なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?その9『鬼滅』鬼の累(るい)からみる「普通」の真相

なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?夜の大正ロマン風の門、半開き、奥に不思議なオブジェクト(自分の心のメタファーとして)、その門に続く道に頭に角が生えた人が立っている、黄色い幾重もの帯、ぼやけたピンクの複数の〇、ミステリー

こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」をおおくりします。

前回の投稿で、富岡義勇と竈戸炭次郎やりとりをみながら、自由と服従の社会人像の問題について探っていくなかで「私」として社会で生きていく可能性のようなものに惹かれているのではないかというところに行き着きました。

今回は、『鬼滅』那田蜘蛛山(なたぐもやま)の鬼の累にスポットをあてて、別の角度から「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」を探っていきます。

では、さっそくいってみましょう。

『鬼滅』鬼の累(るい)からみる「普通」の真相

「普通」はいつも「正常」か

わたしたちが日常で「普通そうでしょ」という言葉を使うとき、「普通」か「普通」でないかという線引きのようなことを意識下でおこなっています。

「普通」という言葉は、「多数派」という言葉と結びついて、それが「正常」という言葉を連想させます。たとえば、その人からみて「普通」でない場合は異常であると意味がふくまれることになる。しかし、多数派はいつも「正常」なのでしょうか。そもそも、なにをもって「正常」といえるのでしょうか。

わたしたちは日常生活のなかで、個人的な感情や思いが属する個人の領域と、社交性や利害関係からなる社会の領域の両方に足をおいています。たとえば、だれかと映画を観ているとき、心の中では映画についての感動や退屈を感じている自分は個人の領域です。鑑賞中しゃべらない、盗撮しない自分は集団の領域です。何が言いたいかといえば、個人の領域と集団の領域という異なった別々の秩序をもったものが合わさったものが「正常」だと言うことです。

  • 集団の領域に支配される正常   ・・・ マナー、社交性、ルール
  • 個人の領域に支配される正常   ・・・ 精神的な価値/精神の自由

なぜ「正常」に「」がつくかというと、それが絶対的に不変ではなく、特定の集団の性質や個々人の成熟度によって変わってくるからです。つまり、「正常」は、絶対的なものではなく暫定的なものだと言えます。

現代に生きるわたしたちは、自分をごまかしてでも「他人ウケ」にそって人生を選んでいく傾向が大きくなっています。この「他人ウケ」がどちらの正常に含まれるのかとえば、集団の領域に支配される「正常」です。「自分のしたいことがわからない」、「最近関心がわかない」という人が少なくないですが、それは、自分の思っている「正常」から「集団の領域」を差し引いたときに、「個人的の領域」が縮みこんでいるということです。

ようするに、今のわたしたちが使っている「普通」という言葉は、集団の領域にかなり大きく偏った「正常」という意味を含んでいることになります。個人の領域が萎んだ「正常」、これを「普通」だと思っている人が行き着く世界はどういったものなのでしょうか?

鬼の累(るい)からみる「普通」の真相

アニメ版「鬼滅の刃」第二十話「寄せ集めの家族」では、この個人の領域が抜け落ちた「正常」が「普通」だと思っている人々(「鬼」ですが)がつくる家族が、いったいどのようなありさまに行き着くのかを垣間見ることができます。

那田蜘蛛山の「鬼」の討伐の指令を受けた炭次郎一行は、基本的には群れないはずの鬼が、群れて家族を形成しているのを見て驚きます。後に、この家族は、家族に割り当てられた役割を果たすことを、累という「鬼」に強制させられている寄せ集めの家族であったことが判明します。つまり、累という支配者を恐れて、「鬼」は家族の役割を必死に果たすように強制されていたのです。

「僕はね、自分の役割を理解できていない人は生きている必要はないと思う。」

アニメ『鬼滅の刃』第二十話「寄せ集めの家族」より引用

このセリフは、その累という「鬼」の言葉です。累の発言は、個人の領域がない「正常」を取り込んでしまった人間の行きつく考えの典型です。

もし自分の思いや意思、そして、他者の思いや意思を放置するなら、人の人生に意味を与えるのは、その社会から与えられた役割や義務だけになっていきます。そうなると、社会が規定する「あるべき姿」をコンプリートすれば彼は「正常」であり、その社会で一人前の大人であるということになります。累は「成功」したのであり、家族を作った彼は「正常」ということになります。

