ここではない場所の写真、keep unchange,keep change

あしたのひかりTwilight Daylight

日本の新進作家Vol17

@東京都写真美術館

こんにちは, matsumoto takuya です。今回は東京都写真美術館で開催中の「あしたのひかりTwilight Daylight 日本の新進作家vol17」をとりあげます。

この展覧会は、サブタイトルにあるとおり、日本の新進の作家を特集した展覧会で、5人の作家が特集されています。5人の撮影スタイルはそれぞれ異なっていて、写真といえども表現にこれだけのヴァラエティーがあるものなのかと驚かされます。主張がつよい広告にかこまれている生活をしていると、写真について地味な印象をうけてしまいがちですが、この展覧会には既存の写真美術から「解放」や「前進」をしていくエネルギーや、変化することへの認識が深まる展覧会となっていました。

菱田雄介氏「border」の展示が特に素敵でした。おもに異国の人物の写真が展示されているのですが、人物の表情がとても自然で、異国の地に生活する全く知らないその被写体の人物に親近感を覚えるほどのいい表情が映されていました。特に展示番号no.8「Loves Island,Greece」の少女の驚きと喜びが混じった表情は、こちらの心まで一瞬輝かせてもらえた気がしたほどです。この一枚だけでもこの展覧会に足を運んだよかったと思える素敵な写真でした。

あしたのひかりTwilight Daylight公式サイト

ところで、写真をつかった様々な表現の作品を見ていると、そもそも写真美術のもつ働きってなんなんだろうという疑問がわきます。普通わたしたたちは写真をアルバムのような記憶を忘れない手段として用います。しかし、美術的な写真にはそれとはちがった要素を感じます。この謎を今回特集されている注目株の5の作家の展示と言葉を手掛かりにして、ささやかながら探求してみたいと思います。

「写真」とは一体何なのか

大人になった今でも————————–

「ここではないどこか」にこころ踊る

赤鹿摩耶:インスタラクションより引用

今回展示の作家、赤西摩耶氏の展示の中でこのような言葉をみつけました。写真をみていいな思うとき、確かに「ここではないどこか」であることが多い。人物の写真についても大概は建物や場所といった風景を背景にしています。人物だけであっても、どこかしら非日常的な、もしくは日常では稀な不思議な美しさが表現されています。

写真と「ここではないどこか」というキーワードはどうも深い関係がありそうです。頭のなかでもやもや考えながら展覧会を回っていると、菱田雄介氏の展示コーナーでこんな言葉を見つけました。

”人類が最初に発明したのは言葉ではなくて地図であった”

菱田雄介氏の展示作品紹介より引用

ここでかなり短絡的ではありますが、「写真」とは地図なのだなということをひらめきました。地図を私たちが眺めるときは、見知らぬ土地に旅をしたり引っ越したりするときです。そこには一抹の不安とそれ以上のわくわく感が胸に宿ります。冒険的な要素を感じているとも言えます。

わたしたちの生活は、年を取るにつれて様々なことに慣れていき生活が楽になってきます。その分、未開の地へ冒険するようなわくわく感は減っていき、変化するものは減っていき、時間がたつ感覚も加速してきます。しかし、いくつになっても未知なるものを知りたいという知的欲求はあるわけで、見知らぬ土地の地理情報が多くふくまれた表現である写真は、その欲求をくすぐるわけです。

展覧会を一回りして最初の展示されている岩根愛さん映像作品(no.23)をもう一度鑑賞していると、「諸行無常」とい言葉の肯定的な面、詳しく説明するなら、”変化することは希望や成長することでもある”というメッセージです。変化することは大切な物であるなら、なおさら喪失感を抱き悲しくなりますが、変化の裏の側面は創造の母なわけです。

それで、結局「写真」とは何なんだ?

写真とはわたしたち思い出の保存という変化を拒む要素と、同時に「ここではないどこか」未知なる場所に向けて探求したいという変化を肯定する要素という、全く別のベクトルを持った不思議な道具だということです。こう考えると、写真とは矛盾をはらんだ人間存在にもってこいの道具だったわけです。

うーん、、、奥が深いですね。誰でもボタンを押せば撮れる写真、この写真に多くの大人・子供が魅了されのめりこむわけが少し垣間見れたような気がしました。

以上、「あしたのひかりTwilight Daylight 日本の新進作家vol17」展についてでした、お付き合いありがとうございました。

「あしたのひかりTwilight Daylight 日本の新進作家vol17」展

[期間]2020/2/28(火)~9/22(火・祝)

[会場]東京都写真美術館2F

[時間]10:00~18:00

[主催]公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都写真美術館、東京新聞

[助成]芸術文化振興基金

[協賛]東京都写真美術館支援会員

ささめやゆき展のイメージ画像

ささめやゆき展

NADiff modern (2F Gallery)

@NADiff modern (2F Gallery)

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は東急Bunkamura ナディッフモダンで催されている、「ささめやゆき展」をとりあげていきます。

ささめやゆき氏は、版画家、イラストレーター、絵本作家と幅広い分野で活躍されている作家さんです。今回の個展では、40年ほど前にネパールにて描かれたスケッチ画が展示されていました。現地で調達した画材マジックインクで肩のちからを抜いたように描かれたカラフルなスケッチはとっても軽やかでした。彼の版画の味わい深くおしゃれで軽やかなテクスチャーとはまた一味違った味わいがありました。どこか西洋チックな余韻がある軽やかなスタイルです。

展示会場である、展示会場でもあるナディッフモダンとは東急Bunkamura地下1階にある書店で、めったに手に入れることができない貴重な芸術の本が置いてある、とってもおしゃれな本屋さんです。洗練された都会生活のとはこんイメージというのにぴったりはまる空間なのですが、ささめやゆき氏の作品はこの空間をさらに引き立てているように思いました。

抜け感のある奥深い味わい

特に、「晴布」という奥が透けて見えるほど薄い布に絵が描かれた作品が素晴らしかった。一階から二階にかけての階段の頭上にフラッグのように展示されているのですが、これが素敵な空間アートとなっていました。

ナディッフモダンの造形空間と複数配置されたオレンジと黄色の間接照明が、「晴布」に書かれた彼の絵の奥に背景のように浮かび上がり、空間と彼の絵のテクスチャーやスタイルとが引き立ち、不思議な美しさを現出していました。柔らかい透けた布の柔らかく繊細な感じとあいまって、抜け感のある奥深い味わいで、幽玄なインスタレーションともいえる感じとなっていました。

展覧会風景イメージ:「晴布」の箇所を強調してます:matsumoto takuya作

普段とは違った、感覚を肩肘張らずに味わえる、そんあ素敵な個展でした。

ささめやゆき展公式サイト

「ささめやゆき個展」

[場所]東急Bunkamura NADiff modern (2F Gallery)

[期間]2020.09.05[土]—2020.10.31[土]

