『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その4 『鬼滅』炭次郎からみる才能開花の秘訣

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こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「『鬼滅の刃』からみる人生を後悔しない方法」をおおくりします。

前回の投稿で、自分らしさを取り戻す方法である、「理にかなった信念」を深めていく作業を我妻善逸のマイノリティ思考を参考に見てきました。

今回の投稿では、『鬼滅』の竈門炭次郎を見ながら、主体の再構築の過程を探っていきます。

では、さっそくいってみましょう。

『鬼滅』炭次郎からみる才能開花の秘訣

ところで、「理にかなった信念」は一体どこまでの深さを信じる対象としているのでしょうか。

フロムは「発達しないかもしれない潜在能力」についても、「信じる」内容であるとしています。例えば「人を愛するとか、幸福になるとか、理性を使うといったことにたいする可能性、あるいは芸術的才能のようなもっと特殊な可能性」も含まれます。

注)フロム・・・エーリッヒ・フロム。20世紀を代表する社会心理学者。著書『自由からの逃走』『愛するということ』は世界のロングセラーとなり、今の日本でリバイバル中。このシリーズのメインの参考としている。

 「今はまだないが」人は成長し変化するという、これからの可能性についてまで信じること。これは、西洋人の戯言でしょうか?

そんなことありません。神戸女学院大学名誉教授・フランス文学者・武道家の内田樹氏は創作及び教育について、このように述べています。

そして、経験的に分かったのは、人にほんとうの才能を発揮してほしいと思ったら、そのひとの「これまでの業績」についての正確な評価をくだすよりも、そのひとがもしかすると「これから創り出すかもしれない傑作」に対して期待を抱くほうがいいということです。

だから、僕が世間的には全く無名な人に対して敬意を表するのは、「この人がこれから創り出すかもしれないもの」に対する期待を感じるからです。

・・・そして、才能はしばしば「あなたには才能がある」という熱い期待の眼差しに触れたことがきっかけになって開花する。

才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれ」るんです。

内田樹:『そのうちなんとかなるだろう』:株式会社マガジンハウス

人の潜在的能力を信じることで「才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれ」るんです。」という言葉はすごい言葉だと思います。

ある程度、安定した会社の人事を担当しているひとが、やりたくても指標がないので怖くてなかなかできない内容でしょう。しかし、その会社そのものを起こした人物や初期のメンバーは、みな「これまでの業績」がなかった人たちでもあったことを考えると、「今はまだないが」人は成長し変化するという、これからの可能性は、信じられない絵空事ではありません。「これまでの実績」がないどころか前代未聞の大失敗をしたわたしたちたちの先人が、戦後の焼け野原からどのような光景を生むに至ったかというのも、一つの証明といえるでしょう。人の潜在的可能性まで信じることで「才能はそこに「ある」というより、そこで「生まれ」る」という証明です。

 『鬼滅の刃』では、すっかり自分を忘れてしまった鬼ですら、炭次郎の眼差しや態度によって、最後の最後の刹那ではありますが、自分らしさが息を吹き返します。他者へのまなざしだけでなくは、自分の自信へのまなざしにも同じことが言えます。たとえば、主人公の炭次郎が、自分より強い鬼と戦う逆境のさなか、自分自身を最後まで信じたことで、それにこたえるかのように彼の内奥から、「火の呼吸」という今までになかった能力が花開きます。

才能、意味、そして自分らしさといった人間ならではの能力は、信じることでそこで「生まれ」るのです。

洗脳と教育

フロムは社会心理学・精神分析学をツールとして、ナチズムなどの全体主義下の個々のパーソナリティを分析しました。その過程で、子どもの発達への影響も調べています。彼は子供の発達における数ある条件の中で、最も重要なものの一つとして「子供の人生において重要な役割を演じる人物が、そうした潜在的可能性にたいして信念をもっているかどうか」が重要であるとしています。

これは、子どもの身近にいる大人が「信念」をもって子どもを一人の人間として見れているかどうかが、子どもの発達に大きく影響をあたえるということです。つづけて、教育と洗脳の違いをこう説明します。

