも、ドローイング、彫刻、デザイン等々とても幅広いオラファー・エリアソンの作品が楽しめる展示となっていました。

全体として、とてもスタイリッシュな世界観で都会的な洗練されたアートといった印象をうけました。科学実験をしているときの楽しさがありながら、かれのアート作品を通してもう少し先のテーマに導かれるような経験ができ、子供から大人まで、家族でおとずれても一人で訪れても退屈しない展覧会だったと思います。

「オラファー・エリアソン」展公式サイト

今回は、この展覧会は展示アイテムが多いのですが、その中で印象にのこった作品を紹介していきます。

以下、一部内容をふくみます。

動くことへの肯定

書き手が装置を持った手を動かし空中で動かすことで、光のドローイングが描かれていく仕組みの参加型インスタレーション。この作品からは、動くことの肯定がテーマとしてみえてきます。

大学生らしきカップルの参加者の「光のドローイング」を見ていた時に、参加者の個性や自信の深さが如実にでるものだなと思いました。無難な動き、小さい動きになると、光のドローイングもつまらなくなる。まるで彼らの内面が露わになったようでした。また、同じ無難な動きの中でも、結構ふたりの間で違いがあるものだなということにも気が付きます。

カップルの次に、小学生前の子供たちが光のドローイングを体験したのですが、子供はほんとに表現がみずみずしいなと改めて気づかされました。まるで、ダンスをおどっているようで、描かれ光の線おなじくらい彼らの表現しているさまはキラキラしていました。普段仏頂面の私ですらほほえましくなったくらです。もしかしたら、この展覧会でみた一番は、オラファー・エリアソンの作品ではなくて彼らの表現している最中の姿だったといえるかもしれません。

動くことで、変化がうまれ気が付ける

”あなたが動いているときにだけ物事がみえる”

「オラファー・エリアソン」展:解説より一部引用

動きについてのインスタレーションをもう一つ紹介します。no.6 の展示はカラーライトの前を動き回ると色のついた影が変化していき、動くことで色彩と影の輪郭の変化が楽しめるインスタレーションだったのですが、動くことで色彩の心地よさを経験できるこのアートは、保守的で保身のために同じところに留まりがちなわたしを鼓舞してくれてくれるようで、なんだか嬉しくなりました。

わたしは、楽しいと思えるものがなかなか見つからないたちなうえに、多数派の流行を愚直に信じられるないタイプなので、自ら動いて探さなくてはならない。にもかかわらず、地球の重量がフルにかかっているがごとき腰の重い人間です。なので、かれのアートは励ましのように感じられたのでした。

生きている感じは、動きの中で見えてくる

no.12 の展示は生き物が生きていることとはどういう状態に感じ取れるのか、ということを教えてくれるインスタレーションでした。水面が動くときに、その水面に映った無機質な光は、まるで軟体生物のクラゲのような生き物を見ているようで,生き物の生とは「絶えず変化しつつ徐々に広がるさざ波のような状態である」ということが実感できるアートでした。「生」の本質はたゆたわせるような生き方なのだ水面の美し動きから感じ取れる素敵な経験でした。

とりあえず、生活はできてるけど、どこかはりがない、なにか肝心なものが欠けてるような気がすると感じている方には、おすすめの展覧会ではないかとわたしは思います。動くことを、楽しさで鼓舞してくれる展覧会でした。

以上、おつきあいありがとうございました。

「オラファー・エリアソンーときにに川は橋となる」展

[会期]2020年6月9日(火)~9月27日(日)

[会場]東京現代美術館

[休館日]月曜日(9月21日は開館)、9月23日

[開館時間]10:00-18:00(展示室入場は閉館の30分前まで)

[主催]公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都現代美術館、産経新聞社

[後援]駐日アイスランド大使館、デンマーク王国大使館

[協賛]]クヴァドラ、ブルームバーグL.P.、株式会社ジンズホールディングス

[助成]スカンジナビア・ニッポン ササカワ財団、公益財団法人大林財団

「大江戸歳事記」展

隅田川両岸景色図巻(複製画)と北斎漫画

@すみだ北斎美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は墨田北斎美術館で開催中の「隅田川両岸景色図巻(複製画)と北斎漫画」及び「大江戸歳時記」展をとりあげます。

”北斎の肉筆画の中で最長”(展覧会より引用)とされている「隅田川両岸景色図巻」。全長約7mに及ぶ本作の複製画”」すみだ北斎美術館公式ホームページより引用)が今回の展覧会の目玉で、絵巻物なら広々とした横断的な視点で北斎が見た江戸の空間を隅々まで見渡すことができる作品は感心させられました。

また「大江戸歳時記」展では、北斎が描く浮世絵は庶民の視点で季節の行事、風物、風景が北斎特有の世界観で描かれた浮世絵を堪能でき日本人の古典を再発見できる展覧会でした。

「大江戸歳事記」展公式サイト

この展覧会をみていくと、なぜ私たちが外国人から見ると同質的に感じられるのかといったことが見えてきました。今夏はこの謎を探っていきたいと思います。

歳時記と共同性と時代の変化

見ていて気が付くのは、それらの3分の2は現代の私たちの生活から消えたか形骸化してしまっているということです。節句、仏事、祭りなど今もあるのではないかと思われる方がいるかもしれませんが、真剣さがちがうのです。歳時に執り行われる行事のその意味のために行うのと、こころあらずに型どおりに行事を行うのでは、その行事からえられる内容は変わってくるということが言いたいのです。

北斎の絵を見ていると、節句での四季の変化を喜ぶ、季節の旬の食材を味わっている姿、仏事をする人々の姿がとてもいきいきしていることがみてとれます。祭りでの、日々の憂さを晴らす様や打ち込みむ姿からは狂気にもにた熱気がありますし、季節の行事のおおくは仏事であり、宗派のちがいはあれど大体の人が仏様を尊敬するか、一応の礼儀は尽くしてる信仰深さがよくわかります。

こうやって見ていくと、かつての日本人は、本当に共通の生活行事、年次、信仰信、それにともなう価値観を共有していることがはっきりとわかりますかつての日本人は、生活の必要性から生活レベルで季節において共同行事を行ってきました。その生活習慣が共同意識強めてくれていたのです

