なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか? その8『鬼滅』富岡義勇と炭次郎からみる自由と服従

なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?夜の大正ロマン風の門、半開き、奥に不思議なオブジェクト(自分の心のメタファーとして)、その門に続く道に頭に角が生えた人が立っている、黄色い幾重もの帯、ぼやけたピンクの複数の〇、ミステリー

こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」をおおくりします。

前回の投稿で、『鬼滅の刃』にハマった社会人層は、「私」であったことさえも忘れ、代理満足で自分をごまかし、上の人間(鬼ですが)、そして自分にさえも「モノ」のように扱われ続ける「鬼」の悲哀に、同情というチャネルで共感しているかもしれないというあたりを見ていきました。

その中で、権力が伴ってくる組織で働く際、私たちはこの問題をどうやって考えて整理していけばいいのだろうか?社会人になるとは精神の自由、つまり「私」をあきらめることなのだろうか?という疑問にぶつかります。今回の投稿は、この自由と服従の問題をみながらわたしたちが『鬼滅の刃』のどこに共感しているのかという謎に迫っていきたいと思います。

では、さっそくいってみましょう。

『鬼滅』富岡義勇と炭次郎からみる自由と服従

「人を喰った鬼に情けをかけるな。子供の姿をしていても関係ない。何十年も生きている化け物だ」

アニメ『鬼滅の刃』第二十一話「隊律違反」より引用

鬼殺隊の「柱」である上役中の上役である富岡義勇は、滅した鬼が身に着けていた衣服を踏みつけにしながら、炭次郎にそう命令します。炭次郎はその言葉に対してこう答えます。

「殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上被害を出さないため、もちろんおれは、容赦なく鬼の首に刀をふるいます。だけど、、、鬼であることに苦しみ自らの行いに悔いている者を踏みつけにはしない。鬼は人間だったんだから。おれと同じ人間だったんだから。」

アニメ『鬼滅の刃』第二十一話「隊律違反」より引用

このような炭次郎の態度を、日本の古い体質の組織でとった場合、先輩や上司にたてつく生意気な不届きものとしてレッテルを貼られ、上司や先輩にしごかれるか、噂を使ったイジメにあうことでしょう。しかし、この評価は、本当に絶対的なものなのでしょうか。

このやりとりは、自由と服従の問題を含んでおり、政教分離が達成されたた民主主義を採用している国の社会人が向き合い続けている典型的な問題です。この手の問題について、この制度の生みの親であり、日本より歴史的に長く試行錯誤をおこない、失敗と成功の経験をもつ欧米の社会は参考になります。

フランスの哲学者であるアンドレ・コント・スポンヴィルは、自由と服従について、組織のなかでの個人の責任をこう説明しています。ちなみに、かれは自由についての概念が強いフランス人ですが、伝統的な教育機関(ソルボンヌ大学)というもっとも保守性が強い組織に所属していました。

しかるに、私たちの社会が(会社も同じでしょうが)必要としているのは、この二つの徳のいずれをも両立させるすべを心得ている人です。それは共和制の精神であると同時に政教分離の精神でもあります。アランがいっていたことですが、「権力に従順な態度を示し、精神にだけに敬意を払うこと」。そして、だからこそ、大切なのはあらゆる圧制にたいして抵抗することです。

アンドレ・コント・スポンヴィル:『資本主義に徳はあるか』紀伊國屋書店:120項より引用

注)政教分離・・・政治・権力が個人の価値観への支配を禁じるルール

注)アラン・・・『幸福論』の著者:一部の日本人にむかしから人気

ここでの共和制は民主主義とはほぼ同じです。二つの徳とは、(規律に従う)従順さのセンスと精神の自由のことをさします。精神の自由のみでは、規律に従うセンスが欠けてしまい、(規律に従う)従順さのセンスのみでは、同意することでもって飼いならされてしまうので、精神の自由がありません。わたしたちの社会(会社)の場合は、実質的に後者のケースが現状を支配していることがわかります。

では、次の「権力に従順な態度を示し、精神にだけに敬意を払うこと」とは、どういうことなのでしょうか。富岡義勇と炭次郎のやりとりを例にみてみると、炭次郎は部下として命令には従順に従い、「躊躇なく鬼の首に刃をむける」ことには従うが、上司である富岡義勇の「人を喰った鬼に情けをかけるな。子供の姿をしていても関係ない。何十年も生きている化け物だ」、という彼の考えの正しさについては、強制される筋合いはないと抵抗しています。 