その信念があるかどうかが、教育と洗脳のちがいである。教育とは、子どもがその可能性を実現していくのを助けることである。教育の反対が洗脳である。これは、子どもの潜在的可能性の成長に対する信念の欠如と、「大人が望ましいと思うことを子供に吹きこみ、望ましくないと思うことを禁止すれば、子どもは正しく成長するだろう」という思いこみに基づいている。ロボットに対しては信念を持つ必要はない。ロボットには生命がないのだから。

エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:185項

もし子どもに対して親が、「子どものためを思って」といいながら、子どもの意思に反して親の思い通り習いどことをするように仕向けたり、干渉したり、何らかの医者などの分かりやすく世間体の良い職業につくことを押しつけた場合、その親は「子どもの潜在的可能性の成長に対する信念の欠如」している親であり、教育ではなく洗脳を施していることになります。

そもそも、意思に関連した能力が発達途上にある段階の子供に、その親がそれまでの年月で経験した結果から得られたやり方が合うはずだ、決め込んでいるところからズレています。子どもは、子どもの前に一人の個性を持った人間です。そのひとが過去に辛い思いをし、処世術としてそれが有効だと実感したからでしょうが、これでは、親の期待に応えるために「子どもがその可能性を実現していく」ことができなくなってしまいます。

子どもが従順な場合、親にほめられたい一心でマゾヒスティックな我慢と努力をするでしょうが、その結果、その子どもを萎縮させ、関心が発動しなくなったり、命令されなければ動けない受動的性格を強化してしまいます。そのどもが成長し、権威に従順になり、盲信的に服従する人間になるのも、社会に無関心になり逸脱行為に走るのも、無知で無力な子ども時代に、こどもの意思への配慮た欠けた親や大人のコントロール指向に端を発している可能性がおおいにあるのです。

ヒトラーの教育観と少年スポーツの指導者

例えば、少年野球チームに小学校の低学年の子どもが入っているとします。

まだその年齢の子どもは意思が発達途上にあるため、本当に心から野球が好きだからやっているという子どもは稀で、野球を特別好きでやっているという信念は特になかったり、ただ仲が良い友達がやっているからとか、野球がすきな親が自分にやることを期待しているのを感じ取ってほめてもらいたいからであったり、親が兄弟がやっているところに、たまたまついて言って参加させられ、野球の人気がその地区ではなく、その少年野球チームの存続を気にしている大人のことを同情して断るに断りきれなくなったりして入った、というレベルのものが大半です。

まだ低学年の子どもは、まだ自分の自信への認識が固まっていません。いいかえれば、自分が一人の人間存在として他者と対等な存在であること、自分は独自で独立した存在であること、といった認識が発達途上にあります。

その発達途上の子どもにたいして、意思が十分発達したプロや、それに準じた高校生に近いレベルの規律や、監督との絶対的な上下関係を、その野球チームの指導に就いている者が要求してしまった場合、子どもの自分自身への認識に大きな影響を与えます。「自分自身の存在はただそれだけで善い存在であり、他の人間存在と平等である」という認識を獲得する前に、命令をする監督をした人間が「上」であり、命令に服従し、それに従えばほめられ、背けば侮辱される自分は「下」であるという認識を得てしまうことになります。言い換えれば、この認識は、「私」という存在よりも、上下関係のほうが重要で、外からの権威のほうが「上」であるという認識です。

日本は、同調圧力が強く、それは、子どもであっても同様です。少年野球チームで、「外からの権威からの評価は自分より「上」で、自分の存在は「下」である」と学ばされているその子どもにとっては、「みんな」が「上」で「私」が「下」という結論に行きつくことは容易です。「みんな」という自分より「上」の存在から目をつけられないようにするには、その子どもは、集団の平均であることを望むようになってもおかしくはないでしょう。

この子どもが大人となり、「世間」にびくつくす自分にうんざりし、「私」として生きようと志した場合、彼は、まず、自分の存在がただそれだけで良いものであり、「世間」は「上」の存在で「私」は下の「存在」であるという誤った認識を剥がすことが必要になってきます。しかし、その認識の根拠は、幼い頃に少年野球チームの監督をしていた人間は「上」の存在であり自分は「下」の存在であるという認識をもとにしているので問題をややこしくします。

