なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか? その6 『鬼滅』炭次郎と無惨からみる力の二つの意味

なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?夜の大正ロマン風の門、半開き、奥に不思議なオブジェクト(自分の心のメタファーとして)、その門に続く道に頭に角が生えた人が立っている、黄色い幾重もの帯、ぼやけたピンクの複数の〇、ミステリー

こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」をおおくりします。

前回の投稿で、『鬼滅の刃』の鬼と現代にいきるわたしたちの意外な共通点をみてきました。そのなかで「内的な繋がり」というキーワードに辿り着きました。『鬼滅の刃』で、この「内的な繋がり」が感じられる人間関係を築ける代表格が主人公、竈戸炭次郎です。

今回は、かれの魅力に近づいていき、この「内的なつながり」の正体を探りながら『鬼滅の刃』の世代を超えた大流行の秘密により深く迫っていきたいと思います。

では、さっそくいってみましょう。

炭次郎の「力」と無惨の「力」

この「内的な繋がりが感じられる関係」を築ける代表格が主人公、竈戸炭次郎です。『鬼滅の刃』の魅力の一つは間違いなく彼の魅力でしょう。ここで、彼について少しみていきたいと思います。

炭次郎は、「鬼」となってしまった妹の禰豆子を人間に戻すために、「鬼」を討伐するための組織である鬼殺隊に入隊することになります。かれは謙虚で優しい少年です。しかし、卑下はしませんし、精神面では決して服従せず、自分の信念のもとに意見を述べ、その結果から返ってくる上からの反発を覚悟で行動できる勇気を持ち合わせています。旧世代の鬼殺隊の倫理を尊重しつつも、そのまま鵜呑みにし自己に取り入れることはせず、自分が経験から感じ取ったものから自らの考えを育みます。同時に、集団の規律自体には従順に従うことができるので、他人や組織と連帯できます。

例えば、「鬼」である妹を同伴すること、「鬼」の人間性への配慮など、時にその考えは鬼殺隊の幹部や多数派にとっては異端であり、敵意を持たれることすらあるにもかかわらず、彼は自ら感じ考えたことや信念に誇りをもち、必要とあれば意見を言うことができます。また、自分の信念も、固執するわけでもなく、他人とのかかわりのなかで気づいたことや発見したことから、必要とあれば修正してバージョンアップさせていきます。

彼は少年という設定ですが、精神的に自立し成熟しています。彼は個性化の先にある「私」を確立しており、自分であることに安心できていると同時に、他の人間を自分とは異なる個をもった存在であるという「自他の区別」の認識ができるに至っています。これは「悩みがない」という意味での安定ではなく、悩みがあっても自分で対応できるのだ、という内面的な強さからくる安心です。別の言い方をすれば、自発的に社会で関係を作り出していける能力を獲得するに至っていることで獲得できる真の自信です。竈戸炭次郎にはそういう能力、力がある。

では、「鬼」のほうはどうでしょうか。一見すると勝手気ままで自由を謳歌しているようにみえる「鬼」の実際は、上位の「鬼」に管理されている中での与えられた自由であり、上位の「鬼」に気にいられている間は自由ですが、上位の「鬼」に見捨てられないかという不安がつきまといます。そのため、上位の「鬼」に気にいられるように上位の「鬼」が喜びそうな力を際限なく求めつづけます。そのトップに君臨するのが鬼舞辻無惨です。トップであるはずの無惨はなぜか「いつもなにかに怯えている」不安定さを胸に隠しつつも、彼には支配力、力がある。

ここで、わたしは力という言葉についての定義の曖昧さに気が付かされます。炭次郎は「力」があるといえる。無残にも「力」があるといえる。とは言っても、この両者は内容が明らかに違うことぐらいは分かります。力とはいったいどういったものなのでしょうか。

