ワタリウム美術館 生きている東京 展

ワタリウム外観、matsumototakuya作

アイライブアート 15

@ワタリウム美術館

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、渋谷神宮前にあるワタリウム美術館で開催中の展覧会『生きている東京展」をとりあげます。

日常のなかに、通勤、通学、休日のショッピングの人たちの中に、通りを通る人々の中に美術館がある街がある、それが渋谷神宮前であり、その美術館はワタリウム美術館といいます。スイスの建築家マリオ・ボッタによって生み出されたワタリウム美術館は今年が開館30周年となるそうです。

そんなワタリウムは1990年に開館以来、東京から様々なアートを世界にむけて発信してきた「アートの場」であり、美術館そのものもアート作品と呼べます。東京という世界有数の大都市で活動してきたアーティストたちが見たこの30年間から東京を再考する機会として、コレクションを中心に、未公開のドキュメント、さらにゲストアーティスト3人を交え展示されているのが今回の「生きている東京展」です。

30年の中で蓄えられた、コレクションはとても質が高く、例えば今や、グラフィック界の巨匠であるバリー・マギーの若かりし頃のアートや、インタビューなどがみられます。とらえどころのない世界的大都市東京の姿がワタリウム美術館で活動したアーティストとワタリウム自身の姿からその一旦を垣間見れることができる展覧会でした。

ワタリウム美術館 生きている東京 展公式サイト

それにしても「生きている東京」とは興味深いタイトルです。都市は無機物のはずなのに、しばらく東京やその近郊で暮らしていると東京という都市が確かにダイナミックに変化していると誰もが感じます。伝説のキュレーター、ヤンフートのメッセージのタイトルが”「都市の精神性」。”からこの展示は始まります。都市の精神性とは一体なんなんだろう。この普段は絶対に深堀することはないこのテーマに、お題がでたと思ってほんの少しだけ深堀していこうと思います。

以下、内容を一部含みます。

そもそも「精神性」とは

「都市の精神性」、、、なんかとらえどころのない言葉です。そもそも精神って何だろうという疑問がわいてきます。ここでは精神性を、感じたことをもとに想い、考え行為するという人間ならではのもの、というざっくしとした定義をしておきたいと思います。

わたしは(個人的な理論ではありますが)「都市の精神性」とは、都市そのものというのではなく、その都市に住む個々人の精神性の総体、個々人の精神が集まり引き継がれているもの、だと考えます。個々人の価値観や思想が、建築物の造形に宿る、そしてその都市に関わる人々がその建築物の集まりからなる街を想い、引き継ぐことを含めて何らかの行為をした結果として醸成されてくるものが「都市の精神性」ではないかなとおもうのです。建物はその時の時代の雰囲気を宿す。という表現がありますが、その時代を生きた個々人の精神性が宿るということなんですね。そしてそれは引き継がれる中で質が深まっていき、街自体がそこに住む人に影響を与えることさえあるのです。

都市の精神について考えるということは、私たち個々人にある精神について考えるとみることもできるのわけです。ところでこの展覧会の主役である、東京とはどういう都市なのでしょうか。

ここ東京

東京という都市がどんな感じなのか、と聞かれると欧州の都市に比べて都市としての個性があまり見当たらないような気がします。浅草や谷中は日本的であり、東京という地域性を感じられる地域はありますが「都市」というイメージにはどこかあいません。東京を都市という文脈で語るときに思い浮かぶのは新宿、渋谷、銀座、六本木などで、社会的属性の嗜好による違いはあるもののおおむね、他のシンガポール、香港などの新興国の国の都市のそれと似ている。意外と無個性が目につくような気がします。

しかし、これはある意味で当然なことかもしれません。そもそも、日本は戦前まで、今の建築スタイルである「石材」を扱う文化ではなく、朽ちることを前提にした木材文化でした。東京の近代史をすこしのぞいてみると、戦後、社会制度的にも、物理的にも引き継ぐものがない荒廃した状況(敗戦)から、欧米文化の模倣というかたちで今日の東京という都市は生まれ発展してきたのです。比較的新しい存在なのですね。

それも、文化が断絶される形で都市としての東京は発展していきました。しかしいい面ももちろんあったわけで、自国の文化を引き継ぐ必要があるロンドン、パリ、アムステルダム、ローマなどの西洋の都市と比べて、割と過去の日本的なものに縛られない柔軟性がありました。そこにかつての東京の熱気や勢いと新しさを受け入れる活気があったともいえます。ワタリウムが生まれたのもこの時期です。