[時間]10:00 – 20:00 (金・土 – 21:00)
定休日なし

「第22回かずこ展」展示風景

The 22nd Kazuko solo exhibition(第22回かずこ展)

記憶を超えて fly off

@東急Bunkamura1F

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、東急Bunkamuraで一週間限定で開催されている個展「第22回かずこ展」とりあげます。当個展は本来、2020/4/25(土)~5/1(金)に同場所で開催予定だったのですが新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、開催を延期し、今回の展示に至ったようです。

The 22nd Kazuko solo exhibition(第22回かずこ展)、展示室風景
展覧会風景

かずこ氏は武蔵野美術大学を卒業後、絵画以外にも舞台美術などで活躍されているアーティストです。

端正で同時に動いている

彼女の絵は色彩が美しいのもさることながらとても詩的な感じがして素敵でした。そのうえ私がいいなと思った点は、「クール」さです。一つ頭と美れた都会のおしゃれといえばいいのでしょうか、なんとうか、おしゃれなのはもちろんなのですが、日本の小説家でいば村上春樹、海外だと、ポール・オースターの作品のような情緒を冷静に俯瞰しているような「クール」さを感じるのです。洗練された色彩の美しさが加味されている点で、トルーマン・カポーティの小説っぽいともいえます。

例えば人と猫の絵が描かれている抽象画が展示作品いあるのですが、猫単体としては分かりやすく愛らしく描かれていないのに、この人は猫が好きなんだなと感じれる。描かれた人と猫との間に適度な尊重と呼べるようなちょうどよい距離感があり、そこがクールに案じられたのです。詩的で色彩が美しい絵画たちが一つの空間にクールに佇むそんな素敵な個展でした。

「描き切らないボヤっとした絵」にこめられた想い

かずこ氏と光栄にもお話しさせていただいたので、この個展について彼女が語った内容をざっくり紹介します。彼女はクラシカルな美術を感じさせながらも具象より抽象的なスタイル(彼女の言葉だと「描き切らないボヤっとした絵」)をとっています。描いた人が絵に込める想いとは別に、鑑賞した人が彼女の絵から何らかの印象や想いを得られればそれでいいし、おもしろいとのことでした。

以上、The 22nd Kazuko solo exhibition(第22回かずこ展)についてでした。おつきあいありがとうございました。

The 22nd Kazuko solo exhibition(第22回かずこ展)公式サイト

かずこ氏(作家)の公式HP

「The 22nd Kazuko solo exhibition(第22回かずこ展)」

[期間]2020/9/9(水)~9/15(火)

[時間]10:00~19:00 ※最終日は17:00まで

[会場]東急Bunkamura1F Box Gallary

[主催]アンサンブル

映画レビューの補足イメージとして

『パヴァロッティ 太陽のテノール』

cinema review

こんにちは、matsumoto takuya です。今回はBunkamura ル・シネマで上映中の映画『パヴァロッティ 太陽のテノール』をとりあげていきます。

この映画は、オペラ界テノールの巨匠パヴァロッティの伝記的映画で、『ダヴィンチ・コード』などで知られるロン・ハワード監督の作品です。

一言でいうと、素晴らしの一言につきます。映画館を出るころには、こころがぽかぽかしていました。音楽好きのみならずオペラを知らない人にもおすすめできます。ちなみに、わたしはオペラについてサイゼリアで流れてるBGMくらいの知識しかない人間です。

『パヴァロッティ 太陽のテノール』公式サイト

今回は、マエストロ・パヴァロッティという魅力的な人物を探っていきます。

以下内容を含みます。

オペラを冷めた目で見てきたわたしが

わたしはこの映画を観る前まではオペラを真面目に鑑賞したことが一度もありませんでした。正直な話、アクセサリーとして芸術を身にまとうタイプの富裕層の懐古趣味、というステレオタイプのイメージがわたしの頭にこびりついていて、どこかそういう人たちとは距離を置きたいような閉じこもった姿勢でいたからです。

そんなわたしがいうのは変であることを承知の上で、パブロッティ―の歌は間違いなく極上だということです。そう言ってもおかしくないほど、彼が歌うシーンはオペラ未経験者のわたしの胸を打ったのです。なぜ、タイトルに「太陽」が含まれているのか理屈ではなく心で納得できました。歌声が空間を温かく包み込み、心の深いところまでいきわたってくるような感じといえばいいのでしょうか。

一体彼の歌からほとばしる温かさはどこから来るのか気になります。

「太陽」という形容詞とパヴァロッティ

わたしが注目したのは、彼が誰に対しても全くもって自然体であるところです。まるで、子供のような自然体さなのですが、ユーモアあふれる配慮ができるちゃんとした大人なのです。人にたいして恐さを抱いていないように見えるパヴァロッティですが、映画ののインタビューシーンで「人を無条件で信じているというが、信じられなくなったらどうするのですか」という質問にたいして彼は、茶目っ気たっぷりに

「冗談だろ?」

「それっじゃあ生きられないよ」

と返しています。歌唱の超絶技術のほかに、大人になっても「人を無条件に信じることができること」が、彼の歌声に温かさを生む土壌をこしらえているように思います。信じてもらうのは誰だって嬉しいですし、嬉しいと身体もほぐれてより開かれた姿勢で鑑賞できるからです。

この映画を見ていると信じることが愛することなのだ、ということが理屈抜きにわかります。彼が画面に現れるだけでなんだ心が明るくなる。そういう意味でこの映画タイトルは「テノール」抜きの「太陽のパヴァロッティ」でもよさそうなくらいです。これだけの人間力があれば、オペラ歌手にならずに小学生の先生をしていても、公私ともに充実した人生を送っていただろうと想像できます。

大人がもう一度「信じること」ができるには

こうやって、愛のある関係を築き上げながら生きたいと思わない人間はいないはずです。しかし、彼のように無条件で人を信じられない人は少なからずいます。私もその一人で、信じられたとしてもその人との信頼関係の度合いによります。もちろん私が彼よりも未熟であることは明らかですが、人にはひとりひとり事情があり、信じることが時に難しい人もいます。しかし、この映画というか彼から学べることもあると思います。

一体どうしたら、大人となった今現在の「私」が「人を信じられる」ことをもう一度信じられるようになるのでしょうか。それは、理屈でなく人と人との関係から得られる喜びの感情によって可能になると思っています。「人と人との関係」といういいかたをしたのは、狭い意味での人間関係だけではなく、本や漫画などの作品を通して間接的な関係も含むという意味を強調したかったからです。

例えば、この映画で彼の歌に感動し、彼の人生観に部分的に共感できました。なんだか嬉しいと思えることで、ひとはやっぱり良いものなんだな、と思える。音楽、劇、映画等は芸術(もちろんサブカルもです)に含まれますが、芸術の働きは「人はやはり信じるに値する」と感じさせてくれるところにあるのではないかとわたしは最近考えます。