前者の態度が「権力に従順な態度」で、後者が「精神にだけに敬意を払うこと」の意味です。組織からみて、上司である富岡義勇が自身の考えを押しつける態度は、規律への従順さにふくまれない部下の炭次郎の精神の自由まで侵す越権行為です。これを、圧制のひとつであるモラル・ハラスメント(以下、モラハラとします)といいます。

組織の上役である富岡義勇と下っ端の炭次郎のやりとりに戻ってみると、炭次郎はこの問題にたいして、日本の「常識」とは反して、わたしたたちに一つの社会人の取るべき模範例を示していると考えられます。炭次郎は、とても重要な二つの性質を両立させる術を心得ているからです。

精神の放棄がデフォルトな国

モラハラ、セクハラ、パワハラ、は圧制の種類です。これらのハラスメントとよばれる圧制は、日本の比較的年配の世代の規範が対応できていない内容で、公私の区別の混同と混乱がみうけられます。日本の社会(会社)ではこのモラハラという本来拒絶すべき圧制にたいして屈することが「社会人となることだ」という根深い社会制度への錯誤があるのです。

富岡義勇のモラハラは、「私はおまえの上司だから私の意見は正しい」という考えを根拠としています。それに対して、炭次郎は「容赦なく、鬼の首に刃をふるう」という隊律・命令には従順に従うが、上司の考えはあなたの考えであって、そのあなたの信じる「正しさ」を上司だからといって押し付けられ、精神を侵される筋合いはないと表明し、モラハラを拒絶したわけです。

精神の自由は、集団や権力に正当性がないもので、これを政教分離の精神といい、今の日本の民主主義制度が機能するための根幹のひとつです。もしこれを犯す場合、権力者が他人に自らの価値観、ものの見方をおしつけ、それ以外の意思表示を禁止してもよいことになります。個人は委縮し、会議は様式化し、個人は抑圧をかかえ自分で物事を判断し考え決断する力を弱めてしまい、その結果、社会を閉塞と同質的な烏合の衆へと変えてしまいます。

例えば、〇〇原理主義の信仰者は、トップの「正義」の教えにたいして盲目的に従います。この状態が愚かしいということは、地下鉄サリン事件等々で周知のとおりだろうと思います。

だからこそ、個人的にも社会的にも「大切なのはあらゆる圧制にたいして抵抗すること」となってくるのです。炭次郎はまさに、これを実践していたわけです。

しかし、日本のリアルな現状は、すこし特殊です。一人の支配者というよりは、「みんな」や「世間」といったものが影の圧制者として君臨しています。空気を読むとは、その空気が許している内容以外は口に出さないとうことですが、本来は一人一人の個人の精神が「みんな」や「世間」に抑えられているということです。この「世間」や「みんな」といったものに服従している人が地位についたとき、「世間」に個人の精神の自由を服従させることを暗黙の了解としているので、「世間」の空気感が許している程度におうじて、下の立場の人間の精神の自由が犠牲になるわけです。つまり、日本社会では暗黙の了解と、社会制度が矛盾しているわけです。

本来は、個人の精神衛生的にも、社会的に閉塞感を出さないためにも、炭次郎が実践したように「大切なのはあらゆる圧制にたいして抵抗すること」が、社会のなかにいる個人の責任となってきます。しかし、そもそも日本では、個人にしか妥当しない精神の自由が「世間」によって抑えられているので、上の立場の人間は、モラハラにをしている自覚がなく、下の立場の人間はモラハラをに服従することに疑問を持てない状態にあるのです。別の言い方をすれば、社会規範にハラスメントが内包されているということであり、その社会規範に適応している人からしてみれば「圧制に対して抵抗」してまで守る「精神の自由」などはじめから無いということです。

このあたりのことは、あらゆる世代でヤモヤしているところでしょう。もう少しふむこんで、圧制であるハラスメントと精神の自由についてみていきたいと思います。

精神的に侵されるとは?