家族の場合、パートナーがいて子供をつくり家族としての体裁をつくれれば「正常」となる。しかし、そこにあるのは、夫の義務、妻の義務、父親の義務、母親の義務、兄の義務、姉の義務、妹の義務、弟の義務だけです。そこには肝心なものが抜け落ちています。心です。そこには、生活するうえでの応答はきっちりあり表面上はスムーズであるのに、内的なつながりが感じられない家族ができあがります。家族のメンバーの個々人の意思が放置され、内的な繋がりの元にあたるものがないのです。外見上は絆はあるのに、実際に感じられない。そして、家族が世間体や義務のためだけに存在する。これほど、寒々しいものはないでしょう。個人の領域の「正常」からみたら悲惨そのものです。

このように、個人の領域がない「正常」の行きつくさきは、「心」を犠牲にした冷たい世界です。
鬼の累のケースは、累自身が権威となり、鬼に「役割」への服従を強制し「家族」を維持しています。わたしたちの社会の場合は、「世間」といった「匿名の権威」が権力者として君臨しています。

このように、個人の領域がない「正常」の行きつくさきは、「心」が感じられない建前の世界です。
鬼の累のケースは、累自身が権威となり、鬼に「役割」への服従を強制し「家族」を維持しています。わたしたちの社会の場合は、「世間」といった「匿名の権威」が支配者として君臨しています。

わたしが問題にしたいのは、「世間」そのものというよりは、世間の内容であり、その世間が「普通」と語るときの「正常」の中身についてです。もちろん、わたしたちは「世間」から鬼の累のように、直接的に外から強制されているわけではありません。外から見れば自分で決めているようにうつるでしょう。しかし、「普通」という脅し文句でわたしたちは内側から見張られ、服従しているわけです。

 わたしたちは、この「普通」という言葉に従うとき、自分の考えだと思い込んでいますが、正体は生まれたあとに学びとり取り入れた「他者からの視点」であり、集団内での利害関係から見た視点です。わたしたちは、外からの強制ではなく内在化している多数派の「空気」に無自覚に服従しているのです。

例えば、結婚についてなら、個々人が愛し合い信頼関係を築きその結果として便宜的に結婚するというよりは、「みんなしているのに」といった取り残された感、「世間」に服従している人からのから「結婚できないということは人間性にどこか問題がある」という偏見が恐いために半ば自分に鞭をうつように、妥協もいたしかたなし、という具合で相手選びをしている。もしくは、その圧力をかなり強く感じている人が日本では多いように思えます。

「普通」になることの代償

「鬼」の累のケースとは違い、それは個人の自由だし目に見えた外からの強制がないのだからいいではないか、と思うひとも多いかもしれません。おっしゃるとおり、それは個人の自由です。しかし、「世間」や「みんな」といった「匿名の権威」への服従は、長期的にゆっくりと人の内側を空虚感やフラストレーションで満たしていき、結果として他者への不寛容や鬱屈とした閉塞感という形をとって社会に影響をあたえている側面もあるのです。

そのからくりを述べる前に、この、「普通」や「世間」といった「匿名の権威」が冷酷な支配者であるのにもかかわらず、どうして多くの人が服従するにいたってしまうのか、ということについてのフロムの文章を見ていきたいと思います。

匿名の権威は、あらわな権威よりも効果的である。というのは、ひとはそこにかれが服従することが期待されているような秩序があろうなどとは想像もしていないから。外的権威のばあいには、秩序があり、命令する者があるというのは明瞭である。ひとは権威と戦うことができる。そしてこの戦いのうちに、個人の独立性と道徳的勇気とが発達することができる。また内的権威のばあいにおいても、命令は内的なものであっても、それは認識しうるものである。ところがこれに対して匿名の権威のばあいには、命令も命令するものも、目にみえないものとなっている。それは目にみえない敵によって砲撃をうけるのに似ている。戦うべきなにびとも、またなにものも存在しないのである。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:186項

