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Book Review
ホリー・ゴライトリーが愛される秘密とは
こんにちは、matsumoto takuya です。今回はトール―マン・カポーティの不朽の名作『ティファニーで朝食を』をとりあげます。
オードリーヘップバーンが演じたことで知られているこの名作は、実は元ネタは小説です。そして、この小説は映画とは全く別物です。元手とは全く別とはまさにこのことかと思ったくらいです。どこが別物なのかというと、二人の主人公、ホリーと「僕」が映画に比べるとより、複雑さや弱さや奥行きをもった人物として描かれ、その人物たちの人間関係の中での展開が物語の内容となる以上、その物語は全く別の印象をわたしたちに与えるからです。
作者である、トルーマン・カポーティは配役がオードリーに決まったと報告を受けた際に、少なからず不快感を示したというエピソードが有名ですが、それも頷けます。ホリーのもつ人間性をオードリーが醸すタイプに設定してなかったのです。
この小説の魅力はどこかと聞かれたら、わたしはホリーというキャラクターだと答えます。社交性がずば抜けていると同時に自由を愛する寂しがりやのひとり好き、打算的にかつ軽やかに華やかな社交界を泳ぎながらも、冷酷になり切れない繊細な心をもった若く美しい女性。こんな内面・外面双方において魅力の塊のような女性キャラクターは他にいるでしょうか。
最近、久しぶりに映画化されてフューチャーされたオルコット『若草物語』の主人公ジョーも知的で天真爛漫といった感じが似てるともいえませんが、ここまで、浮世離れしていないし惹きつける魅力はない。カポーティ―のずば抜けて優れた点は、こういう特殊な危うさをもった人物を華やかにそして詩的に表現し、リアルを感じさせ、読者にホリーの数奇な人生についてアリなのだ納得させてしまうところだとわたしは思います。
普通の作家がここまで、奇抜なキャラを描くとどこか重みがかけてしまいがちです。ここでは、なぜ、ホリーという女性キャラクターがこうも世界中で受け入れられ愛されるに至ったのかを考察していこうと思います。
「ファッションナブル」と自由感
ところで、女性は男性よりもファッションに敏感です。人からどうみられたいかという欲望を外観を使って得ることに関しては男性よりも得意とするというのが私の感想です。それに同性同志この能力を高く評価しあう。ホリーは女性としてのこの能力がこれでもかというほど高く、彼女はまさにおしゃれの化身ともいえます。加えてホリーは、気まぐれで可憐なところがまるで猫のようです。自由への渇望、軽やかでありたい欲求は女性のみならず男性にもある人間ならではのものです。日々の生活の中でどんどん失われていく、保持することが難しいものでもあります。彼女の生きざまが地に足がついておらず、生き生きしているけど同時にどこかふわふわしている危うさがあるにも関わらず惹かれるのは、私たちの中に潜在的な形でそういう欲求があり、それができない自分を重ね合わせて肯定したくなるから、という見方もできると思います
とはいっても、世間じみた普通の生活をしているわたしたちにとって、彼女の生きざまは直接すんなり受け入れられる内容ではありません。彼女が受け入れられた理由は他にもありそうです。
黒歴史は万人を再び結びつける
彼女の生い立ちはとても悲惨で暗澹たるものです。人格形成にもっとも影響する、児童期に彼女は、愛とは程遠い生活をおくった過去を持ちます。その悲惨な過去の存在が私たちに彼女への同情をよび、彼女に不思議な奥行きを感じさせるのです。しかし、彼女の魅力はこの先にあるのです。彼女はその過去でひとから同情をひこうとはせず、むしろその同情心を利用することを拒む姿勢をみせます。ここに気高さ品格のようなものが現出するのです。品とは考えてみれば不思議なクオリティーで、上流家庭で育てられた環境で育てられたかどうかで決まるものではないとわたしは思うのです。
悲しい出来事を経験することは、その時はつらいですが、人間の成長の王道だということは多くの人が気づくことです。喪失や失敗などの痛みの経験は、はじめて同じように辛い思いをしている人間の存在に気が付けることができ時にわたしたちは優しくなれます。読者がホリーに結び付けるのもこの働きですが、ホリー自身の大きな魅力、(そして、ほんとうのところここに魅力がある)稀に見せる繊細な優しいコミュニケーションや愛情表現、寛容さは、黒歴史とも呼べる過去を背負った彼女だからこそできる人間性にあるのです。
ジョーベル、ラスティ―、O・Jバーマン、「僕」といった、弱さや癖をもった面々が、または読者は、この普段は軽やかな天真爛漫でドライな彼女が稀に見せる本物のやさしさに、普段とのあまりの高低差によって、思わずほろっとさせられてしまうのです。
トルーマン・カポーティとホリー・ゴライトリー
ここまで書いていると、作者であるカポーティのイメージが彼女のイメージと重なってきます。社交会を自在に泳ぐ彼は口の悪いゲス野郎としても有名でした。しかし、彼の作品「ミリアム」などの繊細で詩的な美しさ、「草の竪琴」のようなやさしさい心あたたまる物語に一度触れると彼の負の面が薄められ、気が付いたらゲスの部分もふくめてOKになってしまうのです。それに加えて彼は児童期にわたり、愛とは程遠い環境で育った過去をもちます。そう、まるでホリーです。
小説家は直接的であろうがなかろうが、自分が経験したことを書くそうです。カポーティ―自身を理想的にデフォルメしたのが実はホリー・ゴライトリーというキャラクターなものかもしれません。
しかし、これでも浮世離れしたホリーが受け入れられている理由としては、今少し何かが足りません。浮世離れした彼女と浮世(つらいことの多い世の中)を生きる読者であるわたしたちをつなげる接面、架け橋、ドアのような存在が必要だからです。
架け橋としての「僕」の存在
「僕」は、作家志望の青年で、幾分屈託し世間に対してすれている。世間での生活様式として一応、作家という肩書があるが、まだ出版もされていない。いうなれば彼は現実的でありかつ非現実的な存在ともいえます。そんな彼がホリーを語るスタイルを採用することで、生き生きとしているが危うげな非現実を生きる彼女と、つまらないが地に足がついている(ように見える)現実をいきるわたしたちを結びつける架け橋のような働きを果たしているのです。
結びに
ファッションセンス、精神の自由と葛藤、同情、悲惨な過去といったテーマでトルーマン・カポーティが経験した内容を抽出し、端正な文体で造形されたのがホリー・ゴライトリーであり、「僕」という緩衝地帯を通して安心して彼女と”触れ合う”ことができる。それらによって私たちは、構えることなく一見奔放に見える彼女に人間性と自分自身の一部を見出したり、応援したくもなり、愛おしくも感じてしまうわけです。
以上、『ティファニーで朝食を』ブックレビューでした。おつきあいありがとうございました。
「ティファニーで朝食を」
[著者]トルーマン・カポーティ
[翻訳]村上春樹
[発行所]株式会社 新潮社