カナダ人のエピソードと日本人に残る文化的特質

話はすこし飛びますが、わたしがカナダに語学留学したときの臨時講師のカナダ人が、日本の山陽地方を訪れ禅の経験をしたときの話をしてくれたことがありました。彼はお寺がある村に泊まり、議会のようなものに一緒に参加させてもらった時、議題が説明たあとあまり活発でない議論があった後に村長が一言「、、、うむ」とひとこといったら、議論が急におわり議案が落着したのをみて驚いたそうです。同じ価値観を実生活の行事、信仰行事によって習慣づけられていて、同じ価値観を共有していたときのかつての阿吽の呼吸のようなものがまだ30年ほど前まではの地方の村落にはのこってたことを物語るエピソードだと思います異なる価値観の人々が共存し、意見を出し合う中で解決を図る社会でいきてきたカナダ人には奇妙に映ったのです。

今の日本は確実に、価値観は多様化してる中で、かつての人々を「同じものだ」と実感させていた共通の年行事はますます形骸化していっています。今を生きるわたしたちは、昔の日本人の美徳をそのまま当てはめることはできなので、少し不安定な足場の上にいるのだと改めて考えさせられました。

北斎の浮世絵の秀でた点は、彼がこういう江戸の庶民の仕草や表情がとても味わい深く丁寧に描かれている点だと思います。これは私の想像なのですが、彼は、人が世界がとっても好きだったのではないでしょうか。だからこそ、生活を味わい深く描ける。北斎づくしの展覧会でふと、そう思ったのでした。

以上、おつきあいありがとうございました。

「隅田川両岸景色図巻(複製画)と北斎漫画」及び「大江戸歳時記」展

[主催]墨田区・すみだ北斎美術館

[会場]すみだ北斎美術館

[会期]「隅田川両岸景色図巻(複製画)と北斎漫画」2020年2月4日(火) 〜 2020年11月8日(日)「大江戸歳時記」2020年6月30日(火) 〜 2020年8月30日(日)

[開館時間]9:30~17:30(入館は17:00まで)

[休館日]毎週月曜日:※開館:8月10日(月・祝)休館:8月11日(火

『もつれるものたち』展

Things Entangling

@東京現代美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は東京現代美術館で開催されている「もつれるものたち Things Entangling」展をとりあげます・

この展覧会では、現代アートの中でもとりわけメッセージ性が込められているアート作品がキュレートされています。アーティストはアートの領域だけで暮らしているわけではなく、わたしたちと同じようにとモラルの領域や政治の領域、経済の領域に関わって暮らしています。アート以外の領域で感じたもの、大事にしたいもの、大事にしたいもの、そんなものを伝えていきたいという想いが「もつれ」ながら作品のなかに込められている。展示されているアートからは「もつれるもの」たちの存在がうっすらと、ものによっては、はっきりと感じ取れました

『もつれるものたち』展公式サイト

わたしは、美術館にいって啓蒙の存在を感じ取るともやっとします。今回は、社会派チックなアートと対面した時のもやもやは何なんだろうということを書いていきます。

アーティストの「啓蒙活動」の難しさ

アートは社会に発信してはじめて認知されますので、活動がともないます。そして活動は、社会に何らかの働きかけをすることです。これは、政治の領域と重複してきます。

わたしは社会的な問題について「アート」を手段として社会にコミットしようすることは、アーティストとしてある程度のリスクを引き受けることだと思っています。それは、政治のシステムに引きこまれる点です。アートがどこか説得を目的とした道具となってしまう点です。

わたしは美術館に行くとよく穏やかな気分になります。いろいろな理由があるとおもいますが。一つは、アートの要素の一つが無目的だからだと思っています。「~すべきだ」とか「~のために」だとか「意義がある」とかいったものを一旦忘れられる。自分が日常生活で知らず知らずにかけている自責が弱まるんですね。

そのため、アートを見に来いって、「~すべき」「~のため」といった、正義やそれを証明するかのような理屈や誘導をアートのなかに直接的に感じとってしまうと、「美術館にきてもおな、、、」と余計にうんざりしてしまうのです。

芸術家・岡本太郎はこんなことを言っています。

”計算を超えた、無目的の戦い、あらゆる対象への無条件の挑戦を続けること、が人間手的であり、生きがいだ。そこに芸術がある。しかし、いまは芸術までが政治や経済と同じようにシステム化され惰性的に流されている。そこにぼくは憤りを感じているんだ。”

岡本太郎『孤独が君を強くする』株式会社興陽館 

これは、アートの作品自体についてのことをさしてしるのでしょうが、『計算を超えた、無目的』という部分は芸術の核心をついているようにおもいます。

かといって、全てのその手の作品にそういった感想を持つわけではないのです。今回の展示ではトム・ニコルソンとジュマナ・マナの作品はからはそういう点は気になりませんでした。そこには、何かしらの配慮がなされているように思うのです。

アートと社会的活動と隠喩

トム・ニコルソンの『相対的なモニュメント(シェラル)』(2014-2017)

このアート作品、古典的な美しいモザイク画にも彼の思想などの「もつれるもの」が込められています。しかし、そのメッセージが作品に直接的に表現されていない。彼の思いや展望は、美しいモザイク画という形態に一度返還され、隠喩のような形で込められていると考えられます。

気持ちや思想を作品の型に転換して隠喩にして作品に込める。あとは観た人が興味がもってその問題にコミットするかは見る側に委ねる。これがアーティストがアートを手段として社会活動をする場合の極意なのかもしれません。でないと、社会学的な感じになってしまう、見る側はお勉強的な受け身をしいられてしまう。

それ自体がアートとして成り立っているか

ジュマナ・マナの作品も、もやもやなく彼女の世界観を味わえました。生き物のような生々しさをもちながらシンプルで幾何学的な家具のような作品はとても不思議な作品です。正直なところ作品を見ただけでは、彼女が言いたいことは全く分かりませんでした。それでも、彼女の作品自体が独立して、芸術特有の引力みたいなものを備えているのは感じ取れました。その「引力」に引っ張られるように、何だこれはとついつい解説を読んで、はじめて彼女が作品に込めた「もつれるもの」の存在を知っていったのです。

