Updated on 4月 22, 2021
『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 最終回 『鬼滅』煉獄杏寿郎の遺言の意味
こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、「なぜ『鬼滅の刃』は世代をこえて異常なほど大ヒットしたのか?」から「『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法」までのシリーズの最終回をお送りします。
前回の投稿で、「日輪刀」から「自分らしさ」とはなんなんだろうか、というあたりを見ていき、自分らしく生きることと今の日本の社会制度自体は、実は矛盾しないということを見ていきました。
最終回は、『鬼滅の刃』の物語と自分らしく生きることの関係性をひも解きながら今の日本で自分らしさをとりもどし、自分らしく生きることの意義を探っていきます。
では、さっそくいってみましょう。最終回「煉獄杏寿郎の遺言の意味」です。
「内発的」な自由への意思のしるし
日本の社会制度は、敗戦により外国に用意されたもので、先人が自発的になんらかの独裁に反抗して、獲得したわけではありません。そのため、どうして社会において、自由を持った個人が必要なのか、どうして個人は市民としての責任を背負うのか、といった理由がいまいちピンとこないのは確かです。本来は、個人的な生きづらさや社会の問題が積み重なった鬱憤をどうにかしたいという、切実な要請から望まれるものだからです。
そのうえ、自由の価値について個人差によって理解のバラツキがあり、身体的に切実だった衣食住、インフラの確保のほうが重要で、自由の問題は後回ししても、しかたがないところもありました。
それでも、自分の人生に責任をもち、今のわたしたちの生活に自由が残るように活動した先人や、現に今も活躍している人は、少数派ですが確かにいます。欧米と比較して、主体として生きている人が身近におらず、強力な同調圧力の中で、自分らしく社会とつながりをもって活動している人の器量には驚かされます。
それは、明晰さによって、社会制度の啓蒙に苦心した学者、具体的な法整備を試行錯誤しながら整えた人、文字通り我が道を行くことで閾値を広げてくれた人、志をもって仕事を生み出した人、上下関係にながされやすい組織の中でも人知れず踏ん張りながら、下のものに横のつながりを用意した人、閉じがちな日本社会で鬱屈した心を和ませ、ほぐしてくれる芸人やタレント、スポーツ選手・作家、芸術という言葉ではない記号で、心の奥底にイメージを届け支えてくれた人とさまざまです。
わたしたちは、先人が築いた社会という大枠の質を深めていく、最も重要な段階にいます。もう欧米から言われたから、もしくは、欧米のマネをしてれば成功が約束された後進国の季節はとうに過ぎ去っています。
主体的に生きることは、上から命令されてできることではありません。まず自分が、自分らしく個性を成長し発展させがらな、自発的に社会で「私」を表現して関係を創っていけることで、自分の問題を「お上」にまかせて流されず、自分で自分の人生の責任をとれるようになることで実現します。これは、先達がうまくできなかった課題でもあります。
わたしは正直いうと、コロナ禍の最中で、少年漫画原作である『鬼滅の刃』が、ここまで幅広い世代で爆発的に流行ったことにたいして、最初は引いてしまっていました。日本は娯楽までも画一化されて、しかも世代までも「少年」の次元で単一化しているのか、という不気味さを覚えたからです。でも、実際に見てみると、いやそうでもないんじゃないか、と考えなおしたのでした。
この、『鬼滅の刃』の爆発的な幅広い層への大ヒットが教えてくれることは、悪い内容ではないんじゃないか。『鬼滅の刃』が、人間が人間性をとりもどすために頑張って生きる物語であり、それに共感している人が多いということは、「私」が人間らしく生きるために頑張って生きる物語、つまり、自分らしさを切り離すことなく「私」として生きることへの機運が、かなり高まっていると言うことができるからです。
『鬼滅の刃』の大ヒットが照らしだしたのは、今の日本社会の歪みや、「私」として生きたいという個々人の抑圧された欲求だけではありません。それは、いにしえより日本人が脈々と引き継ぎ洗練させてきた精神性、一つとして同じものはなく、独立している「こころ」、その「こころ」を喜べる「こころ」が、暗いニュースが増えつづける日本でも、やっぱりわたしたちの中に失せることなくたしかに宿っているということです。
その日本人の魂とも呼べるものが、外国からそうしろと命令されたわけではなく、「内発的」に、わたしたち一人一人の胸の内に湧き上がってきたしるしが『鬼滅の刃』への幅広い世代にわたっての共感なのだ、という解釈もできるはずです。「私」という自由の概念が、市中の裕福な個人のうちにぽつぽつ芽生えはじめた大正時代から、約100年の激動のなかで、機は熟され、ようやく実を結ぶステージにきたといえます。
日本の独自性が余すことなく垣間見れる世界観のなかで、人間としての誇りの感情をメインに紡がれる『鬼滅の刃』という物語が、今の日本の多くの人にハマった理由は、「私」として生きることは、日本人としてもアリなのだ、というイメージを与えてくれたからではないかと、ここまで書いてきてふと、そう思います。
いままでさんざん、上から目線で欧米の知識人層から「いいかげん因習をてばなして、主体的になれ」といわれ続けてきた、わたしたちのうんざり感も反抗という意味である意味健全といえます。いくら西洋の社会制度のもとで生活し、洋服をきているのが日常で和服が非日常になった現在であっても、過去の先人が積み重ねてきた精神面での規範は、幼い頃の大切な記憶も織り込まれているため、そう簡単にはないがしろにできないのもまた人間です。
わたしたちは、自分や大切な人の人間らしさを諦めるように迫ってくる逆境のなかで、『私』として社会でどう生きるのか、という具体的な行為や、そのような人が集まる組織や社会がどのような姿になるのか、ということが可視化された物語を追体験することで、日本にはそのような文化を喜ぶ人がいて、自発的に引き継がれてきたのだ、というイメージを見出しているのではないか。そういう精神面での文化的な後押しをしてくれる後見人のようなイメージを求めている人が、今の日本では潜在的に多かったのではないかと思うのです。
「先」に「生」きる人間が背負うもの
ロックバンド『ZAZEN BOYS』 の向井秀徳作『自問自答』という曲の歌詞にこんな一節があります
若い父親と小さい娘が
なんか美味そうなもんにかじりついていた
笑っていたガキが笑っていた
なーんも知らずに
ただガキが笑っていた
純粋な 無垢な
真っ白な、その笑顔は
汚染された俺らが生み出した
この世の全てを何も知らずただ笑っていた
ZAZEN BOYS 『自問自答』作詞作曲MUKAI SHUTOKUより一部引用
若い父親は、「美しい嘘」で子どもを守っている、子どもは何もしらず、「なんかうまそうなもんにかじりつ」きながら「笑って」いる。その若い父親の「美しい嘘」すらも、自分らでうみだした何かで「汚染されて」いること、若い父親自身は気がついていない、その光景を俯瞰してみている一人の人間のまなざし。これは私の意訳です。
それでも、「なーんも知らず」ただ「笑っ」いる「ガキ」に、その「ガキ」がその人らしく成長し大人になり、社会で活躍することができるように支援することが、大人であるわたしたちの責任だということに、誰も異論をはないでしょう。では、わたしたちに何ができるのでしょうか。
元京都大学理学部長、日高敏隆は、「子どもはたちは遊びながら、自分で学び取ろうとする」とし、こう続けます。
そのとき大切なのは、学ぶきっかけを教えてくれる人である。ムシャムシャと食べる人がいれば、「ああ、食べられるんだ」とわかる。そういうお手本がまわりにたくさんいることが必要である。よくこどもに「自分で考えろ」という。でも、自分一人で考えたって、たぶん大したことは考えられない。広い意味での「先生」が絶対に必要だとぼくは思っている。「先に生まれた人」がである。近所の八百屋のおじさんだってかまわない。おじさんが葉っぱに水をかけているのをみて、「水をかけると葉っぱはしゃんとするんだな」と思う。「そうやって売るのはインチキじゃないかなあ」と思うかもしれない。大事なのはきっかけである。
きっかけさえあれば、子どもは案外すっと進んでいける。そうなれば、自分でどんどん学んでいくだろう。なにかを教える必要ない。大人はちゃんと生きていればそれでいいのである。子どもはしっかり見ているものだ。そして、そこから大切な何かを学ぶはずだ。
日高敏隆『ぼくの世界博物誌 人間の文化・動物たちの文化』玉川大学出版部
子どもは「しっかりと見ているもの」です。子どもだけではありません、下の世代は上の世代をよく見ています。「先生」が口で言っている内容を自分でできていないのに、それを子どもにするよう命令する時、子どもは、その「先生」のしたことを学び模倣します。子どもより力のあるはずの大人が、自分にできないことを自分より力の弱い子どもにするように押し付けるのが「正しい」大人なのだ、ということを学び模倣するのです。「先生」が卑怯を教えちゃだめでしょう。マナーやルールと異なり、道徳が「人」の実際のふるまいをとおしてしか教えられないのと同じようにです。
ひとえに、その社会の若者が生きたいと思えるか、死んだほうがましだと思うのかは、その社会ですでに先に生きている人たちの実際の後ろ姿、ふるまい、生き様にかかっている。これは人間が群れを成し模倣する動物であることからくる必然です。
「先に生まれた人」自身が自分の人生に、自分の言動に責任をもって「私」として「ちゃんと生きている」こと。悔いなく生きている後ろ姿、表情、ふるまい、そしてそこから伝わるものすべて、それが、子どもに与えられる最高の支援であり、今のわたしたちの社会で、本当に不足している支援なのではないかとわたしは思います。
この支援は、「あるべき自分」という鎧のなかですっかり委縮してしまった「ワタシ」がデフォルトである社会から、心と身体をもった個人の領域と集団の領域の両面をもった社会に変えていこうという試みです。いまの日本のゆっくりと、しかし、着実にすすむ閉塞・空虚・当惑をどうするのか、という問いへの一つ答えでもあります。
破壊するのではなく洗練させるということ
これは、先人たちが築いてきた過去の文化を、拒絶し破壊することでしょうか。そうではないんじゃないか。これは洗練させるということなのではないか、とわたしは思います。先人たちの努力と、多くの試行錯誤を積み上げてきたものがあるからこそ、経済発展や社会インフラ、法の整備があるからこそ、わたしたちは、人間としての目的にようやく「内発的に」手を伸ばせる局面に立てています。
園芸や、作物を育てる時、花が咲くステージに来ている植物に、本葉が出始めたステージにするタイプの肥料をいつまでも施していたら、その植物は「葉ボケ」という状態におちいり、無駄に背丈や葉っぱを生い茂らせる代わりに、いつまでたっても花を咲かせず、結実もしません。それどころか、無駄に大きくした図体には、それまで悪さをしなかった虫や微小な生物であるカビがはびこるようになり、病気になって、やがて花ひらく喜びもしらず枯れていきます。
同じように、先人の成してきたことに誠意を示したいなら、過去のやり方や規範にナイーブに固執し、先人たちが築いた社会を内側から病ませてしまうのではなく、先達が残したものを、今の状況にあわせてしっかりと修正しつつ、維持し深めていくことのほうが妥当です。より高い局面にたてたからこそ、その社会に生きるわたしたちの抱える問題も、より高次の局面に移行しているからです。
何かを手放し、なにかを新たにうけいれることは、「安全・安心」なものではないように思われるかもしれません。けれどそれは、閉じた世界に他の世界へ通じる道を創ることができます。
わたしたちは、日本人と西洋人の二つの精神性の上に築かれた社会のなかで生活しています。そのどちらかを否定するよりも、共通の価値観を見出していったほうが豊です。
二つの精神の底にある共通の価値観なんてあるのでしょうか。あるとすれば、人間の潜在能力を「信じる」ということです。まだ実現するには至らず、裏切られることも、失敗することもあるが、いづれは、一人一人が自発的に社会のなかで活動でき、生きた知性が、歌の面白さがわかるセンスが、違いをおもしろがれる「こころ」が残りつづける社会をきっと打ち立てられるという信念です。
料理家の辰巳芳子さんが言っていたのですが、昆布という海藻とカツオという海の幸を、世界の人々が認めるレベルの出汁にまで洗練させたユニークで知的な民族は、世界では他に類を見ないそうです。日本酒だってそうです。ブドウ果汁をほっとけばできるワイン、麦芽汁をほっとけばアルコールになるビールやウイスキーとは異なり、日本酒の原料であるお米は、ほっといてもまともなアルコール発酵はしません。お米に麹(こうじ)合わせることで日本酒を創造したのです。わたしたち一人一人の中に埋まっているものはけっして捨てたもんじゃありません。
このような信念を引き継ぐことは、わたしたちには荷が重過ぎるでしょうか?確かに、楽でも簡単でもないでしょう。
しかし、意識に上ろうが上るまいが、本音をいえば自分らしく生きたくない人間はいないはずです。自分が自分らしく成長することを喜ばれて、嬉しくない人などいない。「「私」として社会で生きること」が先人の築いてきた文化を破壊するのではなく、洗練させることになり、それが今の社会への貢献と一致するのであるなら、これほど意味と意義が得られる人生は、そうそうないのではないでしょうか。そこには生きている実感があるはずです。人間の理性はその意味でこそ重要になってきますし、「よしやるか」、と磨きたい欲求が湧き出てくるはずです。
UCLA医科大学精神科臨床教授で『脳をみる心、心をみる脳』の著者であるダニエル・J・シーゲルと児童青年心理療法士のティナ・ペイン・ブライソンは、ニューヨークタイムズでベストセラーとなった『自己肯定感を育む子育て』のなかでこういっています。
だからこそ、鍛錬、達成、成功などのとらえかたを、脳と子どもの最適な発達ににとって重要なものに合わせて改良しなければならないと、わたしたちは考える。現代の研究が強調しているところによれば、自己肯定感から生まれる幸せやそれに伴う達成感のような本当の心の健康は、幅広い興味や研究にとりくむことから生まれる。
そういう多様性は、子どもの内面が成長するにつれて、脳の様々な部分を刺激して発達させ、脳全体の成熟を促すからだ。人は、自己肯定感が高まっている時にこそ素晴らしい成長をする。
『子どもの「才能」を最大限に伸ばす「自己肯定感」を高める子育て:ダニエル・J・シーゲル/ティナ・ペイン・ブライソン:訳者 桐谷知未:大和書房:275項
人間の知性は、好奇心や関心といった心の導きに沿う形で展開していくことで、効率よく伸びていくようにできているようです。これは、子どもに限定されることではありません。今のように経済構造が流動化し、AIが台頭してくる時代では、生涯学習はあたりまえとなってきます。
自発的に生きることには勇気がいります。それどころか、フロムがいうように愛すること全般に勇気がいります。数量化できないテーマを効果的に伝えることができるとすれば、実際に身近にいる人間の存在以上の説得力はありません。逆境でくじけそうになった時、その人らしく生きてきた人が身近にいれば、それでもなんとかなってきた、ということが理屈をこえて信じられるからです。
こどもたちや、これから日本で生まれてくる命より「先」に「生きる」者として、くじけそうになりながらも、今、実際に勇気をふり絞っている「私」は、孤独かもしれませんが、この意味で、おおきなつながりのなかにちゃんといます。炭次郎をはじめとした鬼殺隊員らを導いたのは、父親や母親、師匠の鱗滝さん、富岡義勇ら鬼殺隊の幹部という、実際に存在している、生きている温もりをもった先人の後ろ姿であったのと同じようにです。
「鬼」「滅」の「刃」と最高法規
これだけ個人の能力が抑圧され、妨害され、そして、思考停止を迫るのが今の日本の現状だとすれば、逆から見れば、潜在能力が途方もなく眠っているということです。その意味で、日本はまだまだ捨てたものではなく、「これから」の国です。
わたしはこのことを言いたいがために、見切り発車で、つらつらと書きつらねてきようなものです。
『鬼滅の刃』は、日本で多くの人の共感を獲得した作品です。「私」として生き、社会とつながっていくことと、『鬼滅の刃』で炭次郎たちが行っている、戦いの本質的な意味が同じであるなら、つまり、人間であることの誇りと尊厳の感情を守るため、これ以上、人を人間らしさを失った「鬼」にさせないために、人間性をうしなった「鬼」の被害をださないため、圧倒的に感じる「鬼の元凶」に屈せず戦うこと、と同じであるなら、自分に向き合い、自分らしく生きようとすることは恥ずべきことではなく、むしろ胸が張れることだと言えるはずです。
『鬼滅の刃』の「藤の家紋の家」の人々の言葉を、ここでもう一度、引いてみたいと思います。彼らは、「私」という人間性を失った「鬼」への同情と皮肉をこめて、「鬼」と戦うひとたちに、こう祈りをつげます。
どのような時でも、誇り高く生きてくださいませ
アニメ『鬼滅の刃』第十五話『那田蜘蛛山』
サイコパスという、人から言われて最もショックな言葉があります。表面上は親切で明るいかもしれないが、付き合ってみると、人間性が欠けた、建前しかない人だと分かる場合に使われる、破壊力抜群な悪口です。今の日本の環境は、後天的にこのサイコパスの方向へ、わたしたちを引きずる豊かな土壌になっしまっています。
いくつさきは、人間性(個性・自由)を失い、経済合理主義であるコスパでしか世界をみれないこころの貧しい「鬼」、自分たちの信じる価値観以外はありえないと思考停止する想像力が欠如した「鬼」、 支配・服従でしか関係を築けない「無能」な「鬼」か、一見クールに傍観をきめているものの、内に虚ろをかかえた、臆病で「無力」な「鬼」の集まりです。
「私」が自分らしく社会とつながっていくことが、今の日本社会の生きずらさの螺旋を断ち切る「刃」となります。その「刃」は、心と身体の温もりが、頭の冷静さによって支えられることでできています。それは、陽の光をすいこんだ「刃」です。邪なるものたちきるライオンのような勇ましい力づよさと、太陽のような温かさにより、力を与えられています。だからこそ、「自分らしさ」そして、それが活きるように「「私」として生きること」は、重要で尊い最高の価値として、日本の最高法規にきざみこまれてあるのです。
「私」が自分らしく生きること、それが、わたしたちの暮す社会から、人間性を喰らう「鬼」を「滅」することができる唯一の「刃」なのです。
煉獄杏寿郎が遺した言葉
最後に、『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』で、自らの命を犠牲にして、「鬼」から後輩を守った炎柱の煉獄杏寿郎が、散り際に後輩にのこした言葉を載せて締めくくりとします。
俺は信じる。君たちを信じる。
劇場版『鬼滅の刃』無限列車編、最終シーンより
長々とお付き合いしていただき、ありがとうございました。
参考文献
[放送局] TOKYO MXほか
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
『自問自答』
[歌]ZAZEN BOYS
[作詞・作曲] MUKAI SHUTOKU
『ぼくの世界博物誌 人間の文化・動物たちの文化』
[著者]日高敏隆
[出版]玉川大学出版部
『「自己肯定感」を高める子育て―子どもの「才脳」を最大限に伸ばす』
[著者]シーゲル,ダニエル・J.〈Siegel,Daniel J.〉/ブライソン,ティナ・ペイン〈Bryson,Tina Payne〉
[訳者]桐谷 知未
[出版]大和書房
Updated on 4月 22, 2021
『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その6 「日輪刀」は自分らしさのメタファー
こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その6」をおおくりします。
前回の投稿で。自分らしく生きることは、日本の伝統的な「諦め」と矛盾しないこと、自分らしく生きることには勇気がかかせないということを見てきました。
『鬼滅の刃』という物語のなかには「自分らしさ」のメタファーがでてきます。今回の投稿では、その一つを浮き彫りにしていきたいと思います。
では、さっそくいっていってみましょう。
脱「私」滅の物語
『鬼滅の刃』で主人公の炭次郎たちが戦っている相手は、人間を食らう「鬼」と、人間を「鬼」にかえてまう鬼舞辻無惨です。「鬼」の被害をこれ以上出さないために、「鬼」を滅する物語が、『鬼滅の刃』です。
これまで見てきたように、現代に生きるわたしたちが、ふと、気がついたらおかれている状態は「鬼」に似ています。
「世間」が個人が自己表現することを圧迫し、会社や組織内では、「私」を自粛して上の立場の人間に「マウント」を用意することが処世術として避けられません。建前が先行した「あるべき自分」を演じれば演じるほどほめられ、仕事もしやすいので「私」をわすれていきます。みんなから認められる安心の一方で、うちに虚しさをかかえます。
「私」を諦めていることからくる無意識化のフラストレーションは、自分が同調している価値観とは異なる表現をする人や「私」として満足そうに生きている人への逆恨みの感情を抱かせます。正義や寛容、愛や誠意といったものを実行するための「私」という人格主体が育たず、個人的な価値観、倫理は「世間」ににぎられます。
現在の日本の社会は、表向きでは多様性を言葉でさんざん重要だといいながら、「私」としての意見や表現を示すことを実質許さない社会となっており、この「ズレ」は半ば旧来のしがらみから離れて個性化しているわたしたちの孤独感を強調し、その強調された孤独の不安からのがれるために多数派や、小コミュニティーのように分散した「世間」へ同調・同化してでもいいから逃れたいという衝動をわたしたちにもたらし、「私」という主体を保つことが実際的に難しい状態です。
「私」をみうしなうにつれて建前が選考するようになり、身についた処世術とはうらはらに、他者の内面の苦痛への想像力、洞察力、等を退行せさ鈍麻させます。これが、自分のみならず近しい人にも影響をあたえ、関係が表面的なものになっていいます。また、子育てでは、子どもの自分自身への態度にも影響をあたえてきます。
社会の「私」をゆるさない空気は、「私」として意見を示すことや、そのさきにある対話経験の場や、対話に伴う個人の成長の機会を奪うわけですが、別の角度からみれば、問題提起すること事態を自粛しろといっているようなものに近いことがわかります。今の社会の歪みにたして声を出すことも「私」を自粛することに適応した人にとっては、いつまでもうだうだ言ってないで慎むべきもの、耐えるべきものとなります。いまの生活を変化させるものにたいしては、その良し悪しにかかわらず、歓迎できなくなっていきます。
つまり、問題に取り組むかどうかを決める以前に、問題を認識するために必要な、言葉によって問いをたて示すこと自体が忌避されています。なぜなら、それをしないことが一人前の社会人だと教わり、苦労して適応しているからです。寛容と、意思表示をしないことが混同され、言わなければいけない内容が黙秘され、手助けを必要としている人たちは、泣き寝入りし埋もれていく社会です。
それとは正反対に、実社会に入ってくる新しい世代は、スマホや海外情報へのアクセス等々の技術発達と教育により、さんざん「多様性」が大事であるといわれて育ちます。かれらは、社会にでたときに頭には「日本の社会人像」がはいっているのですが、感じられるようになったことを感じないようにすることはできません。かれらはギャップにより強調された煮え切らない思いや、空虚感に直面し、上の世代は、自分たちが上から当然すべきと多々込まれた態度を下の世代がとらない場合、それが理屈では時代の違いと認めつつもすっきりしません。両者に共通している認識はかつての規範や生き方は、今現在、ほころびを見せ始めており、今後はますます機能しなくなっていくということです。
日本では「世間」への服従的価値観へのナイーブな執着が以前としてみられるなか、個性化を促すスピードや世界情勢のほうが速いので、「私」という主体性をなかば発達させておいて、実社会では「私」を自粛することを前提とする社会規範との「ズレ」は埋まるどころか進むばかりです。「私」にとって踏んだり蹴ったりな環境、生きずらい環境、「あるべき姿」に拘束され「自動人形」化していく状況は「ズレ」とともにますます拡大しています。
そのうえ、上の世代の「ゆとり」をささえていたものが比較的若い世代には通用しません。、例えば、旧来の社会的な繋がりはことごとく消失し、物質的な豊かさが幸せに直結するという素朴な夢からもすでに覚めており、同時に右肩上がりの経済成長による後ろ盾もありません。かつてあったゆとりの喪失が、旧来の規範に服従しているひとに不安をいだかせ、その不安とフラストレーションはますます不寛容をあおります。
「私」滅の物語ともいえてしまう内容の世界のなかで、わたしたちはみな、なんとかようようと頑張っているわけです。
「鬼」滅の物語へ
ここで、病んだ「世間」」を「無惨」に、強調された孤独不安のにたえられず世間に同調した結果、「「あるべき自分」という建前によって自分がすっかり委縮してしまった人」を「鬼」に入れ替えても意味が通じる文章を、試しに作ってみるとこうなります。
「無惨」は、自分らしくあることという孤独の不安につけこみ、不安を煽り無力感をうえつけ、わたしたちに服従を強います。わたしたちは「無惨」に服従している間は不安がやわらぎますが、ひとりでいる時に無力感・無意味感がつのり、同時に自分を失っていきます。「無惨」への同調・服従を繰り返すうちに自分を忘れていき、いつしか「無惨」と「私」の区別がつかなくなります。「鬼」の築く人間関係からは肝心の心のつながりが感じられなくなり、、かつて「無惨」が自分にしたことと同じことをなんの配慮もなく「正しい」こととして他人に繰り返すのです。「無惨」はこうやって、人間を「鬼」に変えてしまうわけです。
「無惨」はただただ、人間らしさである個性をもった人間が嫌いなのです。
『鬼滅の刃』は主人公である竈戸炭次郎が「鬼」となった妹の禰豆子を人間にもどすため、これ以上「鬼」の犠牲者を出したくないため、勇気をもって鬼の元凶である鬼舞辻無惨に立ち向かう物語です。これは今の日本にいるわたしたちが、「私」として社会に関わってく際に背負う状況と、本質的な意味において重なってきます。
もちろん、私たちが生きる現実の世界の「鬼舞辻無惨」である「病める世間」は実態があるわけではないので、物理的に打ちのめすことなどできません。そのうえ、文化を通して強力な認知バイアス(根拠なき信念)となってわたしたちの内側に潜んでいる点や、個々人の主体の確立具合それこそ人それぞれなので、理解や意見の一致が作りにくいところでもあります。
現実の社会で、主体として社会で連帯をうみだし、活躍している炭次郎のような人は一握りの少数派であり、何らかの集団や価値観に服従し、建前にのみ込まれてしまっている「鬼」という部分と、愛することができる「人間らしさ」の部分の狭間でゆれているのがわたしたち多数派でしょう。
それでも、わたしたちが炭次郎たちと同じように、後悔のしないために、これ以上「鬼」の被害で人知れず苦しんでいるひとを減らすため、そして、わたしたちの胸の内に人として大切なものを守るために、引くことができない大事な一線がある、ということに変わりはないはずです。
「日輪刀」は自分らしさのメタファー
『鬼滅の刃』の世界では、「鬼」を滅することができる唯一の武器が日輪刀です。日輪刀とよばれる特殊な刀がなければ「鬼」は再生してしまいます。「鬼」は太陽の光が弱点で、その太陽の光をしみこませた特殊な素材で作られた日輪刀は鬼を滅することができる。つまり、『鬼滅の刃』の世界では、日輪刀はいくらありがたがってもたりないほど、重要で貴重なものだと分かります。
わたしたちの生きる現実で、病める「世間」にはびこる「鬼」を滅することができる日輪刀にあたる武器なんでしょう。それは、自分らしく生きること、そのものです。「自分らしさをとりもどし自分らしく社会とつながっていくこと」がそのまま「鬼」を滅する日輪刀の一太刀となります。
「私」が、自分の人生を成り行き任せで流されることなく、自分の人生に責任をもって生きることで、すでに社会からフラストレーションをかかえて、逆恨みから不寛容を余儀なくされる「鬼」が一匹、社会から「鬼滅」されています。同時に、自分らしく社会とつながり活動すればするほど、社会のなかで「病める世間」に屈して心がついていかなくなった人や、「私」を見失って「鬼」になってしまったけども炭次郎の妹の禰豆子や珠代さんのように「人間性」を取り戻そうと頑張っている人に、そういう人もいるのだという「イメージ」を届けることで、援助することにもなるからです。
それは、マイノリティーが社会で活動する閾値を広げることでもあります。ここでいう閾値とは、許容範囲のことで、社会にマイノリティが貢献する余地、関係を作り出す余地を広げるということです。
肝心なことは、主体的な行動ができることや、マイノリティ思考ができる人が保守的な人や多数派よりも上である、下であると、いうことではなくて、主体的な活動ができる人や、マイノリティ思考ができる人が社会に貢献できる場、そうゆう能力を成長・発展できる場を社会が認めることができるような雰囲気を創りだすところにあります。そのため、傍若無人なふるまいをするというわけではありません。そのための技術や、能力を磨く必要がでてきます。戦後しばらくの間、「世間」には、確かにそのような要素が含まれていたののですから、夢物語ではありません。
「世間」そのものが問題なのではなく、「病める世間」に盲従している状態が孕む環境が問題なのです。
もう一つ、自分らしく社会とつながる人が社会で増えていくことには、大きな意味があります。異なる意見を示すことができる人の集まりが機能するには、異なる意見を示せるだけでなく、「対話」をする能力を磨いていくことはかかせません。日本が同調圧力が強いことは周知の事実ですが、この同調圧力が相変わらず強いということは、「対話」する場や経験をした人が少ない、もしくは、「対話」と呼べる内容にいたっていないということです。
実は、「対話」する力も「私」に属する個人の能力であり、その人を知りたいという関心や、異なる意見との出会いにより成長したい、変化したいという欲求がなくては成立しません。受動的に生きているひとに上から「対話」をしましょうとあたえても、まずできないものが「対話」です。「私」として生きている人は、心を動機にしていますし、マイノリティーは傾聴できる人間の偉大さを身にしみて知っています。おのずと「普通~ですよね?」という同意を前提とした同質性の確認をしてしまい窮屈な思いをさせてしまうことや、きいているフリをして流している子どものステージ、意見を一方的に投げっぱなすステージから、身の入った傾聴する能力を育むステージへ進むわけです。
決定にいたるプロセスを知らないまま、命令された内容をひたすら受動的に従う集団のなかで人が働く場合、その人は自分の割り振られた仕事以上に、その集団のために「よしやるぞ」と言う気持ちになるでしょうか?コンビニのアルバイトが、自分がコンビニ運営の意思決定のプロセスに一切関与していないのに、マニュアル接客以上の仕事をやろうと思う人はいないでしょう。
「私」という個人や、マイノリティが、社会に貢献できる場や表現の場を社会が認めない場合、かれらが社会の出来事に無関心になるのは、当然といえば当然です。内田樹氏が文藝春秋『サル化する世界』で、いまの日本人に共通するメンタリティーに「今さえよければ自分さえよければ、それでいい」と書いていましたが、まさに的をえた表現です。
自発性の最たる表現が「愛するということ」です。これは個人の成熟なくしてできない難しいことですが、もしこれができれば、サイコパスではないけれどそっちよりの「異能の鬼」にまでいってしまった人でさえ、炭次郎がしたように、自分らしさを思い出させることができるかもしれません。
「鬼」が日輪刀以外では滅することができないのと同じように、自分が自分自身に自発的に向き合わない限り、主体とよばれる「私」は取り戻せませんし、気が付いたら「あるべき自分」という自分に食い込んでしまった「鎧」を外すことも出来ません。なぜなら、「私」とは、自意識がいま・ここにある自分自身である心・身体の声に対してどういった態度をとるのかという問題だからです。この自分の自分自身への態度に向き合うことは、誰かに代わってもらうことはできないのです。
