「シチリアーノ 裏切りの美学」

シチリアーノ裏切りの美学、パブロッティ

Cinema Review

@Bunkamura ル・シネマ

こんにちは、mataumoto takuya です。今回は東急文化村ル・シアターで上映中のイタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ監督最高傑作と謳われる映画『シチリアーノ 裏切りの美学』をとりあげます。

時は1980年代初頭、シチリアのマフィア同士の抗争がヒートアップ。通称「新旧会のボス」トンマーゾ・ブシェッダが犯罪組織コーザ・ノストラの「血の掟」に背く。彼を「裏切り」を追っていくなかで「裏切り」にも両義的な意味があることがみえてくる。そんな導入部のあらすじです。

導入部分は、傑作「ゴッド・ファーザー」を踏襲しているような演出で嬉しくなります。前半が抗争アクション、後半は司法での知的な対決となっているのですが、意外にも、知的な後半部分ががわたしには魅力的に感じられました。リアルなかっこいい男の映画を久しぶり見れたような気がしました。

「シチリアーノ 裏切りの美学」公式サイト

この映画では、「なぜ幹部のトンマーゾ・ブシェッダが”血の掟”に背く行為」(公式サイトより一部引用)をとったのかの真相が語られますが、ここでは、なぜオッサン(50台)のトンマーゾ・ブシェッダがかっこいいのかというところを探っていきたいと思います。

以下、内容を含みます。

男がほれる男は本当にかっこいい

自由で雄々しい知的な精神、これがこの映画を見た直後の感想です。裏切者であるカロ、権力に固執したリイナと司法の場で「対決」を申し込まれ、悠然と内なる火花を散らせながら「対決」を了解するシーンは、とくにしびれました。クラシックなかっこよさ、本当の男のかっこよさ、というものが描かれた名シーンだと思います。

いつの時代も世界中にイケメンはいれど、この手の存在感がある同性さえも魅了してしまうイケメンはめったにお目にかかれないとわたしは思います。この映画の主人公トンマーゾ・ブシェッダのかっこよさはいったいどこから醸し出されてくるのでしょうか。

生き様と言葉の重み

この映画は、マフィア抗争アクション映画にとどまらず、後半は司法を舞台とする知的対決という構成になっています。わたしはこの後半部分が、この映画の主人公のかっこよさを一段と際立たせているように思いました。主張を論理だてて公の場で説明することは、もちろん知性が必要ですが、それに加えて一貫性、矜持が求められます。これは生きる姿勢に関係し、一朝一夕で身に着けられるものではありません。彼のそれまでの生きざまが言葉として現れるのです。自分の言葉で語ることができる人の言葉は「仲間」を引き寄せます。自らの信念のもとに「仕事」に誇りを持ち同じように矜持を持った判事ファルコーネとの出会いと友情は偶然の出来事ではないと思います。

そもそも、この映画の「裏切り」の美学とは、どういうテーマなのでしょうか。以外に思われる方もいるかもしれないが、このマフィア映画のテーマは実は「モラル」だと私は考えます。”血の掟”である組織への忠誠と重圧と、自身の「モラル」のなかで、選択し行為していく人間の持つ輝きがこの物語の核だと思うのです。

「モラル」と「マナー」と「道徳」の狭間で

ところで「モラル」とはなんでしょうか。「道徳」というのが一般に認知されてところですが、実はあいまいな理解しかなされていないのではないかとわたしは思います。

この概念は、近代日本が西洋から社会制度を導入した制度とともに入ってきたそれまでになかった概念です。つまり、西洋の社会制度の母体の倫理の、そのまた母体となったキリスト教の精神が根本的な土台になっています。世界的なベストセラーとなった『ささやかながら、徳について』の著者でフランスの哲学者アンドレ・コントスポンヴィルは著書『精神の自由ー神なき時代の哲学』(紀伊國屋書店)でカントを引き合いに出して、道徳的にふるまうことについてこう書いています。

道徳的にふるまうとは、カントが示すように、利害を離れてふるまうことであり、その際の前提になるのは、私たちが自らの義務を「それをはたすことにいかなる希望もいだくこともないままに」果たすことだ。

アンドレ・コントスポンヴィル『精神の自由ー神なき時代の哲学』(紀伊國屋書店)137頁より引用

「モラル」と「マナー」は別物

日本の道徳という言葉には、「モラル」と「マナー」がいっしょくたにされてしまっています。しかし両社は異なる領域に属する言葉です。「モラル」は個人の領域に属し、「マナー」は集団の領域に属します。よく、公共機関で「モラル」について求める掲示物やアナウンスを見聞きしますが、これは、大人には言われる筋がないものですし、「モラル」を直接的要求することを決定したその会社の会社員に「モラル(寛容)」がない、もしくは理解できていないということです。これは「マナー」なら話がとおります。

例えば、会社で「本音は人間としては尊敬していない上役を業務命令に従う以外にも人間的にも尊敬している体裁をとっている人がいるとします。彼は上司から人としてできた奴だとかわいがられ、衝突が少ないので、組織から人としてできた人物だと評価されるでしょう。

しかしこれは、他律であり、利害に基づく服従です。それは「モラル」ではなく用心です。道徳法則も事実上は尊重されようが、それらは全て利害からのことにすぎないのです。スポンヴィルはこんなこともいっています。