圧制とは、異なる秩序を混同した結果、権力によって自分の持つ正当性を超えて全般的に支配しようとする欲望のことです。圧制者は、「権力によって、自分がそれをおこなう正当な資格を欠いている秩序において、支配するもの、支配しようとするものことです。」(同上:114項)

「私は上司だ。だから部下は私の意見は正しいと信じるべきだ」というのは、圧制です。命令にたいして部下が服従するには雇用関係があれば十分ですが、信じてもらうには雇用関係があれば十分だということではありません。集団のルールである権力・法(雇用関係は契約です)の秩序がタッチできるのは行動までであり、個人の内面にかかわる感覚、感情、思考そして倫理といったものは、個人の権利・秩序に服します。

 権力が正当である自らの秩序をこえて、個人の秩序に服する領域にあるものを要求する場合、それは「正当な資格を欠いている」越権行為です。「私は上司だから、尊敬すべきだ、畏怖すべきだ、愛すべきだ」も同じ意味で越権行為であり圧制あり、それがハラスメントと呼ばれるものなのです。

スポンビルはハラスメントについてこう述べています。

滑稽さ(それゆえ、そこに権力がともなう場合は圧制)の本領は、性格に応じて愛され、信じられたいと望むばかりでなくーそれは当然のことですー、性質(権力や地位や役職のようななんの妥当性もないもの)に応じて愛され、信じられたいと望む点にあります。

服従してもらうには、雇用主であれば十分です・・・・ですが愛してもらうには、雇用主で十分であればいいということにはけっしてなりません。愛してもらうには、愛されるに値する者である必要があります。この二つはまったく別のことです。----この違いが忘れれれるとき、滑稽がしょうじるのであり、そうなれば、当人の持っている権力に比例するかたちで圧制者もうまれるわけです。

同上:118項

同じように、尊敬してもらうことにも当てはまります。日本の古い体質の組織では、わたしは上司だから、信じるべきだ、尊敬するべきだ、愛するべきだと部下に求め、部下がそうふるまうことが礼儀の型として「常識」となっている。その上司にたいして個人的な信頼、尊敬ましてや愛情を抱いていない場合でも、そのような「型」をわかりやすくとらない場合、上司はアレ?という感じをだし、部下も上司の「アレ?」に応えようとして、信じる、尊敬する、もしくは愛しているという態度をわかりやすく取ろうと努めますが、そもそもがおかしいのです。これは、親子関係にもいえることで、パターナリズム、家父長制とよばれる態度です。

たとえば、「悲哀のチャネル」の章であげた例のように「業務がおわっているのに会社に長時間いることはいいことだ、もしくは、いなければならない」、「その後の上司や先輩の飲みに付き合い「よいしょ」することは社会人の常識だ」といったことを、下の立場の人間が示してきたことが上からの評価につながってきた慣習のようなものがあります。そのような慣習のもと評価されて今の立場についた人は、それを下の立場の人がしない場合、腑に落ちないモヤモヤを感じるわけです。このとき、パワハラが「社会人としての常識」の名のもとに本人がハラスメントの自覚なく行われるのです。

パワハラ、モラハラ、セクハラ、そしてパターナリズムも本質的には個人の秩序の領域と権力の秩序の領域についての理解が混同されているところから立ちのぼる問題です。日本では、「世間」に個人の領域がすで犯されているから、余計に両者の異なる秩序が混同されやすいのです。

これは働いていれば、程度の差はあれあることでしょう。しかし、これが圧制なのだという自覚をしている側がないにしても、されている側もないというのが問題だと思うのです。自分の精神を権力にみずから明け渡すことを続けていれば、個人の主体が確立できず、思考停止していき、会社と自分の認識が一致するにいたります。これでは、圧制に対して抵抗する力を失うだけでなく、個人は会社や社会の因習にたいして疑問そのものを持てなくなります。

同時に、他人の意思や個性、個人としての会話や相互理解の場が減り、尊重する力といった人間的な成長を育む機会が社会から失われていきます。社会の個々人は同質化していき、同質になった集団は排他的な雰囲気とお互いに格付けしあう雰囲気をうみます。息苦しい雰囲気はここか醸成されていくことになります。

間違っている基礎のもとの上に展開される考えは、誤りです。これを誤謬といいますが、今の日本の社会人の置かれている状況はまさにこれです。我慢する必要のないことに無理して慣れていき、苦労して一人前の「社会人」になった結果、俯瞰で見た場合に社会を悪くさせているとしたら、それは「ズレ」ているというほかないでしょう。

なぜわたしたちがすべての不条理に受け身な姿勢しかとれないのか

コロナウイルスの世界中でのパンデミックは、コロナ禍の対応をめぐる世界の国々の国民性の違いが可視化されました。

欧米では爆発的に感染者数がふえたことで、日本より一足先にロックダウンと外出禁止の措置がとられ、すでにコロナ禍が深刻になりうるという結果が海外ででているのに、どうして日本は検査を積極的にして防止に努めないのかという批判が、お花見をしている動画の拡散とあいまって、海外からよせらるということがありました。