よく、「自分探しなどバカげている、お前はそこにいるだろう」という意見がみうけられますが、それは、半分はおっしゃるとおりだと思いますが、半分は的外れです。自分の自分自身への態度について、自我の発達以前から、捻じれるか、歪むか、途切れるような圧力が成長過程で文化をとおして自他ともに無自覚にかけられているのが近現代の特徴であり、特に、日本では、そのような文化からくる圧力が大半だからです。たしかに「私」はここにいるのですが、後天的な環境によって自分自身の声をまっとうに評価できない、聞き取れない状態がデフォルトになっている人も少なくはないのです。
もちろん、幸運な一部の人にとっては自分探しなどいらないというのは同意見です。その人たちにとってすべきことは「生きる」ことだけでしょう。それでも、ひとは、抱えている背景も違い、またその背景から感じる感受性もみな一人一人ちがうのだという前提や、同じ日本の中にいても、世代の置かれる環境は異なるという事実からみれば、一概に「自分探し」がバカげているとはけっして言い切れないはずです。
正当性の再確認~マッピング~
ここで、「私」として生きていくことが、日本の社会制度でどのよう立ち位置におかれているのかを、ざっと見ていきたいと思います。フィールドの全体像がつかめればそれだけ自由に動けます。アンドレ・コント・スポンビルは、『資本主義に徳はあるのか』(紀伊國屋書店)のなかで、民主主義社会における個人の立ち位置をついて分かりやすく解説しています。
ざっと、まとめてみますと次のようになります。
わたしたちは社会で暮らしていますが、いろいろな領域に同時に接してします。大まかに言えば、次に挙げた領域に接しています。
- 倫理の領域・・・愛、喜び、
- 道徳の領域・・・モラル(義務)、精神的な価値
- 政治の領域・・・個人間(集団)の利害を調整、社会の問題対応、
- 経済の領域・・・お金
これらの領域は、それぞれが独立した秩序をもっています。愛や友情、信頼、尊敬が買ったり強要しても得られないのがその例です。
経済は、富をつくるので、再分配をす立ちやすいることが仕事である政治に場を与えます。政治は法をつくれるのでわたしたちが集団生活ができる場を与えます。そのため、どうしても経済が政治より、政治が個々人の自由より優位に立ちやすい性質があります。
たとえば、お金が政治を支配していき、権力が個々人の精神的価値を支配し、本来は愛のために存在する義務であるモラルが、義務のために個人の心を犠牲にするような「価値の転倒」を引き起こしてしまう可能性があります。
経済には倫理的な自制能力がありません。例え環境を汚染しようが、不平等を引き起こそうが、会社の歯車である社員が廃人になろうが、株価やお金につながるならば行います。経済はそもそも無機質なものです。そのためわたしたちは政治を介して、集団の生活が持続可能になるように、経済に制限をかける法律を創ります。会社そのものの中に、何らかの倫理やモラルがあるとすれば、会社ではなく、会社の中にいる個々人のなかにあるということです。
また、政治が優先するのは多数派の意見です。多数決原理を利用している政治そのものは、少数派の意見が無視されやすいので、政治に関わっている個々の人間の責任により、個々人が大切にしたい価値を守るため、選挙をとおして政治に制限をかけます。選ばれたものは汚職をしない責任を果たし、選んだものは自分らで選んだ代表を監視することで制限をかけます。
注)アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳:『資本主義に徳はあるか』:紀伊國屋書店を参考にしています。詳しくしりたい方にはおすすめです。
経済、政治、道徳にバランスをもった働きをしてもらいたいなら、優位とは逆の方向性をもった力がなくてはなりません。それが、個人の領域にある愛(喜びの感情)が生み出す意味にそって、個人が活動することで現れるベクトルです。このベクトルは、人が何もしないのであれば社会のなかで働くことはありません。社会のなかの個人が、優先させて実際に社会で活動していくことで初めて力をもちえます。会社の中の個人、直接的であれ、間接的であれ政治のなかの個人、道徳の目的である個人が自発的に行う各領域への働きかけです。経済に対しても、個人は政治を利用することで働きかけが十分可能です。
この重力のように何もしないでも働く「優位のベクトル」と、個人が自発的に活動していくことで働く「優先のベクトル」の二つがあってはじめてまともに機能するのが、今の私たちが身を置く社会システムの全体像です。(ここまでが、アンドレ・コント・スポンビル、『資本主義に徳はあるのか』(紀伊國屋書店)の内容を筆者がまとめたものです。)
今の日本では、みんなが良いというからそれが価値があるのだ、という「価値の転倒」が起きてしまっていることは否めません。今の日本社会の現状は、「優先のベクトル」があまりに貧相だからです。
すでに個性が目覚めているにもかかわらず、社会で「私」としての場が実質的に許されていない場合、愛や正義、寛容、優しさといった個人的な価値は社会のなかで力を失っていき、正義はあらゆるハラスメントと汚職へ、愛は売春や所有、支配に姿をかえ、人間関係は表面的な利害関係に収斂していきます。
それは、想像力の欠如した心の貧しい「鬼」のすむ閉鎖的で表面的な世界です。そして、人類がまだ100年も経っていないほどの近い過去におかした過ちの歴史でもあります。
「私」として生きることは、その人が後悔ない人生、活気あふれる生活、内的なつながりを感じることができる人生を可能にするだけでなく、今の日本社会のために不可欠で最も重要なことの一つです。決して「「私」であること」が、おかざりで尊厳、人権と名づけられているわけではないのです。
「太陽」から逃れば冷くなるの当然
愛や意味は個人の心からのみ生まれるもので、個人にしか妥当しません。それは、わたしたちを内側からあたためるための意味を自らうみだす太陽のような存在です。同時に、わたしたちの社会制度が機能するコアでもあります。
今日の日本では、ハラスメント、DV、虐待、機能不全家族、ネグレクト、情報リテラシー問題、自殺、世界・他人への無関心、無力感、無意味感、自己肯定感の低さ、志の不在、閉塞感、不寛容、日和見主義、受動性、画一化、後ろ向きな姿勢、クローバル化のなかでの経済の停滞と失速、イノベーションの不在、等々の問題が次々うまれ、互いに関係し負の相乗効果を生んでいます。
これらは個人の能力が曇らされていることに関係しています。
このように、社会からみても「鬼」状態から脱却し、「私」を取り戻すことは、日本の課題に向き合う自発的な取り組みであり、本質的で誠実な解決方法でもあります。日本の抱える問題を俯瞰的にながめることができれば、それは社会のためになっており、十分役立っているのです。今の日本で最も不足している支援物資も「日輪刀」であり、内なる太陽によって温もりをもった存在、つまり、「私」とし生きている人間なのです。
「色変わりの刀」と「私」らしさ
チョット内容が重くなりましたので、日輪刀に話を戻します。
ご存じのとおり、日輪刀は別名「色変わりの刀」と呼ばれています。「持ち主によって色が変わり、それぞれの色ごとに特性」(アニメ『鬼滅の刃』第6話「鬼をつれた剣士」より引用)があります。同じように、「私」である自分らしさそのものが、それぞれが異なった「色」をもち、それぞれの色ごとに特徴があります。人に個性がある以上、自然なことです。日輪刀は自分らしさが反映されているようです。
ところで、『鬼滅の刃』の主人公、竈戸炭次郎がはれて鬼殺隊の入隊を認められ、日輪刀を授かった時、刀身の色は「漆黒」でした。黒色の日輪刀をもった剣士について、彼の師匠である鱗滝左近寺はこう言います。
しかし、黒い刃になるものは数が少なすぎて、詳細が分からない。わからなすぎて、、、出世でいない剣士は黒い刃なのだという。
アニメ『鬼滅の刃』第6話「鬼をつれた剣士」より引用
今までと同じ状況を維持するという意味では、すでに大成したひとと「同じ色」の刀であれば、その「色」で大成した人物のやり方を模倣することで、試行錯誤する時間を大幅に節約ます。模倣する人がいない場合は、自らで試行錯誤せざるおえないので、コスパ的にいえば大成するには不利でしょう。
しかし、違う角度からみると、こういう解釈もできるのです。まだ既存の大成した鬼殺隊員にはできない、もしくは、やったことがない方法・能力で鬼と戦う資質があるからこそ、黒になったのであり、その刀の「色」で出世できたものはいないのは当然である、という解釈です。これは、「私」として生きる全ての人が背負う状況と同じ意味をもちます。すなわち、先例がないということは、閉塞し停滞している時代では、現状を打破できる創造の余地、可能性そのものであるという意味です。
『鬼滅の刃』の世界では、炭次郎が入隊する以前から、気の遠くなる長い年月(およそ1000年!)の間、鬼殺隊は組織され「鬼」を生み出す鬼舞辻無惨と戦ってきました。それでいて「鬼」を世界から滅却できず、「鬼」の被害を出し続けていました。これまでの鬼殺隊では、元凶の鬼仏辻無惨を倒せないどころか、むしろ、おされ気味の停滞状態が現状だったといえます。
炭次郎の日輪刀の色が「黒」であったことは、今までと違った形で鬼を滅却できる可能性と能力を秘めている、いいかえれば、過去に大成したどの先輩もなしとげられなかったことを成せる可能性を秘めているということです。「鬼」を世界から滅却して、「鬼」がまきちらかす悲惨をこれ以上ださない世界にする可能性です。
同じように、自分らしさという個性が同じ「色」を持たないことは、とてつもない可能性、停滞した世界を打破できる可能性を秘めているといえます。そして、日本は停滞・閉塞のまっただなかにあります。
先にその「色」で大成した人がいないことは、試行錯誤で道を切り開いていかなければならない大変さがあり、本当の意味で強くならなければなりません。しかし、唯一の「色」であるからこそ、同じ色を持った優秀さだけでは解決できなかった問題、同じ色の優秀さしかいないことから起こる問題、背景色に埋もれてしまうことで問いを立てることさえ出来ずにいた問題を解ける可能性を秘めた特別な存在となるのです。
今の日本は停滞し、イノベーション力も他のアジアに置いて行かれはじめ、閉鎖的な雰囲気がその停滞に拍車をかけています。そしてAIをはじめとした技術革新は、わたしたちに、量産型の優秀さとは別の知性を要求し、圧倒的に不足しています。まさに、同じ色をもたない「色」をもった「私」として生きる人が求められているのです。
主体の強みは自発性や真の自信、他者理解の能力のみならず、この創造力にもあるわけです。わたしたち一人一人には、それだけの可能性があります。人間にこの創造性がなければ、言葉も洗練できず、新しい発想もうまれず、いまでも猿山でひたすらランクを気にして群れのなかでマウントを取り合う生活をしていたことでしょう。
至高の希少性
わたしは人間について経済用語を使うのは好みませんが、稀なものほど価値がある、という意味の希少性という言葉は例外的に使いたいと思います。
『鬼滅の刃』では「鬼」が食べると強力な力を得られる特別な人間を「稀血」といいますが、それと意味は同じです。自分らしさほど希少なものはありません。世界の人口の77億人のなかでたった一人、かつ、少なくとも有史以来、まったく同じ人間はおらず、この先の未来も全く同じ人間は現れることはありません。そして、たかだか10億円・100億円・1000億円というお金をつもうが、死んでしまえば決して蘇らせることはできません。自分らしさをもった「私」とは「稀血」とはくらべものにならないほど稀な存在であり、貴重なものです。
『鬼滅の刃』の世界にとって、日輪刀はありがたい貴重で最も重要なものの一つです。同じように、「私」にとっても、わたしたちの社会にとって、私が「私」らしくいきていることも、貴重で重要なものなのです。
この意味で、まさに「日輪刀」とは自分らしさのメタファーなのです。
相違によって人類は進歩してきた
炭次郎は『鬼滅の刃』の世界で活躍していきますが、炭次郎だけでは、鬼舞辻無惨は倒せないでしょう。かれが、他の違う色の日輪刀をもった仲間や先輩・先達、命を賭して鬼と戦った先人の「犠牲」、同じ志をもった人たちとの共同は欠かせないでしょうし、お互いを高めあっていくメリットは欠かせないはずです。
個人主義が誤解されているのはそのネーミングへの響きに原因があるかもしれません。個人主義は自立を基本としますが、個々人が協力しあったり、助けを求めることを否定する意味はありません。もちろん無頼漢という意味でも全くありません。むしろ逆で、異なる個人が出会い、対話を試み、ひとりでは思いつかなかった発見をしたり、共通する価値をみいだしたり、考えの更新を生み出す豊かさにあります。
20世紀を代表するフランスの思想家で文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは「相違」についてこう述べています。
事実、相違とは非常に豊かな力をもつものです。進歩は、相違をとおしてのみなされてきました。
――――私たちはいま、単なる消費者になり、世界のどの地点のどの文化から得られるどんなものでも消化できるけれども、独自性をすっかり失ってしまうのではないかという展望におびやかされています。
クロード・レヴィ=ストロース 大橋 保夫訳『神話と意味』 株式会社みすず書房:26項
補足はいらないでしょう。コロナ禍で一人でいる時間が増えた今の状況は、見失った独自性・独立性を再び取り戻すにはかえってちょうどよい機会かもしれません。みな一斉に「世間」の監視からはずれる大義名分がある機会など人生でそうそうにないからです。
とはいえ、それでは日本人の良さがなくなっていまうではないか、といいたくなる人もいるかもしれません。「和」を尊ぶことと自分らしく生きること、両者は対立するのでしょうか?
「一君万民」の「和」からの洗練
2013年11月から2014年5月まで国際宇宙ステーション第38/39次長期滞在クルーとしてISSに滞在し、後半では日本初のコマンダー(リーダー)を務めた宇宙飛行士の若田光一氏は、コマンダーに就くにあたり『和の心』を方針に掲げていたそうです。インタビューのなかで、「若田さんのお父さんの年代では、とも思えるクルーたちを統率していくにあたって『和の心』の方針は理解してもらえるのでしょうか?なめられないようにするために必要なことは?」という質問に対して、次のように答えています。
最初からハーモニー(和)だけではなく、最初は意見をきちんという。押すところは押す。引くところは引くという加減もします。そのうえでハーモニーを大切にという方針もわかってもらえたと思います。主張するにあたっては、自分をさらけだすこと。自分に嘘はつけないし、直球勝負が一番強いのです
「若田宇宙飛行士、東京でミッションを報告「和の心わかってもらえた」」:Automotive media response https://response.jp/article/2014/08/24/230590.htmlより引用
多文化が入り混じる国際宇宙ステーションのなかで、若田光一氏が成し遂げたように、自分らしさを犠牲にした従来の「和」から、自分らしさがあったうえでの「和」への移行は不可能ではないのです。そして、その「和」は、その「和」を率いるリーダーが「最初意見をきちんという」「主張するにあたっては、自分をさらけだすこと。自分に嘘はつけない」ということをリーダー自らが身をもって示し、自らの言葉に責任をもつことではじめて実現できる「和」です。
集団には必ず個人を軽視する力が重力のように自然発生します。だからこそ、上に立つ立場の人間がどのような態度をとるかによって、集団内の空気は大きく変わってきます。いくら口先だけ上手いことをいったとしても、実際のふるまいがなければ、言葉は言葉の地位を辱めるだけです。戦術といえば聞こえはいいですが、ただの卑怯者であることにはかわりはありませんし、信頼関係など望めないのはいうまでもないことです。
それは、「一君万民」の和の心ではなく、「私」という魂をもった人間同士が築き上げる「和」です。
もう一つ、エーリッヒ・フロムの言葉です。
有機的な成長は自分自身についてと同じく、他人の自我の特殊性に対して、最高の尊敬をはらう場合においてのみ可能である。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:同上 290項
エーリッヒ・フロム・・・20世紀を代表する社会・心理学者
わたしはまだ、アニメと、劇場版「鬼滅の刃」無限列車編までしか見ていませんが、炭次郎達が『鬼滅の刃』の停滞した世界を一つ上の次元に引き上げる結末を、期待せずにはいられません。
次回でシリーズ「『鬼滅の刃』からみる人生を後悔しない方法」投稿は最終回となります。「『鬼滅の刃』が少し引くほど大ヒットした理由とは?」から続くシリーズの中で、なんのご縁かこのサイトを訪れていただいた方々には感謝します。
お付き合いありがとうございました。
参考文献
『資本主義に徳はあるか』
[作者]アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳
[出版社]紀伊國屋書店
「若田宇宙飛行士、東京でミッションを報告「和の心わかってもらえた」」
Updated on 4月 21, 2021
『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その5 自分を取り戻すための「アティチュード」
こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「『鬼滅の刃』からみる人生を後悔しない方法 その4」をおおくりします。
前回の投稿で、後悔しないには、煉獄杏寿郎の遺言のように「自分の心のまま正しいと思う道をすすむ」ために自分らしさをとりもどすことが不可欠であり、それは「理にかなった信念」を深めていくことで再び得られることをみていきました。しかし同時に、自分を取り戻すためにはあるものが欠かせません。
今回の投稿では、この「あるもの」について探っていきたいと思います。
自分を取り戻すための姿勢
ここまで、「私」を取り戻す過程をみてきました。その過程で、私たちの中で「理にかなった信念」と「根拠なき信念」の二つの信念が綱引きしている状態になっていることを示し、いままで多数派である、という理由だけで盲目的に従っていた内容を、自らの経験や感性や考えや、客観的な証拠に照らして吟味することを繰り返すことで、情報を判断する力、気持ちへの洞察力などがたかまり、「私」が再確立されていくことをみてきました。
しかし、すぐに答えが分かり結果があたえられるような安っぽちい内容ではないだけに、外から分かりやす指標を与えられてないなかで試行錯誤していくことは、簡単ではないかもしれません。
自分らしさを見失っている人が自分らしさ取り戻すにはある態度が必要となってきます。それは勇気です。
勇気は親からの庇護がなくなり大人になってからこそ必要とされるものです。「私」として生きていくほど勇気が試されるものはないからです。これは誇りの感情なのですが、こだわるという意味でのプライドではなく矜持のほうの誇りの感情です。
「自分らしく生きよう」と決意したもののくじけてしまいそうになるということは、おそらくどんな人にも訪れます。逆境にあるとき、「私」として踏みとどまるにはこの勇気をもてるかどうかにかっているのです。
『鬼滅の刃』で炭次郎が自分らしく活躍できているのは自らの「理にかなった信念」にささえられていると同時に、この勇気によって「理にかなった信念」を支えているからです。
ところが、勇気をもってなにか表現することが「いきっている」イメージほうに大きく入り込んでいるイメージをわたしは感じます。日本にいると、どうもこの勇気を実社会で示す以前にくじかれている気がするのです。
勇気への引け目の歴史
外国にある程度の滞在経験があると、今までまったく気付かなかった母国の雰囲気を、自覚する人は多いと思います。そうでない場合も、例えば芸術作品の傑作に、時代の雰囲気の特徴を垣間見ることができます。
例えば、村上春樹氏の小説で主人公の多くは個人としての無力感と虚無感、無意味感をかかえています。1990年代後半あたりでは、庵野秀明氏の『新世紀エヴァンゲリオン』でも、説明も何もなしに一方的に高次の権力者に、命令、コントロールされ、反抗できずに翻弄される少年が主人公です。同じ巨人ものでいえば、2010年前後からはじまった『進撃の巨人』もそのような世界観がベースとなっています。無力感、無意味感、諦め、一つ上の力にたいしてされるがままにひれ伏すイメージです。
程度の差はあれ、権力を持つ割合の多い上の世代の空気に下の世代は影響をうけます。日本で多くの共感をうみ、大ヒットしたこれらの傑作から見えてくることは、世代によって細かい違いはあるにせよ、全体的には、この諦めと個人の無力感、虚無感、長いものには巻かれなさいという雰囲気が社会の背景としてただよっていると感じている人が相当数いるということです。
今の日本の雰囲気の出どころは、1960、70年代におこった全共闘などの学生運動の挫折や、新左翼の行き過ぎた活動がもたらした「内ゲバ」事件、とどめには、自らした言動に責任をとるということを示した「三島由紀夫の自決」が影響している可能性を見出せます。
当時、市街で暴動をおこし体制反対をとなえていたのに、旗色がわるいとなると体制側に寝返り、あっさり体制側の大企業に入社し、なんの葛藤もなくスムーズに働くということは、図らずも「さしたる主張がなく、閉鎖的な日本での鬱憤をはらしたいだけだった」ということを証明するかたちとなったこと。
当時あれだけ、市街で暴動をおこし体制反対をとなえていたのに、旗色がわるいとなると体制側に寝返り、あっさり体制側の大企業でなんの葛藤もなくスムーズに働くということは、図らずも「さしたる主張がなく、閉鎖的な日本での鬱憤をはらしたいだけだった」ということを証明するかたちとなったこと。
ついで、「三島由紀夫の自決」が暗に含む「失敗は仕方ないが、自分のした言動の責任も取れないほどしょぼいのか?」というようなメッセージと、かれのとった突飛な行動もなおさら、自分らしく生きる勇気にたいして素直に評価できない空気感、勇気なんていらないから窮屈でも目をつむって多数派となって安堵する閉じた姿勢を正当化しやすい空気感を日本に残してしまい、今日の日本でも相変わらず漂っているのではないかと考えられるのです。
ついで、「三島由紀夫の自決」が暗に含む「失敗は仕方ないが、自分のした言動の責任も取れないほどしょぼいのか?」というようなメッセージと、かれのとった突飛な行動もなおさら、自分らしく生きる勇気にたいして素直に評価できない空気感、勇気なんていらないから窮屈でも目をつむって多数派となって安堵する閉じた姿勢を正当化しやすい空気感を日本に残してしまい、今日の日本でも相変わらず漂っているのではないかと考えられるのです。
どこか虚無的な、「どうせ自分がどうこうあがいたところで、結局なにも変わんないんだ」という気だるさがデフォルトになってしまっている。過去の、「自分らだまって閉じた環境で勝手に大事なこ決めてそれを押しつけるな」という異議申し立ての試みが失敗したというより、その後にとった節操のなさの歴史が、勇気にたいしてやや斜めにみる雰囲気、問題となっているものに目を向けずに距離を取ったまま傍観する姿勢、社会でおきている問題に蓋をしてみないようにする、という日本で時代をまたいで漂っている空気に影響を与えなかったとは言い切れないとおもいます。コロナ禍により若者の節操のなさを指摘するような風潮がありますが、この節操のなさは今にはじまったことではないということです。
勇気への誇りの歴史
このような日本の雰囲気とは対照的なのが今の台湾です。
台湾は1987年まで戒厳令がしかれた独裁体制でした。それが、1990年の野百合学生運動からはじまり、2014年のひまわり学生運動では自由を内容に含む要求を立法院に認めさせた成功経験をもちます。「上から一方的に与えられた命令に従うのではなく、多様な意見を示し、共通の価値観を生み出せることが可能である」という実感は、台湾の市民に自発的なビジネス・文化・社会貢献といった市民ひとりひとりの活動を活発に促しています。
台湾は1987年まで戒厳令がしかれた独裁体制でした。それが、1990年の野百合学生運動からはじまり、2014年のひまわり学生運動では自由を内容に含む要求を立法院に認めさせた成功経験をもちます。「上から一方的に与えられた命令に従うのではなく、多様な意見を示し、共通の価値観を生み出せることが可能である」という実感は、台湾の市民に自発的なビジネス・文化・社会貢献といった市民ひとりひとりの活動を活発に促しています。
社会の多様性をどんどん進めていくなかで、政治家系出身でもない女性の総統(日本における総理大臣)である蔡英文(ツァイ・インウェイ)を選出するにいたっています。彼女は既存の枠組みにこだわらず有能な人材を登用し、デジタルを駆使して双方向のやり取りを重視しており、ありがちな権威主義におちいらない姿勢と、実際の行動などが注目されており、中国のおまけであった台湾の存在感は日増しに世界で増し続けています。
日本の雰囲気とは反対に、一人一人が勇気をもって多様な意見を示し、そのために傾聴の必要性を認識しているアクティブでオープンな雰囲気と「自分たちの意見や理念は自分たちで決めたい」という権力の従属物化を拒絶する矜持がみられます。これが、実際に中国からの独立への挑戦というかたちで行動に示されています。台湾は日本がアメリカという大国に頼ることと同じように中国の看板のうしろに隠れていたい誘惑はかなりつよいはずです。この違いはどこからうまれたのでしょうか?
分岐点のひとつの要因
最近亡くなった台湾最後の独裁政権の総統であった李登輝が1990年に起こった野百合学生運動にたいして、どのような態度をとっていたのかがわかるのが次に引用した文章です。
学生たちは国民大会(当時、立法院とは別に存在した民意代表機関)を改革したいと訴えていましたが、実は李登輝も同じような考えを持っていたことがわかりました。「私はあなたたちより年上で様々な経験をしてきた。だから私の言うことを聞きなさい」というような高圧的な態度では決してなかったからです。
李登輝は学生たちと平等な立場に立って対話していたので、座り込みをしていた学生たちには、「自分たちが民主化のプロセスに参加している」という達成感がおそらくあったと思います。事態はそれほどすぐに改善したわけではないのですが、学生たちは少なくとも「自分が参加したことによって、少しずつ変化が起き始めた」という実感を持ったのだろうと思います。
オードリー・タン『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』 株式会社プレジデント社
個人が意見を出し合うだけでなく、権力をもった独裁側の人間が「「私はあなたたちより年上で様々な経験をしてきた。だから私の言うことを聞きなさい」というような高圧的な態度では決してなかった」、という部分はかなり意外です。これは、まさに対話の場が現れる前提の一つであり、わざわざ上の立場の人間が意思しないかぎり用意できない姿勢だからです。
というのは、日本では、表面的は民主主義をたてていますが、自分の立場が少しでも上になると露骨な発言はないにしろ「「私はあなたたちより年上で様々な経験をしてきた。だから私の言うことを聞きなさい」という半人前扱いや、上から目線になりがちだからです。政治家は最近は嘘で取り繕うことさえ面倒になってきたのか、「黙って上のいうことに従え」という態度が露骨になってきました。
このような態度をとられては、ことなる意見が出会うことで自分の視点が広がる対話の場が消えうせ、人をしらけさせます。また、一人一人をはなから信頼していない見下した態度を取っていては、官民の信頼関係など先ず期待できないでしょう。そのような態度はいくら表面的に言葉で取り繕っていても感じ取れてしまうものです。人間はそんなにあほではないからです。
年齢、地位にかかわらず、大切だとおもうことのために自らの意見を責任をもって示し、上の立場のものは対等な立ち場を対話に用意する姿勢をとり、問題から逃げずに共通の価値観を生み出すための試行錯誤していくこと。この精神が模範となり、下の世代に引き継がれるなかで洗練されていき、2014年には、当時台湾との間にサービス貿易協定を締結しようとし政府にたいして学生たちがした「ひまわり運動」が実を結ぶ大きな要因だったようです。結果として、「台湾のインフラに中国は入れさせない」という明確な意思表示を実現するにいたります。
オードリー・タンによれば、この時の経験により、台湾の人々は「デモとは、圧力や破壊行為ではなく、たくさんの人に多様な意見があることを示す行為である」ということに気づき、それにより官民の対話が増え「政治は国民が参加するからこそ前に進めるものなのだ」と皆が実感するようになったそうです。行動し、失敗をつみかさねようやく成功し、その成功体験で気づきをえられてはじめて、お勉強の知識をこえて権利や自由という言葉がはらに落ち、身になったということです。
上下関係がある公の立場と、平等である私的な立場、この二つを区別をする能力と、対話の場を用意する能力、上下関係によって委縮せずに意見を示す勇気、これらはみな個人の能力です。このあたりに日本と台湾の雰囲気に違いをうんだ要因があると私は思います。おなじアジアで、同じように大国の圧力があるなかで、自発的と受動的、活発で寛容な社会と冷めていて閉塞的な社会の分岐させるにいたった要因です。
内なる壁
「私」を取りもどして社会に突っ込んでいこうと決意したはいいものの、舞台となる日本では、社会からみた評価を絶対視する空気感が漂います。たとえ今の生活に、意味ややりがいを見出せていないくても、仕事をしている状態やお金を稼いでいる状態をある程度手放してまで、「私」を取りもどすために時間とお金を使うことはいかがなものかと、いう空気です。この空気におおわれているうちに、せっかく心に芽生えた「なにかを始めよう」、「自分に向き合おう」という気持ちがみるみるなえ萎んでいくようです。
そんなとき、「私」をあきらめた人に相談してしまうと、ちょっとした悲劇がおこります。うえから目線の説教か白眼視をちょうだいしてしまうからです。「いつまでも子供じみたこといってないで(わたしみたいに)「大人」になれ」という内容の説教や諦めの美学です。
しかし、その人の説教がその人の考えというよりは、日本の多数派が意見であり、言われなくてもすでに知っています。その「常識」を実践した結果が残念であったがゆえに、自分を取り戻して自分らしく生きたいと思うに至った人の場合は、なおさらかれらの意見は軽薄に映ってしまいます。自らしごとを生み出している人、主体的に社会に関わっている人は、一概に否定するほどナイーブではありません。
このように社会にでると、今の地位を捨ててまで自分の可能性をあらためて広げていくことや、新しいことに挑戦すること、開拓していくことにたいして、日本の世間の評価はおそろしく悲観的であることを実感する機会が増えます。この空気感が、気持ちを閉じ込める見えない壁のようにそびえたっています。
一方で、「諦める」という言葉はかなり昔から浸透している示唆に富んだ言葉のような気がするのも確かです。ただでさえ自分に向き合い、生き方を軌道修正するには力と勇気を要しますので、不必要な自責は減らしたいものです。そこで、「諦める」という言葉について、すこしみていきたいと思います。
仏様は究極のマイノリティー
「諦める」という言葉は仏教用語からきている言葉です。江戸時代では当時の言葉の大部分が仏教用語からきていることからわかるように、仏教の教えが世界への見方に影響力をもっていました。
江戸時代は、身分制度が合法だったので、権力者であった徳川家にとっては、この制度に反発されたら大変です。そのため、この「諦める」という言葉は、儒教道徳とセットにして、わりとよく使われてきたのではないかと考えられます。また、諦めた結果をみても、生活の糧は身分制度が、精神的な満足、慰めは身分制度と仏教や儒教道徳の権威が与えてくれていました。
しかし、今の日本には中世的な経済・社会構造はもうありません。今の日本で、この仏の教えである「諦める」ことは、自分として感じ、思い、考え意思し行動すること、そうやって社会とかかわりながら活動をすることも、「諦めろ」という教えなのでしょうか?