(個人的な領域を強制され、義務からなされるものが一つもなくなったなら)(筆者補足)私たちは、いわばエゴイズムの、つまり報奨への希望と懲罰への恐れという細糸でうごく「操り人形」と化してしまう。「すべてはきちんと動くだろう」が、その結果わたしたちの自由は終わる。

アンドレ・コントスポンヴィル『精神の自由ー神なき時代の哲学』(紀伊國屋書店)134頁より引用

たとえ話に当てはまるなら、その会社でそういうふるまいをしている人は、人間的にできた人かはわからず、その行為自体はエゴイズムから行っており、そこにモラルがあるわけではないのです。(私たちは往々にし,自分のできることをできる範囲で何とかやっているので、このふるまいは非難できるわけではないのですが)私はこの「モラル」と「マナー」の混同が日本がかかえる問題の原因の一つではないかと思っています。パワハラ問題も、個人として能力を開花できないで委縮してしまう文化もここに原因がありそうです。

私は上司だから尊敬しなさい、愛しなさいというのは、つまるところ、正当性のない上に、権力による精神の強制です。政教分離が達成されている民主主義がしかれている国においては、市民が拒絶すべき圧政と呼ばれるものです。ハラスメントとはここからくる概念です。尊敬されるとすれば属性や権力ではなくて、その人自身の人柄なのです。

話しを物語へ戻します。ブシェッダはコーザ・ノストラの組織において、リイナから「私はボスの中のボスだ。だから尊敬しろ」という圧政にたいして、自分も含めた愛するもののために拒絶します。

コーザ・ノストラの古き良き倫理観「弱者の救済」とは真逆の行為をおこなうコルリオーネ派のリイナに対して不快感を隠さないが静観してきたブシェッダをリイナは排除しようとし、身内であるはずのパレルモ派の抹殺を実行していきます。そんな中で、一番の味方だと思っていた自身が属するパレルモ派ボスのカロに裏切られたことが決定打となり、追い詰められながらもブシェッダは勇敢に真っ向から「血の掟に背くこと」を決意します。この時の精神が雄々しくカッコいいのです。

「ビジネスができる」は「全人的に優れた人」とは限らない

カロは、そつなく利害で簡単に個人的関係よりも組織上の自分の利害を優先する人物として描かれています。組織では麻薬でぼろ儲けしていたコルリオーネ派が実質的にパレルモ派より優位にあり、カロにとってはリイナは組織でやっていく上で重要な利害関係者だったのです。そして、カロは個人的な友好より利害をとった。つまり「ビジネス」をとったのです。今の日本は「ビジネス」が正義かのようにみなされていて、「ビジネス」ができる人は全人的にできた人とみなす風潮があるようですが、このカロの行為から「ビジネスができること」と人間性はじつはダイレクトな関係がないことがわかります

「集団」が私たちを連れていく方向

体制維持の立場から見た場合、カロがとった行為は空気を読んだ「協調性」のある行為です。しかし人間的にはどうしようもない。ここに集団に属する能力と個人に属する能力という両者の違いが見えてきます。愛すること、誠実であること、そして寛容であることは集団に属する能力ではなく個人に属する能力だということです。この集団の利害からはなれた個人に属する能力がモラルと呼ばれるものなのです。私たちに馴染みの言葉でいえば、世間ではなく個人にあるのです。

カロは組織内の力関係であるエゴイズムの、つまり「報奨への希望と懲罰への恐れという細糸でうごく「操り人形」」と化してしまうのですが、はたして、カロはこの裏切りのときに急にそのような人物になったのでしょうか。わたしはそうは思いません。彼は”集団から”できた人間”として評価されていたからこそパレルモ派のボスに上りつめることができたはずです。ここで、社交性とは何なのかの秘密が暴露されます。私たちが、とくに私たち日本人が絶対的正義のようにあつかう社交性とは、エゴイズムの別の側面からみた言い方にすぎないのです。

かっこよさの正体

「「すべてはきちんと動くだろう」が、その結果わたしたちの自由は終わる。」こういう事態が正常といえるのか。むしろ自由のなかにあるものが、友愛や正義や信頼関係といった人間にとって重要なものがあるのではないか、という言葉にすると説教臭くなってしまう内容を、マルコ・ベロッキオ監督はマフィア映画という娯楽の形式のなかで描きだしたのです。

わたしたちは集団的な動物です。集団を重視する傾向は「重力」のようにわたしたちにのしかかってくるものです。しかし人が動物とは異なる点があるとすれば、この傾向に抗うことができる点です。それは個人的な領域に属する愛とそれを動機に意思し行為することだともいえます。わたしはなにも社交性が不要なのだなどとは言っていません。ただ、わたしたちの生活にはどちらの領域も必要なのだということを言いたいのです。

わたしが、ブシェッダに感じたかっこよさ、雄々しい知的なかっこよさとは、この「重力」に立ち向かう勇気と人間ならではの美しさ、つまり精神の自由と人間の輝きだったのでした。

以上、「シチリアーノ 裏切りの美学」についての映画レビューでした。お付き合いありがとうございました。

『シチリアーノ 裏切りの美学』監督マルコ・ベロッキオ

[配給]配給アルバトロス・フィルム、クロックワークス

上映:Bunkamura ル・シネマ

上演期間:8月28日9(金)~9月17日(木)

[料金]一般・\1,800 学生・\1,500 (平日は学生・\1,200) シニア・\1,200 中学生(15歳以上)・高校生\1,000(税込)【毎月1日、毎週火曜日、及び毎週日曜夜の最終回は\1,200(税込)均一】

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