積極的に動くこと、それとも、慎重に周りの成功・失敗をみてから動くのかの是非はここではおいておくにして、なぜ、わたしたちがここまで不条理なことにたいして徹底的に憮然としていられるのかということは、考えてみれば不思議です。

ここでよく、日本は、島国であり、自身や津波のような天災には、受けいれて過ぎるのをまつべし、という諦観の文化があるという意見や、「死ぬ時節には死ぬがよく候」という良寛の言葉を引き合いにだし、そういう精神性が引き継がれているのだ、という意見で落ち着こうとすることがおおいようです。 

たしかにそうともいえるのですが、実際に天災をニュースでしか知らない人のほうが多数派ですし、仏教を本当に尊敬している人が多数派だとは言い難いことです。 

モラハラを前提とする公私混同と自他の区別のない「社会」に適応したことが、人間ではどうしようもない天災以外の社会問題全般にたいしても、被害者が泣き寝入りをするしかないよう受動的な姿勢に終始する真の原因ではないかとわたしは思います。

「エコーチェンバー現象」

精神の自由を犯すハラスメントを社会の暗黙の了解とすることは、管理する側からしてみれば部下を使いやすいでしょうが、そのような環境にいる部下は、先例踏襲や模倣などの先輩が開拓したことでうまれたフィールド内では優秀でしょうが、その域を超えた事柄、新しく開拓していくことや、自ら判断したり、問題(問題とは常に先例がありません)に新しくアプローチをしたりすることができない人間とならざるおえません。そして、そのような同じ価値観の人間が集まる環境では、創造と呼べるレベルの画期的な新しいアイデアや発想は期待できません。

これを、「エコーチェンバー現象」といいます。閉じたコミュニティ内部にいて、自分と似たような意見をもった人たちの間でスムーズなコミュニケーションをしても、結局は同じ意見がエコーのように反復されるだけで、かえって暗示のように偏った考えや、前例が絶対的なものにみえてきてしまうのが「エコーチェンバー現象」の怖いところです。歴史ある盤石な組織が、何らかの想定外なことが起きたことを境に、気が付いたら新しい組織にとってかわる、ということを歴史は繰り返していますが、この、同質性がまねく「エコチェンバー現象」がその一因です。

モラハラが当然である古い体質の組織では、受動的で同質な人を組織で量産することになります。先進国の模倣をすることでうまくいく後進国的な経済発展がすでに完了し、経済・国際情勢が流動化を増し続け、AIが台頭し、既存のやり方で問題が噴出している今の日本が必要としてくる人材は、残念ながら「量産」型だけでは致命的です。

そのような社会で働かざる負えない場合、人は心の奥に無力感をためこむか、上がすでに許している範囲でしか、思考することができなくなります。想像力の貧困化は他者や少数派への無関心と無視という幼稚化を助長します。

近年分かりやすパワー・ハラスメントは告発されてきており、欧米からの外圧により自粛モードにはいっているように思われます。しかし、スポンヴィルが例に出したようなモラル・ハラスメントよりの圧制については、上も下も自覚がないうえに目に見えて分からず、模範的に下は自ら率先してコンパニオン的な態度とるので、あまり抵抗なく同質化と思考の停止が進行しているような気がします。必死に模範的な優等生なった社会人が、結果として、社会の問題改善を妨げる障害そのものになっているとしたら、その模範はそうとう厄介な問題を抱えているといえます。

民主主義の社会に問題があるときに、その構成員である個々人に問題があるといえるのですが、その問題が悪意によって引き起こされていないというところ、目に見えてわからないところが、問題にたいしてわたしたちを鈍感にさせている理由かもしれません。

習慣と意図せぬ暗示効果と因習継続

大衆操作という言葉がありますが、全体主義の国では強制によって、民主主義の国では暗示というかたちで行われます。暗示とは、定期的に、イメージやある考えをあたえ続け、本人の無意識にたまっていくことでかかります。モラハラがデフォルトとなっている組織内では、「エコーチェンバー現象」にみられるように、この実践がなされてしまっているといえるのです。

当時世界中でもっとも文化水準が高かった国のひとつであったドイツ国民は、定期的にくり返しナチスから「イメージ」を与え続けらた結果、恐いほどその暗示に引っかかってしまった事実は無視できません。企業が広告代理店になぜ巨額の金を払うのかといえば、暗示の効果がすさまじく強力だからです。