力の二つの意味

フロムよるとに「力に」は二つの異なる種類があると述べています。その二つとは、支配力と能力です。

「力」という意味は二様の意味を持っている。第一には、それはなにものかに対する力の所有であり、他人を支配する能力を意味する。第二には、それは何かをする能力を所有すること、能力があること、潜在能力のあることである。後者の意味は支配とは無関係である。それは能力という意味における熟達を意味する。無力というときも、われわれはこの意味で考える。すなわち他人を支配することのできない人間を考えず、したいと思うことのできない人間を考える。こうして力とは、支配か能力かの、二つに一つを意味する。それは同一どころか、お互いに相いれない性質である。無能力という言葉は、たんに性的能力だけでなく、人間能力のあらゆる領域に用いられるが、それは支配へのサディズム的努力を導くものである。個人が能力ある程度に応じて、すなわち、自我の自由と統一性との基礎の上でかれの潜在的能力を実現できる程度に応じて、彼は支配する必要はなくなり、したがって権力のあくなき追求といったことはなくなる。支配という意味における力は逆である、ちょうど性的サディズムが性的愛情の逆であるように。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:180項

この「力」の定義をまとめ、さきに取り上げた炭次郎と無惨を当てはめてみると、次のようになります。。

  • 能力があること(竈戸炭次郎) ・・・何かをする能力があること(潜在能力、能力という意味での熟練)
  • 他人を支配する力(鬼舞辻無惨)・・・他人を支配する能力(なにものかに対する力の所有)

炭次郎は、自らの個性を受け入れ、それを発展・成長させ、自らの感覚や、感情、考えを社会の中で表現できます。つまり、「自我の自由と統一性との基礎の上でかれの潜在的能力を実現でき」ているので自らの力を実感できているので、「彼は他人を支配する必要はなくなり、したがって権力のあくなき追求といったこと」をする必要なく、安定できているわけです。

「鬼」は個性にあたる人間の頃の「私」を失っています。「私」が何を本当に求めていたのかさえ忘れてしまった「したいと思うことのできない」存在であり、「自我の自由と統一性との基礎の上でかれの潜在的能力を実現でき」ません。それゆえ、その無力感と弱小感からくる不安を払拭するために、「支配へのサディズム的努力」に追い込まれていることがみえてきます。

注)筆者はアニメ『鬼滅の刃』~『劇場場「鬼滅の刃」無限列車編』までしかみておりませんのであしからず

 「無力というときも、われわれはこの意味で考える。すなわち他人を支配することのできない人間を考えず、したいと思うことのできない人間を考える」と指摘している点は重要です。

これは逆から言えば、ランキングが異常に気になったり、他人に干渉したり、コントロール思考に過剰に走っている人間は、何らかの事情で「私」として生きることに挫折し、潜在能力の不全感からくる欲求不満と無力感のようなものを胸に抱えているということです。自分を疎外してでもなんらかの「匿名の権威」に同調・同化した代償といえます。なぜ支配欲が肥大していくのかといえば、問題の本質は、個人的な抑圧からくる欲求不満であり、支配欲はその代理満足にすぎず、満足に質的な隔たりがあるからです。アルコール依存に見られる依存のからくくりと同じです。

ひとは社会、政治、文化的な障害で個性化の成長と発展を妨げられると、炭次郎のように潜在能力を実現できないうえ、「私」として能力を実感できない欲求不満と、孤独の不安と無力感から逃れるために、支配力の飽くなき追求の方向に流されていってしまう弱さをもっているようです。

「したいと思うことのできない人間」をフロムは「無力」もしくは「無能力」と定義したのですが、「自分のしたいことがそもそもない」、という人が社会ではとても多いようなきがします。できない前に、特にしたいと「思う」ことがない。

解剖学者、医師であり東京芸術大学の教授であった三木成夫氏が、「思う」ことについてこう言っています。

ここで皆さん、ひとつ大切なことを申し上げます。私がこれまで教わってきたもののなかで、やはりいちばんずっしりとくるものの一つです。それは「思い」という象形文字の意味―――これはいったいなんだと思いますか?まさに「あたま」が「こころ」の声に耳を傾けている図柄です。上の「田」は・・・脳ミソをうけから見たところ、したの「心」はもちろん・・・心臓の形象です。