このプロセスで、彼女はすくなくともわたしには、彼女の考えを伝えることを達成しているし、わたしのほうも抵抗なくいられました。

普通に考えてわざわざ思想を作品に隠喩にして込め、作品そのものを芸術レベルまで高めたうえで、どう受け取り、どう行動するかは見る側に委ねるなんて、効率が悪いという人がいるかもしれません。しかし、それはもはや芸術をするものではなくて、活動家であり政治家です。

直接的に訴えたほうが早いかもしれませんが、この方法は鑑賞者側の主体を尊重しているように私には思えるのでした

以上、おつきあいありがとうございました。

「もつれるものたち」展

[会場]東京都現代美術館 企画展示室 1F主催

[会期]2020年6月9日(火)- 9月27日(日)

[主催]公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都現代美術館、カディスト・アート・ファウンデーション

[助成]公益信託タカシマヤ文化基金、アーツ・カウンシル・コリア、アンティチュ・フランセ パリ本部、在日オーストラリア大使館

[協力]日本航空
[特別協力]福島県双葉町教育委員会

ドレス・コード

~着るものたちのゲーム

@東京オペラシティ アートギャラリー

「あ”~暑い」と天を仰ぐ東京オペラシティのオブジェクト

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は東京オペラシティ アートギャラリーで開催中の「ドレス・コード―着るものたちのゲーム」展をとりあげます。

ドレス・コードとは何なのか、そもそもファッションというのは何なのかといった問いを探求できる展示となっていました。ファッションがいかに私たちが属する様々な領域に不可分に関わっているのかが見えてくる、質が高い展覧会でした。

タイトルからして、社交界のドレス、コスプレの博物館的な感じだろうと思っていたら大間違いで、漫画、アート、政治、戦争、ストリート、サブカル、といったファッションが持つ複数の境界面について網羅時に取り上げられていて、見た目だけでなく知的好奇心もくすぐる展示となっていました。

現在のファッション業界の名だたる世界的ハイブランド、デザイナーの衣服やバックの傑作が展示されているので、洋服好きにとっては、ただただ眺めているだけ楽しめるかもしれません。

「ドレス・コード―着るものたちのゲーム」展公式サイト

画面左:受付前装飾、画面中央および画面右:展覧会風景

ビシッとしたスーツを着ている人をみると、実は頭が空っぽな人であったとしても、なんとんなく「できそうだな」と思ってしまいます。あるドレス・コードにあった服を身にまとうだけで、わたしたちはその人を知らないのにも関わらずその人へのイメージを持っていることに気が付きます。ここに服というものの働きがあるようです。あらためて考えてみると不思議です。

今回はそんな不思議を探っていきたいと思います。

以下内容を含みます。

人のイメージは身に着けた服に依存する

『ぼろきれのビーナス』という最初の展示を見た時のことです。ぼろきれの前の佇むビーナスからは、あまり美しさお感じないことに気が付きました。美しいなと感じるのも衣服に大きく左右されているということ一目でつかめる展示でした。

青山悟『News From Nowhere』という作品は、古風な英語圏の新聞の人物の挿絵を衣服部分を刺しゅう化した作品だったのですが、衣服の質感を刺しゅうで表現するだけで、これだけ人物へのイメージが膨らむのだとおどろかされます。

展示2では、名だたるハイブランドのスーツ、それもマスターピースが陳列されてしました。めったにお目にかかることはないなとしげしげと眺めていると、一見没個性の代名詞であるスーツに、ブランンドよってそのデザインに微妙な、違いがあるのがよくわかりました。格式ばった硬い古風なものは、あえて真面目さ実直さを見る側から得るための「わざと」なんだな、とか勝手に想像していくと、一見そっけないスーツの群れも楽しめるものだなと思いました。

反抗すらも「ドレス・コード」のなかにある

服には、イメージを与える効果の他に、管理者が被従属者を管理しやすいという効果もあります。

学生の頃、高学年の先輩が学生服を着崩しているのをみて憧れたのは、多かれすくなかれ「管理されている」という束縛を感じていて、それに反抗している上級生に憧れたのだ、ともいうことができます。

従属の象徴である制服にたいして、着崩したり、あえてルーズに着たりといったおしゃれ意識はスーツのというジャンルでブランドの差別化とにています。日本ではヤンキー文化がありますが、校則等で髪を染めたり、ピアスを開けたりといったことが禁じれられば禁じられるほど、従属の「型」である制服から脱したくなる。

しかし、後半の展示を観ているうちにヤンキーも一つのファッションの「型」だということがみえてきます。一見個性的に見える彼らは、グループでみてみるとみんな似ているのです。支配の象徴ともいえる「型」を壊そうとする反抗自体もまた、「どう見られたいか」という一つのファッションだといえるのです。もしかしたら、ヤンキーグループで本当に自信にあふれた魅力あるひとは一人か二人で、ほかは、彼らと同じ外見をすることでで「ヤンキーのイメージ」を利用している人たちだったりするのかもしれません。

ブランドの語源は「焼印」

ところで、ファッションといえばブランドという言葉がもい浮かびます。解説によるとブランドという言葉の起源は、家畜や所有物を他人のもの区別するために所有者が被所有物にする「焼印」なのだそうです。つまり、自分の持ち物である目印なのでした。

本来、屈辱的な意味のブランドが今日こぞって自ら身に着けている現状を考えるとすこし滑稽ですが、それがいつしかその所有者である権力者や他社との差別化等のイメージを利用する方向にも利用され、現在のブランドという意味になっていったそうです。「イメージの利用がブランドのエッセンスである」とこうやって正面から突き付けられると、私たち人間の狡猾さや卑小さが垣間見れるてくる気がします。「トラの威を借るキツネ」「他人の看板でけんかを売る」という意味がわたしたちがブランドを求めいるの意味だったのですから。

フラニーの皮肉

”—仮にボヘミアンの真似をするとかなんとか、とんでもないことをするとするでしょ、そうすると、それがまた、種類が違うというだけで、型にはまってる点では全くみんなと同じことになってしまうのよ」”