注)フロム・・・エーリッヒ・フロム、20世紀を代表する社会心理学者。自由と孤独の関係を秩序だてて論じており、筆者はこのシリーズではメインの参考としている

この、自覚しずらいということが、「匿名の権威」の特徴です。自覚しなければ、それが良いのか悪いのか、悪いならどう対応しようといった姿勢がとれません。

例えば、鬼である累のように外から暴力によって強制を迫られた場合、私たちは不当な状況を強いられていると自覚できるので、内的な面で抵抗できるので、自尊心を確保できます。一方、「世間」を例にしてみると、私たちの内側から服従するよう私たちに迫るとき、「普通」という言葉をつかうので、「普通」ではない場合は、正常でない、劣った存在である、というレッテルを貼ろうとしてきます。この場合、わたしたちは「世間」とは別の意見を表明するすることが実質禁止され、世間の「あるべき姿」に違和感を覚える自分は「普通」ではない異常なダメな存在なのだ、というレッテルを自分で自分に貼ってしまうことになります。これでは生きづらいので、黙認するか考えないようにする以外に選択肢がなくなります。これにより、自覚がどんどんできなくなっていくからくりがあるのです。

この、「私」という主体の放置をセットとする「空気」への服従が恐いところが、個人に無関心と思考停止をもたらすことです。服従している空気感が意見の是非や内容にかかわらず絶対的に感じ、もはや自分で考えること、問いをもつこと、決断することが自分で出来なくなります。

わたしこの「自粛警察」が盛んであった一時に、都市の公園近くを一人で歩いていました、道行く人もまばらになったのでマスクをあごの下にずらして歩いていたら、遠くから二人組の中年の女性の二人組が畜生でも観るかのような目つきで「マスクしなさい」と一方的に言われたのを思い出します。3密ではなく、しかも一人で、人込みから外れたので一時的にマスクを外していただけなのに、わけも聞かず一方的に批判され命令された時の気分はいいものではありませんでした。むしろ、3蜜ではない道でわざわざ接触してくる彼女たちの行動はどうなのだろうかと思ったのを思い出します。それが、「「自粛警察」は独善的」という別の意見が優勢になってくると手のひらをかえすようになりをひそめます。

いっぽうでこの雰囲気がどっちつかずの状況で「私」という主体がない場合に人がどう行動するかもコロナ禍は可視化しました。「世間」に「二つ意見があること」が「どっちでもいい」という雰囲気を醸成し、個人的な考えはここで止まります。「世間」に即悪と断定され攻撃されないのであるなら、我慢が少ないほうへ、つまり、飲み会を選ぶことになります。「私」を封印することを利害の「あめと罰」によって適応した人にとっては、「世間」で支配的となった雰囲気にたいして、その内容が理性的なのか、人として道理にかなっているのか、はたいした問題ではなくなってきます。

世代は、この空気である「世間」が分かれやすく、スマホの出現はさらに「世間」を分割しています。緊急事態宣言で学校が休校になり、多くの学生が渋谷の街をかっぽしているというニュースがあり、「若者は年寄りのことを何とも思っていない」という年配の意見が聞こえてきそうですが、若者がが人でなしになったというより。「大人」と同じように支配的な「空気」に従っているだけだととみることが出来ます。

これは、「私」としてつながることを許さない社会が個人にもたらす、無関心と思考停止問題の問題なのです。

 この章の冒頭で取り上げた「普通~でしょ」という言葉に話をもどしますと、その人が本当は嫌なのに、その気持ちさえも放置して「普通」に従った場合、その人はその「普通」に従わない人が気に入らなくなるのは当然です。自分は我慢してるのにどうしておまえは我慢しないのか、という逆恨みがわくからです。「普通」という言葉が同調圧力をかけたい時に使われることが多いのはそのためです。

 「世間」が要求してくる生き方へ違和感、反発を「私」が感じているにもかかわらず服従をつづけると、「私」を部分的に無視していくことになるため、少しずつ自分の心を放置する状況に置かれてしまう。気持ちは部分的に消すことはできないので、どんどん自分の気持ちを放置する方向にいってしまいます。

 家族の義務はたんまりあるのに、肝心の内的なつながりが感じられない仮面を被った家族のような状況や、烏合の衆となり、他人の苦しみや社会にかんして無関心になっていく状況からいえることは、「普通」になることは、「鬼」が持つことができない人間として大事な能力を代償に払っているのです。

自覚なき村人

abemaTVの報道バラエティー『アベプラ』の2021年1月19日の放送で、「普通」についての特集が組まれていました。その中で、無作為の日本人に「自分は普通であるかどうか」のアンケートが実施され、その回答の70パーセントが「自分は普通である」という回答となりました。