三木成夫 「内臓とここと」 河出出版

「思う」こと事態が稀なことになっているとしたら、理性である「頭」が「心」の声にをきこうとする姿勢そのものが稀なことになってしまっているのかもしれません。「したいことがわからない」、「最近、関心がうごかない」という人が日本では多いですが、心の声に耳を傾ける姿勢そのものをとれなくなっていることが一つの原因かもしれません。 

とにもかくにも、わたしたちは、「力」を育む段階に入っていることに反論はないでしょう。それは、無惨のもつ「力」というよりは、炭次郎のもつ人間ならでは「力」です。

無力と支配

 「能力」を成長させ実現できない場合に、力のもう一つの側面である「支配」を人は求めるようになるのですが、その場合ひとは典型的な性格特性をもちます。この特徴をもった人々に共通するパーソナリティは「権威主義的性格」と名付けられています。 

権威主義的性格の本質は、サディスム的衝動とマゾヒズム的衝動の同時存在として述べてきた。サディスムは他人に対して、多かれ少なかれ破壊性と混合した絶対的な支配力をめざすものと理解され、マゾヒズムは自己の一つを圧倒的に強いちからのうちに解消し、その力の強さ栄光に参加することをめざすものと理解される。サディズム的傾向もマゾヒズム的傾向もともに、孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服するための共棲的関係を求める欲求とから生ずる。

同上:243頁

「共棲的関係」とは、どちらか一方もしくは両方の個性(独自性・独立性)を犠牲にして成り立つ依存関係のことで、乳児と母親の関係、閉鎖的部落の村人間の関係のような自他融合的な関係をさします。対象は個人に限定されず集団、思想にもあてはまります。サディズムは相手の自由を奪い支配することで、マゾヒズムは不安を感じる自分を消し去り魅力的な人への同化を目指すことで「孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服」しようとします。

この二つの性質は一つだけ現れるのではなく、一人の人間の中にどちらもみられるものだとされています。封建的な組織で上限関係をつかって後輩におもねる態度を求める人が、かれが敬愛する人物にたいしては異常なほど謙遜・卑下の態度をとる、というのはよくみられることです。

つまり、人は「能力」の発達が妨げられた場合、つまり「無能力」な場合、人間は孤独の不安から、必ず支配か服従に駆り立てられるということです。個性の別の表現といえる人間性を失った鬼が、例外なくエス・エム関係にあり、支配力に執着するのはそのためなのです。彼らは、エス・エムの関係を取らざるおえない。人をコントロールするための力を求めざるおえない。そこに選択肢はないのです。

では、「無能」な「鬼」が陥ってしまうエス・エム関係、束縛、どちらかの個性(独自性・独立性)が犠牲にならない関係とはどのようなものなのでしょうか。そんなものあるのだろうかという疑問が浮かびます。

力と尊重

支配ではないほうの「能力」の一つに尊重があります。これは、他者を独自性と独立性をもった存在だと認識でき、自発的に価値あるものとして配慮できる能力です。ひらたくいえば、相手の個と自由を喜ぶ気持ち、もしくは、良いものだと思っているので、喜んでいるフリをするということです。

なぜ、こんな当たり前のことを言い出したのかというと、尊重するということをわたしたちが思っているほど、実際、わたしたちができていないと思うからです。ハラスメントの問題も、どちらの個性・自由を犠牲にしてなりたつ(あるいは両方が)支配・服従の依存関係も、この尊重が欠如していることから起こります。

フロムは著書『愛するということ』のなかで、尊重をこう整理しています。

愛の第三の要素である尊重が欠けると、責任は、容易に支配や所有へと堕落してしまう。尊重は恐怖や畏怖とはちがう。尊重とは、その語源(respicere=見る)からも分かるように、人間のあるがままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊重とは、他人がその人らしく個性を発展していくように気づかうことである。したがって尊重には、人を利用するという意味はまったくない。私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で成長していってほしいと願う。誰かを愛するとき、わたしはその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるようなものにするわけではない。いうまでもなく、自分が自立していなければ、人を尊重することはできない。つまり、松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ、人を尊重することはできない。自由であってはじめて人を尊重できる。「愛は自由の子」(I’ amour est I’ enfant de la liberte)であり、けっして支配の子ではない。