大衆操作の名人であったヒトラーについて書かれているのが次に引用した文章です。

ヒットラーは、優れた力によって聴衆の意志を破壊することがプロパガンダの本質的要素であると述べている。かれは平気で、聴衆の肉体疲労が暗示にかかるもっとも歓迎すべき条件であると認めている。一日のうちでいかなる時刻あ政治的な大衆の集会にもっとも適しているかという問題を論じて、かれはいう。「朝や日中は、自と人の意志の力は、もっとも強いエネルギーで、自分と異なる意思や意見によって強制される試みに反抗するようである。これに反し夕方には、より強い意志の支配的な力にたやすく屈服する。というのはじっさい、このような集会は全て二つの対立する力のレスリング試合と同じであるから。威厳のある使徒的な優れた雄弁は、自己の精神と意志の力のエネルギーを完全に支配しているひとびとよりも、もっとも自然に抵抗力を弱められているひとにとを、新しい意志に引きずりこむことに成功するであろう」

 ヒットラー自身、服従への切望を生み出す条件をよく認識しており、大衆集会における個人の状況を見事に叙述している。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:244項

エーリッヒ・フロム・・・20世紀を代表する社会心理学者。近代人の無力感・無意味感・不安についての分析で有名

今の日本では大衆集会はありませんが、発達した資本主義下においてはある程度の規模をもった会社が似た状況を作り出します。現代人は疲れています。そして、自覚なきモラハラ受容のサイクルのなか、スムーズに思考能力と意志を失っていく環境にあるのです。習慣は人間を変え、すべての暗示は例外なく個人の思考能力を奪います。

はなしをまとめますと、このような圧制が「普通」にある環境のなかで働く場合、人はこの習慣的な圧制と暗示の力で、たとえ改めなければならない因習があったとしてもやめられないということです。くりかえされる習慣と暗示は若かりし頃に感じた違和感をなれさせ、あたりまえのもののように感じさせるにいたるからです。

ハラスメントが個人に不快を強いることだけが問題なのではなく、ハラスメントが圧制の一つであり、圧制がもたらす個人・社会へのデメリットが総合的にみると大きいから問題なのです。そして、個人が感じる閉塞感、排他性からみる個々人の幼稚化、経済停滞、社会問題や他人にたいする無関心、自己肯定感の低さなどなど、今の日本はすでに、そのデメリットが現れているステージ上にすでにあるということです。

権力があるとき圧政のしわ寄せは必ず下の立場にきます。このハラスメントの弊害は、外からプレッシャーをかけられたから、やめましょう、という受動的な姿勢では解決しません。これは個人の意思の問題だからです。分かりやすいパワハラも、わかりにくいモラハラも、結局は、人の意思にかかわる能力を奪い、一見、クールに社会適応して賢い立ち回りをしているようにみえてますが、臆病で思考停止した烏合の衆に人をかえてしまいます。

『鬼滅の刃』の鬼仏辻無惨と招集された無惨直属の部下である”下弦の鬼”たちとのやり取りの場面では、圧制と屈従が個人を委縮・画一化していくさまが凝縮して分かりやすい形でえ画家れています。現実には、あんな極端なものではないにせよ、圧制をしてくる上司にたいして、その圧制に屈従する場合の部下の返し仕方に服従以外の選択肢はないのです。

スポンヴィルが「滑稽さ」という言葉をつかうのは、圧制をしている人の認識が、社会に悪影響を与えている自覚がなく、当然のことをしていると思い違いをしているからです。日本の話し言葉でいえば「イタい」でしょう。

無事「適応」完了した部下は出世し、同じように、それを「正しい」ことだと思い込んで自分の部下にもその関係をもとめます。虐待も親子間の圧制といえますが、虐待が世代間連鎖しやすいことはよく知られています。同じように、イエスマンとなった彼は、上司から「見習った」悪癖を「正しい」こととして下の世代に晒すことになります。

下の世代は主体としての力が削がれていくうえに、自分自身が因習の一部になるということは、大きすぎる消耗です。主体の無さ、経済の停滞とイノベーション不足で先進国のなかで出遅れはじめた今の日本、なにより、生きずらさがしんどいレベルになってきたわたしたちにとってはもったいない損失です。「元気があればなんでもできる」「生きてるだけでめっけもん」これらの言葉はその通りなのですが、肝心の元気が吸いとられてしまっていては、なにもする気がおきませんし、生きていることが生き地獄となってしまいます。