仏様は、2500年ほど前にインドにいた”ゴータマ・シッダールタ”という実在の人物への敬称です。かれが仏様と呼ばれるにいたった経緯をみることでこの問いの真偽が見えてきます。
仏様は、今はインドがあるあたりの小国の王子でした。そんな彼が、優雅で安楽な城から一歩そとに出てリアルな人々の日常生活を見た時、人々の生活には、悩み、老い、病そして死という苦しみが溢れていることに気がつきショックをうけます。自らの無知を自覚したかれは、一念発起し王族の地位をすて放浪の旅にでます。そのなかで、世界を自らの目でみて感じ考え、様々な試みを自ら実際に行っていくなかで、人間として生きることの神髄を悟ります。その考えが、多くの人の傷ついたこころを癒し、気づきを与えたことで尊敬を集め、それが人から人へ引き継がれていくことで今日の日本にある仏教まで流れつきます。これが、簡略すぎるとの批判を承知のうえで、かれが日本で仏様と尊敬されている経緯です。
もし、「諦める」という言葉が、既存の権力や、世間といった「匿名の権威」に盲目的に服従しろ、という意味であるなら。仏教は存在しません。なぜなら、彼が、王室をでたことも、放浪したことも、新しい考えを他のひとに伝えることも、当時の権威や「世間」からしてみればありえない行為だったからです。
かれはまさしく、「世間」の建前が先行しただけにすぎない「あるべき自分」にとらわれず、多様な視点をもつ人々と実際に接し、世界を自らの目でみて、みずからの感覚、感じ方、思いとを照らし合わせながら既知の教えを吟味して血肉としていったのです。仏様は人類史で自分を取り戻し、自分らしく生きるなかで、社会と関わった偉大な先駆者の一人だったわけです。
彼のしたことや考えは、当時の「世間」からみたら「普通」ではなく、想定外でコスパの悪い「世間知らず」な行為であったはずです。少なくとも、誰もそんなことしたことも、考えたこともないことを実践したのですから。考えを人から尋ねられたときに、彼の意見はマイノリティどころの騒ぎではなかったはずです。彼が自分を信じ、自分らしく生きることを勇気をもって実践したからこそ、その過程があったからこそ生まれた彼らしい言葉に説得力を感じ、共鳴し、彼を手伝いたいというひとが彼のもとにあつまり気の遠くなる歳月をこえて人から人へ伝えられてきたのです。
民主主義も個人主義の発想もない閉鎖的な部落が中心の紀元前4,5世紀(2500年前)に、「私」として生きたることを実践したかれの勇気と度量、そして知性には改めて驚かされます。
「諦める」とは、盲目的に信じてきたものに光をあて、明らかにするという意味なのです。
「クリエイティブシンキング」と「アドボカシー」
この仏様が実践した考え方をみていくと、先ほどマイノリティ思考で取り上げた「クリティカルシンキング」に加えて「クリエイティブシンキング」という思考法がみてとれます。
台湾デジタル担当政委員(閣僚)で、新型コロナ禍においてマスク在庫管理システムを構築し、世界から注目を集めている人物にオードリー・タン(先ほど引用した人)という人物がいます。かれは、15歳で中学校を中退し、プログラマーとしてスタートアップ企業を数社を設立したのち、33歳でビジネスを引退し、2014年アップルデジタル顧問に就任、現在は台湾政府で政務委員として働いている異才です。
批判的思考というと、人を単に批判することのようにとらえる人がいますが、そうではなく、実はまったく異なります。「クリティカル」とは、決して相手を批判するのではなく、自分の思考に対して「証拠に基づき論理的かつ偏りなく捉えるとともに、推論過程を意識的に吟味する反省的な思考法」という意味です。要するに、クリティカルシンキングとは、物事をクリアに捉えるための思考法なのです。父はこのような考え方で私を教育していました。
これに対して、母はクリエイティブシンキングを重視していました。クリエイティブシンキングとは、「既存の型や分類にとらわれずに自分の方向性を見つけていく」思考法です。
母が教えてくれたのはこういうことです。わたしの考えがたとえ個人的なものであっても、その内容を言語で明確に説明することができれば、同じ考えを持った人に必ずめぐり会うことがことができる。すると、私が考えたり説明したりしたことは、単なる個人の考えではなく、公共性のある考えになり、同じ考えや感覚を持つ人が「どうすれば,よりよい生活を送れるか」をともに考えるきっかけになる。いわゆるアドボカシー(社会的弱者の権利や主張を擁護、弁護すること)に発展するというのです。
このように、両親はともに「子供の好奇心を抑えつけてはいけない」という強いポリシーをもって、私を育ててくれました。
オードリー・タン『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』 株式会社プレジデント社
「クリエイティブシンキング」とは、「私」がどう感じ、それをもとにどう思い、考えか、を説得力のある言葉で社会へ示すことで、社会的弱者の権利や主張を擁護、弁護する活動である「アドボカシー」へとリンクしていきます。「私」として社会とつながっていくということは、けっして絵空事ではなく、人間の成長・発展の過程の延長上にあるのです。
そのような身近な大人の配慮や影響によって彼の才能は、まさに仏様と同じよなプロセスで開花していきます。そして彼も仏様とおなじように「私」を確立させたのち、社会の中で目覚ましく活躍することになるのです。この順番がとても意味深く教訓的な理由は、第5章「歪んだ「正常」への過適応」でとりあげたとおりです。ちなみに彼は、先ほど紹介した台湾の蔡政権が、既存の枠外から登用した人物の一人です。
仏の最後と煉獄杏寿郎の最後
中国の僧ダライ・ラマと同じように、西洋アジア問わず尊敬を集めているベトナムのテクナット・ハンという禅宗僧がいます。かれはアメリカで9.11のテロ後に広まったアメリカ市民間で巻き起こったイスラム圏のひとびとへの不和や不安の感情にたいするアドバイスをもとめられて、ホワイトハウスで講演をしています。
もし仏様が、問題(テロは圧制の一つです)に目をつむり諦めろといっているなら、そのような活動はなかったでしょう。つまり、仏様のいう「諦める」とは、支配欲や消費欲もしくは虚栄心といったナルシシズムにこだわることへの諦観であって、自分の能力である個性を成長・発展させていくことを実現することや、活動することを個人に諦めろと言っているわけではないのです。かれらの実践していることはむしろ逆の行動です。
「サイの角のようにただ一人歩め」という言葉があります。これは、仏様が臨終の際に、弟子に残した有名な言葉です。サイ(動物のさいのつのは一本だけです))の角のように、これからは自分の目でみて考え、それをもとに決断し、自分の足で自分の人生を歩いていきなさい、というような意味です。ここでいう一人とは、他人との連携を否定している意味ではなくて、精神的な意味で群れるな、精神をすてて何らかの権威に盲目的に服従するなするなという意味です。これは、まさに精神の自由と同義です。
一見厳しいようにみえる仏様の言葉は、自分を尊敬する弟子たちに「あなたたちはもう十分無力ではない、もうこれからは私に縛られることなく、あなたらしく成長し生きなさい」という遺言だったわけです。それは、仏様が人生を通して、実践したことでもありました。彼は、弟子を切り捨てたのではなく、「信じてる」という内容を伝えることにより、教条化してしまい不自由になりがちな立場にある弟子を自由にしたのです。
『鬼滅の刃』の鬼滅隊の炎柱、煉獄杏寿郎が最後に弟に伝えた「自分の心のまま正しいと思う道を進むよう」という言葉と重なってくるようにわたしには思えます。
ご先祖様からのgoサイン
近代以降における民主主義の脆弱性を指摘したフロムが生まれる、約2400年も前に仏様はすでに同じ意見にたどり着いていたというのは驚きです。
フロム・・・エーリッヒ・フロム。20世紀を代表する社会・心理学者。全体主義についての『自由からの逃走』と『愛するということ』は世界的ロングセラーで、2021年現在、後者は日本でリバイバル中。筆者がこのシリ―ジでメインに参考としている。
わたしたちの社会制度である、民主主義と政教分離という社会制度は、西欧で考え出されたために、キリスト教の倫理に大きく影響されています。民主主義は個人の質を高め、個人が自発的に社会と関わることで、はじめて機能が維持できる制度です。でないと必ず権力者が得し、弱者が無関心と無力感をかかえ、いいように使われる仕組みとなっているからです。「能力」がある人が勇気をもって社会で活動することでかろうじて現状維持できるシステムであるともいえます。
ヨーロッパの人たちのなかで、仏様に敬意を抱いているひとが少なくないのは、仏様の教えの本質がキリスト教倫理(福音)の本質と似ている部分があるからです。それは、それが呼び方が慈愛であれ慈悲であれ、人間の尊厳・主体を肯定している点です。
今の日本で生きるわたしたちが、「私」を取り戻す活動や、「私」を社会で表現したり、「私」として社会とつながりを生み出していく活動は、仏様を信じてきた私たちの日本人の先達への裏切でもなんでもなく、むしろ、彼らが信じたひとのもっとも大切な資質を引き継ぐことであったわけです。
「私」を失ってしまった「鬼」のようなひとの「諦め」をかたる呪いの言葉には惑わされたくないものです。
「頑張れ、頑張れ炭次郎」は超大事
「私」を取り戻すことも、「私」として生きることと同じように勇気がいります。勇気とは「あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望を受け入れる覚悟」(エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:188項)です。フロムは世界中でベストセラーとなった著書「愛するということ」のなかで「愛するということ」ができるためにはこの勇気が必須であると述べています。なぜなら、相手にあたえている大切な要素が自由だからです。彼は勇気についてこうも言っています。
安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念を持てない。防衛システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことで安全をはかろうとする人は、自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛さされるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値に全てをかける勇気である。
エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:187項
これは、人生を投げ出してしまおう、という人生にたいする破壊的な態度である蛮勇とはちがいます。「世間」がどういおうが、心・身体の声に耳をすまして、休息が必要なら、休むことも、場合によっては、撤退して体勢をととのえる決断をすることもまた勇気です。
元NHKアナウンサー・元公益財団法人JKA(旧・自転車振興会)会長であり、作家の下重暁子氏はかなり遅咲きで作家になったひとです。彼女は、自分を信じることについて、「おめでたい才能」という表現でこう言っています。
なんの根拠もないのに思い込めるって、ある意味おめでたいわよね。でも、それが大事なの。馬鹿みたいにそう思える「おめでたさ」を持つ才能。人間っておめでたい才能ってあるんですよ。
――――やりたいことがあるんだったら、おめでたい才能を伸ばしてやるの。そのためには「きっとできる」って自分に期待をかけ続けてやるのが大事なんです。
下重暁子氏『不良という矜持』自由国社:54項
卑屈が「どうせ」という言葉を使い、想定内のそろばん勘定的しかできないのにたいして、勇気は「まだ」という言葉を使い、新たな可能性も視野にいれます。ロールプレイングゲームの主人公の職業が、みな勇者であるのはそのためでしょう。なにも新しいことが起こらず登場人物になにかしらの変化も期待できないロールプレイングゲームなど、だれもやりたいとは思わないはずです。サッカー選手の本多啓介氏は、努力が裏切らないと自分が言う真意は、結果ではなく成長のほうが約束されているからだと言っています。
『鬼滅の刃』では主人公の炭次郎が足が折れているなかで、鼓の鬼、響凱(きょうがい)という強敵と戦うシーンがあります。その戦闘中、くじけそうになった炭次郎がおのれを鼓舞するこんな言葉があります。
「頑張れ、頑張れ炭次郎、頑張れ!!俺はいままでよくやってきた!!俺はできるやつだ!!そして今日も!!これからも!!折れていても俺がくじけることは絶対にない!!」
アニメ『鬼滅の刃」第十二話 『イノシシは牙を剥き 善逸は眠る』:より引用
これは、まさにくじけそうになったときに覚悟を改めてし直し、勇気を奮いたたせて「私」を支えている描写です。自分を100パーセント信じるこができる存在、自分を丸のまま受けいれてあげられる存在は自分しかいません。この勇気をふるい立たせることができるかどうかが、自分をを取り戻す、もしくは、自分らしく生きるなかで必ず訪れる、逆境をのりこえて先に進めるかどうかを左右することになるのです。
炭次郎とリアム・ギャラガーのアティチュード
世界的ロックバンド・元OASISのボーカルであったリアム・ギャラガーは、かれの歌はへたくそだという批判を受けたさいに、「俺はアティチュード(attitude)を歌ってるんだ」という発言を残しています。
彼の言う「アティチュード」とは、自分の意見を示す姿勢であり、覚悟の現れを意味します。どういう覚悟の現れかというと「自分が自分であること」への覚悟です。「自分が自分であこと」への揺るぎない覚悟に、自信を失いかけている聞き手は励まされ、共感し、強化され、共鳴する。これがおそらく、ロックが他のクラシックやオペラ、ポップスとは別ものとして、今も愛されている理由ではないかと思います。彼の歌声は確かにキレイではなくラフですが、たしかに技巧云々の次元をこえたエネルギーの高まりと説得力を感じます。
これはロックスターのようにすでに大成した人にだけに当てはまることではありません。『夜と霧』の著者のヴィクトール・E・フランクルは次に引用した文章でこういっています。
そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。
ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子 『夜と霧』 株式会社みすず書房
この覚悟のあるなしが、人間の「生」の実感に大きく関係しています。
フランクルは強制収容所で自らが経験した、もう回復の見込みがない末期の病人のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無という極限の状況下で、名前でさえも呼ばれない境遇におかれようとも、人は「どのような決意をするか」によって、その人自身のみならず、周囲の人たちにさえ影響をあたえうることを、目撃したからこそ、この文章は生まれています。
「私」はこう生きる、ということの現れである覚悟をもてるかどうか、それが勇気の内容であり、生きている実感を得られるどうかのカギを握っているのです。
「孤独」は万人に通じる道
とはいえ、勇気は時にくじけそうになるのが人間です。このとき、忘れてはならないのは、個性があるということは唯一無二という意味で孤独な状態ではありますが、孤立ではないということです。
こういう時に助けとなるのは、「私」として社会で活躍している、もしくは、そう生きた先人の生きざまに触れることです。コロナ禍が落ち着きだしたらの話になりますが、生きているなら会いにいってみる、言葉を残しているなら読んでみる、残した仕事や芸術作品をみにいく。そういう苦しい状況で出会った人や言葉や作品だからこそ、今は正直しんどいけど確かに先があるんだ、というイメージを授けてくれ、確かなつながりを感じさせてくれます。
そしてその経験が、さらに「私」を助ける「信念」を強めてくれるはずです。偉大な人や、憧れる人と自分も、人である以上、個性を持った孤独を背負った存在である点は同じだからです。実際に人と会う以外は、人と直接ふれあう経験ではありませんが、その前提となる人間存在への信頼にたいする土台のようなものになってくれます。それが、実際に自分らしく人とつながる道へ通じていきます。
『鬼滅の刃』はそんな勇気の側にいます。それは、わたしがあえて言うまでもないでしょう。炭次郎たちが隣で「がんばれ、がんばれ、おまえはすごいやつなんだ」と、伴走してくれていると思えばこころ強いじゃないですか。
動物行動学者で京都大学理学部長を務めた日高敏隆は、こんな言葉をのこしています。
大事なのはシステムではない。なんでもやってみなさいよ、というのがぼくの基本的な立場だ。
会いたい先達がいたら、素直に直接ドアをノックしてみるといい。
案外、その人は、あとに続く世代を引き立てたい、訪ねてくる人にはいつでも会おうと思っているかもしれない。
そのようにして、人はつながってきたと思うし、ぼくもそうしてきた。これからも、それは続けばいいのではないだろうか。
日高敏隆『世界をこんなふうに見てごらん』集英社文庫
孤独が重みを持つのは確かです。しかし、だからこそ、人は、同じように「私」を切り離すことなく背負っているもう一つの「孤独」に気が付くことができるようになります。気がつけるとほっとするし、建前や打算をこえて、その人が不思議と知りたくなり、その人が分かり始めてくると嬉しくなります。「ああ、あれはそういう事情があったからなのね」といった具合にです。この深さの共感ほど人を温めてくれるものはありません。この温かさがあるからこそ「私」という孤独はやっていけるのです。
『鬼滅の刃』という物語のなかには「自分らしさ」のメタファーがでてきます。次回は、その一つを浮き彫りにしていきたいと思います。
お付き合い、ありがとうございました。
参考文献
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
「愛するということ」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 鈴木 昌
[発行所]紀伊国屋書店
『不良という矜持』
[作者]下重暁子氏
[出版社]自由国社
『世界をこんなふうに見てごらん』
[作者]日高敏隆
[出版社]集英社文庫
Updated on 4月 22, 2021
『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その4 『鬼滅』炭次郎からみる才能開花の秘訣
こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「『鬼滅の刃』からみる人生を後悔しない方法」をおおくりします。
前回の投稿で、自分らしさを取り戻す方法である、「理にかなった信念」を深めていく作業を我妻善逸のマイノリティ思考を参考に見てきました。
今回の投稿では、『鬼滅』の竈門炭次郎を見ながら、主体の再構築の過程を探っていきます。
では、さっそくいってみましょう。
『鬼滅』炭次郎からみる才能開花の秘訣
ところで、「理にかなった信念」は一体どこまでの深さを信じる対象としているのでしょうか。
フロムは「発達しないかもしれない潜在能力」についても、「信じる」内容であるとしています。例えば「人を愛するとか、幸福になるとか、理性を使うといったことにたいする可能性、あるいは芸術的才能のようなもっと特殊な可能性」も含まれます。
注)フロム・・・エーリッヒ・フロム。20世紀を代表する社会心理学者。著書『自由からの逃走』『愛するということ』は世界のロングセラーとなり、今の日本でリバイバル中。このシリーズのメインの参考としている。
「今はまだないが」人は成長し変化するという、これからの可能性についてまで信じること。これは、西洋人の戯言でしょうか?
そんなことありません。神戸女学院大学名誉教授・フランス文学者・武道家の内田樹氏は創作及び教育について、このように述べています。
そして、経験的に分かったのは、人にほんとうの才能を発揮してほしいと思ったら、そのひとの「これまでの業績」についての正確な評価をくだすよりも、そのひとがもしかすると「これから創り出すかもしれない傑作」に対して期待を抱くほうがいいということです。
だから、僕が世間的には全く無名な人に対して敬意を表するのは、「この人がこれから創り出すかもしれないもの」に対する期待を感じるからです。
・・・そして、才能はしばしば「あなたには才能がある」という熱い期待の眼差しに触れたことがきっかけになって開花する。
才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれ」るんです。
内田樹:『そのうちなんとかなるだろう』:株式会社マガジンハウス
人の潜在的能力を信じることで「才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれ」るんです。」という言葉はすごい言葉だと思います。
ある程度、安定した会社の人事を担当しているひとが、やりたくても指標がないので怖くてなかなかできない内容でしょう。しかし、その会社そのものを起こした人物や初期のメンバーは、みな「これまでの業績」がなかった人たちでもあったことを考えると、「今はまだないが」人は成長し変化するという、これからの可能性は、信じられない絵空事ではありません。「これまでの実績」がないどころか前代未聞の大失敗をしたわたしたちたちの先人が、戦後の焼け野原からどのような光景を生むに至ったかというのも、一つの証明といえるでしょう。人の潜在的可能性まで信じることで「才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれ」る」という証明です。
『鬼滅の刃』では、すっかり自分を忘れてしまった鬼ですら、炭次郎の眼差しや態度によって、最後の最後の刹那ではありますが、自分らしさが息を吹き返します。他者へのまなざしだけでなくは、自分の自信へのまなざしにも同じことが言えます。たとえば、主人公の炭次郎が、自分より強い鬼と戦う逆境のさなか、自分自身を最後まで信じたことで、それにこたえるかのように彼の内奥から、「火の呼吸」という今までになかった能力が花開きます。
才能、意味、そして自分らしさといった人間ならではの能力は、信じることでそこで「生まれ」るのです。
洗脳と教育
フロムは社会心理学・精神分析学をツールとして、ナチズムなどの全体主義下の個々のパーソナリティを分析しました。その過程で、子どもの発達への影響も調べています。彼は子供の発達における数ある条件の中で、最も重要なものの一つとして「子供の人生において重要な役割を演じる人物が、そうした潜在的可能性にたいして信念をもっているかどうか」が重要であるとしています。
これは、子どもの身近にいる大人が「信念」をもって子どもを一人の人間として見れているかどうかが、子どもの発達に大きく影響をあたえるということです。つづけて、教育と洗脳の違いをこう説明します。
その信念があるかどうかが、教育と洗脳のちがいである。教育とは、子どもがその可能性を実現していくのを助けることである。教育の反対が洗脳である。これは、子どもの潜在的可能性の成長に対する信念の欠如と、「大人が望ましいと思うことを子供に吹きこみ、望ましくないと思うことを禁止すれば、子どもは正しく成長するだろう」という思いこみに基づいている。ロボットに対しては信念を持つ必要はない。ロボットには生命がないのだから。
エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:185項
もし子どもに対して親が、「子どものためを思って」といいながら、子どもの意思に反して親の思い通り習いどことをするように仕向けたり、干渉したり、何らかの医者などの分かりやすく世間体の良い職業につくことを押しつけた場合、その親は「子どもの潜在的可能性の成長に対する信念の欠如」している親であり、教育ではなく洗脳を施していることになります。
そもそも、意思に関連した能力が発達途上にある段階の子供に、その親がそれまでの年月で経験した結果から得られたやり方が合うはずだ、決め込んでいるところからズレています。子どもは、子どもの前に一人の個性を持った人間です。そのひとが過去に辛い思いをし、処世術としてそれが有効だと実感したからでしょうが、これでは、親の期待に応えるために「子どもがその可能性を実現していく」ことができなくなってしまいます。
子どもが従順な場合、親にほめられたい一心でマゾヒスティックな我慢と努力をするでしょうが、その結果、その子どもを萎縮させ、関心が発動しなくなったり、命令されなければ動けない受動的性格を強化してしまいます。そのどもが成長し、権威に従順になり、盲信的に服従する人間になるのも、社会に無関心になり逸脱行為に走るのも、無知で無力な子ども時代に、こどもの意思への配慮た欠けた親や大人のコントロール指向に端を発している可能性がおおいにあるのです。
ヒトラーの教育観と少年スポーツの指導者
例えば、少年野球チームに小学校の低学年の子どもが入っているとします。
まだその年齢の子どもは意思が発達途上にあるため、本当に心から野球が好きだからやっているという子どもは稀で、野球を特別好きでやっているという信念は特になかったり、ただ仲が良い友達がやっているからとか、野球がすきな親が自分にやることを期待しているのを感じ取ってほめてもらいたいからであったり、親が兄弟がやっているところに、たまたまついて言って参加させられ、野球の人気がその地区ではなく、その少年野球チームの存続を気にしている大人のことを同情して断るに断りきれなくなったりして入った、というレベルのものが大半です。
まだ低学年の子どもは、まだ自分の自信への認識が固まっていません。いいかえれば、自分が一人の人間存在として他者と対等な存在であること、自分は独自で独立した存在であること、といった認識が発達途上にあります。
その発達途上の子どもにたいして、意思が十分発達したプロや、それに準じた高校生に近いレベルの規律や、監督との絶対的な上下関係を、その野球チームの指導に就いている者が要求してしまった場合、子どもの自分自身への認識に大きな影響を与えます。「自分自身の存在はただそれだけで善い存在であり、他の人間存在と平等である」という認識を獲得する前に、命令をする監督をした人間が「上」であり、命令に服従し、それに従えばほめられ、背けば侮辱される自分は「下」であるという認識を得てしまうことになります。言い換えれば、この認識は、「私」という存在よりも、上下関係のほうが重要で、外からの権威のほうが「上」であるという認識です。
日本は、同調圧力が強く、それは、子どもであっても同様です。少年野球チームで、「外からの権威からの評価は自分より「上」で、自分の存在は「下」である」と学ばされているその子どもにとっては、「みんな」が「上」で「私」が「下」という結論に行きつくことは容易です。「みんな」という自分より「上」の存在から目をつけられないようにするには、その子どもは、集団の平均であることを望むようになってもおかしくはないでしょう。
この子どもが大人となり、「世間」にびくつくす自分にうんざりし、「私」として生きようと志した場合、彼は、まず、自分の存在がただそれだけで良いものであり、「世間」は「上」の存在で「私」は下の「存在」であるという誤った認識を剥がすことが必要になってきます。しかし、その認識の根拠は、幼い頃に少年野球チームの監督をしていた人間は「上」の存在であり自分は「下」の存在であるという認識をもとにしているので問題をややこしくします。
児童期の記憶のなかで信頼していた大人のイメージは、相当に理想化されていますので、自分の自己肯定感の低さが、まさか少年野球チームの監督をしていた人間の犯した誤った子どもへの態度が原因である、ということに気がつくのはなかなか難しいからです。しかし、その人が「世間」や「他者評価」に委縮しないで自分で決断できるようになるためには、いまの大人になった自分が、子どもだった自分がその指導人との関係で学んだイメージの誤解を解き、今の自分は他者と対等であり、「世間」が罪をあたえ罰を与えられる「下」の存在ではないのだ、という現実に即した認識にたどり着く必要があるのです。
仮に監督をしていた人間が、子どもに「勝ちたいか」と尋ね「勝ちたい」と言ったから厳しく指導したとしても、その指導者の過ちを正当化できるものではありません。「勝ちたいか」直にきかれて「勝ちたくない」と言う子どもはほとんどいないでしょうし、大人の期待に答えてほめられたいのが子どもの性だからです。
特に、野球は監督が選手を操作することが可能なスポーツなので注意が必要なはずです。試合中、まるで、少年たちにプロの監督気取りで次の動さを逐一指示する指導者がたまにみうけられます。この場合は、子どもの意思に配慮する責任以前に、お金をもらっているプロ選手と同じように少年を自由に動かしていいと勘違いしている点でより問題です。「子どもがその可能性を実現していくのを助ける」ことの反対が洗脳だからです。
学童に洗脳を施した指導者として、ヒトラーが有名です。かれの考えは以下に引用した文章に示されています。
個人を犠牲にし、個人を一片の塵、一個の原子におとしめることは、ヒットラーによれば、人間の個人的な意見や利益や幸福を主張する権利を放棄することを意味する。この放棄は「個人が自らの個人的な意見や利益の主張を放棄する」政治的組織の本質である。ヒットラーは、「非利己的なこと」を賞賛し、「ひとびとはみずからの幸福を追求することにおいて、ますます天国から地獄へ墜落する」と教える。自己を主張しないように個人を教育することが教育の目的である。すでに学童は「政党に叱責されたときに沈黙するだけでなく。必要な場合には不正をも黙って耐えることを学ばなければならない。」
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:255項
この抑圧と犠牲の哲学を身体の記憶で覚えてしまった児童が、成長し大人になり、どういう人間になったか、どういうことをしたのかはユダヤ人強制収容所「ホロコースト」が雄弁に語っています。
日本のスポーツ界で、とりわけ球技で、まだ意思や主体が未発達であり、そのぶん定まっていない児童の意思に配慮する責任を負うはずの大人が、教育と勘違いして、命令内容をミスした子どもをチームメイトの前で「そんなこともできないのか」「お前のせいで負けた」と叱責することや、プロテクターをつけさせて児童が泣くまで至近距離から強めのノックする「百本ノック」や、試合中ひたすら児童にテレビゲームのように次の動作の指示をくりかえし行い、挙句、その指示に従った結果で賞罰の対応をしてしまうような未熟なものが、いまだに指導者の席にすわっていないないことを祈るばかりです。
このように、児童期の親や少年スポーツチームの監督といった、子どもが絶対的な信頼をしている人からうける影響は、大人やそれに準じた高校生がうける影響とは比較にならないほど大きいものです。場合によっては、その人の生き方を自由にさせたり、一生窮屈に固定させてしまうことにもなるのです。
鬼より不気味な人間
ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作の伝記ドラマ映画『ハンナ・アーレント』という映画があります。この映画では、ドイツ系ユダヤ人の哲学者であり政治理論家のハンナ・アーレントを描くなかで、ナチスでユダヤ課のトップ行政官であったアドルフ・オットー・アイヒマンに対する実際の裁判記録映像が映画に挿入されています。
映像によって彼の不気味さがよくわかります。人類史上最も残虐な行為の責任者がサディストでも分かりやすサイコパスでもなく、まったくもって「普通」の小市民がおこなったことに世界はショックをうけたのです。これは、ハンナ・アーレントが「凡庸な悪」と名付けたことでも有名です。
『ハンナ・アーレント』監督:マルガレート・フォン・トロッタ:heimatfilm:2012年
礼儀正しいく律儀に規律をまもる妻子持ちのそこそこ社交的な人物、それでいて人類史上もっとも残虐で陰惨な行為をしている当事者意識が欠如しているアイヒマンほど、不気味な人間はいないでしょう。まるで、鬼でさえ当惑したくなるほど人間性に深刻な欠陥がある社交型ロボットといった感じです。
ナチズムだけでなく、旧ソ連体制下に起こった歴史が示すことは、精神の自由がない環境に適応してしまった人間の集団で「鬼より不気味な人間」がわりとよく見つかるということです。
注)市民の責任については「『鬼滅の刃』が少し引くほど大ヒットした理由とは? その8『鬼滅』富岡義勇と炭次郎からみる自由と服従」に詳しくかいています。よかったら是非。
欲望を愛だと教わったかつての子どもたち
この話題に関連して、もう一つ取り上げたいことがあります。親が子どもの意思を無視するネグレクトです。精神科医・作家の岡田敬史氏は、一見、ネグレクトとは正反対にみえる子育てを熱心にする親についても、ネグレクトが多くみられると指摘しています。
関りの量という点では、十分すぎるほどなのだが、質という点から見ると、問題が見えてくる。子どもの気持ちや求めるものに応えるという共感的な応答ではなく、ルールや基準に従って一方的に与えるという傾向が強いのである。子どもの側からすると、求めてもいないものを無理強いされることは、息苦しい体験になってしまう。それは、歓びよりも苦役といえるだろう。
ここまで考えると、一見、ネグレクトとは正反対の子育てにみえるものの、その実態は、子どもの欲求や感情、意思というものを”無視”するという点において、まさにネグレクト(無視)が起きているということがわかる。いや、意思とは無関係に強制し、子どもの主体性を侵害しているという点で、ネグレクト以上に過酷な虐待ともなりえる。それゆえ、問題が深刻な場合もありうるのだが、親も子もそれを自覚するどころか、”良い親”だと思い込んでいる。
岡田尊司:回避性愛着障害 絆が希薄な人たち:68項
「それゆえ、問題が深刻な場合もありうるのだが、親も子もそれを自覚するどころか、”良い親”だと思い込んでいる。」という指摘は重要です。先に述べた、自覚がないままに洗脳をほどこしている、少年スポーツチームの指導者と子どもの関係と同じです。親に「あなたのためよ」といわれた子供は拒絶することができないため、ダメージが大きくなってしまうのです。
ネグレクトは、「意思とは無関係に強制し、子どもの主体性を侵害しているという点で、ネグレクト以上に過酷な虐待ともなりえる」のですが、当の親は「”良い親”だと思い込んでいる。」わけです。つまり、親である私はそれによって子供を「愛している」、と思っているわけですが、実際なされていることは「教育ではなく洗脳」です。その行為が、その子どもがそのひとらしく成長することを喜んでおらず、ただただ自分の思い通りを押し付ける欲望の対象にしてしまっていることに自覚がありません。
このタイプの親が愛しているのは、目の前に現実にいる子どもでしょうか?それとも、その親が頭の中で夢想した子ども像でしょうか?その親が愛しているのは、目の前にいるあるがままの子どもでしょうか?それとも、親の期待するイメージでしょうか?その親はあるがままの子どもを愛しているのでしょうか?それとも、あるがままの子どもを無視しているのでしょうか?その親は子どもに与えているのでしょうか?それとも、子どもから奪っているのでしょうか?