エーリッヒ・フロム:鈴木 晶訳:『愛するということ』:紀伊國屋書店:50項

尊重するとは、「その人が唯一無二の存在であることを知る能力」です。これは、自分の近くにいる他者が、自分とは異なる独自な世界観をもった未知なる存在で、独立した存在であることを発見できていることを前提としています。でなければ、他者のなかに「その人が唯一無二」である部分があるかもしれない、という興味がわかず、自発的に知りたいとは思えないからです。

また。尊重は、「他人がその人らしく個性を発展していくように気づかうことである」。そのために「誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ、ひとを尊重することはできない。」というところは重要です。つまり、その人自身がまず、自分の不安解消に他人を利用しないですむように、「自分が自立していなければ、人を尊重することはできない」のです。

このように、尊重する能力は、一朝一夕で獲得できる能力ではないことがわかるはずです。

 『鬼滅の刃』は、この「能力」を感じとれる名シーンがたくさんみられるところ素敵なところです。そのなかで、とくに尊重するとはどういうことなのか、ということがわかる場面があります。炭次郎と鬼殺隊の幹部・蟲(むし)柱の胡蝶しのぶの継子(後継者候補)のカナヲと炭次郎のシーンです。

カナヲは子供時代の心的外傷(トラウマ)から、彼女にすべてが「どうでもいい」と感じさせるような、無力感や無関心という問題を抱かせていました。本当は、胡蝶姉妹に愛されることで、「自分はどうでもいい存在ではない」と信じられるようになってきてはいるのですが、まだ体にしみ込んだ苦痛の記憶が発する人間への恐怖心や自己否定が根強く、心の声がまだ委縮してしまっているのです。そのため、自分のしたいことを自分で選び決断することに、たまたま運よくそういう環境で育てられなかった人にくらべて、多くの勇気を必要としています。

そんな彼女は、何か選択をするとき場合は、師範の提案に従い、コイン投げの結果にしたがって「する」・「しない」をゆだねてしまうことで、場をしのいできました。

一見、不可解で、融通のきかない頑なさにみえる彼女の「コイン投げ」は、彼女が抱えているヘビーな過去の重荷を抱えながら、なんとか社会で生きるために見出した、苦肉の策だったわけです。つまり、彼女の「コイン投げ」をなかったものとして接することも、その方法を直接否定し「コインなんかに頼っていてはダメ」と「正しい」アドバイスを早急にすることも、どちらも彼女の個性(独自性と独立性)を無視する要素をはらんでしまうのです。

炭次郎は、仕事でのケガを治すために訪れた療養先でカナヲに出会います。彼女にリハビリを手伝ってもらうあいだ、不自然な笑顔をつくる彼女に、炭次郎は心を配ります。そして、なぜ「コイン投げ」をするのか、という理由を聞いた彼は、彼女が彼女自身を「どうでもいい」、といわないで済むようなような粋なはからいをするのです。それは、「コイン投げ」をして、もし表が出たなら、これから「コイン投げ」をせずに、自らの心に沿って自分ですることを決めるのはどうか、という提案でした。

彼女が抱える過去の重荷のために頼らざる負えず、本人だってその方法が最善だとは思っていない方法、同時に傷ついた彼女を守ってきた『コイン投げ』という方法を否定せず、その彼女ならではの方法である「コイン投げ」を肯定したうえで、同時に彼女をしばる「コイン投げ」から解放し彼女を自由にしたわけです。

結果は「表」がでます。まるで自分のことのように喜ぶ炭次郎に、彼女は、「なんで表をだせたの?」という疑問を炭次郎に、さっそく自分で決めて尋ねます。尊重はこのように、人の力を引き出し、自発的な行為を促します。