ビジネスでもいいのですが、どうしてもビジネスは経済原理の支配下にあるので、心よりもドライな理性が優位にたち、ビジネス関係で利害からはなれた喜びに出合えることはなかなか期待できるものではないからです。

はじめに信じるべき人

パヴァロッティは「人を無条件で信じる」以前に誰よりも自分自身を信じているたように思えます。でなければ、オペラとポップ、ロックのコラボという当時は市民権がなかったことはできなかったでしょう。この点からあえて誤解を恐れずいうならば、人を信じること、愛することができることは、まず一番身近な人、つまり自分を信じることを前提にしているのかもしれません。

こういうととても簡単なことのように思えますがが、わたしはなかなかこれが身につかない。大人の自己肯定感ともいえるものは、幼少期の環境の影響は避けられないのではないかなどなど、あれこれ理由をこしらえ弱気になってしまう。

考えてみれば、ほんとのところ自信なし、好きな物なし、「カオナシ」状態であったわたしが、美術館や文芸に近づいていったのは、名作に触れて共感し、人も捨てたもんじゃないなーと思えることで、同じ人間というくくりで自分を捉えなおすことで、自分を信じることを助けてもらっていたのかもしれません

「パヴァロッティ」と「人生」と「オペラ」と

話を映画について戻します。パヴァロッティは晩年に彼がオペラを久しぶりに公演し、高音(ハイCというそうです)の出来が悪いと辛口の評価を受けます。それに対して、音楽愛好家が馬鹿にしがちなロック界にいるシンガーのU2のボノの言葉には感動しました。だいたいで申し訳ないのですがこんな感じの言葉でした。

「(パヴァロッティの歌が劣化したと評するオペラ通の多数派に対して)(筆者補足)彼らは「歌」をわかってるのか?よく聞くことができれば、今の彼の歌声には人生を経験したからこそ歌える歌声がある」

映画『パヴァロッティ 太陽のテノール』とより引用

確かに人生には、快活さの他にも失敗や苦悩、喪失があります。そして、仮にオペラが人間劇であるなら、ボノの発言は身内びいきではなく的を得ているとわたしは思いましたし、そのオペラでの彼の歌唱は憂いが入る分よりふり幅がまし、深みをもった調子がでているように思いました。

パヴァロッティについて知ることは人間の人生について知ることなのだ、という考えが頭に浮かびました。そしてオペラは人生を様式美で表現したものだそうです。人の人生を芸術として対象化することについては私は一歩引いた姿勢ではありますが、彼の伝記であるこの映画は、広義のいみで「オペラ」だといえるのでないかとわたしは思います

今の日本で生きているからこそ

この映画は、音楽好きのみならず、世知辛い今の日本で頑張って生きているひとに、太陽のように温かさを届けてくれる力を包み込んだ素敵な映画でした。

『パヴァロッティ 太陽のテノール』

[監督]ロン・ハワード

[配給]ギャガ

シチリアーノ裏切りの美学、パブロッティ

「シチリアーノ 裏切りの美学」

Cinema Review

@Bunkamura ル・シネマ

こんにちは、mataumoto takuya です。今回は東急文化村ル・シアターで上映中のイタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ監督最高傑作と謳われる映画『シチリアーノ 裏切りの美学』をとりあげます。

時は1980年代初頭、シチリアのマフィア同士の抗争がヒートアップ。通称「新旧会のボス」トンマーゾ・ブシェッダが犯罪組織コーザ・ノストラの「血の掟」に背く。彼を「裏切り」を追っていくなかで「裏切り」にも両義的な意味があることがみえてくる。そんな導入部のあらすじです。

導入部分は、傑作「ゴッド・ファーザー」を踏襲しているような演出で嬉しくなります。前半が抗争アクション、後半は司法での知的な対決となっているのですが、意外にも、知的な後半部分ががわたしには魅力的に感じられました。リアルなかっこいい男の映画を久しぶり見れたような気がしました。

「シチリアーノ 裏切りの美学」公式サイト

この映画では、「なぜ幹部のトンマーゾ・ブシェッダが”血の掟”に背く行為」(公式サイトより一部引用)をとったのかの真相が語られますが、ここでは、なぜオッサン(50台)のトンマーゾ・ブシェッダがかっこいいのかというところを探っていきたいと思います。

以下、内容を含みます。

男がほれる男は本当にかっこいい

自由で雄々しい知的な精神、これがこの映画を見た直後の感想です。裏切者であるカロ、権力に固執したリイナと司法の場で「対決」を申し込まれ、悠然と内なる火花を散らせながら「対決」を了解するシーンは、とくにしびれました。クラシックなかっこよさ、本当の男のかっこよさ、というものが描かれた名シーンだと思います。

いつの時代も世界中にイケメンはいれど、この手の存在感がある同性さえも魅了してしまうイケメンはめったにお目にかかれないとわたしは思います。この映画の主人公トンマーゾ・ブシェッダのかっこよさはいったいどこから醸し出されてくるのでしょうか。

生き様と言葉の重み

この映画は、マフィア抗争アクション映画にとどまらず、後半は司法を舞台とする知的対決という構成になっています。わたしはこの後半部分が、この映画の主人公のかっこよさを一段と際立たせているように思いました。主張を論理だてて公の場で説明することは、もちろん知性が必要ですが、それに加えて一貫性、矜持が求められます。これは生きる姿勢に関係し、一朝一夕で身に着けられるものではありません。彼のそれまでの生きざまが言葉として現れるのです。自分の言葉で語ることができる人の言葉は「仲間」を引き寄せます。自らの信念のもとに「仕事」に誇りを持ち同じように矜持を持った判事ファルコーネとの出会いと友情は偶然の出来事ではないと思います。

そもそも、この映画の「裏切り」の美学とは、どういうテーマなのでしょうか。以外に思われる方もいるかもしれないが、このマフィア映画のテーマは実は「モラル」だと私は考えます。”血の掟”である組織への忠誠と重圧と、自身の「モラル」のなかで、選択し行為していく人間の持つ輝きがこの物語の核だと思うのです。

「モラル」と「マナー」と「道徳」の狭間で

ところで「モラル」とはなんでしょうか。「道徳」というのが一般に認知されてところですが、実はあいまいな理解しかなされていないのではないかとわたしは思います。

この概念は、近代日本が西洋から社会制度を導入した制度とともに入ってきたそれまでになかった概念です。つまり、西洋の社会制度の母体の倫理の、そのまた母体となったキリスト教の精神が根本的な土台になっています。世界的なベストセラーとなった『ささやかながら、徳について』の著者でフランスの哲学者アンドレ・コントスポンヴィルは著書『精神の自由ー神なき時代の哲学』(紀伊國屋書店)でカントを引き合いに出して、道徳的にふるまうことについてこう書いています。