児童期の記憶のなかで信頼していた大人のイメージは、相当に理想化されていますので、自分の自己肯定感の低さが、まさか少年野球チームの監督をしていた人間の犯した誤った子どもへの態度が原因である、ということに気がつくのはなかなか難しいからです。しかし、その人が「世間」や「他者評価」に委縮しないで自分で決断できるようになるためには、いまの大人になった自分が、子どもだった自分がその指導人との関係で学んだイメージの誤解を解き、今の自分は他者と対等であり、「世間」が罪をあたえ罰を与えられる「下」の存在ではないのだ、という現実に即した認識にたどり着く必要があるのです。

仮に監督をしていた人間が、子どもに「勝ちたいか」と尋ね「勝ちたい」と言ったから厳しく指導したとしても、その指導者の過ちを正当化できるものではありません。「勝ちたいか」直にきかれて「勝ちたくない」と言う子どもはほとんどいないでしょうし、大人の期待に答えてほめられたいのが子どもの性だからです。

特に、野球は監督が選手を操作することが可能なスポーツなので注意が必要なはずです。試合中、まるで、少年たちにプロの監督気取りで次の動さを逐一指示する指導者がたまにみうけられます。この場合は、子どもの意思に配慮する責任以前に、お金をもらっているプロ選手と同じように少年を自由に動かしていいと勘違いしている点でより問題です。「子どもがその可能性を実現していくのを助ける」ことの反対が洗脳だからです。

学童に洗脳を施した指導者として、ヒトラーが有名です。かれの考えは以下に引用した文章に示されています。

個人を犠牲にし、個人を一片の塵、一個の原子におとしめることは、ヒットラーによれば、人間の個人的な意見や利益や幸福を主張する権利を放棄することを意味する。この放棄は「個人が自らの個人的な意見や利益の主張を放棄する」政治的組織の本質である。ヒットラーは、「非利己的なこと」を賞賛し、「ひとびとはみずからの幸福を追求することにおいて、ますます天国から地獄へ墜落する」と教える。自己を主張しないように個人を教育することが教育の目的である。すでに学童は「政党に叱責されたときに沈黙するだけでなく。必要な場合には不正をも黙って耐えることを学ばなければならない。」

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:255項

この抑圧と犠牲の哲学を身体の記憶で覚えてしまった児童が、成長し大人になり、どういう人間になったか、どういうことをしたのかはユダヤ人強制収容所「ホロコースト」が雄弁に語っています。

日本のスポーツ界で、とりわけ球技で、まだ意思や主体が未発達であり、そのぶん定まっていない児童の意思に配慮する責任を負うはずの大人が、教育と勘違いして、命令内容をミスした子どもをチームメイトの前で「そんなこともできないのか」「お前のせいで負けた」と叱責することや、プロテクターをつけさせて児童が泣くまで至近距離から強めのノックする「百本ノック」や、試合中ひたすら児童にテレビゲームのように次の動作の指示をくりかえし行い、挙句、その指示に従った結果で賞罰の対応をしてしまうような未熟なものが、いまだに指導者の席にすわっていないないことを祈るばかりです。

このように、児童期の親や少年スポーツチームの監督といった、子どもが絶対的な信頼をしている人からうける影響は、大人やそれに準じた高校生がうける影響とは比較にならないほど大きいものです。場合によっては、その人の生き方を自由にさせたり、一生窮屈に固定させてしまうことにもなるのです。

鬼より不気味な人間 

ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作の伝記ドラマ映画『ハンナ・アーレント』という映画があります。この映画では、ドイツ系ユダヤ人の哲学者であり政治理論家のハンナ・アーレントを描くなかで、ナチスでユダヤ課のトップ行政官であったアドルフ・オットー・アイヒマンに対する実際の裁判記録映像が映画に挿入されています。

映像によって彼の不気味さがよくわかります。人類史上最も残虐な行為の責任者がサディストでも分かりやすサイコパスでもなく、まったくもって「普通」の小市民がおこなったことに世界はショックをうけたのです。これは、ハンナ・アーレントが「凡庸な悪」と名付けたことでも有名です。

『ハンナ・アーレント』監督:マルガレート・フォン・トロッタ:heimatfilm:2012年

礼儀正しいく律儀に規律をまもる妻子持ちのそこそこ社交的な人物、それでいて人類史上もっとも残虐で陰惨な行為をしている当事者意識が欠如しているアイヒマンほど、不気味な人間はいないでしょう。まるで、鬼でさえ当惑したくなるほど人間性に深刻な欠陥がある社交型ロボットといった感じです。