『フラニーとゾーイ』33頁 サリンジャー 訳者 野崎孝 新潮社より引用

これは、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』の中で、大学生のフラニーが、彼氏のレーンに放った言葉です。サリンジャーがフラニーをとおして言った内容は、まさにこの展覧会の核心を突いていると思います。

展示8『誰もがファッショナブルである?』では、おしゃれ好き自由にえらんでる服、反対に服はどうでもいいと思っている人が着る服でさえステレオタイプの「型」に分類可能だという内容でした。わたしたちが自覚がなくても型にはまってることわかり、はっとさせられます。

また、トレンチコートと迷彩服を特集したコーナーは、ファッションが何たるものなのかをわかりやすく理解できるコーナーでした。この二つは戦争の軍服が原型でそれが今ではファションの定番になっています。戦場での必要性から生まれたこれらの服は、ひとたびファッションに転用されると、戦争とはかけ離れたとても柔らかいフェミニンなトレンチコートにもなる。無駄を省いた機能的な服がこれほどまで本来の用途からかけはなれていることがわかるこの展示は、ファッションとは、どういったものなのかといったことが要約されているようでした。ファッションとは「どう見られたいか」という「イメージ」の利用であって、その服の本来の出目や機能は重要ではないのだということです。

わたしは、美術館に行くようになり、ずっ疑問に思っていたことがありました。それは、芸術の美とファッションの美はどう違うのかといった疑問でした。ファインアートと商業デザインの違いともいえる問い。この問いにのヒントがここにあるように思いました。

芸術とファッション

アートは創造であり、個別性、一回性といったもの、もしくはその作品が生み出された背景や、作家の思い等々が重要になってきます。一方で、ファッションは、それらは重要ではなく、可視的にその美を纏うことでどういうイメージを人から得られるかといったドライで打算的な要素が重要だということです。前者は「美そのもの」を欲し、後者はそこからえられる他者からのイメージを欲するといえると考えられます。ルイス・ヴィトンがダヴィンチの『モナリザ』、モネの『睡蓮』をサンプリングしたバックが展示されていたのですがそれをはっきりと可視的にかんじとれました。芸術の精神が消えうせ、芸術の雰囲気を何の抵抗もなく利用できてしまう、「すべてが等価で交換可能」なもの。それがファッションなのです。

”----すべてが等価で交換可能

ドレス・コード―着るものたちのゲーム:解説より引用

擬態と仮装、マジョリティーとマイノリティ

その視点で、no61.『コム デ ギャルソン/川久保玲 ショービデオ』では奇抜なデザインのファッションショーの映像がみられます。この映像を見たとときに、おしゃれが絶対的なものではなくて暫定的で相対的なものだと気づかされました。展示5のタイトルが「見極める目を持たねばならない?」と付されているのには納得します。

逃れられないなら、遊んでやろう

ファッションは政治からくるかつての強制的な「ドレス・コード」からどんどん開放されてきているようです。また、トータル・コーディネートの時代ももはやおわり、サンプリングにより個人がファションをたのしめる表現の幅もがっているみたいです。

ここまできて、ようやく当展覧会のサブタイトル「着るものたちのゲーム」の意味がわかったようなきがします。今までさんざんファッションの真実を暴露してきたのはこれが言いたかったのではないかという気がします。

つまり、「すべてが等価で交換可能」で「いいも悪いも服をきるかぎりなにがしかのイメージを使用・利用することがさけられないない」それでいて「絶対的なファッショナブルがない」ないなら、こちらから受け入れて、積極的に遊んでやろうよ、というメッセージなのだとわたしには思えたのでした。

以上、こんなに長くなるとはおもいませんでした。それほど、充実した展覧会だったということです。長々とおつきあいありがとうございました。

「ドレス・コードー着るものたちのゲーム」

[会期]2020年7月4日[土] ― 8月30日[日]

[会場]東京オペラシティ アートギャラリー[3Fギャラリー1, 2/4Fギャラリー3, 4]

[開館時間] 11:00―19:00(入場は18:30まで)

[休館日] 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、8月2日[日](全館休館日)

[主催]公益財団法人 東京オペラシティ文化財団、公益財団法人 京都服飾文化研究財団

[協賛]NTT都市開発株式会社

[特別協力]株式会社ワコール

[企画協力]京都国立近代美術館

[協力]KLMオランダ航空、株式会社七彩、センクシア株式会社、ヤマトグローバルロジスティクスジャパン株式会社

[助成]モンドリアン財団

OKETA Collection 2020

A NEW DECADE

@spiral

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は青山にあるspiralで開かれた「OKETA Collection 2020」をとりあげます。

*当展覧会最終日に偶然見つけたので、このブログが掲載されているころには展覧会自体は閉幕しています。「OKETA Collection」は毎年開催されているそうなので展覧会の雰囲気だけでも紹介できればと思っています。

OKETA Collection 2020」公式サイト

このギャラリーは、前もって知っていた展覧会ではなく、用事があってたまたまいった渋谷の夕方にぶらついていたら見つけた展覧でした。現代芸術界で高い評価をされている世界中のアーティストのアートを堪能できるものとなっていました。なんでも、展覧会のタイトルにある「OKETA」というのはファッション界で活躍する桶田夫妻というご両人のことで、彼らが集めた現代アートを定期的に一般に無料で公開している活動が「OKETA Collection]なのだそうです。

展示されているアーティスト名を挙げると、ゲルハルト・リヒター、ルビー・ネッリ、オスカー・ムリ―リ、ロッカク・アヤコ、草間 彌生、名和晃平、村上隆等々、とても貴重な顔ぶれのような気がしました。わたしは、あまり詳しくないのですが、作品をみるかぎりとても面白い貴重な作品が少数精鋭で展示されているといった印象でした。

会場は国連大学、青山学院大学がある国道246号沿いにあり表参道駅が最寄でした。展示空間は仕切りのないスパイラル一階フロアを都会風のカフェと並立して貸切った空間となっており、ビルの中とはいえ、とても優雅な雰囲気漂う会場でした。立地と当ギャラリーがとてもよくマッチしているといった感じです。青山は六本木にくらべ、都会でありながら緑が配置され空が広く感じられる街並みですが、この青山という街の特徴と現代芸術相性がいいことに気づかされます。