子どもは愛玩の対象であるペットではなく、人間です。親が全てを管理できる幼い動物的段階を超えれば、その子どもはその人らしさを成長させていきます。愛玩の対象とすることは、その子供のその人らしさを無視し、自分の満足を得るための対象とみなすことにほかなりません。
例外なく子どもは、親が大好きで愛してもらいたいと願っている。そして、生活の全権を親に握られている無知で無力な存在です。子どもは、親と生活していくために、苦しく思っている自分の気持ちを悪いものと無意識的に否定し、親の自らへの態度(意思の無視)を肯定します。尊重とは反対の影響をあたえてしまうのが、意思の無視です。
この問題が「深刻」である理由は、自我の発達する前に行われた自分の自分自身(感情・感覚・思い)に対する身近な大人からの否定的な態度は、自分の感覚・感情への不信という歪んだ価値観となり、それが自分なのだと思い込んでしまうところにあります。それは「根拠のない信念」として内側からそのひとを縛りつづける呪いの足かせとなってしまうのです。
この子どもは、やがて成長し、子どもをもうけ、かつて自分が親からされたのと同じように子どもを愛そうとします。自覚がないままに、欲望のおしつけをを愛だと子どもに教えることになるのです。
文化の重み
このように、子どもにとって身近な大人から受ける影響は極めて大きく、子どもの発達を左右してします。最近は、プライバシーが厳しくなり、近所の人が子どもの面倒をみる文化がなくなったので、親からの影響がさらに大きくなっていると思います。岡田尊司氏によると、「子どもの気持ちや求めるものに応えるという共感的な応答」ができない親は、同じように子どもの時に、親から自分の「気持ちや求めるものに応えるという共感的な応答」をしてもらえず、「親の命ずるままにやらされてきた人たち」だそうです。
親が抱えた問題は、「あなたのためよ」と「愛」と語って下の世代に引き渡されてしまいます。親子の問題は、どちらか一方の未熟さで切り捨てられる問題ではなく、わたしたちの文化にかかわる問題なのです。
文化という言葉の重みは、まさにここにあります。下の世代は、上の世代の個人の成熟度に影響されるのです。古今東西、下の世代を見下す言動はよくみかけられますが、それは自分の「無能」さを露呈しているだけです。それは、無知で無力な自家撞着でしかありません。いつの時代も、子どもや若者は身近な大人の実際の価値観や言動、態度を模倣し学ぶ存在だからです。実際に身近にいる大人のふるまいのほうが、教育として上からあたえれる「きれいごと」よりよっぽど説得力、破壊力、影響力があります。そのなかでも、別格の影響力をもった存在が親なのです。
自分のしていることが子どもを捻じ曲げることだと分かっていて、それをする親は、少ないと思います。その人なりに頑張って一生懸命やっているはずです。しかし、子どもをもし本当に愛したいなら、その子どもがその子どもらしく成長することを喜ぶなら、まず親自身が自らの欲求や感情に向き合い、他人を自分の満足を得る対象としないような精神的な自立が必要となってくるはずです。
自分の気持ちに向きあうことは、かつての苦々しい感情も思いだしてくるかもしれませんが、少なくとも、子どもを捻じ曲げることをしない環境を用意できます。無関心ではなく、その環境を子どもに用意できれば、もう十分過ぎるほどにその親は、子どもに大事な環境をあたえられているのです。
親の子供への態度は、その親の自分自身への態度と一致します。だからこそ、その人が、親という役割の前に、一人の人間として、その人がその人らしく生きている必要が、健全な自己愛が、「理にかなった信念」をもって精神的に自立して生きていることが必要なのです。
炭次郎の洞察力
ところで、どっちでもいいという「世間」への丸投げをやめ、「私」をとりもどし、自分らしく生きることは、孤独の自覚を引き受ける経験でもあります。
「それでは、辛いよ」と思うひとがいるかもしれません。しかし、孤独と孤立は違います。これまでみてきたように、自分の個性を認識するにしたがって、他人にも個性があるということにより深く気がつけるようになります。その気づきが「未知なるもの」への関心うみだし、その関心が他者とふたたびつなげてくれます。寂しいから群れる、処世術的な「世間」体のために仲良くする、というのとは質的に違うつながりで世界に改めて開かれていきます。内的なつなががりが感じられる関係へ開かれていくのです。
なぜ、自分を知り「私」として生きることが、いままで自分と似たような人間としか見れなかった他者に対して、関心がわいてくるのだろうか、ということが述べられているのが次に引用した文章です。
根拠のない信念は、圧倒的に強くて全能のように感じられる権力に服従し、自分の力を放棄することによって支えられている。一方理にかなっ信念は、それとは反対の経験にもとづいている。ある考えに対して、理にかなった信念を抱くこともある。その考えが、自分の観察と思考の結果だからだ。他人や自分や人類全体の可能性に対して、理にかなった信念を抱くこともある。それは、自分の可能性の開花や、内的成長や、理性や愛の能力を、自分で実感しているからである。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木 昌訳:紀伊国屋書店:183項
「自分の可能性の開花や、内的成長や、理性や愛の能力を、自分で実感」していることほど説得力はないでしょう。逆からいえば、この実感がなければ、ほかの人がを個性をもった存在であるという認識はえられませんし、自他の区別の認識も腹から納得できず、上からそうしなさいという表面的な次元にとどまります。また、「私」として生きることは、模索していく苦労や失敗、挫折経験がつきものですが、この経験も同じように「私」引き受けて頑張っている他者に自然とエールをおくりたくなります。
竈戸炭次郎が富岡義勇に言った言葉を思い出してみると、「・・・「鬼」は人間だったんだから。おれと同じ人間だったんだから。」(アニメ『鬼滅の刃』第二十一話「隊律違反」より引用)というセリフがあります。炭次郎が「鬼」に対してすら同情ができたのは、今は鬼となり彼に宿る人間性(独自性・独立性)とそこから生まれる能力は眠りについているけれど、それは眠ってしまっているだけで、生きている限りなくなったわけではない、という信念があったからです。「鬼」が消滅する間際に「私」を思い出すことができたのは、表面的な部分には表れていない、眠ってしまっている人間性がある深さまで炭次郎のまなざしが届いていたからといえます。
これは、洞察力と呼ばれるもので、これも個人の能力であり、異なった視点をもつ人々と共通の価値観を見出すために必要な能力です。多様性のある社会とは異なった視点を人々の存在を前提にしているので、洞察力は多様性のある社会へ進むための大切な能力となっていきます。この洞察力も「自分の可能性の開花や、内的成長や、理性や愛の能力を、自分で実感している」度合いによるのです。
「理にかなった信念」が、自分の能力を肯定・発展させ、「私」として他者や社会とつながっていくことで安定をもたらしてくれるのとは対照的に、「根拠のない信念」は、個人の力に不信を向け放棄することで「世間」に同化していくことで安定をもたらします。他者や社会にたいして関心がうまれる心・身体の声を信じていない人に、他人の心・身体から生まれた独自の視点の存在を信じろというのは難しい話です。逆説的に聞こえるかもしれませんが、他者の話に傾聴できるためには、「私」として生きている必要があるのです。
炭次郎のまなざしは、一つの究極の姿だとしても、私たちにその方向へすすむことを妨げる理由はないはずです。
ちなみに、いま・ここにある心・身体をもった「私」は、生き物という繋がりで自然や宇宙と同じ理で動いています。いくら科学が発展しようが、宇宙の大きさからみれば人間の移動領域は夜空の一番暗い星よりもはるかに小さい。コロナ禍で人間のコスパ、単純比較、合理的思考、理性がここまで些細なものだったのかと実感したはずです。わたしたちが、日曜日の早朝に朝日を浴びて「ああ、気持ちいいな」としみじみ感じて伸びをするとき、わたしたち一人一人はこの大宇宙という自然全体とつながっているということができます。
この深い本質の部分では、大自然と他の人間と一個の人間である「私」がつながっている、と考える思想が西洋東洋問わず見つけられますが、なるほどな、と頷かされます。
ここまで、「理にかなった信念」を深め「根拠なき信念」から脱却することが「私」をとりもどす重要な作業であることをみてきました。このプロセスは簡単ではないかもしれませんが可能です。しかし、この過程をこなすには「ある大切なもの」が必要になってきます。
次回は、自分らしさを取り戻すために絶対不可欠な「ある大切なもの」を主人公の炭次郎をみながらあきらかにしてきたいと思います。
お付き合い、ありがとうございました。
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
『自由からの逃走』
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
『愛するということ』
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 鈴木 昌
[発行所]紀伊国屋書店
『普通がいいという病』
[著者]泉谷閑示
[出版社]講談社現代新書
『こころをひらく対話術 精神療法のプロが明かした気持ちを通わせる30の秘訣』
[著者]泉谷閑示
[出版社]ソフトバンク クリエイティブ株式会社
『自粛バカ』
[著者]池田晴彦
[発行所] 株式会社 宝島社
『そのうちなんとかなるだろう』
[著者]内田樹
[発行所]株式会社マガジンハウス
『回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち』
[著者] 岡田尊司
[出版社] 光文社
『ハンナ・アーレント』
監督 マルガレート・フォン・トロッタ
heimatfilm:2012年
Updated on 4月 11, 2021
『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その3 『鬼滅』我妻善逸からみるマイノリティ思考
こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「『鬼滅の刃』からみる人生を後悔しない方法」をおおくりします。
前回の投稿で、すっかり自分のしたいことがわからなくなり、自分を見失ってしまった「鬼」状態からいったいどうやったら脱却し、自分らしさを取り戻したらよいのだろうか?という問いを探っていくなかで「理にかなった信念」というキーワードと出会いました。
今回は、自分らしさを取り戻すために必要になってくる「理にかなった信念」を深めることとは一体何なのか、『鬼滅の刃』にでてくる炭次郎や我妻善逸をみながらを詳しく探っていきたいと思います。
では、さっそくいってみましょう。
『鬼滅』我妻善逸からみるマイノリティ思考
「理にかなった信念」を深める
では、どうやったらそのような「理にかなった信念」をもてるのだろうかという疑問がうかびます。「理にかなった信念」の中身である「信じる」ということは、外的な指標がないということです。貸したお金を返してくれるかどうかを、その人がお金がもっているかの外的条件を指数でマニュアル化したクレジットカードの審査、銀行のローンで使われるような「社会的信用」とは異なります。
「理にかなった信念」とは、「みんな」が認めているからとか、外的に与えられた資格があるから信じるという種類の信用ではありません。自ら感じたものから自分で考えたものや、経験と知識が一致することから得られる「腑に落ちた」理解によってえられる種類の信用です。
また、何らかの既存の考えや意見に対しても、鵜呑みにするのではなく、自らの経験と照らし合わして「腑に落ちる」部分とピンとこない部分を見分け吟味し、「ああ、これは確かに本当だ」と納得できたものから構成されています。
今まで便利な多数派の考えを要領よく取り入れてきた人にとっては、人によっては自覚的ですが、多数派の意見と自分の意見を混同している人も少なくありません。要領がいいとは、試行錯誤にかける労力を省くことを意味し、ほぼ無批判でとりいれるため、このような状態になりやすいのです。最近は、あまりに専門知識が分化し特殊になっているので、ごまかしやすいのですが、他人の借り着ではなく、自分の内なる言葉によって認識を深めていく作業なしでは信念はいつまでも深まりません。
例えば、気になっていた絵画の展覧会に行ったときに、まず解説をみないで、自分で見てどう感じ思うのかというのをしっかり味わい、自分の「いいな」と感じた部分は、たとえ解説とは違っていても「いい」と信じる。人は、認知バイアスという既知の情報に引っ張られてしまう性質をもつので、最初に玄人の意見を読んでしまうと視野が誘導されてしまいます。これでは自分で発見した喜びの機会が得られませんし、その意見を盲目的に取り入れちゃうわけで、これでは「信念」は深まりません。スノッブ(センスある人)は気どれても、センスは磨かれません。
ピンとこない部分へは、ありえないとするわけではなく保留する形をとります。このとき、なぜだろう?といった心からでてきた疑問がさらに世界とつながる結び目となってくれるので「理にかなった信念」を深めていく大切な動機をあたえてくれます。
この例で挙げた感覚や感性にかかわる美への感性は、教わるものではなく味わうことで磨かれ、自らのうちに蓄積され身についていきます。そういうことを繰り返していくと自分のなかで美への「理にかなった信念」、つまり審美眼がみがかれていき、キュレーターの解釈から自由になります。
対話する能力の土台
これは他人の意見を突っぱねるというものとは異なります。むしろ、自らの審美眼が育まれたことで、他者の審美眼に対して、自分との違いや距離感のようなものに気がつけるようになります。それが、好奇心や疑問といった対話をするための前提である、「知りたい」という気持ちの種となります。「理にかなった信念」を深めることは、価値観が異なる人を排除するわけではなく、先入観や思い込みにより狭くなった視野を広げていくための土台となります。
精神科医で対話を軸に精神療法をしている泉谷閑示氏は、多くの人が、「価値観の違う人とは会話をしたくない」と思ってしまう理由の一つをこう述べています。
「理解する」ことと「同意する」ことを、なかなか私たちは区別できずに、「わかる」という言葉のなかに渾然一体に放り込んでしまっています。この区別がついていないために、「同意」したくない場合には、人は「理解」しようとする作業をも放棄してしまうのです。
泉谷閑示『こころをひらく対話術 精神療法のプロが明かした気持ちを通わせる30の秘訣』:ソフトバンク クリエイティブ株式会社:62項
「理解する」と「同意する」ことを区別することで、「同意」できなくても「理解」のコースがちゃんと残るので対話が閉ざされるわけではないのです。「同意」を切りはなして「理解」をめざして聴いていけば、意外な発見やまさかの共通する価値観の発見もありえます。そしてこの区別をしながら対話をすすめるには、基地となるとなる「私」がしっかりしている必要がある。つまり「理にかなった信念」が深まっていることを前提としているのです。
「理にかなった信念」を深めていくことは、異なった意見をもつ人との対話をするために必要な、「私」という土台を構築する作業なのです。
漫画化・文筆家のヤマザキマリ氏は、思い込みで決め込むことについてこう言っています。
人というのは、どうしても自分の見たいように、思い込みたいように、解釈したいように他者を捉えようとする。だから自分の想定した規格に合わない人物が現れると、対処に戸惑い、苛立ちを覚える場合もある。そうした視の振り幅を極力しぼった狭窄的なものの見方は想像力を怠惰にし、いじめや戦の発生の起因にもなりかねない。
社会的な立場や役職でその人となりを決め込むのは楽だが、それに慣れてしまった社会がバランスを崩すのは歴史を振り返れば一目瞭然である。思い込みどおりではないものも受け入れられる社会と人間の成熟は、想像力の修練なしではあり得ない。
ヤマザキマリ『多様性を楽しむ』昭和に学ぶ明日を生きるヒント 小学館新書:184項
日本は宗教が強制されていない国なので、倫理は世間が担っているのが実情です。自分がない状態では、世間のおしつける「あるべき姿」やステレオタイプのイメージに服従することになり、必然的に、「社会的な立場や役職でその人となりを決め込む」視点が強化されてしまいます。「思い込みどおりでなないものも受けいれられる」には想像することができる「私」が必要です。
一見矛盾しているようですが、日本社会で増し続ける生きづらさ、不寛容への処方箋が、じつは、一人一人が「理にかなった信念」を深めて、自分に責任をもって生きてることなのです。
クリティカルシンキング・批判的思考
「理にかなった信念」を深めていく過程は、クリティカルシンキングと呼ばれる思考法と同じです。
クリティカルシンキングは批判的思考と訳されることがあるので誤解されやすですが、相手の意見をなんでも批判し否定するというという意味ではなく、自身の推論過程(考え)もふくめて、証拠や経験に照らし合わせて、意識的に吟味する内省的な思考方法のことをいいます。内省や対話によって自身の考え言葉によって深めるなかで、これは本当に自分の気持ちなのか、それとも知らず知らずに自分だと思い込んでいた「あるべき自分」なのかを「ほんまいな」と自問自答して再確認することで、考えの質を高められます。
権威や管理する側からあたえられ鵜呑みにしてきた情報、多数派というだけで実は妥当性があいまいなものへの信仰にも近い信用が「根拠なき信念」です。「あるべき自分」といった「根拠なき信念」たいして、おおよそが本当に自分の考えであると思い込んでいるらこそ、クリティカルシンキングは有効です。
「理にかなった信念」を深めていくことは、無機質な知識を、自らの感覚・感情経験とを結びつけることで認識を獲得していくことである、と言いかえられます。身になっていない情報は柔軟性にかれるため人を縛りますが、認識は人を自由にしてくれます。いまは正しいと信じているが、必要であるならばその考えに「ほんまかいな」と問をいれることで、バージョンアップできるゆとりがあるからです。
これを繰り返すことによって、いままで「世間」や「普通」、「みんな」といった多数派だからということで鵜呑みにしていた情報、その見方に縛られていた状態から、その情報を吟味できる自分が確立されていきます。なにより、自分の気持ちが表現された言葉や思い、考えは、よそからとってつけた考え思いよりも「重さ」をもち、聴く側に説得力を感じさせます。
心の声を遮っていたもの
少しずつ、絶対的なものだと思い込んでいた縛りが減っていくということは、意識と心・身体の間に何重にもなって重なっていた「ザ・あるべき姿」がのけていくということです。すると、心の声が聞き取りやすくなっていきます。
わたしたちは、言葉によって認識を獲得する不思議な存在です。この言葉という道具の獲得によって、ヒトは他の動物を圧倒できるにいたったことからわかるように、言葉はわたしたちにとって重要で強力な道具です。しかし、この言葉に「根拠なき信念」のような余計なイメージまでもとりこんでしまうのもまたヒトなのです。
泉谷閑示氏は「言葉にくっついているある世俗的な価値観をはがすこと」の重要性をこう言っています。
一度ある言葉を獲得してしまうと、その言葉についてじっくり考えたり、そこにどんな手垢がくっついているのか、人々はこの言葉をどんなふうに使っているののか、それは真実からどれだけはなれているだろうか、そういうことを吟味せずにただただ使ってしまいます。お金と同じです。ですから、言葉と一緒にある価値観、すなわち言葉の手垢が自分に入ってきてしまっていることに気付かないでしょう。しかし、それが後々、物事をみたり判断したりする上で大きな影響をおよぼすようになるのです。それを思うと、言葉を不用意に扱うのは、実はとても恐ろしいことでもあるといえるでしょう。
ですから、物事の真の姿を見るためには、「言葉という道具」一つ一つについて、付着している手垢を一度洗いなおしてみることが、欠かせない作業になってくるわけです。
泉谷閑示『普通がいいという病』講談社現代新書:39項
「物事の真の姿を見るためには、「言葉という道具」一つ一つについて、付着している手垢を一度洗いなおしてみることが、欠かせない作業になってくる」という意見は重要です。例えば「普通」という言葉については多数派という言葉が結びつき、「多数派」は「正しさ」や「正常」という言葉と結びつきますが、「多数派」イコール絶対的な「正しさ」ではありませんし、「普通」イコール普遍的な「正常」というわけでもありません。
いままで多数派だからと妄信していた内容を改めて検討し、自らの経験とつながった認識に深めていくことは、「手垢」を落とした言葉を再獲得することでもあります。その過程で、自分がの気持ちを理解する精度があがり、「能動にみせかけた受動」ではなく、「私」からうまれた動機に育っていきます。
狭霧山での修行の本質
他人の借り着で鵜呑みにしていた考えを、自ら感じ思ったことを吟味しなおしたり、たとえ稚拙な内容であってもの、自らの心・身体の声と合致した自分の言葉にしていくこと。この過程で、今まで放置してすっかり縮んだり途切れてしまった「私」が息を吹き返してきます。これが多数派の洗脳ともよべうる「根拠なき信念」という呪いを解き、「理にかなった信念」を育てていくことの中身です。
ここで『鬼滅の刃』に戻ってみましょう。
この「理にかなった信念」を深める過程は、主人公の竈戸炭次郎が狭霧山で鱗滝左近寺の監修のもとおこなった修業と本質的な意味で同じです。ひたすら心・身体の声を聴きとろうとすることで、ながらく放置してしまいすっかり心・身体の声からズレてしまったチューニングを合わることで、自身の本来の能力を素直に引き出せるようになることを目的にしている点で同じなのです。
それまでは、自意識が心・身体を「コントロールする」という一方的な関係であったものを、心・身体を主人に理性が補佐役として支えるという協働の関係へ移行するわけです。これが、健全な自己愛がある状態の人間の中身です。
生きることの主役はなんといっても、今、ここに生きている替えのきかない心・身体を持った「私」です。この「私」という主役を張るために「理性」が重要になるのであって、「理性」が目的になって「私」そのものである心・身体を下僕のように扱うのはそもそもが本末転倒なのです。
汝自身を知れ~言葉にする~
この言葉は、デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言として有名です。古代ギリシア人はどこか抜けていたのかな、と思う人もいるかもしれません。しかし、ほんとにそうでしょうか?感動したドラマの内容を誰かにつたえようと、SNSやブログに書こうとしたり、だれたに言葉でつたえようとしたときに、自分が思っていたよりも感動を表現できずにもどかしい思いを経験した人は多いと思います。普段わたしたちは自分が自分のことを一番分かっているように思っていますが、わかったつもりになっている、というあたりがリアルなところではないでしょうか。
そう考えると、自分自身とは、自分のなかの「内なる他者」とも呼べる存在であると言えます。例えば、なにかを喜ぶこと、悲しむこと、楽しいと感じるといった感情は、我慢はできても自分の意志で生み出すことは出来ません。そういう演技しかできない。自分が自の声にひたすら耳を傾けるということは、この自分にとって一番身近な「内なる他者」を尊重する、ということにほかなりません。
自分の自身への態度と他者への態度が一致するという心理的前提がある、ということを自己愛のくだりで紹介しましたが、自己愛はこのように「内なる他者」である自身を尊重することを日々の生活で実践しています。そのため、尊重する能力が鍛えられ、他者への尊重する能力も自然と引き上げられるわけです
それとは反対に、自己愛が不足している人は、「内なる他者」である自身の心・身体に耳を傾け尊重するどころか、「あるべき自分」になるように下僕のようにコントロールしているので、他者にたいしても尊重ではなく、ついつい自身への態度と同じように、傾聴することがでなかったり、「あるべき姿」を押しつけたりといったコントロール指向になってしまうわけです。
鬼舞辻無惨が身内の鬼に「呪い」を仕込み手綱をはなさないのと同じように、信じられないと理性はなんでもコントロールしようとしてしまう性質をもっています。
「自分を知る」ということは、人がみな異なる個性をもっていることから、マニュアルはありませんし、だれも代わりにはなれないので、古今東西、簡単には手に入れられないものの一つです。進路選択や就職の際に自己分析が苦手だった人は少なくないのではないでしょうか?
この、つかみどころのない「内なる他者」を、知ることができるようにしてくれる道具が言葉です。言葉という道具は、世界に定義を与えることで漠然とした世界から対象を切り離し、わたしたちに認識を可能にさせてくれます。心にのこったこと、腹がたったこと、もやもやしたことといった感情やそこから生まれる思いを適切な言葉に当てはめていく作業をとおして、つかみどころのないものに輪郭をあたえ可視化する。言葉にしてはじめて、自分はこんなことを感じていたのか、思っていたのかという自分の気持ちに気がつけるようになったり、言葉にして自覚したことがきっかけとなって、過去にしまいこんでしまっていた感情が連鎖的にでてきたりします。
「自分を知る」のに望ましいのは、相手の好みにすり寄らないでいられる信頼できる人との会話なのですが、仲がいいからこそ、もしくは尊重し配慮したいからこそ、話せないないような内容の場合も多いでしょう。そういう場合は、書くことをおすすめします。これを内省といいますが、内なる他者との対話も立派な対話の一つです。
コピーライターの梅田悟司氏は著書、『言葉にできる」は武器になる。』でこういっています。
では、自分の意見を述べる際に、実際に知っていなければならないものとは何だろうか。
梅田悟司『言葉にできる」は武器になる。』日本経済新聞出版
それは自分自身の気持ちであり、意見にほかならない。
そのため、いざ自分の意見を語ろうとしたとき、頭に浮かんだ言葉をその場で組み合わせながら話そうとしても、理解を得られないのは当然の結果と言える。
必要なのは、「内なる言葉」として現れる考えを深く知る以外にない。
漠然と考えるだけで終わらせることをやめる。そして頭に思い浮かぶ断片に言葉というかたちを与え、組み合わせ、足りない文脈をくわえるプロセスを行いたい。この繰り返しによってはじめて、内なる言葉は鮮明なものになり、地層が上がるように思考に厚みが生まれていく。
とりあえず、自分と向き合う時間を創り、自分の気持ちを書き出すことをしてみることが重要です。例え断片的なものしか言葉にできなくても、意識的に自身を知ろうとし、耳をかたむける姿勢をとっていることは、すでに経験となってその人の内省力を向上させています。梅田氏は「最初から大きな効果や変化を求めてはならない」ともアドバイスしています。急がば回れではないですが、完璧にやり遂げるというよりは、肩肘はらずに耳をかたむける姿勢を長続きさせることのほうがよっぽど効果を発揮してくれます。他者との関係とそこは同じです。
自分のなかでモヤモヤしていることがあって仕事や大事な人に集中できなかったり、仕事に身が入らない、長続きしない、自分のしたいことがわからないといったことで悶々としている人には、梅田氏の『言葉にできる」は武器になる。』(日本経済新聞出版)は、考えが煮詰まらないような工夫が紹介されており、おすすめの一冊です。
カオナシと諸刃の剣
早稲田大学名誉教授の池田晴彦氏は、これからの日本で必要になってくる能力をこう言っています。
その点は経営者だけでなく従業員もたいして変わらない。個性を発揮して会社の営業に貢献するというより、上にいわれたとおりに一生懸命働けば、マイホームを買って平均的な幸せが手に入るという、従来型の思考パターンから抜け出ることができなくなった。
そうやって企業も労働者も一体となって転落の道を進んだわけだが、こうした思考パターンから抜け出せないのは、さっきも話したように教育の画一化の弊害だ。自分の頭で考えずに、上の言うことをよく聞くだけの人材は、一見、経営者にとっては都合がいいように思えるかもしれないけれど、企業の戦力としては完全に不必要で、雇用としてお荷物になることが目に見えている。グーグルなどの企業を見ればわかるが、イノベーションをもたらすアイデアは場所も時間も選ばない。もはや単なる勤勉は評価されず、いかに画期なアイデアを出すかだけが勝負となってくる。
そういう時代にマジョリティーにつく人が幸せになれるとは思えないよね。結局は単純労働するしかなくなる。ではどうすべきか。さまざまな意見を認め、情報を集め取捨選択し、そして自分の頭で考える。
そう言ってみれば、マイノリティの思考をもつということだ。
池田晴彦『自粛バカ』:発行所 株式会社 宝島社:158項
「マイノリティの思考をもつ」という過程は、自分の世界観の再構築もしくは、主体の再確立と同じ内容です。うのみにしていた多数派の意見や、「世間」から与えられた視点で世界をみていた状態から、「さまざまな意見を認め、情報を集め取捨選択し、そして自分の頭で考える」「私」の視点を再獲得していく作業をいいかえたものが、「理にかなった信念」を深めていくことなのです。これは、すでに多数派の視点は獲得できているので、自閉的になるのとは意味が全く違います。
「理にかなった信念」についてもうすこし見ていきましょう。
この深められた「理にかなった信念」は、思考と判断力の母体となるだけでなく、どんな友情や愛にもかかせない特質であるとフロムは書いています。
他人を「信じる」ことは、その人の基本的な態度や性格や人格の確信部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。
・・・同じ意味で私たちは自分を「信じる」。私たちは自分のなかに、ひとつの自己、いわば芯みたいなものがあると確信する。どんなに境遇が変わろうと、また意見や感情が多少変わろうとその芯は生涯をつうじて消えることなく、変わることもない。この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。自分のなかに自己がしっかりとあるという確信を失うと、「私は私だ」という確信が揺らいでしまい、他人に頼ることになる。そうなると、「私は私だ」という確信が得られるかどうかは、その他人にほめられるかどうかに左右されることになってしまう。
エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:183項
フロム・・・エーリッヒ・フロム・・・20世紀を代表する社会・心理学者。近代人の自由と孤独を社会心理学から考察した。著書で『愛するということ』が日本でリバイバル中
「理にかなった信念」をふかめる作業は、自分にぺたぺたとくっつけてきた不純物である借り物の考えを剥がすことであり、それは「私」の中の「芯」を掘り当てる作業という側面もあわせもちます。そして、「私」には「芯」があるのだという腑に落ちた認識が、同じように他人のなかにも「信じる」に耐えうる「芯」があるという認識へと通じていきます。
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』に抜かれるまで映画興行収入の一位であった宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』(スタジオジブリ)では、他者の人格・やり方を表面的にとりこむ「カオナシ」というキャラクターが登場します。「理にかなった信念」を深めることは、ちょうど「カオナシ」が行ったことと逆のプロセスです。「顔」とは個性の例えとしてよく目にします。カオナシの要領よく他人の個性やり方を要領よく取りいれる能力は、現代の社会で成功を手に入れるには有利で便利な能力かもしれません。しかしその能力は、わたしたちのなかの「芯」である「私」を見失う側面を併せ持つ「諸刃の剣」でもあるのです。
先ほど登場してもらった梅田悟司氏は、自分の本当の気持ちを言葉にできるようになることをすすめる理由をこう述べています。
こうした本当の自分に丁寧に向き合うことこそが、外に向かう言葉に変化をもたらすことだけで
梅田悟司『言葉にできる」は武器になる。』日本経済新聞出版
なく、今後の人生を変えていくことになる。
さもなければ、「こうしなけらばならない」といった本当の気持ちではない「あるべき自分」から発せらる建前が先行し続けることになる。こうした建前を突き破ることができなければ、あなたの意見はいつまでもどこか借りてきたようなものになってしまい、迫力も説得力もないものなってしまう。
誠実さが信頼の礎でああることはだれでも知っていることです。しかし、梅田氏も言うように、「「あるべき自分」から発せられる建前を」「突き破ることができなければ」相手に信頼を理屈でではなく、はらから感じさせてあげることはできません。フロムが「愛するということ」は個人的な能力を高めることなくしてあり得ないというわけがここにあります。
わたしは「カオナシ」を見るたびに、処世術としてとりいれた建前である「あるべき自分」を自身にとりいれているうちに自分を見失っていき、器用にふるまうも内心は虚ろで、腹から他人を信じることができず、それゆえどうしても表面的関係にならざるおえない、わたしたち現代人の姿がどうしても頭に浮かんでしまいます。
我妻善逸からみるマイノリティ思考
「アニメ『鬼滅の刃』第十三話『命より大事なもの』」では、「他人を「信じる」」という態度が我妻善逸の言動からみてとれます。
炭次郎の不在時、炭次郎と面識がない鬼殺隊の一員である嘴平伊之介(はしびらいのすけ)が木箱に入った炭次郎の妹であり「鬼」になってしまった禰豆子の存在に気づき、鬼殺隊として「鬼」の禰豆子を殺そうとしたとき、同じ鬼殺隊である我妻善逸が止ようとする場面です。
・・・俺は、自分が信じたいと思う人をいつも信じた。鬼殺隊でありながら、鬼を連れている炭次郎。でもそこには必ず事情があるはずだ。それは、俺が納得できる事情だと信じている。
・・・「炭次郎、、、俺、、、守ったよ。お前がこれ、、命より大切なものだって、いってたから。」
『鬼滅の刃』第十三話『命より大事なもの』より引用
彼は炭次郎と再会した際に、鬼殺隊である炭次郎が「鬼」を連れていることに気が付いていました。鬼殺隊員は「鬼」を殺すことが仕事であり、「普通」ではないありえない事態です。しかし、彼は自らが実際に接した炭次郎から得られた印象から、「炭次郎は信じられる奴だ」と判断し、たかをくくらず、ありえないと決めつけないで、その「普通」ではない状況にたいする判断は、炭次郎の話を聞くまで保留しよう、と決断したわけです。その「信念」のもと、かれは身体を張って炭次郎の「命より大切なもの」を守ったのです。これが、クレジットカードの発行の際にもちいられる「社会的信用」とは異なる種類の「信じる」ことです。
もちろん「理にかなった信念」も持つことは、まだ関係性を築けていないどのような他人にたいしても無条件で100パーセント信用するということではありません。完璧な人間、完全な聖人君子はこの世にいません。自身の経験にもとづいて判断した、信じられる程度で信じるということです。
我妻善逸が炭次郎を信じることができたのは、自らの感覚を信じて観察し、炭次郎という人物を信用に足る人物で、しかも相当に信頼できる人だと判断したからです。自分がこの人は少し怪しいな、とか、まだわからないなと感じ判断したなら、無理して心を完全に開く必要はないのです。もちろんマナーは欠かせないことに変わりはありませんし、フルオープンができるような強さが欲しいところですが、超人ではないわたしたちには、等身大のオープンマインドが必要です。
閉じた組織に長居すると性格が歪むわけ
この我妻善逸の行動には、人格が何たるかが如実に表れています。信頼するということも、正義について行為すること、そして愛するということも実は集団に属する能力ではなく、個人の領域に属する能力であるということです。
精神的な価値において、信頼や正義はそれ自体は価値をもっていません。コスパがいい、お金のため、他人ウケのためでもありません。わたしたちはそれを喜ぶから価値ありと判断しているのです。わたしたちが、なにか良いと思うのは、それが良いと評価されているからではなく、それを喜ぶからです。精神的な価値は、それ自身では意味を持っていませんが、個人にどうふるまうかの方向性のようなものを与えてくれます。「私」を見失っているということは、この精神的な価値を見失っているということです。その場合、自分の行動の動機がその他の価値、例えば、経済的な価値、もしくは集団が決める価値や慣習になってきます。
組織内で、ハラスメントや個々人の倫理が問題になるとき、組織のトップは「コンプライアンスを強化します」と、お決まりの文句をくりかえします。しかし、個人の権利が問題になっている場合、上からの命令であるルールやマニュアルによる強制では根本的な解決はできません。同じように、ネグレクトといった子どもの意志への配慮ができない親にも同じことが言えます。
なぜなら、これは個々人の人格にある「モラル」が問題だからです。ルールやマナーがタッチできるのは、あくまでドライな表面的な行動であり、個々人の内面まで強制はできません。「私」であること、「尊重すること」、正しくあろうとすること、に精神的な価値が見出せていない人間に、いくら集団からの評価で説教しても馬の耳に念仏です。処世術的なポーズとしてとりあえず具体的に禁止された行為をしぶしぶ我慢することしか期待できません。ハラスメントや虐待が違うかたちで繰り返されるだけです。
マナーはルールの一種です。マナーやルールは集団に属する領域にあり、それに対して、モラルは個人に属する領域にあります。問題がいまいちしっくりこないのは、日本では、この二つのことなる意味をもった言葉が混同されているところにあります。例えば、「あの人は礼儀が分かっていない」という言葉を考えてみると、処世術的なマナーが守れていない、という意味でも、マナーはしっかりあるのだが人間として酷い奴だ、という意味でも通じます。同じことが道徳という言葉にも言えます。
ルールは個人に強制できるが、モラルは個人に属する精神的な価値なので強制はできない。これが政教分離という社会の基本原則なのですが、守っていないというよりは、その意味の理解があやふやになってしまう点が、「私」を実質的に表現することを許さない日本社会で「適応」した弊害の一つといえます。
モラルが実際に行動に移されるには、信頼や、正義、尊重、「私」であること(人権)、愛といったものを、その人が個人的に喜びを見出しており、保身や利害のなかで目をつむりたい誘惑があるなかで、それらの精神的な価値を守るための行動にうつす決断ができなくてはなりません。つまり、主体が確立されて自発的に行動できるまでに成長・成熟した「私」を必要とします。
ハラスメントが「普通」となっている古い体質の組織や閉鎖された村のような環境にいる人は、「私」を犠牲にして「世間」や上下関係に服従することが「大人になることだ」と言われてその集団に適応した人たちです。「私」を犠牲にさせておいて、海外の先進国の人権ランキングや、ハラスメントの被害者の告発というような、外圧が強まったからからこうしなさいと命令されて、「はいそうですか」とすぐに「私」という主体を確立できるわけがないのです。
人の権利にかかわる問題は、その社会にいる一人一人が、精神的に自立でいているかどうか、「私」として社会で活動できるまでに、社会が成熟できているかどうかの問題です。概して、「世間」や「普通」、「みんな」といった「匿名の権威」に同調・同化することを余儀なくされ、古臭い権威主義が根深い日本の環境では、もともと法令は厳しく設定されていますし、私的な領域はグループからの村八分的な制裁もこわいこともあいまって、個人がすっかり委縮してしまっています。
画一化され閉じた価値観、上下関係をいまだに押し付ける人間が多数派を占める組織や社会の環境が、精神的な価値のもとに行為できる「私」を委縮させることで、信じること、尊重すること正義を実行する能力も委縮させてしまうのです。彼らは、表面的なルールやマナーに異常にきちっとする外見とはうらはらに、「私」という人格主体が犠牲にされているため、組織がずれた慣習、行動をしているばあいは渦中にいる人は自覚できないわけです。
脱「鬼」化は社会貢献
問題の本質は、現状の社会の規範が「私」を自粛にすることを含んでしまっている点です。「私」を犠牲にすることを踏まえたうえで仕事をすることが「大人になることである」、「一人前の社会人である」という誤解です。第5章で「市民の責任」のくだりで触れましたが、わたしたちが無知で不完全な存在であり、現実が不条理にみちているなかで、できる範囲で活動していくことが避けられないとしても、その不条理や混乱の原因にめをつむどころか肯定してしまうことは、社会がまともに機能するために個々人に課せられた市民の責任の放棄となってしまいます。責任を果たす能力がない無知で無力な存在は「大人」ではなく子どもでしょう。
外から与えるという方法では、「いい子」を演じている子供のようなわ我慢がいいところで、その場しのぎでしかありません。自分がかつて上からされた理不尽を自分が下にしないように上から命令され、自発的にではなく受動的に従うことは、個々人にフラストレーションをため込ませ、結果、社会に閉鎖的な鬱屈したムードを還元するのが落ちでしょう。地道ではありますが、この手の問題は、社会のなかの個人の質をたかめることが解決の道筋だと思います。
そもそも、なぜ、閉鎖的な社会、パワーハラスメント・モラルハラスメント等々の圧制や、それに屈した日和見主義、「世間」に同化服従し、村八分にすることが避難されるかといえば、人間が、他者との会話や相互理解をとおして自己認識する言語的な存在だからです。
「自身の継続的なアイデンティティー」について、重要なことが書かれているのが次に引用した文章です
間違ったひとことが鞭や侮辱に結びつきかねない状況で、そもそも誰が話そうなどと思うだろう。
話す時間に寝ることができるなら、だれが話そうなどと思うだろう。人の個人性を奪う手段は、髪型を統一し、同じ服を着せ、全員の名前のない集団にすることのみではない。互いに個人としてかわすことのできる会話の欠如もまた、個人性の喪失につながるのだ。実際、会話が不可能な理由はあまりに多い。極度の疲労、会話に必要な体力の欠如、恐怖心を克服する難しさ、といった問題もあるが、それ以前に、単に会話の仕方を忘れてしまうという理由もある。そしてなにより、主体性をなくしたという感覚。
どうやって「私は」といえばいいのか?誰が言うのか?誰に言うのか?