ナチズムだけでなく、旧ソ連体制下に起こった歴史が示すことは、精神の自由がない環境に適応してしまった人間の集団で「鬼より不気味な人間」がわりとよく見つかるということです。

注)市民の責任については「『鬼滅の刃』が少し引くほど大ヒットした理由とは? その8『鬼滅』富岡義勇と炭次郎からみる自由と服従」に詳しくかいています。よかったら是非。

欲望を愛だと教わったかつての子どもたち

この話題に関連して、もう一つ取り上げたいことがあります。親が子どもの意思を無視するネグレクトです。精神科医・作家の岡田敬史氏は、一見、ネグレクトとは正反対にみえる子育てを熱心にする親についても、ネグレクトが多くみられると指摘しています。

関りの量という点では、十分すぎるほどなのだが、質という点から見ると、問題が見えてくる。子どもの気持ちや求めるものに応えるという共感的な応答ではなく、ルールや基準に従って一方的に与えるという傾向が強いのである。子どもの側からすると、求めてもいないものを無理強いされることは、息苦しい体験になってしまう。それは、歓びよりも苦役といえるだろう。

ここまで考えると、一見、ネグレクトとは正反対の子育てにみえるものの、その実態は、子どもの欲求や感情、意思というものを”無視”するという点において、まさにネグレクト(無視)が起きているということがわかる。いや、意思とは無関係に強制し、子どもの主体性を侵害しているという点で、ネグレクト以上に過酷な虐待ともなりえる。それゆえ、問題が深刻な場合もありうるのだが、親も子もそれを自覚するどころか、”良い親”だと思い込んでいる。

岡田尊司:回避性愛着障害 絆が希薄な人たち:68項

「それゆえ、問題が深刻な場合もありうるのだが、親も子もそれを自覚するどころか、”良い親”だと思い込んでいる。」という指摘は重要です。先に述べた、自覚がないままに洗脳をほどこしている、少年スポーツチームの指導者と子どもの関係と同じです。親に「あなたのためよ」といわれた子供は拒絶することができないため、ダメージが大きくなってしまうのです。

ネグレクトは、「意思とは無関係に強制し、子どもの主体性を侵害しているという点で、ネグレクト以上に過酷な虐待ともなりえる」のですが、当の親は「”良い親”だと思い込んでいる。」わけです。つまり、親である私はそれによって子供を「愛している」、と思っているわけですが、実際なされていることは「教育ではなく洗脳」です。その行為が、その子どもがそのひとらしく成長することを喜んでおらず、ただただ自分の思い通りを押し付ける欲望の対象にしてしまっていることに自覚がありません。

このタイプの親が愛しているのは、目の前に現実にいる子どもでしょうか?それとも、その親が頭の中で夢想した子ども像でしょうか?その親が愛しているのは、目の前にいるあるがままの子どもでしょうか?それとも、親の期待するイメージでしょうか?その親はあるがままの子どもを愛しているのでしょうか?それとも、あるがままの子どもを無視しているのでしょうか?その親は子どもに与えているのでしょうか?それとも、子どもから奪っているのでしょうか?

子どもは愛玩の対象であるペットではなく、人間です。親が全てを管理できる幼い動物的段階を超えれば、その子どもはその人らしさを成長させていきます。愛玩の対象とすることは、その子供のその人らしさを無視し、自分の満足を得るための対象とみなすことにほかなりません。

例外なく子どもは、親が大好きで愛してもらいたいと願っている。そして、生活の全権を親に握られている無知で無力な存在です。子どもは、親と生活していくために、苦しく思っている自分の気持ちを悪いものと無意識的に否定し、親の自らへの態度(意思の無視)を肯定します。尊重とは反対の影響をあたえてしまうのが、意思の無視です。

この問題が「深刻」である理由は、自我の発達する前に行われた自分の自分自身(感情・感覚・思い)に対する身近な大人からの否定的な態度は、自分の感覚・感情への不信という歪んだ価値観となり、それが自分なのだと思い込んでしまうところにあります。それは「根拠のない信念」として内側からそのひとを縛りつづける呪いの足かせとなってしまうのです。