道徳的にふるまうとは、カントが示すように、利害を離れてふるまうことであり、その際の前提になるのは、私たちが自らの義務を「それをはたすことにいかなる希望もいだくこともないままに」果たすことだ。

アンドレ・コントスポンヴィル『精神の自由ー神なき時代の哲学』(紀伊國屋書店)137頁より引用

「モラル」と「マナー」は別物

日本の道徳という言葉には、「モラル」と「マナー」がいっしょくたにされてしまっています。しかし両社は異なる領域に属する言葉です。「モラル」は個人の領域に属し、「マナー」は集団の領域に属します。よく、公共機関で「モラル」について求める掲示物やアナウンスを見聞きしますが、これは、大人には言われる筋がないものですし、「モラル」を直接的要求することを決定したその会社の会社員に「モラル(寛容)」がない、もしくは理解できていないということです。これは「マナー」なら話がとおります。

例えば、会社で「本音は人間としては尊敬していない上役を業務命令に従う以外にも人間的にも尊敬している体裁をとっている人がいるとします。彼は上司から人としてできた奴だとかわいがられ、衝突が少ないので、組織から人としてできた人物だと評価されるでしょう。

しかしこれは、他律であり、利害に基づく服従です。それは「モラル」ではなく用心です。道徳法則も事実上は尊重されようが、それらは全て利害からのことにすぎないのです。スポンヴィルはこんなこともいっています。

(個人的な領域を強制され、義務からなされるものが一つもなくなったなら)(筆者補足)私たちは、いわばエゴイズムの、つまり報奨への希望と懲罰への恐れという細糸でうごく「操り人形」と化してしまう。「すべてはきちんと動くだろう」が、その結果わたしたちの自由は終わる。

アンドレ・コントスポンヴィル『精神の自由ー神なき時代の哲学』(紀伊國屋書店)134頁より引用

たとえ話に当てはまるなら、その会社でそういうふるまいをしている人は、人間的にできた人かはわからず、その行為自体はエゴイズムから行っており、そこにモラルがあるわけではないのです。(私たちは往々にし,自分のできることをできる範囲で何とかやっているので、このふるまいは非難できるわけではないのですが)私はこの「モラル」と「マナー」の混同が日本がかかえる問題の原因の一つではないかと思っています。パワハラ問題も、個人として能力を開花できないで委縮してしまう文化もここに原因がありそうです。

私は上司だから尊敬しなさい、愛しなさいというのは、つまるところ、正当性のない上に、権力による精神の強制です。政教分離が達成されている民主主義がしかれている国においては、市民が拒絶すべき圧政と呼ばれるものです。ハラスメントとはここからくる概念です。尊敬されるとすれば属性や権力ではなくて、その人自身の人柄なのです。

話しを物語へ戻します。ブシェッダはコーザ・ノストラの組織において、リイナから「私はボスの中のボスだ。だから尊敬しろ」という圧政にたいして、自分も含めた愛するもののために拒絶します。

コーザ・ノストラの古き良き倫理観「弱者の救済」とは真逆の行為をおこなうコルリオーネ派のリイナに対して不快感を隠さないが静観してきたブシェッダをリイナは排除しようとし、身内であるはずのパレルモ派の抹殺を実行していきます。そんな中で、一番の味方だと思っていた自身が属するパレルモ派ボスのカロに裏切られたことが決定打となり、追い詰められながらもブシェッダは勇敢に真っ向から「血の掟に背くこと」を決意します。この時の精神が雄々しくカッコいいのです。

「ビジネスができる」は「全人的に優れた人」とは限らない

カロは、そつなく利害で簡単に個人的関係よりも組織上の自分の利害を優先する人物として描かれています。組織では麻薬でぼろ儲けしていたコルリオーネ派が実質的にパレルモ派より優位にあり、カロにとってはリイナは組織でやっていく上で重要な利害関係者だったのです。そして、カロは個人的な友好より利害をとった。つまり「ビジネス」をとったのです。今の日本は「ビジネス」が正義かのようにみなされていて、「ビジネス」ができる人は全人的にできた人とみなす風潮があるようですが、このカロの行為から「ビジネスができること」と人間性はじつはダイレクトな関係がないことがわかります

「集団」が私たちを連れていく方向

体制維持の立場から見た場合、カロがとった行為は空気を読んだ「協調性」のある行為です。しかし人間的にはどうしようもない。ここに集団に属する能力と個人に属する能力という両者の違いが見えてきます。愛すること、誠実であること、そして寛容であることは集団に属する能力ではなく個人に属する能力だということです。この集団の利害からはなれた個人に属する能力がモラルと呼ばれるものなのです。私たちに馴染みの言葉でいえば、世間ではなく個人にあるのです。

カロは組織内の力関係であるエゴイズムの、つまり「報奨への希望と懲罰への恐れという細糸でうごく「操り人形」」と化してしまうのですが、はたして、カロはこの裏切りのときに急にそのような人物になったのでしょうか。わたしはそうは思いません。彼は”集団から”できた人間”として評価されていたからこそパレルモ派のボスに上りつめることができたはずです。ここで、社交性とは何なのかの秘密が暴露されます。私たちが、とくに私たち日本人が絶対的正義のようにあつかう社交性とは、エゴイズムの別の側面からみた言い方にすぎないのです。

かっこよさの正体

「「すべてはきちんと動くだろう」が、その結果わたしたちの自由は終わる。」こういう事態が正常といえるのか。むしろ自由のなかにあるものが、友愛や正義や信頼関係といった人間にとって重要なものがあるのではないか、という言葉にすると説教臭くなってしまう内容を、マルコ・ベロッキオ監督はマフィア映画という娯楽の形式のなかで描きだしたのです。

わたしたちは集団的な動物です。集団を重視する傾向は「重力」のようにわたしたちにのしかかってくるものです。しかし人が動物とは異なる点があるとすれば、この傾向に抗うことができる点です。それは個人的な領域に属する愛とそれを動機に意思し行為することだともいえます。わたしはなにも社交性が不要なのだなどとは言っていません。ただ、わたしたちの生活にはどちらの領域も必要なのだということを言いたいのです。

わたしが、ブシェッダに感じたかっこよさ、雄々しい知的なかっこよさとは、この「重力」に立ち向かう勇気と人間ならではの美しさ、つまり精神の自由と人間の輝きだったのでした。

以上、「シチリアーノ 裏切りの美学」についての映画レビューでした。お付き合いありがとうございました。

『シチリアーノ 裏切りの美学』監督マルコ・ベロッキオ

[配給]配給アルバトロス・フィルム、クロックワークス

上映:Bunkamura ル・シネマ

上演期間:8月28日9(金)~9月17日(木)