技術革新もあって都市の発展は世界規模で先進国のあいだでダイナミックに発展していいきました。すると、「自分を見失う」というという、精神的な問題を都市生活者のうちにもたらしました。芸術の再評価が教養のあるなしを超えて改めてなされるようになった背景の一つです。日本では欧米より少し遅れてこの問題浮上し、いまや解決うんぬんのまえに「自分をみうしなった」状態、いいかえれば「自分が本当にしたいことが分からない」という状態が一般的になってしまったかもしれません。

都市とアート

今回の展覧会では、冒頭でも紹介した、グラフィック界の巨匠バリー・マッギーがワタリウムで展覧会を開いた時の展示作品の一部と当時の彼のインタビューが鑑賞できます。そこで彼がグラフィックアート活動をしている理由をこう語っていました。

”都市で生活しているとテレビ番組や広告などから影響を受けて自分の嗜好がほんとうに自分なのかわからなくなる。(グラフィックで)表現することで自分を保てるから”

バリー・マッギ:展示映像より引用

この言葉は、なぜ芸術が社会のなかで現れ発展していったのかを語っていると思います。もともと集団生活をしていた人類は、都市化により、より密集して暮らすようになりました。都市の特徴として良くも悪くもあるのが匿名性です。朝日新聞DEGITALによると、一階の渋谷のスクランブル交差点の一階の通行人は約3000人だそうです。驚くべき数です。

同時に、私たちは集団のなかにいるほど、孤独でいることをより強く感じるようです。みんなと同じであることが幸せなのだという錯覚を信じ込ませます。しかし人が満足を感じるのは愛とよばれる個人的な喜びが不可欠ですし、愛するという行為も実は個人的なものです。都市で生活しているとともすると心の伴わない儀礼的なやり取りが増えるのも無理もない話なのです。

芸術はこの圧力が避けられない都市生活で有効な手段となってくるわけですね。

話をワタリウムに戻します。個々の想いが宿ると同時に没個性化機能をもった都市の一部であり、また別の側面では個人の没個性化に悩む人を救うアートの場として存在しているのが、東京都神宮前にあるワタリウム美術館なのです。ワタリウム美術館は東京という都市において、特別で貴重な存在なのかもしれません。

30歳のワタリウム美術館

「生きている東京」を垣間見るには、東京という都市の中で元も躍動的な渋谷区神宮前の一角をなすワタリウム美術館とその場で行られたアート活動を見るをみることは説得力があります。ワタリウムの生みの親マリオ・ポッタのがアクアリウムについて語っていた展示映像の中で

ーーーロマネスク建築を造った方々と同じように、この建物が時の重みに耐え人々に長く引き継がれることを願います。

当展覧会:展示映像より引用

と想いを語っていました。彼の祈りにも似た願いはかなえられたのでしょうか。わかりません。から30年がたち、かつての新鮮さ、新しさは失われている姿をみながら、彼の言葉を思い出しているとなんだか切なげな気持ちになります。しかし別の角度から見れば、周囲には新しい近代的なビル群のなかに今のワタリウムをみると、渋谷神宮前の景色に見事に調和している、というか神宮前を形成している建物の代表格の風格があります。マリオ・ボッタは開館式の際にこんな言葉も残していました。

わたしはこの冒険を通して、わたしの文化、私の存在の仕方に根ずく感覚を、さらに深く再体験することができたことを告白せねばなりません。私は私自身を再発見するためにここに来たのです。

具体例 マリオ・ボッタ 1990年9月 展示文より引用

遠い異国のスイスの建築家であった一人の人間、マリオ・ボッタの精神は、見事に30年たった今の東京という「都市の精神性」にしっかりと宿りましたよと、思わず心の中でつぶやいたのでした。

以上「生きている東京展」でした。おつきあいありがとうございました。

引用:「生きている東京展 アイラブアート15」配布リーフレット、

   朝日新聞DEGITAL  https://google.co.jp/amp/s/www/asahi.com/amp/articles/ASJHXDQJ4HUTIL06P.html

「生きている東京展」

[主催・会場]渋谷神宮前 ワタリウム美術館

[会期]2020/9/5(土)~2021/1/31(日)

[休館日]月曜日(9/21、11/23、1/11は開館)12/31-1/4は休館

[開館時間]11時より19時まで(毎週水曜日は21時まで延長)

[協力]ミヅマアートギャラリー/テラヤマワールド/小泉悦子

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