この子どもは、やがて成長し、子どもをもうけ、かつて自分が親からされたのと同じように子どもを愛そうとします。自覚がないままに、欲望のおしつけをを愛だと子どもに教えることになるのです。

文化の重み

このように、子どもにとって身近な大人から受ける影響は極めて大きく、子どもの発達を左右してします。最近は、プライバシーが厳しくなり、近所の人が子どもの面倒をみる文化がなくなったので、親からの影響がさらに大きくなっていると思います。岡田尊司氏によると、「子どもの気持ちや求めるものに応えるという共感的な応答」ができない親は、同じように子どもの時に、親から自分の「気持ちや求めるものに応えるという共感的な応答」をしてもらえず、「親の命ずるままにやらされてきた人たち」だそうです。

親が抱えた問題は、「あなたのためよ」と「愛」と語って下の世代に引き渡されてしまいます。親子の問題は、どちらか一方の未熟さで切り捨てられる問題ではなく、わたしたちの文化にかかわる問題なのです。

文化という言葉の重みは、まさにここにあります。下の世代は、上の世代の個人の成熟度に影響されるのです。古今東西、下の世代を見下す言動はよくみかけられますが、それは自分の「無能」さを露呈しているだけです。それは、無知で無力な自家撞着でしかありません。いつの時代も、子どもや若者は身近な大人の実際の価値観や言動、態度を模倣し学ぶ存在だからです。実際に身近にいる大人のふるまいのほうが、教育として上からあたえれる「きれいごと」よりよっぽど説得力、破壊力、影響力があります。そのなかでも、別格の影響力をもった存在が親なのです。

自分のしていることが子どもを捻じ曲げることだと分かっていて、それをする親は、少ないと思います。その人なりに頑張って一生懸命やっているはずです。しかし、子どもをもし本当に愛したいなら、その子どもがその子どもらしく成長することを喜ぶなら、まず親自身が自らの欲求や感情に向き合い、他人を自分の満足を得る対象としないような精神的な自立が必要となってくるはずです。

自分の気持ちに向きあうことは、かつての苦々しい感情も思いだしてくるかもしれませんが、少なくとも、子どもを捻じ曲げることをしない環境を用意できます。無関心ではなく、その環境を子どもに用意できれば、もう十分過ぎるほどにその親は、子どもに大事な環境をあたえられているのです。

親の子供への態度は、その親の自分自身への態度と一致します。だからこそ、その人が、親という役割の前に、一人の人間として、その人がその人らしく生きている必要が、健全な自己愛が、「理にかなった信念」をもって精神的に自立して生きていることが必要なのです。

炭次郎の洞察力

ところで、どっちでもいいという「世間」への丸投げをやめ、「私」をとりもどし、自分らしく生きることは、孤独の自覚を引き受ける経験でもあります。

「それでは、辛いよ」と思うひとがいるかもしれません。しかし、孤独と孤立は違います。これまでみてきたように、自分の個性を認識するにしたがって、他人にも個性があるということにより深く気がつけるようになります。その気づきが「未知なるもの」への関心うみだし、その関心が他者とふたたびつなげてくれます。寂しいから群れる、処世術的な「世間」体のために仲良くする、というのとは質的に違うつながりで世界に改めて開かれていきます。内的なつなががりが感じられる関係へ開かれていくのです。

なぜ、自分を知り「私」として生きることが、いままで自分と似たような人間としか見れなかった他者に対して、関心がわいてくるのだろうか、ということが述べられているのが次に引用した文章です。

根拠のない信念は、圧倒的に強くて全能のように感じられる権力に服従し、自分の力を放棄することによって支えられている。一方理にかなっ信念は、それとは反対の経験にもとづいている。ある考えに対して、理にかなった信念を抱くこともある。その考えが、自分の観察と思考の結果だからだ。他人や自分や人類全体の可能性に対して、理にかなった信念を抱くこともある。それは、自分の可能性の開花や、内的成長や、理性や愛の能力を、自分で実感しているからである。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木 昌訳:紀伊国屋書店:183項