[料金]一般・\1,800 学生・\1,500 (平日は学生・\1,200) シニア・\1,200 中学生(15歳以上)・高校生\1,000(税込)【毎月1日、毎週火曜日、及び毎週日曜夜の最終回は\1,200(税込)均一】

おすすめ外国人現代アーティスト

世界が深まる色彩空間

@ギャラリーさぼん

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は渋谷区広尾にある画廊・ギャラリーサボン(9月展示)をとりあげます。

ギャラリーサボンは、美術館ではなく画廊です。そのため、気に入った絵画があれば購入することができます。もちろん見るだけでもOK。オーナーは、主に現役の世界中のアーティストの作品の中から、日本では見られない表現をしているアーティストの作品を主に扱っているそうです。

ギャラリーさぼん、9月の展示風景
展示風景

わたしはこのブログを「徒然ゆえのギャラリー」と称しておきながら、実は狭義のギャラリー初体験でした。美術館は主にキュレーターの視点で展示されていますが、画廊の展示はより生活とつながっているうえに、サラリーマン(キュレーター)とは一味ちがった作品への想い入れがあるのだなと感じました。

ギャラリーさぼん公式SNS

この画廊が9月に取り上げたアーティストは以下の4人の外国人アーティストでした。

  • フランス・ブルターニュの画家 ティエリー・ルバイユ
  • コンビア・ボゴタの画家 ジョアンナ・アコスタ
  • ポーランドの画家 アルカディウス・ヴェソウォスキー
  • アルゼンチン・ブエノスアイレスの画家 マリア・マルタ・クレスポ

自然の美と絵画の美の違い

今回の特集うアーティストの展示を一言でいうと、心華やぐ小空間でした。もちろ美しいのですが、自然風景の美とは違った華やぎがありました。それぞれの華やぐ色彩あふれる作品からは、確かに画家の存在が感じ取れたからです。わたしは一人で鑑賞していました。孤独です。しかし、絵画を眺めていた私が思ったことは、「だれかといる」ような安心感でしたそんな包容力であったり、他者をふくめた人の心への注意や配慮といったものが、ぽかぽかと感じとれたのです。

私たちが絵画、を部屋に飾るもっとも深い部分や、絵画を愛する文化が発展してきたのはこんな「人の存在を近くに感じられるところ」にあるのだな、としみじみ思わせてくれる、素敵な空間がそこにはありました。

4人の海外アーティストの簡単な紹介と感想

フランス・ブルターニュの画家 ティエリー・ルバイユ
ティエリー・ルルバイユ、作品
ティエリー・ルルバイユ:展示室風景より

彼のスタイルは抽象画でした。それも、シンプルなタイプです。あれだけシンプルなスタイルなのに、見入ってしまうから不思議です。この手の絵は一定のレベル以上は抜群な才能がないと描けないものだということは重々承知のうえ、「家帰ったらやってみよう」と思わせてくれる作品でした。

コンビア・ボゴタの画家 ジョアンナ・アコスタ
ジョアンナ・アコスタ、作品
ジョアンナ・アコスタ作品:展示室風景より

彼女の作品は、愛らしい幾何学模様の抽象画です。幾何学模様なのに見ていて温かみが感じられる。幾何学模様、特に四角形という造形は都市での景色を象徴しているからでしょうか、わたしには絵の中に幾何学模様があると、どこか”洗練された”よう感想を抱きます。彼女の作品は、飾る場所をえらばずに、部屋の表情を豊かにしてくれそうな愛らしいものでした。

ポーランドの画家 アルカディウス・ヴェソウォスキー
アルカディウス・ヴォソウォスキー、作品
アルカディウス・ヴォソウォスキー作品:展示室風景より

彼の作品は、ポップな色彩でメリハリをつけて描かれたいたのですが、見ていてうるさくないどころが、高レベルな調和が感じられました。喜びと憩いが光のなか戯れてるような作品で、ポーランドの夏の海にいる女性がモデルの絵が多かったです。オーナー(のパートナー)の説明によると、夏が短い北国のポーランドでは、その分夏への愛が増すのだです。北のバルト海とは思えない心躍る開放感が印象的でした。

アルゼンチン・ブエノスアイレスの画家 マリア・マルタ・クレスポ
マリア・マルタ・クレスポ、作品
マリア・マルタ・クレスポ作品:展示室風景より

わたしは、個人的に彼女の作品が一番気に入りました。一見、憧憬を抽象画の形で表現されているのかとおもったのですが、そこには眼差しのようなものを感じました。どこか包み込むような安定感、いや安心感があるのです。話によると、彼女の子供と接するときの気持ちを表現しているそうで、それを聞いて腑に落ちました。作品からは人間が持ちうる最上の感情が溢れでているかのようでした

以上、4人の外国人現代アーティスト@gallerry さぼん」についてでした。オーナー様、気がるに鑑賞できる配慮をしていただき、ありがとうございました。

「ギャラリーさぼん」

[会場]ギャラリーサボン:渋谷区広尾1-15-16渋谷橋Aビル1F

[会期]9月末まで(大まかです)

[時間]12:00~19:00

[定休日]月曜日

matumototakuya作、映画イメージ画像

アイズ ワイド シャット

Cinema Rivew

By スタンリー・キューブリック

こんにちわ、matsumto takuya です。今回はスタンリー・キューブリック監督の映画『アイズ ワイド シャット』を取り上げます。

この映画は、アメリカの映画監督、脚本家、プロデューサーであった巨匠スタンリー・キューブリックによって最晩年に制作された作品です。

彼の作品は、ハリウッド映画で珍しく芸術性が高い映画として評価されています。主演はトム・クルーズ、ニコール・キットマンというハリウッドの大俳優、女優が演じています。

見終わった直後の感想としては、後に引く興奮と軽い混乱といえばいいのか、面白いのだけど見てはいけないものをのぞいてしまったぞ、という不思議な高揚感で落ち着かなくなりました。物語に引っ張り込まれ、内容への理解が追い付かないうちにエンドロールを見ていたというのが正直なところです。

この映画は、映像、音楽、物語それぞれ別個にあってもなりたつほど質が高く、「芸術」を鑑賞するという意味においては、展覧会と通じるところあると思うので今回のブログのテーマにしました。

これからこの映画の良さや、スタンリー・キューブリックがこの映画に込めたものは一体なんなのかといった謎を、わたしなりの視点で探っていきたいと思います。

以下内容を含みます。

導入としての挿入音楽

「ズンチャチャー、ズンチャチャー、、、」とどこか懐かしくも不気味な感じがするワルツのメロディーと刺激的なニコール・キッドマンのセミヌードからこの映画は始まります。この音楽だけでも、この物語が通り一辺倒の勧善懲悪的なもしくは単純なラブコメ路線で終わらない、そんな兆しを匂わせます。ジョスリン・プークという人が音楽を担当しているそうなのですが、只者ではないです。同時に、画面に出てくるトム・クルーズ演じる医者のビルとニコール・キットマン演じるその妻アリスの日常描写がこの上なく優雅。この視覚と聴覚交える甘美で影のあるプロローグで既にわたしはキューブリック監督の世界観に引きこまれてしまったのでした。