わたしは、展覧会に足を運ぶようになり、「STARS展:現代芸術のスターたち—日本から世界へ」展と、「MERCWDES-BENZ ART SCOPE」展などで主に日本人の現代アートはじっくり見れていたのですが、そろそろ海外の現代アートもみたいなと思っていたところ、この展覧会では海外のアーティストのアートも見ることができてとても幸運でした。

*どちらも、2020年8月12日現在、開催中の展覧会です。これらについて取り上げた記事はこちら、「STARS展」「メルセデス・ベンツ・アートスコープ2018-2020」展

アートと出会うのベストなシチュエーションとは

わたしは、たまたま表参道から渋谷へ歩いているときにこの展覧会をみつけ、足を踏み入れました。この、「たまたま偶然に出会った」ギャラリー、そこに展示されている作品との出会いは、あらかじめ知っていたり計画をたてていった展覧会での作品との出会いとはくらべものにならないほど、好ましいものだなと思いました。とても身軽な気分でいられるのです。前もって調べた労力、予定という名の拘束された時間がないため、作品にたいして、変な期待をかけないですんだからです。「期待をかける」ことは二面性を含んでいるように思います。行動する動機にもなるのですが、自分以外の人や物に向けられると多くの場合は、思いどおりにならずもやもやする結果をもたらすことが多いからです。

この偶然見つけた展覧会にぶらっと立ち寄ったことで、「期待」がない分、作品がピンと来なくてもがっかりしないし、いい作品と出会えればラッキーだと素直に思える。じつは、このシチュエーションこそが展覧会で作品と出会う最高のコンデションなのではないでしょうか。

レアな海外アーティストのアート

ところで、わたしはこのブログをみていただいた方が、私の取り上げた展覧会に行った場合に、展示されたアートとの出会いの感動の邪魔はしたくない、と思っています。なので具体的な展示作品についてはなるだけ取り上げないようにしています。しかし今回は、足を運んだ2020年8月10(月)がギャラリー最終日でしたので、このブログをアップするころには、ギャラリーは閉幕していますのでその心配がありません。

そういうことで、今回は、他では見られにくい作品を中心に個々の作品について、レポートしてきたいと思います。「OKETA Collection」は毎年開かれているそうですから、今回紹介したアート作品を次回、次々回の夏に出合えるかもしれません。

ロッカク・アヤコ 2019『untitle』

鮮やかで愛らしい女のこのファンタジーが凝縮したかのような世界観の一枚。抽象画のなかにファンシーさが感じられました。

ルビー・ネッリ 壺のような感じのオブジェクト

複数女性のフォルムによって生み出された壺のようなもの。女性が裸体がいっぱいくっついて一つのオブジェクトが出来上がっていました。どこかスペイン風の面持ちの裸体女性はデフォルメがしっかりされていて、卑猥なグロテスクな感じはせず、むしろなんかエロいというよりユーモアよりの「なんだこれは感」が味わえました。

ゲルハルト・リヒター2015『abstraction painting』

今では、市民権を得た抽象画、一見乱雑に見えるこのジャンルは色彩のセンスがもろに出ると同時に、名作は意外と混沌と見えるキャンバスの中に構成がある(作家が意図しようがしましが)とわたしは思っています。この作品は名前のとおり「ザ・抽象画」でありながら、美しく同時に構成の中にしっかりと知性も感じ取れる作品でした。

フュー・チック(テックだったらごめんなさい)2019 セラミック

これはセラミックのオブジェクト。性格が悪そうな重厚な金属地球外生命といった佇まい。なのに、とてもコミカルなんです。動きがないのにコミカルとはおかしいかもしれませんが、コミカルに動きそうなユーモアが感じ取れたわけです。時の経過かそれとも作為的か、セラミックの銀白色の光沢に鈍い幅をもった白い筋がいっていました。それが彼の魅力をむしろ増していたのです。コミカルに哀愁が加わった彼はもはや、金属地球外生命などではなく心をもった人間のよう。そういう人の心がフュー・チックによって込められているように感じました。

名和晃平 2017 ミクスト メディア 『fix cell -deer #48』

きれいな透明の大小さまざまな球体によって絶妙のバランスで塑像されてされたあーと。素直に美しいと思いました。一瞥はすごいきれい、眺めると神秘的な美しさを放っている。しばらく鑑賞し続けていると、みてはいけないような畏怖の念に似た怖さ感じる、といった重層的な感想をもちました。球体を除くと反対側の景色がたわみんでうえに上下が反転して見え、球体がくっついている鹿の型らには生々しい鹿の体毛らしきものが見える。鹿が透明な球体に包まれているのですが、鹿をが意思をもった透明な球体に乗っ取られているようにも見ることができます。わたしは原美術館でこのシリーズの小さい作品をみましたが小さいと愛らしい出先のお土産といった感じだったのが、作家のモチーフはこの大きめのこの#48のほうに表れているように思いました。この作品だけでも「展覧会にいったんだ」という満足が得られました。

以上、「OKETA COLLECTION: A NEW DECADE」展についてでした。おつきあいありがとうございました。

<展覧会概要>

「OKETA COLLECTION: A NEW DECADE」展
[会場]スパイラルガーデン (東京都港区南青山5-6-23 スパイラル1F)
[会期]2020年7月23日(木・祝)~ 8月10日(月・祝)<休館日なし>
[主催]OKETA COLLECTION
[キュレーター]児島やよい

森山大道の東京ongoing

@東京都写真美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は東京都写真美術館で開催中の「森山大道の東京ongoing」展をとりあげます。

「森山大道の東京ongoing」展公式サイト

日本を代表する写真家・森山大道は「アレ・ブレ・ボケ」と形容される作品でしられる日本を代表する写真家です。この展覧会では、過去の作品から現在の作品まで、思う存分楽しめる展覧会となっています。彼の映すスナップ写真には今はなき昭和の空気、平成の空気といったもものが色濃く漂っていました。親がまだ青年だったとき、こういう時代の空気の中で呼吸していたんだな、と思わせてくれるようなファッショナブルでノスタルジックな世界観が経験できます。

