「没後10年 広瀬康男 垣雲停日乗」展

絵と物語の間(あわい)

@ちひろ美術館・東京

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、ちひろ美術館・東京で開かれている「没後10年 広瀬康男 垣雲停日乗」展についてとりあげます。

「没後10年 広瀬康男 垣雲停日乗」展、公式サイト

この展覧会は、瀬川康男の没後10年を節目に企画された個展です。彼の絵画と彼が記してきた日記にある言葉が平行して紹介されていました。彼は絵本作家であり、画家であったそうです。

彼の絵本に描かれるキャラクターは、ゆるキャラのような愛らしさとは少し違う、どこか懐かしい感じの愛らしさをわたしは感じます。最近のイラストは似たような感じが多いと思っていたので、かれのイラストは懐かしいのにとても新鮮に映りました。

一方で、かれの絵画は、とても気高く荒々しいなかに理知的なものを感じました。

物語作家であり同時に純粋な画家でもあった彼の作品を見ることで、絵本の挿絵と絵画の違いや共通点。その浮かび上がった断片を手がかりにして、絵と物語の間にある不思議な関係について、多くの発見ができました。また、彼の重みある言葉がその気づきの助けになりました。

彼は芸術家ですが、彼の言葉は、芸術に携わらないひとにも、響くものがあるとわたしは思います。仕事を真剣にしたとき、いい仕事を取り組もうとするときに遭遇する困難と画家がなにかを想像するときにぶちあたる困難は、俯瞰してみれば同じ要素をはらんでいると思うからです。

ところで、この展覧会のサブライトる「絵と物語の間(あわい)」とはいったいどういったものなんでしょうか?この点を探求していこうと思います。

ここからは一部内容をふくみます

挿絵の親しみやすさ、絵画の優雅さ

彼の絵本を見て改めて思うのは、絵本の挿絵はとにかく親しみやすさがキーだということです。幼い児童読み手と想定されているから当然なのですが、この親しみやすさという軽さは、物語に関心が向けるような効果があると考えられます。絵が「浅い」からこそ物語の筋に入っていけるし、言葉からイメージしにくかったり集中が途切れたときに、一旦物語という因果関係からはなれて、挿絵にもどってこれる、という具合にです。

一方で、彼の絵画をみると、一枚で世界観が語られています。そこには気品と気高さがあり、近寄りがたい存在かがあります。わたしは、この圧倒的な存在感があるかないかが絵本の挿絵と絵画のおおきな違いではないかと思うのです。この存在感は見る側にもその存在感に対面するだけの力量と一枚の絵に凝縮されている物語を読み取る能力みたいなものを鑑賞者側にある程度もとめてきます。

どちらも共通しているところは、一枚で完結していようが、言葉で補完されていようが、絵には物語が宿っているという点です。

展示されたことばに「絵が物語をうみ、物語は絵を生む」という言葉がありました。これはいったいどういうことなのでしょうか。

絵が物語をうみ、物語は絵を生む

ところで、ここで一旦、アンパンマンの作者やなせたかしさんを特集したテレビ番組で知ったエピソードを一つ紹介します。「面白い話がでない時に彼がどうやって乗り越えてきたのか」というエピソードをです。かれは毎週、毎週子供たちを楽しませる質の高い物語を信じられないほど生み出してきました。これは、ほんんとに驚くべきことです。当然彼も、神様ではなく、一人の人間です。書いている途中にどうしてもその先の物語が全然思い浮かばないなんてことは珍しいことではなかったそうです。

そんな時、彼は話が止まった直前のシーンの下絵をひたすらペンでなぞるそうです。ひたすらなぞっていくうちに、次につながるシーン(物語の続き)がふと思い浮かぶ、そしてその物語が分かれば絵が描けるようになり危機を脱してきた、というものでした。

ここに、広瀬康男の言葉と通じるものがあるのが分かります。絵そのものは時に、作者の意図をこえて物語そのものを生むのだということです。そして、物語そのものには絵が内包されている。作家は自らのうちそれを聞き取ったり拾ったりしてしるわけです。人間の持つ創造力がいかに人知を超えた力があるのかということがわかります

この点は、理知の極みであるAIが人間の知性(測量可能、で計算的な暗記的な知性)を超えたとしても、足を踏み入れることができない領域でしょう。絵と物語の間(淡い)にある領域、心理学でいう「集合知」がある場所です。

生みの苦しみ

”——苦しみの中で”、できるだけ遠くに運ぶ

「没後10年 広瀬康男 垣雲停日乗」:展示室にプリントされた言葉より一部引用

この言葉が印象に残っています。この言葉がプリントされている先からの大作群が展示されています。かれの仏像をモチーフにしている作品世界は力にあふれると同時に幾何学模様が配置されていて知的です。わたしは彼の子の大作に対面してすぐは正直怖ささえ感じたのですが、じっとこちらが腰を据えてみていると、ある種のバランス、均衡のようなものがあることがわかり、じわじわと彼の絵がもつある種の秩序の美しさに引きこまれていきました。

わたしは正直、彼の初期の絵画は色彩や構図があまりしっくりきませんでした。ですが、彼の作品を順をおってみていくとそれが気にならなくなってくる。そして、大作群にたどり着くころには、この絵はこういう表現以外にないかもしれないなと感じたのです。彼の大作は、かれの生下院の秩序を発展させた先にあったのです。

つまり、彼は初めから大作を描けたわけではなく、感性は磨いて輝かせたわけです。改めて彼の言葉に戻ると、その過程の困難への矜持みたいなものが感じとれます。 

彼が取り組んでいた平家物語の絵のなかではとくに夕日が印象的な絵があります。わたしにとって、その一枚は、かれがどれだけ自らの絵画表現を「遠く」に運んだのかが分かる「証拠」ようなものに映りました。力みなく、同時に、内に力を宿した美しい一枚だったからです。

絵と物語の間(あわい)とは一体何なのでしょう。それは、人間だけが持つ内面的で精神的ものと通じていると同時に理知の外にあるものなのかもしれません。ひょっとすると私たちの歓喜や悲哀、そして好奇心が生まれる場所もその「あわい」にあるのではないでしょうか

以上、ながながとおつきあいありがとうございました。

[主催] ちひろ美術館
[会期]2020年3月1日(日)~10月11日(日)
[協力]エプソンアヴァシス株式会社、株式会社オフィス渋谷、遊美、株式会社一兎舎
[協賛]株式会社ジャクエツ
[後援]絵本学会、(公社)全国学校図書館協議会、(一社)日本国際児童図書評議会、日本児童図書出版協会、(公社)日本図書館協会、杉並区教育委員会、西東京市教育委員会、練馬区

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