「自分の可能性の開花や、内的成長や、理性や愛の能力を、自分で実感」していることほど説得力はないでしょう。逆からいえば、この実感がなければ、ほかの人がを個性をもった存在であるという認識はえられませんし、自他の区別の認識も腹から納得できず、上からそうしなさいという表面的な次元にとどまります。また、「私」として生きることは、模索していく苦労や失敗、挫折経験がつきものですが、この経験も同じように「私」引き受けて頑張っている他者に自然とエールをおくりたくなります。

竈戸炭次郎が富岡義勇に言った言葉を思い出してみると、「・・・「鬼」は人間だったんだから。おれと同じ人間だったんだから。」(アニメ『鬼滅の刃』第二十一話「隊律違反」より引用)というセリフがあります。炭次郎が「鬼」に対してすら同情ができたのは、今は鬼となり彼に宿る人間性(独自性・独立性)とそこから生まれる能力は眠りについているけれど、それは眠ってしまっているだけで、生きている限りなくなったわけではない、という信念があったからです。「鬼」が消滅する間際に「私」を思い出すことができたのは、表面的な部分には表れていない、眠ってしまっている人間性がある深さまで炭次郎のまなざしが届いていたからといえます。

これは、洞察力と呼ばれるもので、これも個人の能力であり、異なった視点をもつ人々と共通の価値観を見出すために必要な能力です。多様性のある社会とは異なった視点を人々の存在を前提にしているので、洞察力は多様性のある社会へ進むための大切な能力となっていきます。この洞察力も「自分の可能性の開花や、内的成長や、理性や愛の能力を、自分で実感している」度合いによるのです。

「理にかなった信念」が、自分の能力を肯定・発展させ、「私」として他者や社会とつながっていくことで安定をもたらしてくれるのとは対照的に、「根拠のない信念」は、個人の力に不信を向け放棄することで「世間」に同化していくことで安定をもたらします。他者や社会にたいして関心がうまれる心・身体の声を信じていない人に、他人の心・身体から生まれた独自の視点の存在を信じろというのは難しい話です。逆説的に聞こえるかもしれませんが、他者の話に傾聴できるためには、「私」として生きている必要があるのです。

炭次郎のまなざしは、一つの究極の姿だとしても、私たちにその方向へすすむことを妨げる理由はないはずです。

ちなみに、いま・ここにある心・身体をもった「私」は、生き物という繋がりで自然や宇宙と同じ理で動いています。いくら科学が発展しようが、宇宙の大きさからみれば人間の移動領域は夜空の一番暗い星よりもはるかに小さい。コロナ禍で人間のコスパ、単純比較、合理的思考、理性がここまで些細なものだったのかと実感したはずです。わたしたちが、日曜日の早朝に朝日を浴びて「ああ、気持ちいいな」としみじみ感じて伸びをするとき、わたしたち一人一人はこの大宇宙という自然全体とつながっているということができます。

この深い本質の部分では、大自然と他の人間と一個の人間である「私」がつながっている、と考える思想が西洋東洋問わず見つけられますが、なるほどな、と頷かされます。

ここまで、「理にかなった信念」を深め「根拠なき信念」から脱却することが「私」をとりもどす重要な作業であることをみてきました。このプロセスは簡単ではないかもしれませんが可能です。しかし、この過程をこなすには「ある大切なもの」が必要になってきます。

次回は、自分らしさを取り戻すために絶対不可欠な「ある大切なもの」を主人公の炭次郎をみながらあきらかにしてきたいと思います。

お付き合い、ありがとうございました。

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定

劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編公式サイト

『自由からの逃走』

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 日高 六郎 

[発行者] 渋谷 健太郎

[発行所] 株式会社 東京創元社

『愛するということ』

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 鈴木 昌

[発行所]紀伊国屋書店

『普通がいいという病』

[著者]泉谷閑示

[出版社]講談社現代新書

『こころをひらく対話術 精神療法のプロが明かした気持ちを通わせる30の秘訣』

[著者]泉谷閑示

[出版社]ソフトバンク クリエイティブ株式会社

『自粛バカ』

[著者]池田晴彦

[発行所] 株式会社 宝島社

『そのうちなんとかなるだろう』

[著者]内田樹

[発行所]株式会社マガジンハウス

『回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち』

[著者] 岡田尊司

[出版社] 光文社

『ハンナ・アーレント』

監督 マルガレート・フォン・トロッタ

heimatfilm:2012年

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