かれの写真は人間の泥臭い部分としゃれっ気がありました。

ところで、わたしは写真について、「写真」としていいなーと思うことがあってもの、絵画に感じるそれとは違う良さを感じることが多いです。写真はいどちらかといえば、ドライで、ファッショナブルで実際的な要素がおおきい。対して、絵画は、ひとからどう見られたいという要素が弱まり、個人的な想いや感覚の要素をが大きくなる。どちらがいいといいたいのではなくて、それぞれに表現しやすいそれぞれの領域があるのではないかということです。

今回はその「写真と絵画の領域」について、少し探求していきます。

以下内容を一部ふくみます

なぜ白黒はおもしろいと感じやすいのか

わたしは、かれのスナップ写真を見ていて、カラーより白黒の写真のほうに面白さを感じました。そもそも、彼のスナップというよりは、写真全般にそう感じることが多いです。このような感想はわたしだけではなく、カラー写真がうまれて以来ある意味で多数派だったようです。ニューヨークの伝説の写真家であったソール・ライターは著書『ソール・ライターのすべて』でこんなことをつぶやいています。

“I like color even though many photographers looked down on color or felt it was superficial or shallow.”

‘私は色が好きだった。たとえ多くの写真家が軽んじたり、表面的だと思ったとしても。’

ソール・ライター:『ソール・ライターのすべて』176頁より引用

写真家のなかでも、白黒の写真でとられた写真のほうに魅力を感じている人は昔から多かったようです。これは、いいかえれば、プロであってもカラー写真で名作を撮るのは難しいということです。それはなぜなのでしょうか。

日常と不思議はトレード・オフ

カラー写真について考えてみますと、普通にカラーで日常を撮影した時に、そこに映る景色の色彩は普段見慣れている色彩で、しかも描写は超写実的なものとなります。一方でモノクロ写真は色彩がない。そんなの当たり前じゃないかといわれるかもしれませんが、すべてがいつも同じように見えてしまっていることこそがつまらなさの原因だと思うのです

見る側の人は、シンプルな陰影のみので描かれたモノクロの世界に、シンプルさや「非日常感」と、自ら色彩を想像できる余地をみいだします。わたしはおそらく、この写実てきには欠けている部分が不思議さを生みんでいるのではないかと思うのです。カラー写真はあまりにも日常を正確無比に描きすぎてしまうのです。「美術」の領域まで高めた一枚を撮るには、撮り手の審美眼やフレームのなかの雑多な色彩や対象物を取捨選択する技術がもとめられるのです。この点が、カラー写真のほうが白黒写真より撮るのが難しい一因なのです。ソールライターはこんな言葉も残しています。

”There is just too much.”

’とにかく多すぎる’

ソール・ライター:『ソール・ライターのすべて』12頁より引用

*ソール・ライター展は東急文化村ザ・ミュージアム7/22(火)~9/28(月)でアンコール開催がなされています。おすすめです。ソール・ライター展と彼の著書『ソール・ライターのすべて』についても書いていますのでよかったらこちらへ、ソール・ライター展『ソール・ライターのすべて』

話をこの展覧会にもどします。わたしはこの展覧会では「写真」として眺めていたのですが、彼の作品の中で何枚か、「おや、これは絵画の域に入っているぞ」と関させてくれる作品が何点かありました。タイトルは忘れてしまったのですが、犬の写真と、ドレスを着た女性の写真でした。このどちらからもファッショナブルを超えた何かの存在を感じさせてくれるものでした。そのうち、ドレスを着た女性の写真は印象的でした。

異質な一枚と写真の可能性

この一枚はモノクロなのですが、写真と最初に言われていなければ抽象画かと間違えていたかもしれません。それほど、「写真」から遠く離れた位置にあるような感じがしたのです。ファッション性と同時にミステリアスな美がほのかに感じ取れる。この写真にはいまもなお進化中「ongoing」の大家・大森大道のさらなる高見への可能性が感じられました。

考えてみれば、彼の作品は「アレ・ブレ・ボケ」と形容されています。これは、まさしく、それらによってフレームのなかに混在する過剰な部分を意図的に捨て去っているということがいうことができると思います。

性別と視点

ところで彼の作品は、男の目線で撮られている作品もみうけられます。この展覧会の大トリでは、薄暗い展示室が用意されていて、女性の身体の曲線に焦点を当てたような作品が液晶モニターで展示されていました。やや、エロス的な要素が強い作品空間でした。

この展示小部屋は出入り口が同じです。わたしがその出入り口あたりに展示されているスナップ写真を気の抜けた顔ででしばらくの間ボケーと眺めている間に、5,6組が出入りしていました。その時フッと、ある事に気がついたのです。

「女性は部屋からめっちゃ早くでてくる」ということです。男性に比べて、女性はこの部屋から出てくる時間が、つまり鑑賞時間がめちゃくちゃ短い。男女ではジェンダー的な違いが確かにあるのだな、ということがよくわかりました。

以上、写真家・大森大道展についてでした。おつきあいありがとうございました。

「森山大道の東京ongoing」展
[会期]2020/6/2(火)~9/22(祝・火)
[会場]東京都写真美術館
[休館日]月曜日

STARS展:現代美術のスターたち

―日本から世界へ

@森美術館 

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は六本木ヒルズにある森美術館で開催されている「STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ」展をとりあげます。

この展覧会では現代美術界で世界的に活躍している6名の日本人アーティストを取り上げています。

エキセントリックな村上隆から始まり、悟りを体現したかのような李禹煥(り・うふぁん)、目に焼き付くような強烈な印象の草間彌生、ひとの心とデジタルが幻想的に共同する宮島達男、三つ子の魂百までを体現したような愛らしい天邪鬼な世界観の奈良美智、古今東西の美を知的にそして優雅に表現する杉本博司。

世界的に活躍している作家ともなると、世界観がこれでもかというほどはっきり確立されているということ驚かされます。ひとたび別の芸術家の展示ルームに映れば、も文字通りの「別世界」が広がっていたのです。