ただのラブコメではない。

物語は、医者としても家庭人としても社会的に成功し自信あふれるビルが信頼している妻から、精神的実体験の告白をされるところから動き出します。今まで妻のアリスをすっかり信頼していた公明正大の鏡のようなビルは妻の告白(精神的な不倫の告白)によって動揺し、自分とは違う男に抱かれている妄想が頭から離れなくなる中で、妻が語った内容と同質のシチュエーションをエスカレートしながら経験していくというのがあらすじです。ラブコメでないというよりはラブコメの下、もしくは先に隠れた「真実」を暴露する試みといったらいいのでしょうか

世界の春樹との共通点

こう書いてみると、村上春樹の小説『ねじまきどりクロニクル』の物語の出発点が似ています。妻の予期せぬ精神面の告白、「真実」に直面し、自分が持っていた世界観が確固たるものではなかったことに驚くも受け入れられない、今まで信じていた世界観の平衡感覚がずれていくなかで自分では想像もしていなかった「真実」を経験し、精神的に大きく変化・成熟していくという点です。

「他者」の発見

どんなに信頼している相手であったとしても、独立した独自性を持った心というものがある限り、完全に相手を知ることはできない。さらには自分自身の心ですら実は完全に知ることはできない。時として人間は、理屈では説明できない存在であり現実に起こっている出来事も実際は、後付けで都合の良い説明でしかない。こう急につきつけられたら、動揺するじゃないかと思われる方が多いかもしれません。

主人公のビルもそうでした。自分が信じてきた世界観が転倒したかのような動揺のなか、ビルはもう十分知っているとたかをくくっていた「他者」への認識を再考せざるを得なくなります。(なんせ、一番知っていると思い込んでいた妻のアリスのことすら完全に理解できていなかったのですから)そして、他者についてどんなに理解しよと努めても完全には分からないこと、さらには、自分自身にすらそういう狂気に惹かれている未知なる部分があることを認めざるをえなくなってくるのです。ここにきて、かれは他の人が自分とは違う独自で独立した世界観を持っていること、を本当の意味で発見していきます。

経験することの怖さ

物語の結末は、ビルが助けた娼婦を結局はビル人が原因で殺してしまったかもしれない、という状況でおわります。自分も含めて自分が思っていたような理路整然とした説明がつく世界というのは、一種の思い込み、まだ目がひらけていない子供の夢想であって、かつて絶対的だと信じていた世界観は世界の真実への相対的で暫定的なひとつの見方でしかないのだ、ということを一夜にして突き付けられたら、わたしたちはどのような反応をするのでしょうか。ビルでなくても混乱すると思います。

ここにきてスタンレー・キューブリック監督がこの映画に関したタイトルの意味が見えてきます。

タイトル「アイズ ワイド シャット」の意味への一つの解釈

「アイズ ワイド シャット」直訳すると、「目を大きく閉じる」です。まるで禅問答のようなタイトルです。ここには二つの人間の状態に対する意味があると私は考えます。

一つは、「他者」を真の意味で発見できていなかった、物語前のビルの状態。社交性を身に着け一定の成功をして、世界について自分はすっかり分かっているとたかをくくっているが、じつは「真実」については全く見えていない状態という意味です。

もう一つの意味は、たとえ「真実」が見えるようになったとしても、人間は完全に「真実」を理解することはできない、妥協的な理屈をくっつけて相対的なものとしてしか理解できないような不完全であいまいな存在、それがわたしたち人間なのだという意味です。プラトンがアリストテレスの口をかりていった「無知の知」の内容ともいえます。

トム・クルーズだからいい

わたしは、こういう哲学的なテーマが設定されている映画の主演が、トム・クルーズであるときいて少し以外でした。知性はあるが公明正大だけどやや軽い人物像が付着していたからです。公明正大で分かりやすいラブストーリを演じてきたトム・クルーズは、いいも悪いもそういうイメージがわたしの頭にくっついていました。

しかし、このイメージがついている彼だからこそ、妻の告白にはじまる「真実」と対峙した時の驚き、受け入れられない仕草、混乱といったものがとても自然に映ったのです。くわえて、有名で超絶イケメンです。これ以上のはまり役は当時いなかったのではないでしょうか。

「真実」と日常とのバランス = 商業的成功かつ芸術性

わたしがこの映画のすごいと思うところは、真実性を暴露するタイプの物語の中に、家族的な要素、モラル時な要素が入っておりながら、主人公らがが真実を経験しながらも、最後の一線を超えずに崩壊を持ち堪えたてなんとか新しい秩序ある未来の可能性を暗示させて終わる点です。

物語はのきっかけを作った、妻の精神的裏切りの告白自体も実際にはことは及ばなかったし、夫への倦怠と軽い嫉妬の腹いせに、妻のアリスも明らかに体目当ての中年とダンスはするが一線は超えない。ジムの方も、妻の告白に動揺する中で、性的な衝動に没入するかが、その性という強力な誘引に屈していくものの最後の一線は踏み外さず、患者の娘とも、肉体的に若く美しい娼婦とも、狂気の乱行パーティでも一線は超えない。もしここで、主人公の彼らが、最後の一線を超えていたら、この作品への印象派大き変わっていたと思います。

「真実」せは日常と違い、受け入れやすいものではなく、かつはっきりした答えはありません。しかしここに世界の神秘や芸術性があります。もしこの映画が「真実」に傾いきすぎていれば、商業的には成り立たなかったでしょうし、一般受けをねらった想定内の「非日常」(わたしは、これは日常に含まれると思います。)では、そこらのハリウッド映画のまあまあな映画として埋もれていたでしょう。

そう考えると、キューブリック監督は、この「真実」と日常のバランス感覚が天才的に鋭敏であったいえます。

「真実性」への愛

ある程度生きていると人によってまちまちですが、「真実」と直面することが増えてきます。その内容は容赦なく、あまり知りたくもない内容であることが多い気がします。だからといって知ってしまった以上は無知でいる子供の「夢の国」に戻ることはできない。生きることは一方通行なのです。わたしたちは受け入れていく以外にないわけですし、それによって成長すること、学ぶことができるのが人間の持つ良さでもあります。「真実」の受容はかつての価値観の一部喪失でもあります。それに伴う混乱、動揺、不安、緊張の中で崩壊せずに歩みをすすめ成熟し、変わってしまったものも変わらなかった部分も含めて完全に説明がつかない世界で生活を続け生きていくことができる、それがが人間のリアルじゃないか。こうキューブリック監督は作品をとおして言いたかったのではないでしょうか。

以上、映画『アイズ ワイド シャット』への一つの考察でした。長々とおつきあいありがとうございました。

「アイズ ワイド シャット」

[監督]スタンリー・キューブリック

[主演]トム・クルーズ、ニコール・キットマン

[提供]Warner Bros.Entertainment Inc.