信頼されるのも、尊敬されるのも、愛してもらうのも、その人が一人の人間としてそうされるに値する人間になっている必要があるわけで、属性や権力によって強制できるものではありません。心は強制しようとしても自分ですらできないことです。だからこそ、それらは個人にしか妥当しないのです。

もちろん、これは度が過ぎたケースのはなしで、それぞれの組織、そして個人の主体の確立度合いによって事情はちがってくるという指摘があればそのとおりです。それに、会社のポストにそんな責任はない、という人もいるかもしれません。おっしゃる通りで、会社のポスト自体にそのような責任はないのかもしれません。

しかし、わたしたちは会社に属する以前に社会に身をおく個人です。圧政を拒絶し抵抗することは個人が「息をする場」を用意するだけでなく、社会システムである民主主義が機能し、個人の自発的な活動をするための場を社会に確保する行為でもあります。それは会社のポストの責任ではないのですが、一人の人間としての「市民」の責任なのです。そして、「市民」は「私」がしっかり確立できていることを想定しているのです。

富岡義勇からみる上司像

階段、クローン人間、ヒエラルキー、ずれたワイシャツを着ている管理職、精神の自由

ここで話を富岡義勇と炭次郎のやりとりに戻します。上司にあたる富岡義勇のほうも見てみましょう。

 かれは、炭次郎にたいしてそれ以上の意見の強制はせず、その後も炭次郎にたいして組織のなかで陰口を使った「いじめ」もしません。そして、炭次郎の考えをありえないこととは決めつけず、自らの目で見て感じたことから、後輩の炭次郎の考えを吟味し、自らの考えをバージョンアップしていきます。

これは、同じ鬼殺隊の幹部である炎柱の煉獄杏寿郎にも見てとれます。かれは、「鬼」となった炭次郎の妹の禰豆子を生かすこと、自由に同伴させていくことには反対の立場でした。組織を維持する幹部の立場から、また「鬼」の愚かさや、犠牲者の気持ち知っている彼の身になれば、その意見は理解できます。そして、何より、人を喰わない「鬼」、人を守る「鬼」など先例がなく想定外な意見でした。

とりあえず、会議での決定には組織人として従いますが。個人的には反対している。そんな彼が、実際に身をていして「鬼」から人間を救うために戦ってる禰豆子を見て、考えを更新する判断をし、鬼の禰豆子を生かすこと、炭次郎の自由に同伴させていくことに同意します。自らの「鬼」について思考停止していた部分の考えを、一つ上の次元に高めたのです。

注)筆者は「アニメ『鬼滅の刃』」~『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』までしか見ておりませんのであしからず

かれらに共通していることは、下の立場の人間の意見に対して、その意見が想定外であっても無いと決めつけず、新しく物事を経験する都度、自らの考えをバージョンアップできる点、そして権力が有効な秩序の領域をわきまえている点です。

組織からみたときに、何が違うのでしょうか?圧制に服従したものは、思考停止し、無力感を覚え、個人としての自信を弱めます。服従している相手や組織の想定以外は、受動的になり意見を表明できなくなり、新しいことすること・失敗を恐れる傾向を強めます。

例えば、鬼舞辻無惨に服従した「鬼」たちは無惨に気に入られように、必死になって力をもとめますが、内心不安のかたまりです。そして、無惨が自らに行った態度を模倣し、下の立場の「鬼」に行うことで得られる優越感によって個人としての無力感・弱小感を補い、同じ態度の「鬼」を量産します。かれらのやり方は、管理する側からみれば、現状維持にはもってこいです。しかし、個人の成長・成長からの化学反応的な発展・イノベーションの場を組織に用意するということには向きません。個性や精神の自由がない人が集まって会議しても、同じ意見の堂々巡りを繰り返すだけで、儀礼的になっていくことは避けられないでしょう。

一方、ハラスメントをしない責任をとった上司の部下は、主体を確保でき、自発性と創造性を成長させます。もし炭次郎が精神を逐一侵され、上司に個人的な意見を述べられず、妹を失っていたとしたら、炭次郎にその後の活躍はあったでしょうか。また、自信なく信念のない炭次郎に、多くの実力者が共鳴したり協力を申し出たでしょうか?『鬼滅の刃』の世界が、「鬼」のいない世界にかわる可能性はあるのでしょうか?