このアンケート回答者の70パーセントの人たちは、社会が要求する「普通」に憧れるでも、反発するでもなく、自身への認識と同一視しています。他者を他者として発見できていない「村人」のメンタリティーの水準にとどまっているといえます。

自分を正当化して同調を迫るニュアンスを含んだ「普通~だよね!?」という言葉を使う時、このニュアンスを英語で無理くり表現すると「I think~」(私は思う)よりは「I believe~」(私は信じる)に付加疑問文がつけるような形に近いのではないかとわたしは思います。信じている、という自らの信仰のようなものをいわれても、「ああそうなの」としかいえません。これは他者が認識できていない相手を窮屈にさせるコミュニケーション方法といえます。なぜなら、同意を返されることしか期待されていないからです。 

「普通」と同化してしまった場合、わたしたちは、この偏狭さがもれなくついてきます。

鬼の累も他の鬼とおなじように、人間だった頃の記憶を忘れていくかわりに、無惨の支配と服従の価値観を取り込んでいき、いつしかそれが彼にとっての「普通」となり、その「普通」が彼の自己認識と一致するにいたります。彼とは違う価値観の鬼や人に、自分の従う「普通」に染まるように彼が他人(鬼ですが)に強要してしまう、もしくはコントロールしようとしてしまうことはある意味で当然の結果といえます。

ネットのコメント欄、SNS、もしくは自粛警察といった形で、自らの信じる「正義」をふりかざされた人の気持ちを顧みることなく振りかざしてくる人は、この鬼の累と同じ精神状況にあると考えられます。確実にいえることは、人が個性をもって生まれる以上、はじめから完全に「普通」だった人などいないということです。

近年、「おひとり様」のサービスが増えてきました。勤務時間以外で会社の人との私的な関わりを避けるひと、定期的に一人の時間を確保したい人が増えてきたようです。かつてのようなみんなでワイワイ、ガヤガヤする喜びよりも、「村人」的な関係が前提とする役割を演じることへの期待への窮屈さ、声がでかい人からのトップダウン的なコントロールや操作にたいして感じる不快感のほうが相対的に大きく感じているひとが増えてきたからかもしれません。

過適応の影響

このように人からの評価を気にするあまり、自分自身がすっかり委縮し、「世間」や「みんな」同調することで自分の不安を解消しようとする人が多数派の社会はどうしても息がつまります。このような人の典型のひとつに「神経症的な「非利己主義」」というものがあります。フロムは精神分析の視点からこう説明しています。

「非利己的な」人は「自分のためにはなにも欲しがらず」、「他人のためだけに生き」、自分を大事に思わないことを誇りにしている。ところが、非利己的であるのに幸福になれず、ごく親しい人々の関係にも満足できないので、当惑している。

そういう人を分析してみると、その人の非利己主義は、他の症状と無関係なのではなく、症状のひとつであり、ときには最も重要な症状であることがわかる。そういう人は、愛する能力や何かを楽しむ能力が麻痺しており、人生にたいする憎悪にみちている。見かけの非利己主義のすぐ後ろには、かすかな、だが同じくらい強烈な自己中心主義が隠れている。

エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:98項

このような人は「世間」の語る「普通」に自分の気持ちを放置してでも服従しますが、「普通」であることのため「自分を大事に思わないこと」を誇りにしているのが特徴です。わたしは、カナダに1,2か月ホームステイしたことがあるのですが、日本を出てホストファミリーや語学学校の担任やスタッフなどのカナダ人と接する中で、この特徴は日本人のかなり多くの人がもっている特徴だなと、わりとはっきりと感じました。

この態度がもたらす影響は、「喜ぶ能力や愛する能力の麻痺」というその人自身の問題だけでなく、関係をもった相手にもたらします。フロムは「神経症的な「非利己主義」」な人が他人に及ぼす影響について、特に、母親と子供の関係にその本質が一番現れると指摘しています。それが次の文章です。

非利己主義の本質がいちばんはっきりとあらわれるのは、それが他人に及ぼす影響、とくに現代社会においては「非利己的な」母親がその子どもに及ぼす影響のなかにある。そういう母親は信じているー子供は母親の非利己主義を見て、愛とはどういうことなのか、さらには愛するはどういうことなのかを学ぶにちがいない、と。ところが、母親の利己主義は、期待どおりの影響を及ぼさない。そういう母親に育てられた子どもは、愛されていると確信している人間が見せるような幸福な表情を見せない。彼らは不安におびえ、緊張し、母に叱られることを恐れ、なんとか母親の期待に沿おうとする。ふつう子どもたちは、人生に対する母親の隠された憎悪を、はっきりと認識できるわけではないが、敏感に察知し、それに影響され、遂にはすっかり染まってしまう。