桜 さくら SAKURA 2020 展

―美術館でお花見!-

@山種美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は渋谷区広尾の山種美術館で開催中の「桜 さくら SAKURA 2020 」展をとりあげます。

三種美術館エントランス風景
山種美術館入り口風景

なぜ夏真っ盛りのこの時期に桜をテーマにした展覧会をやっているのか、というのには訳があります。本来は2020年に開催される予定であった、東京オリンピック・パラリンピックに合わせて外国の人に日本の文化を発信するという意味で日本象徴する花である桜を描いた絵画の特別展を企画していたところ、新型コロナ・ウィルスの影響で東京オリンピック・パラリンピックが延期となり、この特別展だけが取り残された形になったという経緯があるようです。ちなみに山種美術館は日本画がメインの美術館です。

結論から言うと、展覧会の内容としては十分楽しめる内容でした。むしろコロナ渦のいまだからこそ、わたしたちの先人が日本に生まれ美をその中でどのように表現してきたかということに向き合いやすかったです

桜 さくら SAKURA 2020 展公式サイト

日本の気候風土を表現する一つの完成形

奥田元宋が1987年に描いた『奥入瀬(春)』を見たとき私はそう思いました。この絵に対面して眺めていると、心がすっと落ち着ついて、展示空間そのものが避暑地のようなさわやかな清涼感の中に包まれた感じでした。何より、ああ日本だなと感じます。行ったことのない青森県の奥入瀬渓流がまるで知っている場所のように感じられたのも不思議でした。日本の少し湿った気候風土、密生する陰樹と渓流のさわやかな表情これらが織りなす風景が生きるように進化してきたのが日本画という技法なのかなと思いました。

印象と日本人の繊細な美意識と自然信仰

作品を見ていると、日本画は印象をとても大切にしているものなのだと驚かされます。濃淡のうち淡いの表現や余白の活用が豊かで、ここまで繊細に表現するものは西洋画ではあまり多くはないと思います。もののあわれ、移り変わりゆくはかなさゆえの美しさそういったものの表現の試みや、日本人の中に宿る繊細な美意識が見て取れます。

同時に写実という要素に重きがおかれている。この点はもしかしたら日本の万物に神が宿る信仰心であるアニミズムと関係があるのかなと思います。絵画表現のなかで写実は自由な表現とは対極にあるものだとわたしは思います。幾分、今の現代アートが許される表現範囲のなかで、狭く真面目で堅苦しい。

しかしアニミズムとの関係性からみたときには、写実表現で目の前にある世界をあるがままに表現しようと努めることは、目の前に広がる自然をあるがままに肯定しているからではないか、とふとこの展覧会をみていて思いました。

外国時への文化発信が目的であるがために、この展覧会には日本の精神性、美意識、そして日本画の名画が集約されています。コロナ渦のなかで、自分の国について目がとまりやすい今こそ、こういう展覧会にあしを運ぶことで、日本の名画との意外な出会いや発見、気づきへ開かれるかもしれません。

以上、「桜 さくら SAKURA 2020 展」についてでした。おつきあいありがとうございました。

「桜 さくら SAKURA 2020 」展

[会場]山種美術館

[主催]山種美術館。朝日新聞

[開館時間]午前11時〜午後4時 (入館は午後3時30分まで)

[会期]2020年7月18日(土)〜9月13日(日)(状況により変更する場合があります)

[休館日]毎週月曜日(祝日は開館、翌日火曜日は休館

ロンドンナショナルギャラリー展の入口風景

ロンドン ナショナル ギャラリー展~肖像画とファッション~

「ヴァン・ダイクとイギリス肖像画」と「スペイン絵画の発見」編

@東京西洋美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回も「ロンドン ナショナル ギャラリー」展についてとりあげます。

ロンドンナショナルギャラリーは、世界の美術史が詰め込まれたギャラリーです。そのギャラリーが日本に来ていることは本当に幸運なことだと思います。

ロンドン ナショナル ギャラリー展公式サイト

この展覧会は内容が豊富ですので展示セクションごと(今回は二つのセクション)に書いてくスタイルをとっています。この回では「ヴァン・ダイクとイギリス肖像画」と「スペイン絵画の発見」について取り上げていきます。

アンソニー・ヴァン・ダイクと上流階級の肖像画

当展覧会のセクション「ヴァン・ダイクとイギリス肖像画」では、イングランド上流階級のなかで発展した気品ある美しい肖像画の名作を目にすることができます。ヴァン・ダイクはゴシック期の画家でイングランドの上流階級の肖像画の模範を打ち立てた画家で、イングランドの肖像画は彼を手本に発展していったそうです。

優雅さ格式、高尚さといったいものが感じとれるのが共通した印象でした。上流階級の肖像画がどういう意味合いをもって求められていたのかという点がみてとれます。

ここで、イギリスの肖像画が流行した経緯をすこし紹介します。イングランドは古くからある伝統的な国で、島国とうこともあり、保守的な階級意識がとても強かったそうです。この時代、産業が発展し、新興階級が台頭してきました。彼らが既存の上流階級に入っていくにためには、資産だけではダメでした。上流階級に入りたい彼らがとった手段が「肖像画」です。

なぜでしょうか。肖像画は絵画であり芸術です。芸術にはいいもわるいも教養や伝統、高貴といったイメージがあり、また、上流階級の社交の場といったイメージついています。また、高貴なドレス・コードを纏った人物に対して、その人を知らなくてもそういうイメージをもちます。かれらは、自らの肖像画を見た人が、肖像画から得られる上流階級のイメージで自分たちを見ることを期待して自らの肖像画を画家に描かせたわけです。ヴァン・ダイクはその期待を実に見事に表現した完成させた画家だったわけです。

イメージの利用という点で、いまでいう企業の広告や「ファッション」に似ているとおもいます。

上流階級の肖像画とファッション

では「ファッション」とは一体何なのかとう疑問がうかびます。わたしは以前、東京オペラシティーギャラリーで開かれている「ドレス・コード 着るものたちのゲーム」展でファッションについての一つの答えを得ました。ファッションとは「どう見られたいか」という願望を実現する手段だということです。わたしたちは、身に着けているファッションによって逃れられずイメージを持つ存在なのだということを実感させられる興味深い展覧会でした。

「ドレス・コード 着るものたちのゲーム」展についての記事はこちら(会期は2020年7月4日[土] ― 8月30日[日)です)

この上流階級の肖像画は、「人にどう見られたいのか」という願望を実現するための手段として利用している点で「ファッション」と共通したものがあると考えられます。展示されている肖像画は、優雅かつ格式といったな優雅なイメージが際立つように表現したときの一つの極みなのかもしれません。