鬼舞辻無惨の組織は現状維持以下がベストであるのに対して、富岡義勇や煉獄杏寿郎の組織は完全な「安心・安全」ではありませんが、上司も部下もいい意味で「想定外」の成長と創造の可能性があり、なにより組織内の人間に活気が残ります。これは、わざわざ上司が平等の場を用意し、圧制したくなる幼さを自制できる知的な能力、そしてそういうことで物事が改善したという自分自信が「私」として他者と共同した経験もっていなければ恐くてできないことです。

もし、歴史をもった組織である鬼殺隊が何ら進歩もなく、旧態依然のままいれば、圧倒的な力の差がある鬼舞辻無惨の率いる「鬼」の集団に勝つことはないでしょう。画一化された人の集団には限界があり、長い目でみれば、ゆっくりと衰退していきます。3人集まれば文殊の知恵ですが、圧制に抵抗し拒絶するかぎりにおいては、という但し書きが必要です。別のいいかたをすれば、個人の精神の自由が発揮できるために、平等を心掛ける「能力」ある人が上にたつかぎりでは、です。

鬼舞辻無惨についていえば、彼は組織を維持し構成員に方向性を与えるという点に関しては優秀でしょう。そして、”下弦の壱”である「鬼」の魘夢がとった態度をとることが、そのような環境で出世するにはもってこいであることは間違いないかもしれません。しかし、長期的にメンバーを受動的かつ画一化してしまい、組織の発展を阻害するという点を考えれば、かれらは「無能」です。かれの組織が、鬼殺隊に負けるとすれば、それは、かれらがこの意味において「無能」であったからといえるのです。

自称「大人」と市民の責任

このように考えていくと、下の者がハラスメントに抵抗する責任をはたす以上に、上に立つものがあらゆるハラスメントをしな配慮をする責任があるということがわかります。その責任をはたせる能力を、上にいる人間がもてているのかどうかという点が、会社、ひいては社会を停滞・沈下させないでいられるかのポイントになってくるのです。

政教分離が達成された民主主義において、この意味の責任とは個人的なものだということです。グループで決断することがありえないというわけではありませんが、グループの責任が、その個々人のメンバーから除外されることはないのです。あらゆる圧制(ハラスメント)にたいして個人が拒絶し抵抗することが、民主主義のうちにある社会を維持・発展させると同時に、沈下させないための「市民」の責任となってくるのです。

この「市民」の責任を果たせるための前提、始まりの責任が、個性を成長・発展させ「私」という主体を確立することなのです。これがなければ、自ら観察し考え判断し決断し行為する「市民」の責任は果たせません。

日本では、意思や志、自発性などどうでもいいから、大学にいき、就職すること、そのために興味もない事柄を事務的に暗記すること、社会権力に盲従することができるのを一人前の「大人」と信じている人が多いですが、それは社会のなかの市民という観点かれみれば、責任のとれない半前の「子ども」です。

なぜでしょうか。それは、圧制を放置することにによって、権力の決定に参加することを怠ることによって、他者を無視する社会へ、人間がモノとして簡単に使用・破棄し交換できる価値観が支配する社会の方向へ、政治への無関心の方向へ、思考停止の方向へ、拝金・権威主義といった野蛮の方向へ、例えるなら、猿山や、ケージのなかの鶏の群れのような次元へ集団全体を無自覚に堕落させてしまうからです。これは、西洋がじっさいに経験した近代の歴史ですし、今も民主主義を採用している国が抱えている欠点でもあります。

オール・ユー・ニード・イズ・ラブ

ハラスメントを拒絶する理由として、もう一つ重要な理由があります。わたしたちを満たしてくれるものは「私」から生まれる精神的なな満足だけだからです。圧制はこの、精神的な満足を得るための自分の感覚、感情、思いや考えへの誇りの母体である「私」を奪うことで、意味や方向性を個人から奪います。群れの一員にさせある種の安定をあたえますが、そこから得られる人生からの精神的な満足をとりあげます。

スポンビルは個人を満足させるものについて、こう言っています。

(圧制に服従することは)(筆者が追加)野蛮へ向かう方向です。肝心なのはこれを拒絶することです。政教分離が果たされている社会においては、意味は個人にとってしか、または諸個人を介してしか妥当しません。