結局のところ、「非利己的な」母親の影響は利己的な母親の影響とたいして変わらない。いやそれどころか、もっとたちがわるいこともある。なぜなら、母親が非利己的だと、子どもは批判できない。子どもたちは、母親を失望させてはならないという重荷を課せられ、美徳という仮面のもとに、人生への嫌悪を教え込まれる。純粋な自己愛をもった母親が子どもにどのような影響をおよぼすかを見ればわかるように、愛や喜びや幸福がどんなものであるかを子どもが知るためには、自分自身を愛する母親に愛されるのが一番だ。

エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:99項

このように「神経症的な「非利己主義」」は、最も無防備で無力な時期に母子ともに無自覚のうちに影響され、下の世代に連鎖していくのです。

悲惨の螺旋

 考えてみれば、年配の世代まで、家庭では家父長的な態度が当たり前でした。それが、封建時代のなごりで、女性は基本的に夫を引き立て献身し、子どもの面倒の一切の責任を負っていました。「内助の功」「良妻賢母」という言葉があてられ、妻となり母となった女性はこの「道徳」のしめすあるべき姿にみあうように一生懸命日々の生活をこなしていたと思われます。ポップスのヒットソングで、家族をテーマにした歌の歌詞のなかに、このイメージを見かけるので、今でも支持している人が少なく無いかもしれません。

しかし、これは中世の身分的な社会構造がゆるすなかでの美徳であり、個性化が半ば進んでいる女性がこの道徳を実践すると、必然的にフロムがいう「神経症的な「非利己主義」」な人が出来上がってしまいます。

自らの気持ちを犠牲にしてても「世間」体のために家族をつくり、家族の義務を一生懸命果たそうと、「いい母」を演じようとも、人は心まで操作できません。そういう、見た目はきっちりしていて、暴力などなく、表面的には問題はみえないが、自分をすっかり疎外してしまった親のもとに育った子供は、愛されている「実感」が得られず、また親が隠して不自然さを子どもの鋭敏な感受性はとらえてしまうため当惑し不安を感じてしまいます。子どもはそれでも母親が好きなので、母親の言うこととは違うことを感じている自分は悪い存在なのだと思い込みます。結果として、親とおなじように、内面に不自然さと自身のなさをかえ、抑圧的な期待される「イイヒト」に縛り付けられた性格に変形していってしまうわけです。

また、親自身が自分の気持ちを犠牲にして「世間」や「普通」に同調することを美徳としているため、子どもの「意思」を尊重したり配慮する能力が弱く、子どもの気持ちに寄り添うことなくズレたものを「あなたのため」と押しつけてしまいます。たとえ、子どもに好きかどうか尋ねて「好き」や「やりたい」と言ったとしても、親が子どもに習いごとのことをほのめかしている時点で、子どもは親の期待に敏感に察知しています。この深さまで子どもの気持ちに寄り添い、それ相応のケアをしなければならないのが、親だけでなく子どもに関わる立場ににいる大人の責任です。子どもは、まだなにも知らないからです。

時代はかわれど、子どもが親からうける影響ほど強いものはありません。戦後のようにプライバシーがなく子どもの面倒を地域でみていた時代にくらべ、現代は、一人の母親が子どもに長期にわたり密着しやすい環境にあるため、いいも悪いもふくめ親からの影響力はましてるのが現状です。

このように「神経症的な「非利己的」」な親は、虐待をする「利己的な親」と同じように、はからずも子どもの健全な自己愛を奪ってしまい、神経症的な人格を子供に継承させてしまうのです。そのような環境におかれた子どもは、親の期待に恐ろしく敏感な闇をかかえた「イイ子」を演じることを余儀なくされしまいます。その子どもの母親が、子どもの頃にそうせざるおえなかったのと同じようにです。