・・・・
ハンナ・アーレントが「人間的なことがらの絡み合い」と呼ぶもののなかで―――すなわち他者と会話や相互理解を通して―――自己認識へと至る言語的な存在である我々は、他者から個人として認識されることを必要とする。我々の認識は、孤独の中でひとりでに成立するのではなく、他者とのつながりややりとりによって形成されるものだ。そして、他者とのつながりの中で、他者によって認められるのは、人間としての尊厳でさえない。尊厳以前に、自分の「自我」を自覚し、理解するというそれだけのために、人は他者を必要とするのである。
・・・・
つまり、自信の継続的なアイデンティティーが証明され、確認され、問われるのは、他者との会話においてなのだ。他者との会話によってはじめて、体験したことを理解し、それを経験として形式化することが可能となる。人間のあらゆる特性や相違点、類似点、多様性―――すなわち個人性―――は、他者の承認または拒絶をとおしてはじめて浮き彫りにされるのだ。
カロリン・エムケ 浅井晶子訳 『なぜならそれは言葉にできるから』 みすす書房
カロリン・エムケは強制収容所や紛争地での虐待、レイプ、圧制を受けている少数派の声を世界に発信しているジャーナリスト・哲学者です。前段は、「人間としての権利」をはく奪された人たちがおかれた環境とその精神状態を要約したものですが、残念なことに、程度の絞りをゆるめれば、わたしたちの社会の実情と重なってきます。自分の自身への確信、に「私」としての他者との会話の経験をとおして、「他者らか個人として認識されること」を必要とするのです。
日本に生まれ育ち、なぜか自信がない人、社交的なのだがどうも人工的な不自然さを感じさせる人、公の場で自分の言葉で相手の目を見て語りかけることができない人が多い理由の一つがここにあります。「互いに個人としてかわすことのできる会話の欠如」した社会では、立場、上下関係、属する集団における相手との関係のなかでその都度「私」を変えざるおえません。
「自身の継続的なアイデンティティーが証明され、確認され」るどころか、逆に自身のアイデンティティの中断を余儀なくされ、それが喜ばれる社会環境に適応してきたのですから、看板にたよることなき本当の「自信」が得られず、パワハラ、個人の意思の無視、精神的虐待といった「人であることの権利」について無自覚であることは当然の帰結といえてしまうのです。
他者との関りにおいて、継続的に自身のアイデンティティが証明され、確認されない場合、わたしたちは自分自身に確信をもつことが難しくなり、また、使われないため、もしくは過去に「私」として会話して拒絶され侮辱された経験からくる恐怖心から、「私は」からはじまる表現能力の発達が妨げられます。第二章であげたとおり、現在の日本の閉塞感や生きずらさ、社会問題の多くは個人の領域への軽視から端を発してします。また、自信と人間の能力に大きくかかわる言語能力が制限された状況は、個人にとっては生きずらいうえに、自身に秘められた潜在能力が埋もれたままです。
ここから見えてくることは、実は自分らしさを取り戻して生きることこそ、今の日本がかかえる問題の解決にもっとも必要とされてる社会貢献の一つであるということです。戦後の日本は、焼け野原で衣食住が何よりも不足し、それを供給することが何よりの社会貢献でした。今の日本で最も不足しているのは我妻善逸のようなマイノリティ思考をもち、他者を個人として認識できる、「私」として自発的に活動できる個人の存在です。
自分に向き合うことは、目に見えて生産的ではないことからくる焦りや、社会の役にたっていないことへの罪悪感を感じる人がいるかもしれませんが、俯瞰で眺めることさえできれば、「鬼」状態から脱すること、そしてその過程も含めて、社会の役に立っているのです。
次回は、『鬼滅』の竈門炭次郎を見ながら、「理にかなった信念」をふかめていいくことで、自分らしさがどのように戻ってくるのかについて考察していきます。
お付き合い、ありがとうございました。
参考文献
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
『自由からの逃走』
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
『愛するということ』
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 鈴木 昌
[発行所]紀伊国屋書店
『普通がいいという病』
[著者]泉谷閑示
[出版社]講談社現代新書
『こころをひらく対話術 精神療法のプロが明かした気持ちを通わせる30の秘訣』
[著者]泉谷閑示
[出版社]ソフトバンク クリエイティブ株式会社
『自粛バカ』
[著者]池田晴彦
[発行所] 株式会社 宝島社
『そのうちなんとかなるだろう』
[著者]内田樹
[発行所]株式会社マガジンハウス
『回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち』
[著者] 岡田尊司
[出版社] 光文社
『ハンナ・アーレント』
監督 マルガレート・フォン・トロッタ
heimatfilm:2012年
Updated on 4月 9, 2021
『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その2 「鬼」からの脱却~自分らしさを取り戻す~
こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法」をおおくりします。
前回までの投稿で、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の「炎柱」煉獄杏寿郎にスポットをあてて、「犠牲」は一概に正しくはなく、人間が「自分らしくいきる」ことのために、犠牲は犠牲たりうるということを見ていきました。
今回の投稿は、現代の日本では半ばデフォルト状態となった「自分がしたいことがわからない」状態から自分らしさを取り戻すにはいったいどうしたらいいのか、という点を探っていきます。
では、さっそくいってみましょう。
珠代さんからみる主体の回復
知らず知らずに自分のこころが動かなくなり、「鬼」化するワタシ。そんな「鬼」化してしまった「ワタシ」が、どうやったら「自分の心のまま正しいと思う道を進むよう」なことができるというのでしょうか。
それにはやはり、もう一度、自分のこころの声がききとれるようになる必要があります。でなければ進んでいく方向性が分からず不安にになり、また「世間」やなんらかの「匿名の権威」に服従することになってしまいます。
では、自分のこころの声が聴きとれる状態というものを再び作っていくには、どうすればいいのかといえば、自分が自分を愛することにつきます。主体である「私」を取りもどすということは、
自分が自身である「心・身体」の声を、条件なしに受けいれられるかどうかにかかってくるからです。
しかし、すっかり自分のしたことがわからない自分を見失っている状態で、この自己愛という言葉を思い浮かべてみると、子供じみてみっともない半人前の甘えだろう、という答えが、条件反射的に頭によぎることでしょう。しかしこれは、知らず知らずに取り込んだ「世間」の声であり、「世間」からの精神的な独立をはばむために「自分を否定せよ」と命令する「にせの自己」による脅しのようなものです。
『鬼滅の刃』では、「鬼」でありながら医者であり、鬼舞辻無惨への服従を拒絶し、主人公の「炭次郎たちを援助する珠代さんという「鬼」が登場します。「鬼」は無惨の支配から逃れられないようにするため、無惨によって「呪い」を身体の内側に仕込まれており、その「呪い」が内側から鬼が無惨に反抗しないように脅し、反抗する場合は「鬼」は「呪い」に内側から食い殺されます。「鬼」が無惨の支配から逃れさせないように、内側から監視し強迫するのです。
なぜこんなことをするかといえば、「鬼」が追い詰められたさいに、鬼殺の剣士に自らの情報が洩れることを恐れたからですが、同時に、無惨は支配するものが自分から離れていくと自分が保てず怖いのです。「愛と支配」の章でとりあげたように、サディストは支配できるマゾの存在なくして独り立ちできない未熟な存在です。同時に、無惨は部下の「鬼」を一ミリも信頼していないことがわかります。自分の支配欲をみたすためには必要だが、信頼していないから首輪をかけるわけです。
珠代さんは「鬼」になりながらも、炭次郎の妹である禰豆子と同じように、人間としての誇りと尊厳の感情を失わない気概がある稀有な存在として登場します。彼女は「鬼」として生きることのさもしさに心底うんざりし、無惨からの決別を決意し、彼の仕込んだ呪いを外すことに成功したことで、無惨の支配から自由になり、立ち向かえるようになりました。
鬼舞辻無惨が身内の「鬼」の内側に「呪い」を仕込んだのと同じように、わたしたちは同調を繰り返すうちに「世間」や「みんな」といった多数派の声である「ザ・あるべき姿」が思い込みとして内在化されてしまい、わたしたちを精神的に独立しないように内側から、罪悪感や無力感、無意味感をつかってあたかも自分がそう思っているかのように迫ってきます。ちょうどクロワッサンの内側みたいな感じで「ザ・あるべき姿」重層化し、「私」の声をさえぎる障子のようになっているといえば分かりやすいかもしれません。
自分のしたいことが再び分かるようになるには、まずは自分を縛っている思い込みをひとつひとつ外すことが必須の作業になってきます。珠代さんが、無惨の仕込んだ呪いを外せたことで、無惨に対抗でるようになったように、知らず知らずに取り込んでしまった「にせの自己」の脅す絶対的にさえ感じる思い込みを外すことが、個性を失った「鬼」状態から脱し、いま・ここにある心・身体とつながった「私」という人間性を取り戻すための第一歩となります。
というわけで、とりあえず幕開けとして自己愛と他者への愛、自己愛と利己主義の違いを理性の面で認識し、誤解をといて足かせを外していきましょう。
自己愛と利己主義は別物
もし、自分に向けられる愛が利己主義と同じ現象であるなら、愛と自己愛は排他的な関係になり、自己犠牲をすることは美徳ということになります。これが「ニセの」自己である「世間」が語るありがちな答えとなります。
しかし、これは本当でしょうか。フロムはこの意見に、以下の3つの問いを投げかけ、次のように述べています。
- 現代人の利己主義はほんとうに、知的・感情的・感覚的能力をそなえた一個人としての自分自身に対する関心なのだろうか
- 現代人は、みずからの社会的・経済的役割の付録にすぎないのだろうか。
- むしろ自己愛が欠如しているから利己主義的になっているのか。
利己主義と自己愛の心理学的な側面について論じる前に、他人にたいする愛と自分への愛は両立しないという考えが論理的に間違っていることを指摘しておく必要がある。隣人をひとりの人間として愛することが美徳だとしたら、自分を愛することだって美徳だろう。すくなくとも悪ではないだろう。自分だって一人の人間なんだから。そのなかに自分を含まないような人間の概念はない。自分を排除するような論理は本質的に矛盾している。聖書は述べられている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考えの裏にあるのは、自分の個性を尊重し、自分を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解するに切り離せない考えである。自分を愛することと他人を愛することは、不可分の関係にあるのだ。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木 昌訳:紀伊国屋書店:同上:94項
注)フロム・・・エーリッヒ・フロム。20世紀を代表する社会心理学者。著書『愛するということ』が日本でリバイバル中。筆者はこのシリーズではメインの参考としている
さらに、心理学上の基本的な前提としてこう続けます。
「他人に対する態度と自分に対する態度は、矛盾しているどころか、基本的に結びついている。これを愛の問題に重ねあわせてみると、他人への愛と自分への愛は二者択一ではないことになる。それどころか、自分を愛する態度は、他人を愛せる人すべてにみられる。原則として、「対象」と自分とはつながっているのであるから、他者への愛と自己への愛とを分割することはできない。
同上:94項
といっています。「原則として、「対象」と自分とはつながっているのであるから、他者への愛と自己への愛とを分割することはできない」という個所はわかりにくいところですが、いいかえると、他人についての認識のレベルと態度は、自身について認識のレベルと態度に一致するということです。
例えば、『鬼滅の刃』の主人公である炭次郎は、自分の独自性である嗅覚や、自分が実際に見て感じたものを信じ、それをもとに考えられた信念を誇りにし尊重しています。
彼が自分自信の感覚や感情を大事なものとし、それをもとに思考して得た信念を尊重できているからこそ、同じように、かれは他人のうちにある独自の感覚、感じ方、それらをもとにした想いや考えがあるという想像力が働き、それは重要なものである、という態度を他者に向けることができるのです。
鬼についても見てみましょう。鬼は力と引き換えに自分を忘れます。自分の内面を尊重しようにももうわからない。鬼は、自身にたいして人間らしさや個性についての認識がないので、他の鬼に独立性をもった独自な世界観があるという想像力がはたらきません。そのため、他人を「自分と同じような存在」としてしかみれないのです。自他の区別ができない鬼にとっては、言葉上の尊重の表面上の意味は理解できるのですが、その内容についてはキレイごととしか認識できない。デリカシーがないというよりは、それを感じる能力が退行しているか欠如しているのです。
つまり、自分がする自身の感覚、感情、思い、考えといったものへの配慮の程度と、他人の感覚、感情、思い考えといったいったものへの配慮の程度は結びついているです。
日本は多数派の同調圧が強く、少数派にたいして排他的な環境にあります。「私」が感じているものが「みんな」と違う場合、その感覚や感性、そして思いを表現した場合、いじめられる可能性がとても大きいので、わたしたちは知らず知らずに、「私」が感じているものについて多数派と合致しない部分を見ないように放置し、世間やみんなといった多数派の意見に合わせる条件反射のような癖がついています。それが、成長過程で繰り返されるにつれて「私」の声が聞こえなくなっていき、いつしか、したいことがわからなくなるという状態におちいりやすい。これが社会人になると権力を伴う環境に身をおくので、その傾向が一層強まります。
その一つの結果として、自分の感覚、感情、思い、考えに尊重・配慮する姿勢がとれないように、他人の感覚、感情、思い考えといったいったものへ尊重・配慮できない人間ができあがります。
一流企業に入社できた有能で健康は人が、なぜ、パワハラをしたり、過労死、鬱になってしまうかの理由の一つもここにあります。
「自分を愛することと他人を愛することは、不可分の関係にある」のです。他人を愛するには、むしろ、自分を愛することを前提としているのです。
健全な自己愛が欠けると利己的になる
次に、利己的な人についてみてみましょう。フロムは利己主義について、こう解説しています。
利己主義と自愛とは同一のものではなく、まさに逆のものである。利己主義は貪欲の一つである。すべての貪欲と同じく、それは一つの不充足をもっており、その結果、そこには本当の満足は存在しない。貪欲は底知れぬ落とし穴で、決して満足しない欲求をどこまでも追及させて、人間を疲れさせる。よく観察すると、利己的な人間は、いつまでも不安げに自分のことばかり考えているのに、けっして満足せず、常におちつかず、十分なものをえていないとか、なにかを取り逃しているとか、なにかを奪われるかという恐怖に、かり立てられている。彼は自分よりも多くのものをもっている人間に、燃えるような羨望を抱いている。さらに綿密に観察し、とくに無意識的な動的な運動を観察してみると、この種の人間は、根本的には自分を好んではおらず、深い自己嫌悪をもっていることがわかる。
この一見矛盾した謎は容易にとくことができる。利己主義は、まさにこの自愛の欠如に根ざしている。自分をこのまない人間や自分をよしとしない人間は、常に自分自身に不安を抱いている。かれは純粋な行為と肯定の基盤の上にのみ存在する内的な安定をもっていない。彼は自身に気をつかい、自分のためにあらゆるものを獲得しようと貪欲の目を見張らねばならない。これと同じようなことは、いわゆるナルシスト的人間にもあてはまる。かれは自分自身のために物をえようと腐心するかわりに、自分自身を賞賛することに気をかけている人間である。このような人間は、表面的には自分自身を非常に愛しているようにみえるが、実際は自分を好んでいないのであり、彼のナルシシズムは-利己主義と同じようにー自愛が根本的に欠けていることを、無理に償おうとする結果である。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:133項
自分を受け入れられない場合、人はその不安から貪欲になるも、満たされない状態に縛り付けられるわけです。ナルシストも、その貪欲の内容が他者評価に偏っただけだとわかります。
『鬼滅の刃』でもっとも利己的な鬼である親分の鬼仏辻無惨を例にみていきましょう。
無惨は圧倒的な力をもっているにもかかわらず、相手にすることさえも馬鹿らしい取るに足りない酔っ払いに「いまでにも死にそうだな」と絡まれた際に激昂します。また、鬼でありながら無惨と戦い、無惨の呪を自力で外した珠代さんが抱いた無惨についての感想も「無惨は、いつもなにかに怯えています。」(アニメ『鬼滅の刃』第八話「幻惑のかおり」より)というものでした。
注)筆者は、『鬼滅の刃』はアニメ版と、劇場版『鬼滅の刃 劇場版 無限列車版』しかみていませんのであしからず。
本当に自分の力に自身があるのなら、バカなことをされてたとしても、腹をたてたり不快は感じるでしょうが、ムキになって急にキレたり激高することはないはずです。ひとは健全な自己愛が欠けているからこそ、他者からの評価に過剰に反応してしまい、利己的になったり、ナルシストになったりする存在のようです。
フロムはこう続けます。
利己主義と自己愛とは、同じどころか、正反対である。利己的な人間は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、そのひとは自分を憎んでいるのだ。そのように自分に対する配慮を欠いているのは、その人が生産性に欠けていることの表れにほかならず、そのせいで、その人は空虚と欲求不満から抜け出すことができない。当然ながらその人は不幸だ。人生から満足をつかみ取ろうとして必死にもがくが、自分で自分の邪魔をしている。自分を愛しすぎているかのように見えるが、実際には、ほんとうの自分を愛せないことをなんとか埋めあわせ、ごまかそうとしているのだ。
エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:同上:96項
ここで言われている「生産性」とは、自らを受け入れることで可能となる自発的な表現・創造といった生み出し与える活動や人間関係をとおして満足を感じる能力のことです。「利己的な人間は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎる」から自分としての力を実感できず、不安に駆られて、支配欲にはしったり、他人からの評価に過剰に反応するようになるのです。
ナルシストと健全な自己愛がある人は正反対です。利己主義と自己愛は、同じどころか正反対です。
さて、わたしたちが知らず知らずに取り込んでいた「ニセの自己」こと「世間」や「みんな」、「普通」といった多数派の呪縛が一つとけたところで先に進みましょう。
脱「鬼」化の作業
最近、独りキャンプ、釣りや「おひとり様」へのサービスが珍しくいことではなくなりました。かつては、「世間」からイタい目でみられるので控えられてきたこういう一人に引きこもる行為が増えてきたということは、日本社会の閉塞感、鬱屈感、同調圧力からくる束縛されるうんざり感が、体裁を気にしていられないレベルにまできてしまったことの一つの表れといえます。
自分の関心が動かなくなってしまったことや、いまや建前以外なにものでもない人間関係の虚しさに気がついたり、一人でいる時に何とも言えない無力感や空虚化を感じる自分に気づき、問題に向き合おうとする人は、今日、珍しくなくなったような気がします。しかし、かれらは、ある共通の試練に直面しているかもしれません。
それは、自分が本当はなにをしたいのかを見失っている状態で、自分の世界観を広げるために一人の時間をふやして活動している時に感じる不安・怖さ・心細さです。
これは依存の離脱症状みたいなものです。自分を放置して「世間」や「普通」、「みんな」に「同調」することで得られていた安心がなくなるなかで、そこから離れて自分の世界観を再構築するために一人で行動している時に感じる恐さの正体は、いままで「自分がない自分」を正当化してくれた「あるべき自分」といった世間体です。かつて、自分が従ってきた「世間」が、「私」として生きようとする時に、今度は自責となってブーメランのように襲いかかってきます。ここでしんどくなり、やっぱり「私」を捨てて「みんな」に同調していたほうがわたしなのよ、という誘惑にかられるのです。
フロムは「愛するということ」ができるようになるには、「信念」を育て深めていくことが重要であるとのべています。ここで「愛するということ」としてで書かれている内容は「主体の確立」、「主体の再確立」もしくは「自分探し」についてもあてはまります。
この「信念」を深めていく作業によって、群れることの禁断症状から少しずつ抜け出ていき、すっかり萎んでしまった心・身体の声が息をふきかえし、「私」としての生きる力が増していくようになるのです。
「理にかなった信念」と「根拠なき信念」
「信念」は二つに大別されます。「理にかなった信念」と「根拠なき信念」のふたつです。重要になってくるのは「理にかなった信念」です。以下、「理にかなった信念」と「根拠なき信念」をまとめてみました。
- 理にかなった信念・・・自分自身の経験や、自分の思考能力・観察能力・判断力に対する自信に根差しし、大多数の意見とは無関係な、自身の生産的な観察と思考にもとづいた独立した確信(炭次郎の信念)
- 根拠なき信念・・・ある権威、あるいは多数の人びとがそう言っているからという理由だけで、何かを真理として受け入れたもの(例:鬼にとっての無惨、「みんな」、「普通」、「世間」)
すっかり自分がわからなくなったり、生きている実感がないことにうんざりして、自分らしく生きようと再び歩き出した人の内面では、この二つの「信念」が綱引きしている状態にあると例えられます。
「理にかなった信念」は「自分は無力じゃない、大丈夫やってごらん、がんばれ、がんばれ」といった自己愛が、「根拠なき信念」は「どうせ、結局、自分は無力で、どうでもいい、じぶんなんてそんなもんだろ、役に立たっていない、コスパ悪い、いまさらださい、みっともない」といった自己否定を内容とします。
これは、自意識による、心・身体(自分自身)への態度という視点からみたとき、自分が自分自身を「あなたは無力ではない」と自身を信じる態度と、「おまえは無力だ」と信じない態度の綱引きであるといえます。自意識が、炭次郎の視点で自分自身を尊重するのか、それとも、無惨の視点で自分自身を見下すのかの綱引きであるともいえるでしょう。
健全な自己愛とは、自意識と自身の心・身体との信頼関係とたとえられます。はじめから信じるつもりがない相手から、信じてもらうことは出来ない話です。信頼関係は、まず信じることから生まれます。
健全な自己愛とは、自意識と自身の心・身体との信頼関係とたとえられます。はじめから信じるつもりがない相手から、信じてもらうことは出来ない話です。信頼関係は、まず信じることから生まれます。
「理にかなった信念」を深めていくことは、信頼を一度うしなった自身(こころ・身体)との信頼関係をもう一度結びなおすということなのです。
では、どうやったらそのような「理にかなった信念」をもてるのだろうかという疑問がうかびます。「理にかなった信念」の中身である「信じる」ということは、外的な指標がないということです。貸したお金を返してくれるかどうかを、その人がお金がもっているかの外的条件を指数でマニュアル化したクレジットカードの審査、銀行のローンで使われるような「社会的信用」とは異なります。
次回は、自分らしさという人間性を失った「鬼」状態から脱するために、言いかえれば、自分らしさを取り戻すために必要な「理にかなった信念」の深め方ついて、踏み込んで見ていきたいと思います。
お付き合いありがとうございました。
参考文献
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
「愛するということ」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 鈴木 昌
[発行所]紀伊国屋書店
Updated on 4月 1, 2021
『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その1『無限列車編』からみる犠牲の精神性の是非
こんにちは、matsumoto takuya です。今回はシリーズ「『鬼滅の刃』が少し引くほど大ヒットした理由とは?」の続編シリーズ「『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法」をお送りします。
今の日本は、表面上は「多様性のある社会」が推奨され、個性の重要さがますます強調されている一方で、実際の社会では「私」として生きるのは「自粛」するのがデフォルトの旧態依然であるということは社会にでた経験がある人はすぐわかると思います。
さらには、これほどの多様化したメディアやSNSといった情報にアクセスできる環境にありながら「実は自分のしたいことがわからない」という人が少なくないのではないでしょうか。
このシリーズは、「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」で考察してきた日本の現状をふまえながら、多くの人が共感に至った『鬼滅の刃』から、その特徴や共感内容をみていき、「私」を見失いやすい日本の環境、その環境で「私」という主体をとりもどす方法を、様々な視点から探っていきます。
今回は序章として、「自分らしくいきること」と半ば対立する概念で、同時に日本ではわりと受け入れられている「犠牲」について『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』をみながら探っていきたいと思います。
注)『鬼滅の刃』の内容は「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」までを参考にしています。ここまでのネタバレを含みますのでご注意ください。
『無限列車編』からみる犠牲の精神性の是非
二つの犠牲
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』では犠牲が、主題の一つとなってるように思えます。鬼殺隊幹部である「柱」の煉獄杏寿郎は命を賭して、鬼から鬼殺隊の後輩である炭次郎たちや列車の乗客を救います。そのさまはわたしたちに強く訴えかけてくるものがあります。しかし、一方で那田蜘蛛山の鬼の累がつくる家族も役割のための自己犠牲を個人(支配下の鬼)に要求します。これらは同じものなのでしょうか。
フロムは、その犠牲の行為の動機の違いで、犠牲が持つ意味は全く異なってくると言っています。
注)フロム・・・エーリッヒ・フロム。20世紀を代表する社会心理学者。彼の仕事の内容がいまの日本と類似点が多く有益なので筆者がシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』は世代をこえて異常なほど大ヒットしたのか?」と同様に参考にしている。
―――――このマゾヒズム的犠牲は生の達成をまさに生の否定、自我の滅却のうちに見ている。それはファシズムがそのあらゆる面にわたってめざすもの――――個人の自我の滅却と、そのより高い力への徹底的な服従―――――の最高の表現にすぎない。それは自殺が生の極端な歪みであると同じように、真の犠牲の歪みである。真の犠牲は精神的な統一性を求めて非妥協的な願望を前提とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻を隠しているに過ぎない。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:294項
ファシズム・・・個人の意思を無視して全体へ奉仕することを要求する権力体制
「精神的な破綻」とは、自らの意思を持って選択し決断し行為できない状態のことを指します。それとは反対に、精神的な統一性とは、自らの感覚、感情、それをもとにした思考や知性を社会で表現できる精神的に自立した個人のことです。
フロムの定義をまとめると下記のとおりです。
- マゾヒズム的犠牲・・・犠牲の目的が、マゾヒズム的犠牲のような生の否定、主体の滅却のうちに見て いる場合:鬼、ナチズム、ファシズム、子どもの意志を無視する虐待・ネグレクトの自覚がない親の子ども、DV 等
- 真の犠牲・・・犠牲の目的が、人間が個性(人間性)を進展、成長させる可能性の確保に見ている場合:煉獄杏寿郎?