炭次郎からの「偶然だよ。それに、裏が出ても表がでるまで何度でも投げつづけようと思ってたから」という返答をきいた時の彼女の表情はとっても人間らしくて、観ているこちらまで嬉しくなります。ここには、子どもでもできてしまう「恋におちる」とは次元のひとつ違う感情が訪れているように思えます。

ここには尊重があります。彼女の独自性(個別の事情があり、「コイン投げ」をしている)独立性(その「普通」でない行為をする自由)への配慮を行為で示したのです。もし、炭次郎がカナヲをそのように個性を持った人間として「見る」ことができなければ、このような発想はできませんし、配慮はズレたものとなっていたことでしょう。

与えるのか奪うのか 

 彼女の自由を縛り縛り上げていたものはなんなのでしょうか。「自分はとるにたりない無力な存在」、「自分なんて無視されて当然」、「私らしさなどどうでもいい」、といった無力感や自己否定です。

無力感と自己否定は、自分で何かを決断する力、表現する力を個人から奪ってしまいます。それに対して、尊重は、それとは反対方向のベクトル、つまり、相手に「あなたは無力ではない」と伝え、相手の決断する「能力」を引き上げる働きがあるのです。

フロムは、尊重を「愛するということ」の要素だといっています。愛することは、与えることしかできないものである、と言われています。炭次郎がカナヲに与えたものとは一体なんでしょうか?

それは自由です。その自由は、彼女が「おれはあなたがあなたらしくいきることが喜しい」という想いを炭次郎の言動から感じ取ったことで、彼女のなかに生まれたものです。サディズム・マゾヒズム的依存との違いはここにあります。愛は自由を与え、支配は自由を許しません。愛であればどちらの個も、つまり、どちらの「心」も縛られずにそこには残っています。フロムは、「愛は自由の子」であるといいました。わたしは、補足として、「自由は平等の子」であると付け足したいと思います。

 炭次郎の人間関係のなかで見受けられる「内的つながり」とは、この平等が生んだ自由、そして自由からうまれたものだったわけです。

「鬼」の限界は愛玩

これは、無惨を含め、「鬼」にはできないことです。「松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、誰か他人を支配したり利用したりせずにすむようでなければ、人を尊重することはできない。」とあるように、自分の存在意義のためであったり、不安を解消することのために相手を求めてしまっては、相手の自由の尊重などできないからです。いつまでも、手元で、手綱がひける位置にキープしておきたくなってしまう。

この意味で、無惨は「無力」であり、炭次郎は「力」があるのです。それは、自分を放置し見失った人にはもてない「力」です。相手の個別性と独立性を喜べる「力」は、自分が自分自身の個別性と独立性を無条件でいいものだと思えていない限り、難しいことだからです。上からそう尊重しなさいと命令されたり、心ある人だと「みられたいから」という動機で尊重をしてみたところで、心に伝わるものがありませんし、人によっては軽薄さを感じるかもしれません。つまり、尊重することは、社交性やマナーといった集団に属する能力ではなく、個人に所属する能力なのです。

わたしたちが誰かと親密な関係を築くとき、互いを独自で独立した存在として見れているだろうか?相手が相手らしく成長していくことを喜べているだろうか?炭次郎の築く関係ではなく、「鬼」のと同じように、愛玩を「愛」と語ってはいないだろうか?

『鬼滅の刃』は、人間関係の中にある喜びとは、本来どういったところからやってくるのだろうか、ということを思い出させてくれます。

今回はここまでです。

お付き合いありがとうございました。

参考文献

「アニメ『鬼滅の刃』」

[原作者]吾峠呼世晴週刊少年ジャンプ』(集英社

[監督] 外崎春雄

[シリーズ構成・脚本・アニメーション制作] ufotable

[企画]アニメプロデューサー アニプレックス 高橋祐馬

[製作]アニプレックス集英社ufotable

[放送局] TOKYO MXほか

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定

劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編公式サイト

自由からの逃走

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 日高 六郎 

[発行者] 渋谷 健太郎

[発行所] 株式会社 東京創元社

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