また現在に至るまでの現代美術界において、欧米で日本人芸術家がどうみられていたのか、いるのかということを紹介する文献資料コーナーまで用意されており、内容の濃い展覧会でした。

左:入口展示風景 中央:李禹煥展示室風景 右:奈良美智展示室風景

わたしの正直な感想を正直にいうと、現代芸術わ時々よくわからなくなるというのが本音です。その分からない点が、作品を彼らの思想と外からの彼らの評価とを照らし合わせる形で少しだけわかる部分がでてきたのかなと感じます。

これから、わからない点について今回の展覧会にいくことで分かりかけてきた点を言葉にしてみようというのが今回の試みです。

以下、内容を含みます。

「STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ」公式サイト

意見を総意というかたちで語ること

わたしは、村上隆さんの作品、について今回まともに対面したのですが、それまでテレビ等で彼の作品を見た時に、かなりもやもやしました。そのとき紹介されていた「スーパーフラット」というテーマの中の作品は特に見る側の視点(特にあきらかに卑猥な一線をこえていることへの配慮)が感じられず、そのまま発表しているよう感じられたからです。しかも芸術というより二次元のアダルトショップにあるような感じで、かといってユーモアともとりがたい。なぜこの「スーパーフラット」がこれほどまでに現代芸術の世界で受けているのだろうかとピンとこなかったのです。

そんな中わたしが感じていたもやもやの正体の一部が、彼の作品の「スーパーフラット」の内容というよりは、彼の考え方を表明する言い方にあること気づきました。

展示付属の解説によると、彼はバブル期に出現したオタク文化を擁護する形で、本来日本人は浮世絵に見られるように数奇なものを好む傾向を持つ民族であり「オタク」はその系譜を継いだ日本の誇れる「文化」なのだという考えだそうです。同時に、日本の「オタク文化」にたいして特に芸術の盛んな欧米から、「内容がなく、子供向け、技術もない」よいうような低評価に反感を感じていたそうです。この日本人の「オタク「」文化ついての欧米人からの見下した態度によって日本人が委縮しないでいられるように、との思いで、あえて彼らからの言葉を要約した「スーパーフラット」という内容を厚顔無恥という批判を承知で欧米の芸術界に挑んだという経緯があったそうす。わたしの「スーパーフラット」への感想は、彼の意図したことの一つだったのです。

この既成概念への挑戦という兼ね合いのなかで、揺さぶりをかけたことが評価されているようでした。

STARS展:村上隆 評価 より一部抜粋

わたしは、かれの好みやかれの挑戦にたいして否定しているわけではありません。わたしが、ひっかかる点は、まるで彼の「スーパーフラット」で行われている彼の主張が、彼の個人的な芸術への価値観でなくて、わたしたち「日本人」の価値観であり、日本人を代表として欧米へ異議申し立てをしていた(いる)という点です。

この個人的な意見を日本人の総意として語る点によって、他にも「私」の思いや考えを持つ人がいるということ無視してしまっている感じ。それがわたしのもやもやの正体なのでした。

ところで、わたしはカナダに2か月ほど語学留学したことがあります。その時のクラスメートの韓国の大学生が「せっかくカナダまできて英語を勉強しにきたのに、ホームステイ先で日本のアニメばかりみている」と笑って話していました。あるドバイ人は、ドラゴンボールのベジータというキャラクターの良さを永遠と語ってきました。これほどまでに日本のアニメーションが世界の特に若者の中で受け入れられていることに驚いたのです。

わたしは成長するにつれて、漫画やアニメよりほかの表現方法に興味が移っていったのですが、この時のエピソードはなんだか嬉しい気持ちになったことを覚えています。

注)彼の著書も読んだわけではありません。あくまで、彼の作品と展示の解説からそうなんとなく感じたのだということを添えておきます。

対照的な表現と思想

この展覧会は村上隆ではじまり、杉本博司でおわります。このキュレーションが興味深いのはこの両者の表現にみられる違いです。前者がこれでもかというほど目に付く色合いとフォルムで単純化する表現なのに対して、後者はあくまで自然な色調との調和の中で表現です。現代芸術が扱える対象範囲のは広大さがよくわかります。

ここで少し杉本博司について。彼の映像は、映像のなかに息をのむ美しさちりばめられていました。そこには日本的な美に限定することなく、また、欧米かぶれになることなく、かれの世界への興味の広大さと深さが彼の美意識に集約されているような作品で、とにかく目が外の世界に開かれている風通しのよさみたいなものを感じました。

このようなわけで、もやもやのの正体は、意外となところにあったのでした。わたしはもやもやとは、一概に悪いものだとは思いません。わからないから興味がわくからです。わかりやすい、シンプル、簡単というのような内容は悪くないのですが、最近はそちらのタイプばかりが見受けられるので、噛み応えのある何かを探している人がいるならこの「STARS展」はおすすめかもしれません。

以上長々と、おつきあいありがとうございました。

「STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ」

主催森美術館
協賛モルガン・スタンレー
鹿島建設株式会社
株式会社大林組
日本MGMリゾーツ
楽天株式会社
SENSAI
ソニー株式会社
株式会社竹中工務店
株式会社きんでん
Morgan Stanley
大林組
MGU RISORTS
Racten
SENSAI
SONY
TAKENAKA
Kinden
協力日本航空
制作協力デルタ電子株式会社
東芝ライテック株式会社
個人協賛Nelson Leong
企画片岡真実(森美術館館長)
近藤健一(森美術館キュレーター)
椿 玲子(森美術館キュレーター)
德山拓一(森美術館アソシエイト・キュレーター)
熊倉晴子(森美術館アシスタント・キュレーター)
矢作 学(森美術館アシスタント・キュレーター)

古典×現代2020

時空を超える日本のアート

東京新美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、乃木坂にある東京新美術館で開催されている「古典×現代2020―時空を超える日本のアート」展を取り上げていきたいと思います。

この展覧会は、日本が誇る過去の芸術家と、現代で活躍している日本人芸術家でペアを作り、かれらの作品を対比展示することで古典と現代の芸術の表現の豊かさ、違い、共通の地下水脈のような美的感覚を堪能できる催しとなっていました。