真の犠牲は、その人がその人らしく意思を持って選択し決断し行為できる状態とそれが実現できる社会を可能にするためのものです。そうではない犠牲は、精神的な破綻(自らの意思を持って選択し決断し行為できない状態)を隠しただけであり、管理者が管理対象をただ支配・操縦しやすくするため、もしくは、無力感・無意味感・弱小感からどうにかして逃れるため他者評価にすがる自己弁護からひねり出される犠牲です。
その人がその人らしく成長し社会で生きること、もしくはその可能性を目的にするかぎりで、犠牲は犠牲たりうるということです。このフロムの分類は、平等であること、自由であること、愛するということに精神的な価値の土台をおいています。
『鬼滅』煉獄杏寿郎のケース
「柱」である煉獄杏寿郎の犠牲は、人が個人を成長・発展させ社会で関わりあう可能性のための犠牲だと言いたいところです。しかし、映画を慎重に観てみると、「マゾヒズム的犠牲」も含まれているようにもうつります。
煉獄杏寿郎は鬼殺の剣士の名門の家に生まれ、天賦の才にも恵まれ、父親も鬼殺隊の元幹部である「柱」を務めたことのある有力者でした。彼は、父親にあこがれを抱き、認められたい一心で努力を重ね若くして「柱」に選ばれるまでの実力を獲得し、後輩から尊敬されるにいたります。外見上、かれはパーフェクトな人生のようにうつります。しかし、それは集団という外からみた評価です。かれの個人的な満足のほうはどうでしょうか。
彼の父は、鬼殺隊の剣士としてのやる気をいつしか失い、自分の期待に応え頑張った息子の努力の結果をほめることはありませんでした。また、彼の母親は身体が弱く、彼が少年の頃に「力は弱きもののためにある」という教えを印象づけて他界しています。かれは本当にほめて欲しかった時期に、ほめられたい相手から、ほめられたいという承認欲求が満たされないでいたのです。
鬼の魘夢(えんむ)の鬼気術が暴露したもの
教わった「力は弱きもののためにある」を実践し、努力に努力を重ね「成功」を重ねても、彼の中では拭い去れないもどかしさが募ります。本心は満足できず満たされないことへの「悲しさ」を無理して気丈に振る舞うことで見ないようにしていた事実が、「下弦の壱」である鬼の魘夢(えんむ)の鬼気術(鬼が持っている特殊能力)により、彼の願望をうつした「夢」で明らかになります。彼の明るい振る舞いがが、どこか力の入った機械的的な明るさのように映るのはそういう事情のためだったのです。
煉獄杏寿郎は父親や母親への幼少時代の愛着を捨てきれず母親の価値観に服従しています。服従とは、外側にある何らかのものに服従だけでなく、内側にある外から取り入れたか価値観に従うこともふくまれます。
彼は母の言いつけである「力は弱者のため」という内容を知識としてはわかるのですが、腹の底では確信できないでいたのではないかと考えられます。腹のそこで納得できないからこそ、その懐疑を滅却しようと、もっと母のいいつけを守れば、満たされない想いが解決できかもしれないとの儚い希望のもと、「強さは弱者のためにある」を実践をするために「力」をつけるストイックな努力を続けていたのではないかと考えられるからです。
外から見れば、彼はたしかに立派です。しかし、わたしには、彼自身は救われていなかったのではないと思えたのです。これでは彼の母親の彼にかけた期待のために、彼の個性と人生が犠牲になってしまっているからです。彼が、本当に欲しているのものは、親に愛されているという実感あり、いいかえれば、「私は私でいていいのだ」という真の自信でした。
彼の母親が子供だった頃のかれにかけた言葉は結果として、彼が彼らしく生きることをあきらめ、ひたすら終わることなき苦渋の努力と砂を嚙むような忍耐、欲求不満をかかえながら、自分を隠し表面的な明るさを演じ続ける人生を歩かせてしまう「呪縛」のようなものになってしまっています。彼の母親の言葉は、「彼に彼らしい人生を捨てなさい」という意味ではなかったはずなのにです。
鬼の猗窩座(あかざ)が煉獄に惹かれたわけ
彼は、自らの懐疑の炎を見ないようにするために、「教え」を実行できる「力」を求め、血のにじむ努力を己に課し続けていると考えると、それは、人間性を失ったため、内に虚ろと無力感をかかえ、力へのサディズム的努力にかられている鬼と、本質的に同じ状態だといえてしまいます。
これは辛いはずです。鬼である猗窩座(あかざ)が彼に惹かれたのはそのためだといえます。彼らが内に抱えた問題はとても似ていたのです。「私」としての人生を取り上げられてしまっていたことからくる落ち着かなさ、不安からの死に物狂いの逃走です。
劇中では、彼の内面にある願望のさらに奥にある彼の無意識の世界がでてきます。そこは「息がむせるほどの」灼熱につつまれています。一見すると、努力家で正直者の炎の剣士らしい無意識だと思いがちですが、物語の描写を丁寧にみてみれば、彼の内面はすさまじい葛藤の摩擦があったことを示していることがわかるはずです。同じ「熱」でも、炭次郎の内面にある無意識の世界にでてきた太陽のようなあたたかさとは違います。かれは、人知れずこころの最も深いところで、強烈な葛藤をかかえひとり苦しんでいたのだ、と解釈することができるのです。
もう一つの物語
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』のストーリーは、かなり荒い簡略化であることを承知の上、煉獄杏寿郎というという強者が、さらなる巨大な力をもつ強敵から自己犠牲をして弱者を救うというストーリーです。しかし、同時に、強者であるはずの彼が弱者であるはずの炭次郎らに救われた物語ではないか、とも私は思うのです。わたしがそう思ったのは、絶命直前になされた煉獄杏寿郎と炭次郎らとの対話のシーンでした。
夜明けになり、煉獄に致命傷を負わせた鬼の猗窩座(あかざ)は、弱点の陽の光を避けるため闇に逃げだします。煉獄の死を悟った炭次郎はなりふり構わず泣きながら鬼が消えていった方角の闇に向かって罵詈荘厳と煉獄への賛辞を声のかぎりに叫びます。煉獄杏寿郎への命を救われたことへの感謝、尊敬から、彼がしてきたそれまでの血に臨む努力を労いたい気持ち、圧倒的に生身の人間では不利な条件かつ鬼の土俵で戦う不条理さ、そして、それでも鬼に結局は負けてしまったという悔しさ、その人の命がいままさに目の前で終わろうとしている。炭次郎は煉獄の気持ちを代弁せずにはいられなかったのです。
それを目の当たりにして、煉獄杏寿郎ははじめて心のそこから安心した表情をみせます。この時、彼の胸のなかの懐疑が消えたように私に目には映ったのです。嬉しかったはずです。
かれは、母親の言いつけにしたがって「力を弱いもののため」に使い、また鍛錬することに我慢に我慢を重ね自分を押し殺すことに一生を費やした。しかしそれは、咀嚼され身になった「私」の意見ではなく内在化した彼の親の価値観への服従であり、満たされない腹の奥底では懐疑の炎がメラメラと揺れていた。大好きな母親への喪失が予感される中で母親の庇護を欲するのが当然の幼い頃の記憶、そして、それがどうしようもない善意だからこそ、批判できず、自分の気持ちを犠牲にしてしまっていた。
彼の命は人知れず欲求不満と懐疑の炎のなかで自分の人生が終わろうとしていました。もしここでそのまま死んでいたとしたら、彼は死に際で、自分は後悔しない人生を歩いたと自分の気持ちに嘘をつかずに胸を張って思えたでしょうか?
炭次郎が彼の気持ちを汲み取り、それをまるで自分のことのように共感して、かれを肯定したいという気持ちを全身全霊で表現しているのを目の当たりし、「嬉しい」という喜びを実感することで、彼は「自分が何のために人を守ってきたのか」を理解できた、腑に落ちたわけです。この会話と内面への理解がもたらす感情経験味わったことではじめて「私が命を賭して守った弱いものはやはり守るべき価値のあるものだった」と腹の底から思えたのです。
彼はこの時はじめて、「力は弱きもののためにある」という考えが、母へのマザーコンプレックス的な「あるべき姿」への教条的な服従ではなく、自らの感情経験と結びついた、自分の想いとなり、ながらく遠ざけられていた精神的な満足、安らぎを得たのだともいえます。これは一人の人間の成長の物語でもあったのです。
人を救う力
精神的に自立し自分らしく生きる能力という「力」の観点からみて、煉獄杏寿郎は「弱かった」。その意味で弱き存在であるかれが、自分らしく生きる能力では強い炭次郎に、親にずっと密かに期待しながら失望を余儀なくされ続けていた「なにか」をあたえられ、ようやく救われたのだと見ることできるます。「なにか」の中身をもう言う必要はないでしょう。
その意味で、強者であるかれは人を救ったのであり、同時に救われたわけです。この映画には、単純に外的な力だけが人間を救うことができる力ではない、人間だけが持ちうるもう一つの力の奥深さが見事に詰まっているように思えます。
このように、「犠牲」は一概にすべて正しくはありません。場合によっては恥ずべき行為です。そして、道徳の内容自体は良いとしても、教条的に自己犠牲の道徳を教えることは、わたしたちが思っているほど絶対的に正しい影響をあたえるわけではなく有害な場合もありうるということです。人間的な親密な人生を送るよりも、欲求不満をかかえた過酷な人生、煌びやかな社会的な評価のかげで鬱屈した不自然さを抱える人生をその人にもたらせてしまう可能性がおおいにあるということです。彼が、上弦の参、鬼の猗窩座(あかざ)となっていた可能性だってありうるのです。道徳は人間のためにあります。そして人間には自分も含まれるはずです。
彼の中の葛藤がとけた後、炭次郎とのやり取りとでみせる彼の表情はとても人間味があるようにうつりました。まるで肩にのしかかっていた呪いの重荷が降りたかのようでした。もしあの絶命前の一時に、彼の無意識の領域を除けたとしたら、かれの無意識にはどのような景色が広がっていたでしょうか。そこはもはや息もできないほどの灼熱地獄ではなかっただろうとわたしは思います。
命が尽きようとする間際、煉獄杏寿郎は炭次郎に自分と同じような境遇をもつ弟への遺言をたくします。それは、かれが最後の最後の内的に葛藤し自ら見出したからこそ、はじめて誠実に聞こえる言葉です。縛られることなく自分らしく生きてほしい、「自分の心のまま正しいと思う道を進むよう」に、という人間味溢れる熱いメッセージです。
次回は、現代の日本で半ばデフォルト状態となった「自分がしたいことがわからない」状態から「自分の心のまま正しいと思う道を進む」には、いったいどうしたらいいのかという点を探っていきます。
お付き合いありがとうございました。
[放送局] TOKYO MXほか
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
『愛するということ』
[著者]エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳
[出版]紀伊国屋書店
Updated on 4月 15, 2021
なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?その9『鬼滅』鬼の累(るい)からみる「普通」の真相
こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」をおおくりします。
前回の投稿で、富岡義勇と竈戸炭次郎やりとりをみながら、自由と服従の社会人像の問題について探っていくなかで「私」として社会で生きていく可能性のようなものに惹かれているのではないかというところに行き着きました。
今回は、『鬼滅』那田蜘蛛山(なたぐもやま)の鬼の累にスポットをあてて、別の角度から「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」を探っていきます。
では、さっそくいってみましょう。
『鬼滅』鬼の累(るい)からみる「普通」の真相
「普通」はいつも「正常」か
わたしたちが日常で「普通そうでしょ」という言葉を使うとき、「普通」か「普通」でないかという線引きのようなことを意識下でおこなっています。
「普通」という言葉は、「多数派」という言葉と結びついて、それが「正常」という言葉を連想させます。たとえば、その人からみて「普通」でない場合は異常であると意味がふくまれることになる。しかし、多数派はいつも「正常」なのでしょうか。そもそも、なにをもって「正常」といえるのでしょうか。
わたしたちは日常生活のなかで、個人的な感情や思いが属する個人の領域と、社交性や利害関係からなる社会の領域の両方に足をおいています。たとえば、だれかと映画を観ているとき、心の中では映画についての感動や退屈を感じている自分は個人の領域です。鑑賞中しゃべらない、盗撮しない自分は集団の領域です。何が言いたいかといえば、個人の領域と集団の領域という異なった別々の秩序をもったものが合わさったものが「正常」だと言うことです。
- 集団の領域に支配される正常 ・・・ マナー、社交性、ルール
- 個人の領域に支配される正常 ・・・ 精神的な価値/精神の自由
なぜ「正常」に「」がつくかというと、それが絶対的に不変ではなく、特定の集団の性質や個々人の成熟度によって変わってくるからです。つまり、「正常」は、絶対的なものではなく暫定的なものだと言えます。
現代に生きるわたしたちは、自分をごまかしてでも「他人ウケ」にそって人生を選んでいく傾向が大きくなっています。この「他人ウケ」がどちらの正常に含まれるのかとえば、集団の領域に支配される「正常」です。「自分のしたいことがわからない」、「最近関心がわかない」という人が少なくないですが、それは、自分の思っている「正常」から「集団の領域」を差し引いたときに、「個人的の領域」が縮みこんでいるということです。
ようするに、今のわたしたちが使っている「普通」という言葉は、集団の領域にかなり大きく偏った「正常」という意味を含んでいることになります。個人の領域が萎んだ「正常」、これを「普通」だと思っている人が行き着く世界はどういったものなのでしょうか?
鬼の累(るい)からみる「普通」の真相
アニメ版「鬼滅の刃」第二十話「寄せ集めの家族」では、この個人の領域が抜け落ちた「正常」が「普通」だと思っている人々(「鬼」ですが)がつくる家族が、いったいどのようなありさまに行き着くのかを垣間見ることができます。
那田蜘蛛山の「鬼」の討伐の指令を受けた炭次郎一行は、基本的には群れないはずの鬼が、群れて家族を形成しているのを見て驚きます。後に、この家族は、家族に割り当てられた役割を果たすことを、累という「鬼」に強制させられている寄せ集めの家族であったことが判明します。つまり、累という支配者を恐れて、「鬼」は家族の役割を必死に果たすように強制されていたのです。
「僕はね、自分の役割を理解できていない人は生きている必要はないと思う。」
アニメ『鬼滅の刃』第二十話「寄せ集めの家族」より引用
このセリフは、その累という「鬼」の言葉です。累の発言は、個人の領域がない「正常」を取り込んでしまった人間の行きつく考えの典型です。
もし自分の思いや意思、そして、他者の思いや意思を放置するなら、人の人生に意味を与えるのは、その社会から与えられた役割や義務だけになっていきます。そうなると、社会が規定する「あるべき姿」をコンプリートすれば彼は「正常」であり、その社会で一人前の大人であるということになります。累は「成功」したのであり、家族を作った彼は「正常」ということになります。
家族の場合、パートナーがいて子供をつくり家族としての体裁をつくれれば「正常」となる。しかし、そこにあるのは、夫の義務、妻の義務、父親の義務、母親の義務、兄の義務、姉の義務、妹の義務、弟の義務だけです。そこには肝心なものが抜け落ちています。心です。そこには、生活するうえでの応答はきっちりあり表面上はスムーズであるのに、内的なつながりが感じられない家族ができあがります。家族のメンバーの個々人の意思が放置され、内的な繋がりの元にあたるものがないのです。外見上は絆はあるのに、実際に感じられない。そして、家族が世間体や義務のためだけに存在する。これほど、寒々しいものはないでしょう。個人の領域の「正常」からみたら悲惨そのものです。
このように、個人の領域がない「正常」の行きつくさきは、「心」を犠牲にした冷たい世界です。
鬼の累のケースは、累自身が権威となり、鬼に「役割」への服従を強制し「家族」を維持しています。わたしたちの社会の場合は、「世間」といった「匿名の権威」が権力者として君臨しています。
このように、個人の領域がない「正常」の行きつくさきは、「心」が感じられない建前の世界です。
鬼の累のケースは、累自身が権威となり、鬼に「役割」への服従を強制し「家族」を維持しています。わたしたちの社会の場合は、「世間」といった「匿名の権威」が支配者として君臨しています。
わたしが問題にしたいのは、「世間」そのものというよりは、世間の内容であり、その世間が「普通」と語るときの「正常」の中身についてです。もちろん、わたしたちは「世間」から鬼の累のように、直接的に外から強制されているわけではありません。外から見れば自分で決めているようにうつるでしょう。しかし、「普通」という脅し文句でわたしたちは内側から見張られ、服従しているわけです。
わたしたちは、この「普通」という言葉に従うとき、自分の考えだと思い込んでいますが、正体は生まれたあとに学びとり取り入れた「他者からの視点」であり、集団内での利害関係から見た視点です。わたしたちは、外からの強制ではなく内在化している多数派の「空気」に無自覚に服従しているのです。
例えば、結婚についてなら、個々人が愛し合い信頼関係を築きその結果として便宜的に結婚するというよりは、「みんなしているのに」といった取り残された感、「世間」に服従している人からのから「結婚できないということは人間性にどこか問題がある」という偏見が恐いために半ば自分に鞭をうつように、妥協もいたしかたなし、という具合で相手選びをしている。もしくは、その圧力をかなり強く感じている人が日本では多いように思えます。
「普通」になることの代償
「鬼」の累のケースとは違い、それは個人の自由だし目に見えた外からの強制がないのだからいいではないか、と思うひとも多いかもしれません。おっしゃるとおり、それは個人の自由です。しかし、「世間」や「みんな」といった「匿名の権威」への服従は、長期的にゆっくりと人の内側を空虚感やフラストレーションで満たしていき、結果として他者への不寛容や鬱屈とした閉塞感という形をとって社会に影響をあたえている側面もあるのです。
そのからくりを述べる前に、この、「普通」や「世間」といった「匿名の権威」が冷酷な支配者であるのにもかかわらず、どうして多くの人が服従するにいたってしまうのか、ということについてのフロムの文章を見ていきたいと思います。
匿名の権威は、あらわな権威よりも効果的である。というのは、ひとはそこにかれが服従することが期待されているような秩序があろうなどとは想像もしていないから。外的権威のばあいには、秩序があり、命令する者があるというのは明瞭である。ひとは権威と戦うことができる。そしてこの戦いのうちに、個人の独立性と道徳的勇気とが発達することができる。また内的権威のばあいにおいても、命令は内的なものであっても、それは認識しうるものである。ところがこれに対して匿名の権威のばあいには、命令も命令するものも、目にみえないものとなっている。それは目にみえない敵によって砲撃をうけるのに似ている。戦うべきなにびとも、またなにものも存在しないのである。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:186項
注)フロム・・・エーリッヒ・フロム、20世紀を代表する社会心理学者。自由と孤独の関係を秩序だてて論じており、筆者はこのシリーズではメインの参考としている
この、自覚しずらいということが、「匿名の権威」の特徴です。自覚しなければ、それが良いのか悪いのか、悪いならどう対応しようといった姿勢がとれません。
例えば、鬼である累のように外から暴力によって強制を迫られた場合、私たちは不当な状況を強いられていると自覚できるので、内的な面で抵抗できるので、自尊心を確保できます。一方、「世間」を例にしてみると、私たちの内側から服従するよう私たちに迫るとき、「普通」という言葉をつかうので、「普通」ではない場合は、正常でない、劣った存在である、というレッテルを貼ろうとしてきます。この場合、わたしたちは「世間」とは別の意見を表明するすることが実質禁止され、世間の「あるべき姿」に違和感を覚える自分は「普通」ではない異常なダメな存在なのだ、というレッテルを自分で自分に貼ってしまうことになります。これでは生きづらいので、黙認するか考えないようにする以外に選択肢がなくなります。これにより、自覚がどんどんできなくなっていくからくりがあるのです。
この、「私」という主体の放置をセットとする「空気」への服従が恐いところが、個人に無関心と思考停止をもたらすことです。服従している空気感が意見の是非や内容にかかわらず絶対的に感じ、もはや自分で考えること、問いをもつこと、決断することが自分で出来なくなります。
わたしこの「自粛警察」が盛んであった一時に、都市の公園近くを一人で歩いていました、道行く人もまばらになったのでマスクをあごの下にずらして歩いていたら、遠くから二人組の中年の女性の二人組が畜生でも観るかのような目つきで「マスクしなさい」と一方的に言われたのを思い出します。3密ではなく、しかも一人で、人込みから外れたので一時的にマスクを外していただけなのに、わけも聞かず一方的に批判され命令された時の気分はいいものではありませんでした。むしろ、3蜜ではない道でわざわざ接触してくる彼女たちの行動はどうなのだろうかと思ったのを思い出します。それが、「「自粛警察」は独善的」という別の意見が優勢になってくると手のひらをかえすようになりをひそめます。
いっぽうでこの雰囲気がどっちつかずの状況で「私」という主体がない場合に人がどう行動するかもコロナ禍は可視化しました。「世間」に「二つ意見があること」が「どっちでもいい」という雰囲気を醸成し、個人的な考えはここで止まります。「世間」に即悪と断定され攻撃されないのであるなら、我慢が少ないほうへ、つまり、飲み会を選ぶことになります。「私」を封印することを利害の「あめと罰」によって適応した人にとっては、「世間」で支配的となった雰囲気にたいして、その内容が理性的なのか、人として道理にかなっているのか、はたいした問題ではなくなってきます。
世代は、この空気である「世間」が分かれやすく、スマホの出現はさらに「世間」を分割しています。緊急事態宣言で学校が休校になり、多くの学生が渋谷の街をかっぽしているというニュースがあり、「若者は年寄りのことを何とも思っていない」という年配の意見が聞こえてきそうですが、若者がが人でなしになったというより。「大人」と同じように支配的な「空気」に従っているだけだととみることが出来ます。
これは、「私」としてつながることを許さない社会が個人にもたらす、無関心と思考停止問題の問題なのです。
この章の冒頭で取り上げた「普通~でしょ」という言葉に話をもどしますと、その人が本当は嫌なのに、その気持ちさえも放置して「普通」に従った場合、その人はその「普通」に従わない人が気に入らなくなるのは当然です。自分は我慢してるのにどうしておまえは我慢しないのか、という逆恨みがわくからです。「普通」という言葉が同調圧力をかけたい時に使われることが多いのはそのためです。
「世間」が要求してくる生き方へ違和感、反発を「私」が感じているにもかかわらず服従をつづけると、「私」を部分的に無視していくことになるため、少しずつ自分の心を放置する状況に置かれてしまう。気持ちは部分的に消すことはできないので、どんどん自分の気持ちを放置する方向にいってしまいます。
家族の義務はたんまりあるのに、肝心の内的なつながりが感じられない仮面を被った家族のような状況や、烏合の衆となり、他人の苦しみや社会にかんして無関心になっていく状況からいえることは、「普通」になることは、「鬼」が持つことができない人間として大事な能力を代償に払っているのです。
自覚なき村人
abemaTVの報道バラエティー『アベプラ』の2021年1月19日の放送で、「普通」についての特集が組まれていました。その中で、無作為の日本人に「自分は普通であるかどうか」のアンケートが実施され、その回答の70パーセントが「自分は普通である」という回答となりました。
このアンケート回答者の70パーセントの人たちは、社会が要求する「普通」に憧れるでも、反発するでもなく、自身への認識と同一視しています。他者を他者として発見できていない「村人」のメンタリティーの水準にとどまっているといえます。
自分を正当化して同調を迫るニュアンスを含んだ「普通~だよね!?」という言葉を使う時、このニュアンスを英語で無理くり表現すると「I think~」(私は思う)よりは「I believe~」(私は信じる)に付加疑問文がつけるような形に近いのではないかとわたしは思います。信じている、という自らの信仰のようなものをいわれても、「ああそうなの」としかいえません。これは他者が認識できていない相手を窮屈にさせるコミュニケーション方法といえます。なぜなら、同意を返されることしか期待されていないからです。
「普通」と同化してしまった場合、わたしたちは、この偏狭さがもれなくついてきます。
鬼の累も他の鬼とおなじように、人間だった頃の記憶を忘れていくかわりに、無惨の支配と服従の価値観を取り込んでいき、いつしかそれが彼にとっての「普通」となり、その「普通」が彼の自己認識と一致するにいたります。彼とは違う価値観の鬼や人に、自分の従う「普通」に染まるように彼が他人(鬼ですが)に強要してしまう、もしくはコントロールしようとしてしまうことはある意味で当然の結果といえます。
ネットのコメント欄、SNS、もしくは自粛警察といった形で、自らの信じる「正義」をふりかざされた人の気持ちを顧みることなく振りかざしてくる人は、この鬼の累と同じ精神状況にあると考えられます。確実にいえることは、人が個性をもって生まれる以上、はじめから完全に「普通」だった人などいないということです。
近年、「おひとり様」のサービスが増えてきました。勤務時間以外で会社の人との私的な関わりを避けるひと、定期的に一人の時間を確保したい人が増えてきたようです。かつてのようなみんなでワイワイ、ガヤガヤする喜びよりも、「村人」的な関係が前提とする役割を演じることへの期待への窮屈さ、声がでかい人からのトップダウン的なコントロールや操作にたいして感じる不快感のほうが相対的に大きく感じているひとが増えてきたからかもしれません。
過適応の影響
このように人からの評価を気にするあまり、自分自身がすっかり委縮し、「世間」や「みんな」同調することで自分の不安を解消しようとする人が多数派の社会はどうしても息がつまります。このような人の典型のひとつに「神経症的な「非利己主義」」というものがあります。フロムは精神分析の視点からこう説明しています。
「非利己的な」人は「自分のためにはなにも欲しがらず」、「他人のためだけに生き」、自分を大事に思わないことを誇りにしている。ところが、非利己的であるのに幸福になれず、ごく親しい人々の関係にも満足できないので、当惑している。
そういう人を分析してみると、その人の非利己主義は、他の症状と無関係なのではなく、症状のひとつであり、ときには最も重要な症状であることがわかる。そういう人は、愛する能力や何かを楽しむ能力が麻痺しており、人生にたいする憎悪にみちている。見かけの非利己主義のすぐ後ろには、かすかな、だが同じくらい強烈な自己中心主義が隠れている。
エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:98項
このような人は「世間」の語る「普通」に自分の気持ちを放置してでも服従しますが、「普通」であることのため「自分を大事に思わないこと」を誇りにしているのが特徴です。わたしは、カナダに1,2か月ホームステイしたことがあるのですが、日本を出てホストファミリーや語学学校の担任やスタッフなどのカナダ人と接する中で、この特徴は日本人のかなり多くの人がもっている特徴だなと、わりとはっきりと感じました。
この態度がもたらす影響は、「喜ぶ能力や愛する能力の麻痺」というその人自身の問題だけでなく、関係をもった相手にもたらします。フロムは「神経症的な「非利己主義」」な人が他人に及ぼす影響について、特に、母親と子供の関係にその本質が一番現れると指摘しています。それが次の文章です。
非利己主義の本質がいちばんはっきりとあらわれるのは、それが他人に及ぼす影響、とくに現代社会においては「非利己的な」母親がその子どもに及ぼす影響のなかにある。そういう母親は信じているー子供は母親の非利己主義を見て、愛とはどういうことなのか、さらには愛するはどういうことなのかを学ぶにちがいない、と。ところが、母親の利己主義は、期待どおりの影響を及ぼさない。そういう母親に育てられた子どもは、愛されていると確信している人間が見せるような幸福な表情を見せない。彼らは不安におびえ、緊張し、母に叱られることを恐れ、なんとか母親の期待に沿おうとする。ふつう子どもたちは、人生に対する母親の隠された憎悪を、はっきりと認識できるわけではないが、敏感に察知し、それに影響され、遂にはすっかり染まってしまう。
結局のところ、「非利己的な」母親の影響は利己的な母親の影響とたいして変わらない。いやそれどころか、もっとたちがわるいこともある。なぜなら、母親が非利己的だと、子どもは批判できない。子どもたちは、母親を失望させてはならないという重荷を課せられ、美徳という仮面のもとに、人生への嫌悪を教え込まれる。純粋な自己愛をもった母親が子どもにどのような影響をおよぼすかを見ればわかるように、愛や喜びや幸福がどんなものであるかを子どもが知るためには、自分自身を愛する母親に愛されるのが一番だ。
エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:99項
このように「神経症的な「非利己主義」」は、最も無防備で無力な時期に母子ともに無自覚のうちに影響され、下の世代に連鎖していくのです。
悲惨の螺旋
考えてみれば、年配の世代まで、家庭では家父長的な態度が当たり前でした。それが、封建時代のなごりで、女性は基本的に夫を引き立て献身し、子どもの面倒の一切の責任を負っていました。「内助の功」「良妻賢母」という言葉があてられ、妻となり母となった女性はこの「道徳」のしめすあるべき姿にみあうように一生懸命日々の生活をこなしていたと思われます。ポップスのヒットソングで、家族をテーマにした歌の歌詞のなかに、このイメージを見かけるので、今でも支持している人が少なく無いかもしれません。
しかし、これは中世の身分的な社会構造がゆるすなかでの美徳であり、個性化が半ば進んでいる女性がこの道徳を実践すると、必然的にフロムがいう「神経症的な「非利己主義」」な人が出来上がってしまいます。
自らの気持ちを犠牲にしてても「世間」体のために家族をつくり、家族の義務を一生懸命果たそうと、「いい母」を演じようとも、人は心まで操作できません。そういう、見た目はきっちりしていて、暴力などなく、表面的には問題はみえないが、自分をすっかり疎外してしまった親のもとに育った子供は、愛されている「実感」が得られず、また親が隠して不自然さを子どもの鋭敏な感受性はとらえてしまうため当惑し不安を感じてしまいます。子どもはそれでも母親が好きなので、母親の言うこととは違うことを感じている自分は悪い存在なのだと思い込みます。結果として、親とおなじように、内面に不自然さと自身のなさをかえ、抑圧的な期待される「イイヒト」に縛り付けられた性格に変形していってしまうわけです。