本当の大人の責任

フランスの哲学者、アンドレ・コント・スポンビルは、道徳(禁止)抜きの愛はありえないとしたうえで、子どもたちに対する大人の責任をこう述べています。

愛抜きの道徳はどうでしょうか。これはありうるかもしれませんが、なんの意味も持たないでしょう。思春期の子供にこう訊かれたと想像してみてください。「教えてお父さん、お母さん。人生の意味ってなんなの?」あなたがこう答えるのを想像してください。「人生の意味は義務を果たすことさ」。なんという人生の意味でしょうか!義務それ自体には何の意味もありません。(カントが言った通り。義務はなんの目的も目指してはいません)。人生に意味を与えるのは義務ではなく愛です。子どもたちに教えなければならないことは、まさにそのことです。人生は、私たちがそこに見出し置きいれる愛におうじてしか生きるに値するものとはなりません。

アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳:『資本主義に徳はあるか』:紀伊國屋書店:280項

わたしたちを満たしてくれるものは義務ではなく、愛といった喜びの感情である。そして、だからこそ、愛といった喜びのために、義務や役割が重要になってくるのです。

わたしたちを満たしてくれるものは義務ではなく、愛といった喜びの感情である。そして、だからこそ、愛といった喜びのために、義務や役割が重要になってくるのです。

子ども成長していき、その子供らしさである意思を発達させるにつれて、愛する内容の主要なな要素が、その人らしさとなってきます。ドイツ人であるフロムやフランス人であるスポンビルが言っている愛は、「その人がその人らしく成長することを喜ぶ気持ち」です。子どもの親が、自分らしさを喜べていない場合、子どもの子どもらしい成長を喜ぶことはできません。

「人生の意味は義務を果たすことさ」という愛なき親の答えは、鬼の累の「僕はね、自分の役割を理解できていない人は生きている必要はないと思う。」という発言と同じ内容です。そして、それはわたしたちが知らず知らずに取り込んでしまった「世間」の声と一致します。

人間が自身の喜びから生まれる意味(精神的)の手段である、結婚、仕事、義務や役割そしてお金が、目的である人間性を犠牲にしてしまう。人生に意味を与えることが義務や「あるべき姿(役割)」であったなら、人は「鬼」の累と同じ結論にいたるでしょう。それは、安定していて表面上はうまくいっている外見に反して、内的な繋がりの感じられない人間関係です。行きつく先は那田蜘蛛山の鬼たちの家族、「寄せ集めの家族」のような虚しく温度の感じられない社会です。

わたしたちができることは、集団の領域に偏りきった「正常」を、小さくなりきったほうの個人の領域を大きくすることで、バランスのとれた健全な「正常」にしていくことではないかと思います。

 「愛や喜びや幸福がどんなものであるかを子どもが知るためには、自分自身を愛する」両親「に愛されるのが一番」です。そうすれば、今の社会で増している閉塞感や生きづらさが減ってくるのではないか。そのために、一人一人が、「私」を放置しないで「私」として社会・他者とつながるように生きていくことが、閉塞の負の連鎖が続く今の日本に生きている大人の責任ではないかとわたしは思います。

 いくら他人からうらやましがられるような状況があろうが、そこに「私」の心がなければ虚しい。そんな認識が見えかくれするなかで、「内的な繋がり」を感じさせてくれる物語である『鬼滅の刃』に少年少女のみならず社会人層までもが惹きつけられたということは、今の日本でみなようように生きている中で、それだけ精神的な心の飢えのようなものを内に抱えているからなのかもしれません。

次回は、『鬼滅の刃』に登場する、上弦の参・鬼のアカザや無惨を引き合いにだしながら、わたしたちがなにもしていないときに感じる不安や罪悪感の正体をあぶりだしていき、『鬼滅』の大ヒットのわけを探ります。

お付き合いありがとうございました。

参考文献

「アニメ『鬼滅の刃』」

[原作者]吾峠呼世晴週刊少年ジャンプ』(集英社

[監督] 外崎春雄

[シリーズ構成・脚本・アニメーション制作] ufotable

[企画]アニメプロデューサー アニプレックス 高橋祐馬

[製作]アニプレックス集英社ufotable

[放送局] TOKYO MXほか

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定

劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編公式サイト

自由からの逃走

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 日高 六郎 

[発行者] 渋谷 健太郎

[発行所] 株式会社 東京創元社

『愛するということ』

[著者]エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳

[出版]紀伊国屋書店

『資本主義に徳はあるか』

[作者]アンドレ・コント・スポンビル:小須田健/C・カンタン訳

[出版社]紀伊國屋書店

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