古典が生まれた時代の生活スタイルから現代に生きるわたしたちの生活スタイルは驚くほど変化しました。今では電車で30分の距離を、昔はそれこそ4,5時間もかけ舗装されていない道を歩いたのです。スマホどころか、電気すらない。古典はそんな時代に生きた人たちが創出したものです。はたして、ここまで生活様式が違うのに「時代を超える日本のアート」、わたしたちのなかに、過去の先人に通じる日本的な美的感覚なんて本当にあるのでしょうか。

今回は、この点に焦点をあてたいと思います。

以下内容を含みます

日本人の高い精神性と文化

今回の展示で気づかされることは、過去の芸術家たちの精神性がとても豊かだったということです。古典が創作された当時は、、単一民族で構成された島国で閉ざされており、しかも、個性を尊重する個人・民主主義の制度はありませんでした。そのような時代背景のなかで、これほどまでに様々ば芸術を発展させてきたことは驚きです。

かつての先人は、禅などにみられる人間性への関心、花鳥風月をめでる心、シンプルな食器一つに趣をもとめる遊び心など、とても精神活動が活発だったことがわかります。一方で、わたしたちの精神活動はどうだろうと思いめぐらしてみると、人間性への関心はどちらかというと「めんどくさいやつ」、花鳥風月にたいしては退屈なもの、遊び心より便利なもの、といった方向にかなり、傾いていると思います。

もちろん、生活にはこういう賢さは必要です。しかし、そちらの方向へ傾きすぎていると感じるのは私だけでしょうか。

芸術家とは、客観的な知性と主観的な感性という二つの領域に足を置き仕事をします。そのため、かれらは、時代の空気に鋭敏です。その鋭敏に主観で感じ取ったに感じ取ったものを時代の空気管を芸術表現の型に置き換える知的な作業の結果として作品が創作されます。つまり、彼らの作品は時代がもつ雰囲気、空気を濃縮して反映しているといえるのです。

たとえば、この展示で、江戸時代の彫師・円空とペアを組む、彫刻家・種田康次氏は、一本の木から掘り起こす彫像スタイル、という共通点からペアとなっています。両者の作品を比べてみると、円空の彫った仏像は、従来までの私たちが知っているようなある意味で装飾等がほどこされた細緻な仏像とは全く違うフォルムをしています。切り出した木の表情や、丸太を割った際に生じた断面が生きるように彫られた彼の仏像からは温かい存在感をかんじます。一方で種田氏の彫刻は繊細な彫刻で、モデルとしての未成年の像からは未完成ゆえの不安が色濃く、存在から少し浮足だった危うさを感じます。

芸術家が時代の雰囲気を表現しているという観点から見ると、過去とはくらべものにならないほど物質的に豊かになった現代という時代に生きる私たちが、いかに生きづらさを内に抱え込まざるを得ない「時代の空気」の中で生活しているのか、といういわれて久しいこの言説が浮き彫りになったかのようでした。

もちろん、表現内容をいっているわけではありません。

ところで、ここまで生活スタイルも、「時代の空気」も違うかつての日本人と、現代のわたしたち。そんな両者にに、時空超える共感を可能にする共通の美意識みたいなものなんてあるんでしょうか。

古典の表現領域を広げる現代芸術家

日光・月光菩薩と四根剛さんのコラボレーションは、時代に流されない日本人独自の共通の美意識のようなものが感じ取れます。

正直なところ、わたしはライトアップをして仏像とコラボするインタラクションにはしっくり感じないたちでした。確かに印象的になったり、いつもとは違った見方ができる点はおもしろいのですが、わたしが思う仏像がもつ最も重要な美的要素である、深み、奥行き、といった色気ある美しさがが、フラットになって薄れてしまうからです。

しかし、このコラボレーションは別物でした。動きある光の照明、動きある陰影空間、全てを明確に露出しない美しさ、低音でくりかえされるお経の祈りを含んだリズムとつかの間の静寂、これらがもうあいまって、静かに包み込むような美が際立つようでした。とにもかくにもわたしの浮足がちでざわついた心が休まったのを覚えています

このコラボレーションに、日本人にの地下水脈にある美意識はたしかにあるのだと、目、耳、全身の感覚で実感することができました。四根氏は、エストニア国立博物館等をデザインしている、現代建築デザイナーだそうです。仏教関係者でも宮大工でも、日本風の建築専門の型でもない彼がコラボしてこのような日本の古典の巨匠の美をさらに深められた様を見ると、本当に、わたしたちの中に日本人特有の美への価値観が宿っているのだと理屈をこえて実感でしました。

生活スタイルは違えど同じ人間

ここまで、古典と現代の日本の芸術家の作品から、相違点、共通点を見てきました。

ここで、そろそろ冒頭の問い「生活様式が違うのに「時代を超える日本のアート」、わたしたちのなかに、過去の先人に通じる日本的な美的感覚なんて本当にあるのか」の答えをだしたいとおもいます。

もちろん答えは「イエス」です。

科学や経済は最先端の状態が望ましいのに対して、美的意識、精神的価値観、人間性に属するものはそういう縛りがありません。大昔の日本人がさくらの散りゆくはかなさをみて、感動するように、今のわたしたちも感動するときは感動します。この内なる領域にある、精神的価値、つまり人間であることに、変わりはないのです

ただ、現代の「空気感によって」、生活スタイルは、どうしても味わうことよりも計算的で効率がいいことや、色彩や音色、またまた言動までどんどん派手な方向流されていることも確かです。この展覧会は、浮足立ち名現代に生きるわたしたちの足場をすこし固めてくれるようでした。

以上、ながながとおつきあいありがとうごさいました。

「古典×現代2020―時空を超える日本のアート」
[会期]2020年6月24日(水)~8月24日(月)
毎週火曜日休館
[開館時間]10:00~18:00
毎週金・土曜日は20:00まで 当面の間、夜間開館は行いません。
※入場は閉館の30分前まで
[会場]国立新美術館 企画展示室2E
〒106-8558東京都港区六本木7-22-2
[主催]国立新美術館、國華社、朝日新聞社、
文化庁、独立行政法人日本芸術文化振興会
[協賛]大日本印刷、UACJ