また、親自身が自分の気持ちを犠牲にして「世間」や「普通」に同調することを美徳としているため、子どもの「意思」を尊重したり配慮する能力が弱く、子どもの気持ちに寄り添うことなくズレたものを「あなたのため」と押しつけてしまいます。たとえ、子どもに好きかどうか尋ねて「好き」や「やりたい」と言ったとしても、親が子どもに習いごとのことをほのめかしている時点で、子どもは親の期待に敏感に察知しています。この深さまで子どもの気持ちに寄り添い、それ相応のケアをしなければならないのが、親だけでなく子どもに関わる立場ににいる大人の責任です。子どもは、まだなにも知らないからです。
時代はかわれど、子どもが親からうける影響ほど強いものはありません。戦後のようにプライバシーがなく子どもの面倒を地域でみていた時代にくらべ、現代は、一人の母親が子どもに長期にわたり密着しやすい環境にあるため、いいも悪いもふくめ親からの影響力はましてるのが現状です。
このように「神経症的な「非利己的」」な親は、虐待をする「利己的な親」と同じように、はからずも子どもの健全な自己愛を奪ってしまい、神経症的な人格を子供に継承させてしまうのです。そのような環境におかれた子どもは、親の期待に恐ろしく敏感な闇をかかえた「イイ子」を演じることを余儀なくされしまいます。その子どもの母親が、子どもの頃にそうせざるおえなかったのと同じようにです。
本当の大人の責任
フランスの哲学者、アンドレ・コント・スポンビルは、道徳(禁止)抜きの愛はありえないとしたうえで、子どもたちに対する大人の責任をこう述べています。
愛抜きの道徳はどうでしょうか。これはありうるかもしれませんが、なんの意味も持たないでしょう。思春期の子供にこう訊かれたと想像してみてください。「教えてお父さん、お母さん。人生の意味ってなんなの?」あなたがこう答えるのを想像してください。「人生の意味は義務を果たすことさ」。なんという人生の意味でしょうか!義務それ自体には何の意味もありません。(カントが言った通り。義務はなんの目的も目指してはいません)。人生に意味を与えるのは義務ではなく愛です。子どもたちに教えなければならないことは、まさにそのことです。人生は、私たちがそこに見出し置きいれる愛におうじてしか生きるに値するものとはなりません。
アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳:『資本主義に徳はあるか』:紀伊國屋書店:280項
わたしたちを満たしてくれるものは義務ではなく、愛といった喜びの感情である。そして、だからこそ、愛といった喜びのために、義務や役割が重要になってくるのです。
わたしたちを満たしてくれるものは義務ではなく、愛といった喜びの感情である。そして、だからこそ、愛といった喜びのために、義務や役割が重要になってくるのです。
子ども成長していき、その子供らしさである意思を発達させるにつれて、愛する内容の主要なな要素が、その人らしさとなってきます。ドイツ人であるフロムやフランス人であるスポンビルが言っている愛は、「その人がその人らしく成長することを喜ぶ気持ち」です。子どもの親が、自分らしさを喜べていない場合、子どもの子どもらしい成長を喜ぶことはできません。
「人生の意味は義務を果たすことさ」という愛なき親の答えは、鬼の累の「僕はね、自分の役割を理解できていない人は生きている必要はないと思う。」という発言と同じ内容です。そして、それはわたしたちが知らず知らずに取り込んでしまった「世間」の声と一致します。
人間が自身の喜びから生まれる意味(精神的)の手段である、結婚、仕事、義務や役割そしてお金が、目的である人間性を犠牲にしてしまう。人生に意味を与えることが義務や「あるべき姿(役割)」であったなら、人は「鬼」の累と同じ結論にいたるでしょう。それは、安定していて表面上はうまくいっている外見に反して、内的な繋がりの感じられない人間関係です。行きつく先は那田蜘蛛山の鬼たちの家族、「寄せ集めの家族」のような虚しく温度の感じられない社会です。
わたしたちができることは、集団の領域に偏りきった「正常」を、小さくなりきったほうの個人の領域を大きくすることで、バランスのとれた健全な「正常」にしていくことではないかと思います。
「愛や喜びや幸福がどんなものであるかを子どもが知るためには、自分自身を愛する」両親「に愛されるのが一番」です。そうすれば、今の社会で増している閉塞感や生きづらさが減ってくるのではないか。そのために、一人一人が、「私」を放置しないで「私」として社会・他者とつながるように生きていくことが、閉塞の負の連鎖が続く今の日本に生きている大人の責任ではないかとわたしは思います。
いくら他人からうらやましがられるような状況があろうが、そこに「私」の心がなければ虚しい。そんな認識が見えかくれするなかで、「内的な繋がり」を感じさせてくれる物語である『鬼滅の刃』に少年少女のみならず社会人層までもが惹きつけられたということは、今の日本でみなようように生きている中で、それだけ精神的な心の飢えのようなものを内に抱えているからなのかもしれません。
次回は、『鬼滅の刃』に登場する、上弦の参・鬼のアカザや無惨を引き合いにだしながら、わたしたちがなにもしていないときに感じる不安や罪悪感の正体をあぶりだしていき、『鬼滅』の大ヒットのわけを探ります。
お付き合いありがとうございました。
参考文献
[放送局] TOKYO MXほか
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
『愛するということ』
[著者]エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳
[出版]紀伊国屋書店
『資本主義に徳はあるか』
[作者]アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳
[出版社]紀伊國屋書店
Updated on 4月 22, 2021
なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?その10『鬼滅』の爆発的ヒットが照らしだしたもの
こんにちは、matsumoto takuya で。今回も前回にひきつづきシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」をおおくりします。
前回の投稿で、『鬼滅の刃』からみる「普通」の姿の歪みがみえてきました。
今回は、『鬼滅の刃』から現代の現状を浮き彫りにしながら、「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」のまとめに入っていきたいと思います。
では、さっそくいってみましょう。
「鬼」と自分の商品化
「なぜ『鬼滅の刃』は世代をこえて異常なほど大ヒットしたのか?その9」気になる方はこちらへ
ここでもう一度、現代人がもつ傾向について話を向けていきたいと思います。 自分を見失った人の典型的な人間観について、フロムはこう述べています。
フロム・・・エーリッヒ・フロム。20世紀を代表する社会・心理学者。社会の中の個人の孤独と自由を専門とした
経済的な関係ばかりでない、人間的な関係もまた、この疎外された性格をおびている。それは人間的存在の関係ではなく、物と物との関係である。しかしこの手段と疎外の精神のもっとも重要な、もっとも荒廃した例は、おそらくは人間の自分自身に対する関係であろう。人間はたんに商品を売るばかりではなく、自分自身をも売り、自分自身をあたかも商品のように感じている。
・・・商品と同じように、これらの人間の性質の価値をきめるものは、いや、まさに人間存在そのものをきめるのは、市場である。もしある人間のもっている性質が役に立たなければ、その人間は無価値である。ちょうど、売れない商品が、たとえ使用価値があっても、なんの価値もないのと同じである。このように、自信とか「自我の感情」とかは、たんに他人の自分にたいする考えをさしているのにすぎない。それは市場における人気や成功とは無関係に、自己の価値を確信している自我ではない。もし他人から求められる人間であれば、その人間はひとかどのものであり、もし人気がなければ、かれは無に等しい。自己評価が「人格」の成功に依存しているということが、近代人にとって人気が恐るべき重要さをもってくる理由である。ある実際的なことがらで、うまくいくかどうかというばかりでなく、自尊心を保つことができるかどうか、劣等感の深淵に落ちるかどうかということも、すべて人気にかかっている。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:136項
自分を見失うということは、自分自身への認識が、数値化できるものや役に立つかといった外からの評価だけに偏ってしまう側面をもちます。その場合、その人は人間を「物」と同じようなドライはものとして捉えるようになり、それはまず、自分の自身への認識からはじまります。第一章で養老孟司氏が、現代人は自分自身を変化する生き物としてでななく、変化しない「情報」として見るようになってしまった、と言っていた文章を紹介しましたが、ここにつながります。
「物」とは売買・交換でき、所有できるものであり、使用し消費できる対象物であり、経済の秩序にふくしているため市場が価値を決定します。売れるか、売れないか、役に立つのかどうかが、そのまま商品の価値になる。自分を「物」と同じように捉えてしまえば、売れるか売れないか、人気のあるなしが、その人の存在についての価値観と一致することになってしまいます。
わたしたちが何かをするときの動機をすこしふかぼりすると、実は他者評価を得ることが目的であることが多い背景には、こういう事情がひそんでいます。タレントという特殊な職業がありますが、タレントが、特殊な仕事であり、時に大金を得られることには理由があります。「私」という主体性が十分に成長し確立できていない場合、下手をすると自分を見失い、自分ではどうしようもない人気に、自分の存在が「いい存在」なのか、「悪い存在なのか」をにぎられてしまうことで、心の平和を失ってしまい、例え人気があったとしても、胸のうちにおおきな「虚ろ」を抱えてしまうリスクを背負っているからです。大人とは違い、子どもの場合は、そもそも精神能力そのものが生理的にも発達途上にあるので、当然、そのリスクは跳ね上がります。
タレントとは違う一般人、つまり、わたしたちが自分を「物」のようにとらえてしまったとき、労働市場、婚活市場といったなんらかの「市場」で売れ残っている場合、その人の内面では「おまえは使用価値のない無価値な存在だ、口答えは無用だ、生産性のない売れない商品に価値はない、お前はなんてダメな奴なんだ」という自責の念が吹き荒れることになります。これは、まるで鬼舞辻無惨が身内の「鬼」にはなつセリフと似ていることに気がつきます。
これは偶然ではありません。無惨と鬼の関係は、まさに純化された「物と物の関係」だからです。かれらの関係は、「私はお前とつきあうことでどのような目にみえる見返りがえられるのか」という利害関係のみで成り立っています。無惨ににとって、彼に同じように役立つのであれば、鬼Aだろうが鬼Bだろうと関係がないのです。無惨がその鬼にやさしくなるのは単純にその鬼が役に立ち自分の支配下にあるからです。無惨にとって鬼とは自分の思い通りにで操作できる対象であり、愛玩の対象であり、つまり、「物」です。彼は、自分の思いどおりに動かせる「おもちゃ」を喜んでいるのであって、その「鬼」を愛しているわけではないのです。
ネット、スマホとSNSの出現により、かつて一枚岩であった「世間」は分散化され無数に分化さてていますが、自分を疎外した場合におこる本質は変わりありません。「私」という判断主体を失えば、ひとは世間体に引っ張られ、お金や世間受けといった外的な測れる指標でしか自身の価値を見出せなくなることに変わりはないからです。
婚活が滅入るわけ
この、「人をモノとしてみる」「人間的存在の関係ではなく、物と物との関係」「自分自身をあたかも商品のように感じている」ということが、今の日本の「世間」に浸透している分かりやす例をあげるとすれば「婚活市場」でしょうか。
交換可能な商品として、自分の人格を情報パッケージ化して売りに出し、相手の人も同じよう人格をパッケージ化した情報を交換して品定めすること婚活市場の中身ですが、家族に関わってくる私的なことに関して「市場」という露骨な言葉が使われていることに、私は違和感を覚えます。結婚が、完全に愛だけではできないのがわたしたちだとしても、「人間的存在の関係ではなく、物と物との関係」をストレートに表現した「婚活市場」という言葉に違和感と不気味さを感じるのです。
婚活そのものは出会いの場の一つとして有効だとは思うのですが、「結婚は絶対的に幸せの条件で、できないは人どこか問題がある」という固定観念のようなものを婚活市場が放ち続けてくる場合は厄介です。結婚という手段が目的となり自分自身を犠牲にしてしまっては本末転倒ですし、「みんなそうしてるのに、あなたはしないのですか?」という圧力がその人の幸せのためになっているかどうかは疑問です。結婚というステータスではなく、中身が肝心なのは言うまでもないことです。
そのうえ結婚が目的化してしまっては「人をモノとしてみる」という態度を実践で強化してしまいます。習慣は人をかえる力があるので、自分のコレクション、珍しいモンスターを探す「モンスターハンター」化してしまいます。
たまたまいい出会いがないだけなのに、「売残り感」「とりのこされた感」でダメ押しの自責をもたらします。 婚活に疲れはてた人が少なくないのは当然といえますし、自分を含め人間を「物」として見ることにうんざりするほうがまともといえます。
愛を交換できる商品であるという価値観があってもいいのではないかという意見もあるかもしれません。もちろんそれも個人の自由です。ちなみに、定義からいうと、愛するのに相手にいくらかかるか要求するなら、それは愛ではなく売春です。
「鬼」は尊厳の意味がわからない
前章で登場してもらったフランスの哲学者スポンビルは、人間存在について労働と対置させながらこう説明しています。
人間の尊厳をなしているものは自分が何の役にたっているのか(彼の有用性)ではなく、その存在そのもの(人間であること)なのです。尊厳をつくるのは労働ではなく、人間であることです。労働はそのために役立つものでしかありません。だからこそ、労働は重要な価値を持つわけですが、それはあくまでも手段としてなのです。
アンドレ・コント・スポンビル小須田健/C・カンタン訳:『資本主義に徳はあるか』:紀伊國屋書店:234項
人間存在の価値は、市場や集団がきめるのでしょうか?市場や集団が「価値なし」、といえばその人はゴミと同じなのでしょうか?そんなことはありません。「人間の尊厳をなしているものは自分が何の役にたっているのか(彼の有用性)ではなく、その存在(人間であること)そのもの」です。同じように、人間の尊厳をなしているものは市場で人気があるかどうか(モノとしての経済的価値)ではなく、その人がただそのひとらしくあること(人間であること)そのものだからです。
これは、個人の領域の価値と経済の領域の価値が混同されてしまっていることから起きる富の圧制とよばれるものです。そして、富による圧制は、人類史ではもっともこころの貧しい集団がおちいる圧制でもあります。
「私」を見失ってしまうと、外からの評価や、それにつながる役立つかどうかによって自分の存在が揺さぶられてしまいます。この人間存在への態度は、自分自身だけでなく他者にもむけられ、こいつは利用できるのか、こいつは金になるのか役に立つのかという視点のみになっていくのです。これはまさに、無惨と鬼たちのさもしい価値観です。モノとモノの関係、利害関係者の世界です。
『鬼滅の刃』の世界で炭次郎たちが、「鬼」のいない世界を目指す理由は、「鬼」が人間を食べるからなのですが、すこし引いた視点でみれば、「鬼」が人間存在の価値を見出せず、人を「モノ」として扱うからでるあると言い換えることができます。
その結果としてうまれる悲惨な様を、もうこれ以上は見たくないと、彼らは自分を鼓舞して戦っているわけです。一人の人間は「モノ」じゃない、そんな安っぽちくはない、人間は、ただその人であるだけで十分に命をかけて守る価値のあるものだ、人間なんだから、という信念のもと活動しているのです。
今の日本では、市場価値や有用性、コスパといった経済の領域の事柄が、私的な領域まで決定するような情報が溢れています。お金はある程度は必要ですが、お金のために肝心の心が貧しくなる事態は避けたいものです。
生産的であることへの強迫観念のルーツ
話はすこし飛びますが、中世末期の西洋で大流行したキリスト教プロテスタントの一派で、カルヴァン派があります。現代人のパーソナリティーに影響を与えたことで有名です。
カルヴァンは中世末期、宗教改革時のキリスト教プロテスタントの指導者のひとりです。彼は宗教改革で有名な同じ指導的立場にあったのルターより、個人の無力さ・無意味さを強調し、道徳的生活の重要性を著しく強調する教えを特徴としていました。また、「予定説」という人間の運命はあらかじめ決まっている、という考えを持っていました。カルバンの教えである個人の無力さ・無意味さの強調と、その死後の救済がわからないという不安がかえって、信者をたえまない苦行の生活や努力に駆り立てたてることになります。
これが近代の資本主義の発展に関わってきたことを社会学者であるマックス・ウェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(『The protestant Ethic and the Spirit of Capitalism』)で示したことで有名です。
経済が異常なほど崇拝される現代においては、資本主義発展への肯定的側面ばかりに目が行ってしまいますが、そこには代償がありました。フロムは、カルヴァン派の信者(カルヴィニズム)のパーソナリティについてこう分析しています。
このたえがたい不安の状態や、自己の無意味さにについての委縮した感情から、逃れるただ一つの道は、カルヴィニズムできわめて優勢となったまさにその特性だけである。すなわち熱狂的な活動となにかをしようとすうる衝動の発達である。このような意味の活動は強迫的な性質をおびてくる、個人は疑いと無力さを克服するために、活動しなければならない。このような努力や活動は、内面的な強さや自信からうまれてくるものではない。それは、不安からの死に物狂いの逃避である。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:99項
死後の運命があらかじめ決まっているという教えを信じるカルヴァン派のなかで、努力の結果である世俗的成功・失敗が、そのまま自分の存在が善か悪か、救われるのか・救われないのかということのしるしとなる、という強迫的な思考につながっていきます。そのため、かれらの態度は、人類史でかつてなかった態度を人々の性格にうえつけることになりました。それは、「努力や仕事を目的それ自体を考える新しい態度」です。人間が目的ではなく、手段であるはずの仕事の手段として使われる人間がある、つまり、自分自身を人間存在としてではなく、「物」として見る態度です。
「したい」という気持ちが動機ではなく、「すべきである」という教えが動機にある努力や活動は、「内面的な強さや自信からうまれてくるものではな」く、「不安からの死に物狂いの逃避」であるという点が特徴です。
このような自虐的態度の帰結として、個人のうちに無力感をためこませ、徹底した強者賛美と弱者への侮蔑の態度をまねき、西洋では全体主義が芽をだしはじめます。
一見、日本と関係ないように思われますが、かつてのカルバン派の信者が、世俗的な成功・失敗が自分の存在の未来(死後の世界)に左右されると考えたように、現代のわたしたちは、他者からの評価といったものがそのまま自分の存在価値を左右する、と強迫的に考えるようになっている点で似たような不安のタネを抱えてしまっているのです。
「鬼」化と罪悪感
休暇をまとめてドガっととったり、休暇を取ったのに何もしていないで一日を過ごした時に、なぜか、罪悪感を抱いていてしまう、大勢の前で目をみて自分の言葉ではなさなければならないときに恐怖を覚える、という人は割といると思います。
何らかの宗教を信じている人は、その宗教が善悪の見方を示します。個人主義の場合は「私」が様々な価値観に触れ認識を深め成長するなかで倫理観を自ら育みます。「私」という主体の確立をあきらめて「世間」に服従している人の場合、その人は何を基準に善悪の判断をしているのでしょうか?
それは「世間」です。「すべき」や「あるべき姿」といったかたちで「世間」が個人に内側から語りかける時、世間がしめす「あるべき姿」は善であり、それに従わない場合は悪であるという倫理観が不随しているのです。
その場合、「世間」に服従しているひとが、世間の示す「あるべき姿」に従わないことに自覚的であった場合、それは倫理規範を犯したこと、罪を犯したことになります。罪であるなら、それは罰すべきこととなります。
大勢の前で、相手の目をみて自分の言葉で話すときに恐さを感じるのは、自分の言動が「世間」に合致しなければ罰せられる可能性があると思っているからです。この精神的な縛りは、「私」を許さない社会のなかで成長していく過程で、何らかの痛い思いをした実体験として紐づけされ現実感を醸してきます。
別の視点から見てみると、「世間」に服従しているひとにとっては、それに自覚的に従わない人は、罪を犯した人であり、当然のこととして、罰してもよいという結論にいたるでしょう。
ここに、どうして日本で同調圧力が強力なのか、どうして、しごきやイジメにブレーキがかからないのか?といった疑問の答えがあります。自分の語る意見が、善であり、それを犯しているイジメやしごきの対象は悪であるなら、罪を犯した者を罰するのは当然であるという結論にいたるからです。「私」という考える主体がないので、なんの個別の配慮もなくこの結論へ飛ぶのも特徴といえます。
「世間」とは実態がなく、多数の人のなかにわたしたちが勝手に見出している空気感のようなものです。実際問題、「世間」に他人の存在の善悪を決めつける力も妥当性もありません。ここに「私」が気が付けるかどうかが、「私」を確保できるカギとなっています。世間がたとえ「私」に否定的な意見を示そうが、それが「私」の存在を揺るがす力も善悪を決める妥当性もないのだ、ということに気が付くことができれば、程度な緊張とは異質な恐怖感のもとである、「罰せられる可能性」そのものが消えるからです。
「世間」に服従している場合、(自分だと思っている)「世間」の意見が自身の存在にかかわる倫理規範と重なるため、自分の意見に固執しやすくなる傾向があります。日本の討論番組をみていると、意見が対立し終始平行線をたどる場面をよく目にしますが、「私」として表現している人が、日本では珍しいことからしたら、当然のことかもしれません。
休日に特に何もしないで一日過ごした時に感じる罪悪感も「有意義に過ごすべきだ」「生産的であるべきだ」という「世間」から用意された意見に、善悪が含まれていてしまっているかです。
なかでも「働かざる者喰うべからず」というあるべき姿は最強クラスの絶対善が含まれてしまっています。失職して自殺してしまう、もしくは、抑鬱になるほど人を苦しめているものは、経済的な理由というよりは、無力感や、「世間」から問答無用に押される罪人のレッテルである罪悪感なのです。
『鬼滅の刃』では、トップクラスの武力をもつ猗窩座(あかざ)という鬼がいます。すでに無双ともよべるほどの力をもつ猗窩座(あかざ)が、強者賛美・弱者侮蔑と、力への異常なこだわりから抜け出せないのは、「私」を奪われた存在が鬼であるという視点から見れば理解できます。彼も他の鬼を同じように「自己の無意味さにについての委縮した感情」からうまれた不安に苛まれ、その不安からのがれるために、「死に物狂い」でマゾヒスティックな鍛錬に駆らせていたのだと考えられるのです。
たとえ役にたっていなくても、お金につながることをしていなくても、人間存在そのものは罰すべき罪など犯しておらず、悪い存在ではありません。この場合の罪悪感は罪でない前に、誤りです。誤りは、罰すべき罪ではなくて、ただ大目に見て訂正するものです。
このように、「私」を放置して「世間」へ服従することは、ひとを「モノ」のように見るようにしむけ、無力感と不安を増大させ、見当違いの罪悪感でわたしたち監視し、責め立てます。もちろん、人間としての誇りの感情も悪ではありません。もしそれが悪であったら、炭次郎は悪であり、無惨が正義だということになってしまいます。
正義の中身
ここにきて、わたしの頭にこんな疑問が浮かびます。
そもそも正義ってなんなんだろう?という疑問です。
『鬼滅の刃』では正義は鬼を退治する鬼殺隊、悪は鬼舞辻無惨ひきいる「鬼」たちという設定です。鬼は人の気持ちなどおかまいなしで人々を喰い、苦しめるい一方、炭次郎たち鬼殺隊はこの鬼の傍若無人なふるまいに立ち向かいます。ここから正義の大まかな姿が見えてきます。つまり正義とは、一部の人だけが持つ特権のためにその他の人々を苦しめるということを良しとしない価値観のことです。
ひらたくいえば、正義とは平等のことです。そして、その構成要素は、合法性と「正当性」の二つとなっています。合法性とは、法であることはすぐにわかります。では「正当性」と何でしょうか。「正当性」とは、先に引用したスポンビルが使った尊厳や人権と呼ばれるものです。その人が正当性をもつ条件とは、その人が役に立ったか(彼の有用性)ではなく、人間であること(存在そのもの)です。
どうしてこう強調したかというと、日常で使われる正当性という言葉とは、少し意味合いが異なってくるからです。この「正当性」こそが、前節でとりあげた「正常」を構成する二つの要素のうちの、個人の領域に支配される「正常」を言いかえたものだからです。個人の領域が欠けた「正常」が病める点は、まさにこの尊厳、人権、意思、自由といったものが人間らしさであるという「正当性」がおざなりになっている点です。
この意味での「正当性」とは、道理にかなっているという意味です。なんの道理かといえば人間であることであり、モラルや倫理と呼ばれるものです。西洋は人間であることについて多くの失敗と悲惨を経験しながら、人間としての道理に叶っている内容に、尊厳、人権、意思、自由、正義といった内容を導き出して今日の社会の土台としています。本来は、そういう市民が独裁者から自分たちでつかみ取る歴史があってようやく手に入るものを、日本は敗戦によりアメリカから与えられるかたちで手に入れました。そのため、わたしたちにはピンとこないのです。
なぜ、「正当性」がない「正義」を受け容れることが問題なのでしょうか?それは反対に合法性しかない場合、なぜ問題なのか、という点をみていくことで見えてきます。
合法性とは、合法・非合法という区別をもち、市民が委託した権力を代表者が強制力をもって執行し市民に強制するものです。この合法性とは法のことですが、この法は一体なんのために存在しているかといえば、尊厳をもった人間が集団で暮らすための便宜のためです。つまり、法は「人権をもった人間」に生活の場をあたえます。
しかし、法は法に意味を与えることはできません。ここがみそです。法に意味をあたえることができる唯一の存在が尊厳を持った人間です。人間のみが「人間性を持った人間」のためにある法に意味をあたえることができるのです。
たとえば、「正当性」が欠けた「正義」をよしとする人たちが社会で実権を握った場合、彼らが集団からみて役に立たたない人は排除したほうが社会のためだと判断した場合、わたしたちは病人、障がい者、高齢者や失業者をまっとうな人間としてみなす必要がなくなります。多様性など問題外となります。場合によっては、彼らを檻のついた狭い施設に閉じ込めて家畜のよう処分する法律をつくれてしまいます。無惨かおまけの残酷で人間性を失ったな世界です。人々の内面では、そのような人たちを内心で人間以下と蔑み見下すことを「普通」とする人間の住む社会となります。
ナチズムは合法のもとに民主主義的手続きにのっとり行われました。かれらのしたことを他国の人からほぼ永遠に指摘されつづけるドイツ人の若者にとっては今も屈辱的な汚点でしょう。そして、かれらの行為を成立させていたのは、熱狂的な一部のナチ支援者だけではなく、一見「クール」に「どうでもいい」という無関心さで傍観するポーズをとっているが、実際のところは、無力感と無関心に支配された下層中流階級等の多数派でした。
多数派だからといって正しさが保証されているわけではないのです。
個人の領域の「正常」を欠いた「正義」とは、正義の両輪である「正当性」が欠けた歪んだ「正義」です。この「正当性」の欠けた「正義」を内容とする「世間」に同調し服従することは、ある程度の安定と引き換えに代償として自分を捨てさせます。「匿名の権威」に服従することは、自分自身を含めて人間をモノとみなす態度、人間関係を「物」と「物」との支配服従関係へ、人間の人間性への無配慮、排他性、閉じた飼育小屋で鶏がひたすら弱い身内をつつきまわし序列をつくることに奔走している家畜の次元へゆっくりとかえていきます。『鬼滅の刃』の「鬼」と「鬼」の関係へとゆっくりと、しかし確実に進めてしまうのです。 だからこそ、「正当性」が合法性と同様に重要になってくるのです。
ロッキングオンが出版している『SIGHT(サイト)』という現代時事を扱った雑誌があります。すこし古いですが、その『SIGHT(サイト)2011年47号』の表紙をが印象的でした。
正常だからうつになる 弱いんじゃない、まともなんだ
『SIGHT(サイト)2011年47号』表紙より:ロッキングオン
もし「正常」が病んでいるならば、適応できないひとがいても不思議ではありません。その人が人として麻痺しきれない大事なものがあったからこそ、その人がまともだったからこそ、ある日歪んだ「正常」が支配する環境にたいして、まともだから不適応状態に陥る正常な反応をしたといえるからです。
『鬼滅の刃』の異常なほどの大ヒットが照らしだしたもの
さて、ここまで掘り下げてきて、なぜ、今の日本で幅広い層に『鬼滅の刃』がこうもハマったのかという理由が、おぼろげながらも見えてきたのではないかと思います。
「私」という人間らしさを失うことで、人も同類も「モノ」としかみれないために、支配・服従関係や表面的な関係しか築けず、「私」奪った無惨から与えられる代理満足に奔走させらている存在、それでいて、心の奥底では「人間」として生きれないことからくる無力感や空虚感を人知れずためこむ哀れな存在、それが『鬼滅の刃』の「鬼」です。
これまでみてきたように、現在の日本の環境は、わたしたちを「鬼」のほうへ知らず知らずに押しやります。
意識的には「自分は自由であり、自分で人生を選んでいる」と考えているが、実際は日本の文化的背景からくる同調圧力により、個性を成長・発展することを妨げられ、「私」を放置してでも「世間」といった「匿名の権威」に同調・同化していくうちに「私」からどんどんずれていくワタシ、服従先が用意する「あるべき姿」を耐えずコンプリートしなければ不安を感じてしまう「自動人形」のようなものに成り下がっていくワタシ、自分と同じように服従しないで「私」としていきる人を排除したくなるワタシ、「鬼」化するワタシです。
『鬼滅の刃』が、今の日本で社会現象レベルの大ヒットをしたことからみえてくるものとは、いったいなんなのでしょうか?