---意味そのものは諸目標に従うものであって、これがなければ私たちを満足させてはくれないのです。

アンドレ・コント・スポンビル小須田健/C・カンタン訳 『資本主義に徳はあるか』 紀伊國屋書店:279項

個人に意味をあたえるのは、好奇心、関心、歓び、疑問といった個人のうちからしか生まれないものである。そして、ひとは、その心からうまれた方向性とも呼べるものにそって生きた時、満足を得られるということです。キリスト教の文化圏でいえば、愛を感じるということです。簡単に言えば、「私」をうばわれる環境におかれると人は満足できなくなり元気がなくなるということです。人のなかに心が活動できる場を、自分に、親しい人に、人によっては愛する人や、子どもたちのために用意する、これが個人(市民)の責任の意味です。

圧制がしみついた集団環境において、下の立場の人間が炭次郎のように行為した場合、クビか左遷でしょう。もしくは、生意気な「子供」じみたやつというようなレッテルを貼られ、イジメられるかもしれません。子供とは公のルールを知らず、他の人間に迷惑を自覚できずかけてしまう、無知な存在です。圧制とは社会が機能するための基盤である民主主義や個人の人権を侵すことで、社会、ひいては他の人間に迷惑をかける行為です。もしこの場合に「子ども」だと非難すべき相手がいるとすれば、個人の責任をとる能力のない「無能」な上司であり、日和見主義に陥った圧制に服従している自称「大人」といわざるおえないわけです。

藤の花の家紋の家の人々と「誇り」

フレデリック・バステアは国家のうちに「誰もが他人を犠牲にしててでもその中で生きぬこうとする「巨大な社会的虚構」しか見ませんでしたが、彼を認めてしまってはなりません。民主主義においては国家の運命は市民に負わされているのです。自分たちの選んだ支配者のそれもふくめて第一に責任を負うのは市民たちです。

ーーー行動を望むか服従を望むか、歴史を創ることを望むかすこしずつ歴史によって自分たちが解体されるかに任せるのを望むかは、私たちしだいです・・・・・。

ーーー最悪の未来が確定しているわけではありません。ましてやバラ色の未来が保守されているわけでもありません。だからこそ、行動すべきなのです!

アンドレ・コント・スポンビル小須田健/C・カンタン訳『資本主義に徳はあるか』紀伊國屋書店:280項

※フレデリック・バステア・・・19世紀末のフランスの経済学者

これは、同じくスポンヴィルの言葉です。お堅い名門の大学教授で、しかも、哲学以外にも政治、経済というさらにお堅いジャンルを扱う学者が、一流のアスリート顔負けの、熱気あるメッセージを発信しているところに、わたしは日本人とフランス人の生きる姿勢への価値観の違いを強く感じます。

同時に、「おまえは、重要だし無力じゃない、やれるんだ、おれはこうして実際にやってるぞ」というメッセージを、お決まりのフレーズではなく彼の言葉で語りかけられると、日本にいるわたしはなんだか新鮮な気持ちを覚えます。

「どのような時でも、誇り高く生きてくださいませ」

アニメ『鬼滅の刃』第十五話『那田蜘蛛山』より引用

『鬼滅の刃』では、鬼殺隊をボランティアで支える「藤の花の家紋の家」の人々が登場します。炭次郎一行は、休息のため「藤の花の家紋の家」のおばあさんにお世話になります。この言葉は、その出発時におばあさんが炭次郎たちにいった別れの挨拶です。

『鬼滅の刃』の幅広い世代への大ヒットは、この人間としての誇り、それも社会にいると同時に、実は社会のためにも是非とも必要な「私」としての「誇り」をもった大人像に、わたしたちが惹かれているからではないでしょうか。それが、日本では難しからこそです。

藤の花、ハート型、内側にハート、市民の誇りと責任のイメージ

次回は、『鬼滅』那田蜘蛛山(なたぐもやま)の鬼の累にスポットをあてて、今の日本でどうして『鬼滅の刃」が少し引くほど大ヒットしたのかを探っていきます。

今回はここまでとさせていただきます。お付き合いありがとうございました。

参考文献

「アニメ『鬼滅の刃』」

[原作者]吾峠呼世晴週刊少年ジャンプ』(集英社

[監督] 外崎春雄

[シリーズ構成・脚本・アニメーション制作] ufotable

[企画]アニメプロデューサー アニプレックス 高橋祐馬

[製作]アニプレックス集英社ufotable

[放送局] TOKYO MXほか

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定

劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編公式サイト

自由からの逃走

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 日高 六郎 

[発行者] 渋谷 健太郎

[発行所] 株式会社 東京創元社

『資本主義に徳はあるか』

[作者]アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳

[出版社]紀伊國屋書店

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