しかし、同時にどこかドライな印象をうけました。

イギリス肖像画とスペイン絵画

「スペイン絵画」はこの意味でイギリス肖像画との違いを楽しむことができるセクションでした。スペイん絵画の絵には、人間の生の部分がとてもよく感じられたからです。バルトロメ・エステバン・ムリーリョの『幼い洗礼者聖ヨハネと子羊』『窓枠に乗り出した農民の少年』をみると、描かれた人物から生気のようなものが漂ってくるかのようでした。イギリス肖像画とは対照的です。

そのほかにもよくよく見ていると、スペインとイギリスの違いがあることが分かってきます。例えば目の大きさ、や色彩に違いがあります。地理的にイスラム文化に近接している点、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントの違いといったものが絵の中に見出すことができる。この二つの展示セクションはそういった違いを比較して楽しむのも面白いかもしれません。

以上、「ロンドン ナショナル ギャラリー展~肖像画とファッション~」でした。おつきあいありがとうございました。

「ロンドン ナショナル ギャラリー~オランダ絵画と黒歴史~」も書いています。よかったらこちら

「ロンドン・ナショナル・ギャラリー 展」

[会場]国立西洋美術館

[会期]2020年6月18日(木)〜10月18日(日)

[開館時間

[]]午前9時30分~午後5時30分
(金曜日、土曜日は午後9時まで)
※入館は閉館の30分前まで*事前予約制

[休館日]月曜日、9月23日
※ただし、9月21日は開館

[主催]
国立西洋美術館、ロンドン・ナショナル・ギャラリー、読売新聞社、日本テレビ放送網

[特別協賛]CANON、大和証券グループ

[協賛]CAO,損保ジャパン、DNP大日本印刷、TOYOYA,MITSUI&CO

[協力]大塚国際美術館、日本航空、ブリティッシュ・カウンシル、西洋美術振興財団

ロンドンナショナルギャラリー展の入口風景

ロンドン ナショナル ギャラリー~オランダ絵画と黒歴史~

オランダ絵画の黄金時代 編

@国立西洋美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は国立西洋美術館で開催されている「ロンドン・ナショナル・ギャラリー 展」をとりあげます。

言わずと知れた、イギリス国立美術館の至宝が惜しげもなく地球の反対側の日本でお目にかかれる機会はお本当に貴重です。飛行機で行けばロンドンまで見にけば往復十数万+α(宿泊費云々)はくだらないこのギャラリーが1700円で鑑賞できる。訳100分の1です。行かない手はありません。

「ロンドン・ナショナル・ギャラリー 展」公式サイト

この展覧会の至宝クラスの作品群は内容がとても豊富なので内容を分割して書いていきます。今回はロンドン・ナショナル・ギャラリー展のなかでオランダ絵画時代について書いていきます

空は時空を超える

話がかなり飛びますが、わたしは一時期、江戸川のサイクリングロードを毎日自転車で走っていました。ロードバイクなんてかっこいいものではありません。ママチャリです。当時私は、打ち込むものはないかと探し始めた時期で、とりあえずよく聞く自転車に安易に飛びついたのです。案の定、ハマることなく終わりました。このあいだ費やした時間(3ヶ月もの間)はなんだったのか。と軽く失望したことを思い出します。

しかし、あの黒歴史はけっして無駄ではなかったことがロンドン・ナショナル・ギャラリー 展に足を運んだことでわかりました。

オランダ絵画の時代は、それまでになかったジャンルの絵が作成されたという特徴があります。そのなかに風景画があります。「オランダ絵画黄金の時代」の風景画は純粋な古典的絵画の技巧が結実したかのような美しさがあるのですが、その後の印象派、表現主義、抽象画といった個性・創造性が高い絵画に比べるとインパクトがどうしても弱いなという印象をわたしは受けます。その点はある意味では当然なことです。

しかし嬉しいことに、私にはオランダ絵画の作家の風景画の個性がわりとはっきりと見てとれたのです。

その理由は、空の描写でした。わたしは上述したように一年近くひたすら江戸川のサイクリングロードをママチャリで漕いでいました。チャリを漕ぐ以外はiPhoneから流れる音楽くらいしか娯楽がなかった私の頭上にはいつも空がありました。わたしにとってチャリ自体特段はまっていたわけでもなく、しかも一人でこいでいた私にとって、一日一日、刻一刻ちがう空模様は楽しみであり慰めそのものでした。このあいだ、わたしは空模様と一年近くを見てきたともいえます。

空模様といえども馬鹿にはできなくて、ある日、ある一刻、ある瞬間に見せる空模様はこの世のものとは思えない美しい表情をみせてくれます。

江戸川の空、美しい写真
江戸川上空:matsumoto takuya撮影

わたしがオランダ絵画の個性を見分けられる、なんて大それたことをいったのは、そのオランダ絵画の中に描かれるそれぞれのの空模様をよく知っていたからです。

バロック絵画の典型のような理想化と壮麗な画面構成はないかわりに、画家たちが自ら気に入った風景を実際の視点から描くことは必然的に画面構成の中で空の比重が高まりますし、空模様はわずかな違いで表情が大きく変わるものです。つまり、オランダ絵画全盛の時代の風景がは空に画家の想いが現れやすいといってもそこまでおかしい話ではないと私ま思うのです。

どんなに、科学が発展し、生活風景は変われどその上に浮かぶ空は変わらない。わたしたちがふとした時に見上げ、「ああーきれいだなー」なんて思わせてくれるその空模様はかつて美の巨匠が見とれていた空模様と瓜二つであるといったことは大いにあり得る。空は過去、現在、未来の人が時空をこえてつながることができる不思議なチャネル(経路)といえるのではないでしょうか。

人から見れば嘲笑の対象となりがちな「自分探し」の迷走は、それはそれはそれで意味深い贅沢な経験だったのよ、と思わせてくれたロンドン・ナショナル・ギャラリー 展でした。

以上「ロンドン ナショナル ギャラリー~オランダ絵画と黒歴史~」でした。おつきあいありがとうございました。

「ロンドン・ナショナル・ギャラリー 展」

[会場]国立西洋美術館

[会期]2020年6月18日(木)〜10月18日(日)

[開館時間

[]]午前9時30分~午後5時30分
(金曜日、土曜日は午後9時まで)
※入館は閉館の30分前まで*事前予約制

[休館日]月曜日、9月23日
※ただし、9月21日は開館

[主催]
国立西洋美術館、ロンドン・ナショナル・ギャラリー、読売新聞社、日本テレビ放送網

[特別協賛]CANON、大和証券グループ

[協賛]CAO,損保ジャパン、DNP大日本印刷、TOYOYA,MITSUI&CO

[協力]大塚国際美術館、日本航空、ブリティッシュ・カウンシル、西洋美術振興財団