『鬼滅の刃』は、登場人物どうしのやり取りが、小説のように内面まで深く表現されています。登場人物がもつ役割の背後にある、その人の感覚や感じ方、思い、考え、そういう内的な世界観が作られるにいたった背景に繊細に丁寧に描かれ、そういった独自の世界観を持った人と人とが出会うことで物語がつくられています。人間であることの誇りと尊厳への感情を臆面もなく表現し、義務や役割だけでなく個性を持った人間が、同じように義務や役割だけでない個性を持った人間に出会うことにより、共感、共鳴し、時に対立しながら成長していくさまが、少年漫画(アニメ)に見事に落としこまれています。
「私」を失った元人間である「鬼」の圧倒的な侵害に屈せず、「私」として生きることに誇りをもって立ち向かい、「鬼」となった大切なひとを人間に戻すための物語に、幅広い世代の多くの人が共感し、心惹かれるのですが、それは、わたしたちの社会と『鬼滅の刃』の世界が、本質的な意味で似ているからです。
表向きには多様性を声高にかかげて半ば個性を成長させておきながら、個人の表現を許さない社会の「ズレ」は個人の孤独感を強調し、社会・経済構は歴史的に著しい流動化と、スマホの普及とコロナ禍にともなう生活様式の激変が孤独感の増大に拍車をかけます。
その「ズレ」により強調された孤独の不安どうにかしたくて、自分を放置してでもいいから「みんな」や「世間」に同調していきます。「あるべき自分」に自分をはめ込んでみたものの、自分も他人も容赦なく追い立てるライフスタイルに疲労と虚しさが忍び寄ります。一生懸命頑張っているのにもかかわらず、人間関係から「内的なつながり」が徐々に感じられなくなっていき、茶番じみた現状にうんざりするも、かといって、「他にこれといってましな選択肢がみつからない」状態。建前の「ワタシ」がどんどんおおきくなっていき、心・身体をもった「私」がどんどん萎んでいく状態です。
特に、「ズレ」を実感する社会人層と学生までの層ではストレスの違いがあるように思えます。社会人層は実際の「ズレ」のストレスが直撃するからです。また、中堅以下は既得権益や権力もありません。今までの価値規範に従うことについての懐疑と、自分をそこまで信じられない懐疑により宙ぶらりんの状態にあります。
これはちょうど、個の目覚めが起こった中世末期から近代の西洋で、既得権にまもられた上流階級と捨てるものもない下層階級の激しい要求の間で板挟みになった下層中流階級の層の苦悩と似ています。
そのような重圧の中、ダメ押しのコロナウイルスのパンデミックによって、「常識」が目にみえて動揺はじめたころに、個の自由が芽生えはじめた大正時代の日本を舞台に、侵害に屈することなく人間であることの誇りと尊厳の感情をもった登場人物が奮闘し、内的な繋がりをかんじさせる人間関係を繊細に扱う物語、「鬼」となった大切なひとを人間に戻す物語である『鬼滅の刃』が世に露出しはじめます。
『鬼滅の刃』は、日本の文化的・社会的環境により、外からみえない隅っこの暗がりに自分で押し込んでしまい、決して短くない時間のなか放置され、忘れさられているあいだも、ひとり心の奥底でみえないように小さくなって待っていた「私」にやっと訪れた援軍のようなものだったのではないかと言えます。
それは、かつての規範がゆっくりと崩壊し、先がどんどん見えなくなっていく日本で、わたしたちが希望を抱くための新しい規範のイメージを切実にもとめているのだ、ともいいかえられます。人間としての誇りと尊厳をもった「私」として、いま・ここにある心・身体という個をもった人間として、「私」として生きる人間が社会のなかで出会い、つながり、生きてくような規範です。
『鬼滅の刃』という「私」の側にたってくれる援軍が、陽の光のようなあたたかさで照らしだしたものとは、いま・ここに生き存在している心・身体のこえ、「私」として生きることを待っている、わたしたちのなかに埋もれた声なき声です。
「私」として生きられるなら生きたいという意識下に秘められたか細い声、しかし同時に切羽詰まった人間らしい切実な想いの高まり、気持ちの発露と内的つながりへの飢え、そして、他者から個性をもった「私」として認められたい気持ち、それらの普段は内にしまい込まれてきた「私」の想を、『鬼滅の刃』は優しく照らしだしたのではないでしょうか。
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次回以降は、続編であるシリーズ「『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法」をお送りします。
このシリーズは「『鬼滅の刃』が少し引くほど大ヒットした理由とは?」で考察していいくことでみえてきた、「私」をすかっり失った「鬼」状態に引き込む日本の環境のなかで、自分らしさを取り戻す方法を探っていきたいと思います。
お付き合いありがとうございました。
参考文献
[放送局] TOKYO MXほか
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
『愛するということ』
[著者]エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳
[出版]紀伊国屋書店
『資本主義に徳はあるか』
[作者]アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳
[出版社]紀伊國屋書店
Updated on 4月 20, 2021
なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか? その8『鬼滅』富岡義勇と炭次郎からみる自由と服従
こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」をおおくりします。
前回の投稿で、『鬼滅の刃』にハマった社会人層は、「私」であったことさえも忘れ、代理満足で自分をごまかし、上の人間(鬼ですが)、そして自分にさえも「モノ」のように扱われ続ける「鬼」の悲哀に、同情というチャネルで共感しているかもしれないというあたりを見ていきました。
その中で、権力が伴ってくる組織で働く際、私たちはこの問題をどうやって考えて整理していけばいいのだろうか?社会人になるとは精神の自由、つまり「私」をあきらめることなのだろうか?という疑問にぶつかります。今回の投稿は、この自由と服従の問題をみながらわたしたちが『鬼滅の刃』のどこに共感しているのかという謎に迫っていきたいと思います。
では、さっそくいってみましょう。
『鬼滅』富岡義勇と炭次郎からみる自由と服従
「人を喰った鬼に情けをかけるな。子供の姿をしていても関係ない。何十年も生きている化け物だ」
アニメ『鬼滅の刃』第二十一話「隊律違反」より引用
鬼殺隊の「柱」である上役中の上役である富岡義勇は、滅した鬼が身に着けていた衣服を踏みつけにしながら、炭次郎にそう命令します。炭次郎はその言葉に対してこう答えます。
「殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上被害を出さないため、もちろんおれは、容赦なく鬼の首に刀をふるいます。だけど、、、鬼であることに苦しみ自らの行いに悔いている者を踏みつけにはしない。鬼は人間だったんだから。おれと同じ人間だったんだから。」
アニメ『鬼滅の刃』第二十一話「隊律違反」より引用
このような炭次郎の態度を、日本の古い体質の組織でとった場合、先輩や上司にたてつく生意気な不届きものとしてレッテルを貼られ、上司や先輩にしごかれるか、噂を使ったイジメにあうことでしょう。しかし、この評価は、本当に絶対的なものなのでしょうか。
このやりとりは、自由と服従の問題を含んでおり、政教分離が達成されたた民主主義を採用している国の社会人が向き合い続けている典型的な問題です。この手の問題について、この制度の生みの親であり、日本より歴史的に長く試行錯誤をおこない、失敗と成功の経験をもつ欧米の社会は参考になります。
フランスの哲学者であるアンドレ・コント・スポンヴィルは、自由と服従について、組織のなかでの個人の責任をこう説明しています。ちなみに、かれは自由についての概念が強いフランス人ですが、伝統的な教育機関(ソルボンヌ大学)というもっとも保守性が強い組織に所属していました。
しかるに、私たちの社会が(会社も同じでしょうが)必要としているのは、この二つの徳のいずれをも両立させるすべを心得ている人です。それは共和制の精神であると同時に政教分離の精神でもあります。アランがいっていたことですが、「権力に従順な態度を示し、精神にだけに敬意を払うこと」。そして、だからこそ、大切なのはあらゆる圧制にたいして抵抗することです。
アンドレ・コント・スポンヴィル:『資本主義に徳はあるか』紀伊國屋書店:120項より引用
注)政教分離・・・政治・権力が個人の価値観への支配を禁じるルール
注)アラン・・・『幸福論』の著者:一部の日本人にむかしから人気
ここでの共和制は民主主義とはほぼ同じです。二つの徳とは、(規律に従う)従順さのセンスと精神の自由のことをさします。精神の自由のみでは、規律に従うセンスが欠けてしまい、(規律に従う)従順さのセンスのみでは、同意することでもって飼いならされてしまうので、精神の自由がありません。わたしたちの社会(会社)の場合は、実質的に後者のケースが現状を支配していることがわかります。
では、次の「権力に従順な態度を示し、精神にだけに敬意を払うこと」とは、どういうことなのでしょうか。富岡義勇と炭次郎のやりとりを例にみてみると、炭次郎は部下として命令には従順に従い、「躊躇なく鬼の首に刃をむける」ことには従うが、上司である富岡義勇の「人を喰った鬼に情けをかけるな。子供の姿をしていても関係ない。何十年も生きている化け物だ」、という彼の考えの正しさについては、強制される筋合いはないと抵抗しています。
前者の態度が「権力に従順な態度」で、後者が「精神にだけに敬意を払うこと」の意味です。組織からみて、上司である富岡義勇が自身の考えを押しつける態度は、規律への従順さにふくまれない部下の炭次郎の精神の自由まで侵す越権行為です。これを、圧制のひとつであるモラル・ハラスメント(以下、モラハラとします)といいます。
組織の上役である富岡義勇と下っ端の炭次郎のやりとりに戻ってみると、炭次郎はこの問題にたいして、日本の「常識」とは反して、わたしたたちに一つの社会人の取るべき模範例を示していると考えられます。炭次郎は、とても重要な二つの性質を両立させる術を心得ているからです。
精神の放棄がデフォルトな国
モラハラ、セクハラ、パワハラ、は圧制の種類です。これらのハラスメントとよばれる圧制は、日本の比較的年配の世代の規範が対応できていない内容で、公私の区別の混同と混乱がみうけられます。日本の社会(会社)ではこのモラハラという本来拒絶すべき圧制にたいして屈することが「社会人となることだ」という根深い社会制度への錯誤があるのです。
富岡義勇のモラハラは、「私はおまえの上司だから私の意見は正しい」という考えを根拠としています。それに対して、炭次郎は「容赦なく、鬼の首に刃をふるう」という隊律・命令には従順に従うが、上司の考えはあなたの考えであって、そのあなたの信じる「正しさ」を上司だからといって押し付けられ、精神を侵される筋合いはないと表明し、モラハラを拒絶したわけです。
精神の自由は、集団や権力に正当性がないもので、これを政教分離の精神といい、今の日本の民主主義制度が機能するための根幹のひとつです。もしこれを犯す場合、権力者が他人に自らの価値観、ものの見方をおしつけ、それ以外の意思表示を禁止してもよいことになります。個人は委縮し、会議は様式化し、個人は抑圧をかかえ自分で物事を判断し考え決断する力を弱めてしまい、その結果、社会を閉塞と同質的な烏合の衆へと変えてしまいます。
例えば、〇〇原理主義の信仰者は、トップの「正義」の教えにたいして盲目的に従います。この状態が愚かしいということは、地下鉄サリン事件等々で周知のとおりだろうと思います。
だからこそ、個人的にも社会的にも「大切なのはあらゆる圧制にたいして抵抗すること」となってくるのです。炭次郎はまさに、これを実践していたわけです。
しかし、日本のリアルな現状は、すこし特殊です。一人の支配者というよりは、「みんな」や「世間」といったものが影の圧制者として君臨しています。空気を読むとは、その空気が許している内容以外は口に出さないとうことですが、本来は一人一人の個人の精神が「みんな」や「世間」に抑えられているということです。この「世間」や「みんな」といったものに服従している人が地位についたとき、「世間」に個人の精神の自由を服従させることを暗黙の了解としているので、「世間」の空気感が許している程度におうじて、下の立場の人間の精神の自由が犠牲になるわけです。つまり、日本社会では暗黙の了解と、社会制度が矛盾しているわけです。
本来は、個人の精神衛生的にも、社会的に閉塞感を出さないためにも、炭次郎が実践したように「大切なのはあらゆる圧制にたいして抵抗すること」が、社会のなかにいる個人の責任となってきます。しかし、そもそも日本では、個人にしか妥当しない精神の自由が「世間」によって抑えられているので、上の立場の人間は、モラハラにをしている自覚がなく、下の立場の人間はモラハラをに服従することに疑問を持てない状態にあるのです。別の言い方をすれば、社会規範にハラスメントが内包されているということであり、その社会規範に適応している人からしてみれば「圧制に対して抵抗」してまで守る「精神の自由」などはじめから無いということです。
このあたりのことは、あらゆる世代でヤモヤしているところでしょう。もう少しふむこんで、圧制であるハラスメントと精神の自由についてみていきたいと思います。
精神的に侵されるとは?
圧制とは、異なる秩序を混同した結果、権力によって自分の持つ正当性を超えて全般的に支配しようとする欲望のことです。圧制者は、「権力によって、自分がそれをおこなう正当な資格を欠いている秩序において、支配するもの、支配しようとするものことです。」(同上:114項)
「私は上司だ。だから部下は私の意見は正しいと信じるべきだ」というのは、圧制です。命令にたいして部下が服従するには雇用関係があれば十分ですが、信じてもらうには雇用関係があれば十分だということではありません。集団のルールである権力・法(雇用関係は契約です)の秩序がタッチできるのは行動までであり、個人の内面にかかわる感覚、感情、思考そして倫理といったものは、個人の権利・秩序に服します。
権力が正当である自らの秩序をこえて、個人の秩序に服する領域にあるものを要求する場合、それは「正当な資格を欠いている」越権行為です。「私は上司だから、尊敬すべきだ、畏怖すべきだ、愛すべきだ」も同じ意味で越権行為であり圧制あり、それがハラスメントと呼ばれるものなのです。
スポンビルはハラスメントについてこう述べています。
滑稽さ(それゆえ、そこに権力がともなう場合は圧制)の本領は、性格に応じて愛され、信じられたいと望むばかりでなくーそれは当然のことですー、性質(権力や地位や役職のようななんの妥当性もないもの)に応じて愛され、信じられたいと望む点にあります。
服従してもらうには、雇用主であれば十分です・・・・ですが愛してもらうには、雇用主で十分であればいいということにはけっしてなりません。愛してもらうには、愛されるに値する者である必要があります。この二つはまったく別のことです。----この違いが忘れれれるとき、滑稽がしょうじるのであり、そうなれば、当人の持っている権力に比例するかたちで圧制者もうまれるわけです。
同上:118項
同じように、尊敬してもらうことにも当てはまります。日本の古い体質の組織では、わたしは上司だから、信じるべきだ、尊敬するべきだ、愛するべきだと部下に求め、部下がそうふるまうことが礼儀の型として「常識」となっている。その上司にたいして個人的な信頼、尊敬ましてや愛情を抱いていない場合でも、そのような「型」をわかりやすくとらない場合、上司はアレ?という感じをだし、部下も上司の「アレ?」に応えようとして、信じる、尊敬する、もしくは愛しているという態度をわかりやすく取ろうと努めますが、そもそもがおかしいのです。これは、親子関係にもいえることで、パターナリズム、家父長制とよばれる態度です。
たとえば、「悲哀のチャネル」の章であげた例のように「業務がおわっているのに会社に長時間いることはいいことだ、もしくは、いなければならない」、「その後の上司や先輩の飲みに付き合い「よいしょ」することは社会人の常識だ」といったことを、下の立場の人間が示してきたことが上からの評価につながってきた慣習のようなものがあります。そのような慣習のもと評価されて今の立場についた人は、それを下の立場の人がしない場合、腑に落ちないモヤモヤを感じるわけです。このとき、パワハラが「社会人としての常識」の名のもとに本人がハラスメントの自覚なく行われるのです。
パワハラ、モラハラ、セクハラ、そしてパターナリズムも本質的には個人の秩序の領域と権力の秩序の領域についての理解が混同されているところから立ちのぼる問題です。日本では、「世間」に個人の領域がすで犯されているから、余計に両者の異なる秩序が混同されやすいのです。
これは働いていれば、程度の差はあれあることでしょう。しかし、これが圧制なのだという自覚をしている側がないにしても、されている側もないというのが問題だと思うのです。自分の精神を権力にみずから明け渡すことを続けていれば、個人の主体が確立できず、思考停止していき、会社と自分の認識が一致するにいたります。これでは、圧制に対して抵抗する力を失うだけでなく、個人は会社や社会の因習にたいして疑問そのものを持てなくなります。
同時に、他人の意思や個性、個人としての会話や相互理解の場が減り、尊重する力といった人間的な成長を育む機会が社会から失われていきます。社会の個々人は同質化していき、同質になった集団は排他的な雰囲気とお互いに格付けしあう雰囲気をうみます。息苦しい雰囲気はここか醸成されていくことになります。
間違っている基礎のもとの上に展開される考えは、誤りです。これを誤謬といいますが、今の日本の社会人の置かれている状況はまさにこれです。我慢する必要のないことに無理して慣れていき、苦労して一人前の「社会人」になった結果、俯瞰で見た場合に社会を悪くさせているとしたら、それは「ズレ」ているというほかないでしょう。
なぜわたしたちがすべての不条理に受け身な姿勢しかとれないのか
コロナウイルスの世界中でのパンデミックは、コロナ禍の対応をめぐる世界の国々の国民性の違いが可視化されました。
欧米では爆発的に感染者数がふえたことで、日本より一足先にロックダウンと外出禁止の措置がとられ、すでにコロナ禍が深刻になりうるという結果が海外ででているのに、どうして日本は検査を積極的にして防止に努めないのかという批判が、お花見をしている動画の拡散とあいまって、海外からよせらるということがありました。
積極的に動くこと、それとも、慎重に周りの成功・失敗をみてから動くのかの是非はここではおいておくにして、なぜ、わたしたちがここまで不条理なことにたいして徹底的に憮然としていられるのかということは、考えてみれば不思議です。
ここでよく、日本は、島国であり、自身や津波のような天災には、受けいれて過ぎるのをまつべし、という諦観の文化があるという意見や、「死ぬ時節には死ぬがよく候」という良寛の言葉を引き合いにだし、そういう精神性が引き継がれているのだ、という意見で落ち着こうとすることがおおいようです。
たしかにそうともいえるのですが、実際に天災をニュースでしか知らない人のほうが多数派ですし、仏教を本当に尊敬している人が多数派だとは言い難いことです。
モラハラを前提とする公私混同と自他の区別のない「社会」に適応したことが、人間ではどうしようもない天災以外の社会問題全般にたいしても、被害者が泣き寝入りをするしかないよう受動的な姿勢に終始する真の原因ではないかとわたしは思います。
「エコーチェンバー現象」
精神の自由を犯すハラスメントを社会の暗黙の了解とすることは、管理する側からしてみれば部下を使いやすいでしょうが、そのような環境にいる部下は、先例踏襲や模倣などの先輩が開拓したことでうまれたフィールド内では優秀でしょうが、その域を超えた事柄、新しく開拓していくことや、自ら判断したり、問題(問題とは常に先例がありません)に新しくアプローチをしたりすることができない人間とならざるおえません。そして、そのような同じ価値観の人間が集まる環境では、創造と呼べるレベルの画期的な新しいアイデアや発想は期待できません。
これを、「エコーチェンバー現象」といいます。閉じたコミュニティ内部にいて、自分と似たような意見をもった人たちの間でスムーズなコミュニケーションをしても、結局は同じ意見がエコーのように反復されるだけで、かえって暗示のように偏った考えや、前例が絶対的なものにみえてきてしまうのが「エコーチェンバー現象」の怖いところです。歴史ある盤石な組織が、何らかの想定外なことが起きたことを境に、気が付いたら新しい組織にとってかわる、ということを歴史は繰り返していますが、この、同質性がまねく「エコチェンバー現象」がその一因です。
モラハラが当然である古い体質の組織では、受動的で同質な人を組織で量産することになります。先進国の模倣をすることでうまくいく後進国的な経済発展がすでに完了し、経済・国際情勢が流動化を増し続け、AIが台頭し、既存のやり方で問題が噴出している今の日本が必要としてくる人材は、残念ながら「量産」型だけでは致命的です。
そのような社会で働かざる負えない場合、人は心の奥に無力感をためこむか、上がすでに許している範囲でしか、思考することができなくなります。想像力の貧困化は他者や少数派への無関心と無視という幼稚化を助長します。
近年分かりやすパワー・ハラスメントは告発されてきており、欧米からの外圧により自粛モードにはいっているように思われます。しかし、スポンヴィルが例に出したようなモラル・ハラスメントよりの圧制については、上も下も自覚がないうえに目に見えて分からず、模範的に下は自ら率先してコンパニオン的な態度とるので、あまり抵抗なく同質化と思考の停止が進行しているような気がします。必死に模範的な優等生なった社会人が、結果として、社会の問題改善を妨げる障害そのものになっているとしたら、その模範はそうとう厄介な問題を抱えているといえます。
民主主義の社会に問題があるときに、その構成員である個々人に問題があるといえるのですが、その問題が悪意によって引き起こされていないというところ、目に見えてわからないところが、問題にたいしてわたしたちを鈍感にさせている理由かもしれません。
習慣と意図せぬ暗示効果と因習継続
大衆操作という言葉がありますが、全体主義の国では強制によって、民主主義の国では暗示というかたちで行われます。暗示とは、定期的に、イメージやある考えをあたえ続け、本人の無意識にたまっていくことでかかります。モラハラがデフォルトとなっている組織内では、「エコーチェンバー現象」にみられるように、この実践がなされてしまっているといえるのです。
当時世界中でもっとも文化水準が高かった国のひとつであったドイツ国民は、定期的にくり返しナチスから「イメージ」を与え続けらた結果、恐いほどその暗示に引っかかってしまった事実は無視できません。企業が広告代理店になぜ巨額の金を払うのかといえば、暗示の効果がすさまじく強力だからです。
大衆操作の名人であったヒトラーについて書かれているのが次に引用した文章です。
ヒットラーは、優れた力によって聴衆の意志を破壊することがプロパガンダの本質的要素であると述べている。かれは平気で、聴衆の肉体疲労が暗示にかかるもっとも歓迎すべき条件であると認めている。一日のうちでいかなる時刻あ政治的な大衆の集会にもっとも適しているかという問題を論じて、かれはいう。「朝や日中は、自と人の意志の力は、もっとも強いエネルギーで、自分と異なる意思や意見によって強制される試みに反抗するようである。これに反し夕方には、より強い意志の支配的な力にたやすく屈服する。というのはじっさい、このような集会は全て二つの対立する力のレスリング試合と同じであるから。威厳のある使徒的な優れた雄弁は、自己の精神と意志の力のエネルギーを完全に支配しているひとびとよりも、もっとも自然に抵抗力を弱められているひとにとを、新しい意志に引きずりこむことに成功するであろう」
ヒットラー自身、服従への切望を生み出す条件をよく認識しており、大衆集会における個人の状況を見事に叙述している。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:244項
エーリッヒ・フロム・・・20世紀を代表する社会心理学者。近代人の無力感・無意味感・不安についての分析で有名
今の日本では大衆集会はありませんが、発達した資本主義下においてはある程度の規模をもった会社が似た状況を作り出します。現代人は疲れています。そして、自覚なきモラハラ受容のサイクルのなか、スムーズに思考能力と意志を失っていく環境にあるのです。習慣は人間を変え、すべての暗示は例外なく個人の思考能力を奪います。
はなしをまとめますと、このような圧制が「普通」にある環境のなかで働く場合、人はこの習慣的な圧制と暗示の力で、たとえ改めなければならない因習があったとしてもやめられないということです。くりかえされる習慣と暗示は若かりし頃に感じた違和感をなれさせ、あたりまえのもののように感じさせるにいたるからです。
ハラスメントが個人に不快を強いることだけが問題なのではなく、ハラスメントが圧制の一つであり、圧制がもたらす個人・社会へのデメリットが総合的にみると大きいから問題なのです。そして、個人が感じる閉塞感、排他性からみる個々人の幼稚化、経済停滞、社会問題や他人にたいする無関心、自己肯定感の低さなどなど、今の日本はすでに、そのデメリットが現れているステージ上にすでにあるということです。
権力があるとき圧政のしわ寄せは必ず下の立場にきます。このハラスメントの弊害は、外からプレッシャーをかけられたから、やめましょう、という受動的な姿勢では解決しません。これは個人の意思の問題だからです。分かりやすいパワハラも、わかりにくいモラハラも、結局は、人の意思にかかわる能力を奪い、一見、クールに社会適応して賢い立ち回りをしているようにみえてますが、臆病で思考停止した烏合の衆に人をかえてしまいます。
『鬼滅の刃』の鬼仏辻無惨と招集された無惨直属の部下である”下弦の鬼”たちとのやり取りの場面では、圧制と屈従が個人を委縮・画一化していくさまが凝縮して分かりやすい形でえ画家れています。現実には、あんな極端なものではないにせよ、圧制をしてくる上司にたいして、その圧制に屈従する場合の部下の返し仕方に服従以外の選択肢はないのです。
スポンヴィルが「滑稽さ」という言葉をつかうのは、圧制をしている人の認識が、社会に悪影響を与えている自覚がなく、当然のことをしていると思い違いをしているからです。日本の話し言葉でいえば「イタい」でしょう。
無事「適応」完了した部下は出世し、同じように、それを「正しい」ことだと思い込んで自分の部下にもその関係をもとめます。虐待も親子間の圧制といえますが、虐待が世代間連鎖しやすいことはよく知られています。同じように、イエスマンとなった彼は、上司から「見習った」悪癖を「正しい」こととして下の世代に晒すことになります。
下の世代は主体としての力が削がれていくうえに、自分自身が因習の一部になるということは、大きすぎる消耗です。主体の無さ、経済の停滞とイノベーション不足で先進国のなかで出遅れはじめた今の日本、なにより、生きずらさがしんどいレベルになってきたわたしたちにとってはもったいない損失です。「元気があればなんでもできる」「生きてるだけでめっけもん」これらの言葉はその通りなのですが、肝心の元気が吸いとられてしまっていては、なにもする気がおきませんし、生きていることが生き地獄となってしまいます。
信頼されるのも、尊敬されるのも、愛してもらうのも、その人が一人の人間としてそうされるに値する人間になっている必要があるわけで、属性や権力によって強制できるものではありません。心は強制しようとしても自分ですらできないことです。だからこそ、それらは個人にしか妥当しないのです。
もちろん、これは度が過ぎたケースのはなしで、それぞれの組織、そして個人の主体の確立度合いによって事情はちがってくるという指摘があればそのとおりです。それに、会社のポストにそんな責任はない、という人もいるかもしれません。おっしゃる通りで、会社のポスト自体にそのような責任はないのかもしれません。
しかし、わたしたちは会社に属する以前に社会に身をおく個人です。圧政を拒絶し抵抗することは個人が「息をする場」を用意するだけでなく、社会システムである民主主義が機能し、個人の自発的な活動をするための場を社会に確保する行為でもあります。それは会社のポストの責任ではないのですが、一人の人間としての「市民」の責任なのです。そして、「市民」は「私」がしっかり確立できていることを想定しているのです。
富岡義勇からみる上司像
ここで話を富岡義勇と炭次郎のやりとりに戻します。上司にあたる富岡義勇のほうも見てみましょう。
かれは、炭次郎にたいしてそれ以上の意見の強制はせず、その後も炭次郎にたいして組織のなかで陰口を使った「いじめ」もしません。そして、炭次郎の考えをありえないこととは決めつけず、自らの目で見て感じたことから、後輩の炭次郎の考えを吟味し、自らの考えをバージョンアップしていきます。
これは、同じ鬼殺隊の幹部である炎柱の煉獄杏寿郎にも見てとれます。かれは、「鬼」となった炭次郎の妹の禰豆子を生かすこと、自由に同伴させていくことには反対の立場でした。組織を維持する幹部の立場から、また「鬼」の愚かさや、犠牲者の気持ち知っている彼の身になれば、その意見は理解できます。そして、何より、人を喰わない「鬼」、人を守る「鬼」など先例がなく想定外な意見でした。
とりあえず、会議での決定には組織人として従いますが。個人的には反対している。そんな彼が、実際に身をていして「鬼」から人間を救うために戦ってる禰豆子を見て、考えを更新する判断をし、鬼の禰豆子を生かすこと、炭次郎の自由に同伴させていくことに同意します。自らの「鬼」について思考停止していた部分の考えを、一つ上の次元に高めたのです。
注)筆者は「アニメ『鬼滅の刃』」~『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』までしか見ておりませんのであしからず
かれらに共通していることは、下の立場の人間の意見に対して、その意見が想定外であっても無いと決めつけず、新しく物事を経験する都度、自らの考えをバージョンアップできる点、そして権力が有効な秩序の領域をわきまえている点です。
組織からみたときに、何が違うのでしょうか?圧制に服従したものは、思考停止し、無力感を覚え、個人としての自信を弱めます。服従している相手や組織の想定以外は、受動的になり意見を表明できなくなり、新しいことすること・失敗を恐れる傾向を強めます。
例えば、鬼舞辻無惨に服従した「鬼」たちは無惨に気に入られように、必死になって力をもとめますが、内心不安のかたまりです。そして、無惨が自らに行った態度を模倣し、下の立場の「鬼」に行うことで得られる優越感によって個人としての無力感・弱小感を補い、同じ態度の「鬼」を量産します。かれらのやり方は、管理する側からみれば、現状維持にはもってこいです。しかし、個人の成長・成長からの化学反応的な発展・イノベーションの場を組織に用意するということには向きません。個性や精神の自由がない人が集まって会議しても、同じ意見の堂々巡りを繰り返すだけで、儀礼的になっていくことは避けられないでしょう。
一方、ハラスメントをしない責任をとった上司の部下は、主体を確保でき、自発性と創造性を成長させます。もし炭次郎が精神を逐一侵され、上司に個人的な意見を述べられず、妹を失っていたとしたら、炭次郎にその後の活躍はあったでしょうか。また、自信なく信念のない炭次郎に、多くの実力者が共鳴したり協力を申し出たでしょうか?『鬼滅の刃』の世界が、「鬼」のいない世界にかわる可能性はあるのでしょうか?
鬼舞辻無惨の組織は現状維持以下がベストであるのに対して、富岡義勇や煉獄杏寿郎の組織は完全な「安心・安全」ではありませんが、上司も部下もいい意味で「想定外」の成長と創造の可能性があり、なにより組織内の人間に活気が残ります。これは、わざわざ上司が平等の場を用意し、圧制したくなる幼さを自制できる知的な能力、そしてそういうことで物事が改善したという自分自信が「私」として他者と共同した経験もっていなければ恐くてできないことです。
もし、歴史をもった組織である鬼殺隊が何ら進歩もなく、旧態依然のままいれば、圧倒的な力の差がある鬼舞辻無惨の率いる「鬼」の集団に勝つことはないでしょう。画一化された人の集団には限界があり、長い目でみれば、ゆっくりと衰退していきます。3人集まれば文殊の知恵ですが、圧制に抵抗し拒絶するかぎりにおいては、という但し書きが必要です。別のいいかたをすれば、個人の精神の自由が発揮できるために、平等を心掛ける「能力」ある人が上にたつかぎりでは、です。
鬼舞辻無惨についていえば、彼は組織を維持し構成員に方向性を与えるという点に関しては優秀でしょう。そして、”下弦の壱”である「鬼」の魘夢がとった態度をとることが、そのような環境で出世するにはもってこいであることは間違いないかもしれません。しかし、長期的にメンバーを受動的かつ画一化してしまい、組織の発展を阻害するという点を考えれば、かれらは「無能」です。かれの組織が、鬼殺隊に負けるとすれば、それは、かれらがこの意味において「無能」であったからといえるのです。
自称「大人」と市民の責任
このように考えていくと、下の者がハラスメントに抵抗する責任をはたす以上に、上に立つものがあらゆるハラスメントをしな配慮をする責任があるということがわかります。その責任をはたせる能力を、上にいる人間がもてているのかどうかという点が、会社、ひいては社会を停滞・沈下させないでいられるかのポイントになってくるのです。
政教分離が達成された民主主義において、この意味の責任とは個人的なものだということです。グループで決断することがありえないというわけではありませんが、グループの責任が、その個々人のメンバーから除外されることはないのです。あらゆる圧制(ハラスメント)にたいして個人が拒絶し抵抗することが、民主主義のうちにある社会を維持・発展させると同時に、沈下させないための「市民」の責任となってくるのです。
この「市民」の責任を果たせるための前提、始まりの責任が、個性を成長・発展させ「私」という主体を確立することなのです。これがなければ、自ら観察し考え判断し決断し行為する「市民」の責任は果たせません。
日本では、意思や志、自発性などどうでもいいから、大学にいき、就職すること、そのために興味もない事柄を事務的に暗記すること、社会権力に盲従することができるのを一人前の「大人」と信じている人が多いですが、それは社会のなかの市民という観点かれみれば、責任のとれない半前の「子ども」です。
なぜでしょうか。それは、圧制を放置することにによって、権力の決定に参加することを怠ることによって、他者を無視する社会へ、人間がモノとして簡単に使用・破棄し交換できる価値観が支配する社会の方向へ、政治への無関心の方向へ、思考停止の方向へ、拝金・権威主義といった野蛮の方向へ、例えるなら、猿山や、ケージのなかの鶏の群れのような次元へ集団全体を無自覚に堕落させてしまうからです。これは、西洋がじっさいに経験した近代の歴史ですし、今も民主主義を採用している国が抱えている欠点でもあります。
オール・ユー・ニード・イズ・ラブ
ハラスメントを拒絶する理由として、もう一つ重要な理由があります。わたしたちを満たしてくれるものは「私」から生まれる精神的なな満足だけだからです。圧制はこの、精神的な満足を得るための自分の感覚、感情、思いや考えへの誇りの母体である「私」を奪うことで、意味や方向性を個人から奪います。群れの一員にさせある種の安定をあたえますが、そこから得られる人生からの精神的な満足をとりあげます。
スポンビルは個人を満足させるものについて、こう言っています。
(圧制に服従することは)(筆者が追加)野蛮へ向かう方向です。肝心なのはこれを拒絶することです。政教分離が果たされている社会においては、意味は個人にとってしか、または諸個人を介してしか妥当しません。
---意味そのものは諸目標に従うものであって、これがなければ私たちを満足させてはくれないのです。
アンドレ・コント・スポンビル小須田健/C・カンタン訳 『資本主義に徳はあるか』 紀伊國屋書店:279項
個人に意味をあたえるのは、好奇心、関心、歓び、疑問といった個人のうちからしか生まれないものである。そして、ひとは、その心からうまれた方向性とも呼べるものにそって生きた時、満足を得られるということです。キリスト教の文化圏でいえば、愛を感じるということです。簡単に言えば、「私」をうばわれる環境におかれると人は満足できなくなり元気がなくなるということです。人のなかに心が活動できる場を、自分に、親しい人に、人によっては愛する人や、子どもたちのために用意する、これが個人(市民)の責任の意味です。
圧制がしみついた集団環境において、下の立場の人間が炭次郎のように行為した場合、クビか左遷でしょう。もしくは、生意気な「子供」じみたやつというようなレッテルを貼られ、イジメられるかもしれません。子供とは公のルールを知らず、他の人間に迷惑を自覚できずかけてしまう、無知な存在です。圧制とは社会が機能するための基盤である民主主義や個人の人権を侵すことで、社会、ひいては他の人間に迷惑をかける行為です。もしこの場合に「子ども」だと非難すべき相手がいるとすれば、個人の責任をとる能力のない「無能」な上司であり、日和見主義に陥った圧制に服従している自称「大人」といわざるおえないわけです。
藤の花の家紋の家の人々と「誇り」
フレデリック・バステアは国家のうちに「誰もが他人を犠牲にしててでもその中で生きぬこうとする「巨大な社会的虚構」しか見ませんでしたが、彼を認めてしまってはなりません。民主主義においては国家の運命は市民に負わされているのです。自分たちの選んだ支配者のそれもふくめて第一に責任を負うのは市民たちです。
ーーー行動を望むか服従を望むか、歴史を創ることを望むかすこしずつ歴史によって自分たちが解体されるかに任せるのを望むかは、私たちしだいです・・・・・。
ーーー最悪の未来が確定しているわけではありません。ましてやバラ色の未来が保守されているわけでもありません。だからこそ、行動すべきなのです!
アンドレ・コント・スポンビル小須田健/C・カンタン訳『資本主義に徳はあるか』紀伊國屋書店:280項
※フレデリック・バステア・・・19世紀末のフランスの経済学者
これは、同じくスポンヴィルの言葉です。お堅い名門の大学教授で、しかも、哲学以外にも政治、経済というさらにお堅いジャンルを扱う学者が、一流のアスリート顔負けの、熱気あるメッセージを発信しているところに、わたしは日本人とフランス人の生きる姿勢への価値観の違いを強く感じます。
同時に、「おまえは、重要だし無力じゃない、やれるんだ、おれはこうして実際にやってるぞ」というメッセージを、お決まりのフレーズではなく彼の言葉で語りかけられると、日本にいるわたしはなんだか新鮮な気持ちを覚えます。
「どのような時でも、誇り高く生きてくださいませ」
アニメ『鬼滅の刃』第十五話『那田蜘蛛山』より引用
『鬼滅の刃』では、鬼殺隊をボランティアで支える「藤の花の家紋の家」の人々が登場します。炭次郎一行は、休息のため「藤の花の家紋の家」のおばあさんにお世話になります。この言葉は、その出発時におばあさんが炭次郎たちにいった別れの挨拶です。
『鬼滅の刃』の幅広い世代への大ヒットは、この人間としての誇り、それも社会にいると同時に、実は社会のためにも是非とも必要な「私」としての「誇り」をもった大人像に、わたしたちが惹かれているからではないでしょうか。それが、日本では難しからこそです。
次回は、『鬼滅』那田蜘蛛山(なたぐもやま)の鬼の累にスポットをあてて、今の日本でどうして『鬼滅の刃」が少し引くほど大ヒットしたのかを探っていきます。
今回はここまでとさせていただきます。お付き合いありがとうございました。
参考文献
[放送局] TOKYO MXほか
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
『資本主義に徳はあるか』
[作者]アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳
[出版社]紀伊國屋書店