なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?  その1『鬼滅』にあって日常にないもの

なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?夜の大正ロマン風の門、半開き、奥に不思議なオブジェクト(自分の心のメタファーとして)、その門に続く道に頭に角が生えた人が立っている、黄色い幾重もの帯、ぼやけたピンクの複数の〇、ミステリー

こんにちは、そして、明けましておめでとうございます。matsumoto takuya です。今年の初空はとても気持ちがよいものでほっとしました。コロナ禍中ではありますが、今年もよろしくお願いします。

今、日本中で大ヒットしている吾峠呼世晴による『鬼滅の刃』。2020年に公開された『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』は歴代興行収入の新記録となり、2020年に公開された『千と千尋の神隠し』の興行収入を超え歴代1位になりました。『鬼滅の刃』もはや社会現象と言えでしょう。

ただ、この短期間での幅広い年齢層を捉えた爆発的な大ヒットは、わたしにはすこし不可解でした。

『鬼滅』はたしかにおもしろい。しかし、原作は少年漫画である。

もちろん、わたしは少年漫画だから世代をこえてヒットすることがありえないと言いたいのではありません。ただ、読み手に少年を想定している少年漫画は、表現の範囲がある程度限定されるので、射程範囲となる人の範囲も必然的に万人ではなくなるはずです。たとえば、演劇の場合はリアルを重視するひとには少し引いてしまう部分があったりします。それなのに、幅広い年齢層に、しかも、短期間に多くの人にハマったというのは考えてみれば不思議なのです

社会現象とは、その社会に生きる多くの人々が抱いていると同時に、言語化できないために問題をや願望を把握できないことを、代弁しているものだと考えられます。つまり、社会現象はなんらかの”訴え”であるということができるのです。

『鬼滅の刃』には、わたしたちの日常で必要なのに不足しているものが、それもジャンルや年齢層の想定の枠さえもすっ飛ばしてしまうほど、欠乏しているもの、もしくは、本当は切実に困っているのだが言えないような日本社会への問題提起が描かれているのかもしれない。そういう着想がなんとなく浮かんだのでした。

『鬼滅の刃』には、わたしたちの日常で必要なのに不足しているものが、それもジャンルや年齢層の想定の枠さえもすっ飛ばしてしまうほど、欠乏しているものが描かれているのかもしれない。そういう着想がなんとなく浮かんだのでした。

ところで、今、書店で売れている一冊に、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本があります。著者であるエーリッヒ・フロムは20世紀を代表するドイツ・アメリカの社会心理学者、精神分析家で、『愛するということ』は、1956年に出版されて以来、世界的なロングセラーとして知られています。

日本でも、1959年に邦訳が出版されて以来、新訳版も併せて50万部も発行されており、いま売れているものはその新訳・新装版です。私の感覚では、「愛するということ」なんて直接的なタイトルの本は、今の感覚では引いちゃうか、人目が気になちゃって売れないだろうな、とたかをくくってしまっていたので、世代をこえて売れつづけていること、それが新訳として今改めて多くの日本人に読まれているということは意外でした。

フロムの残した仕事の中にも、世代をこえて今のわたしたちを引き付ける何かがあるようです。そして、『鬼滅の刃』が異常なまでに大ヒットしたこのタイミングでまた売れ始めているのです。

フロムの伝えたいことと、『鬼滅の刃』の世代を超えた大ヒットとの間には、今の日本に生きる、わたしたちが求める重要だがモヤモヤして捉えきれないでいる大事ことが隠れているかもしれない。

このシリーズは、『アニメ『鬼滅の刃』』から『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』までの内容を、エーリッヒ・フロムの代表作である『愛するということ』・『自由からの逃走』の内容をメインに関連づけながら、なぜ『鬼滅の刃』がこれほどまで、メディア媒体が多様化した今の日本で幅広い年齢層で大ヒットしたのか?それが意味することはいったいなんなのか?その秘密を明るみにだそうという試みです。

ではそっそく、シリーズ、「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」をはじめていきたいと思います。

以下、「アニメ『鬼滅の刃』」~『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』の内容を一部含みます。

『鬼滅』にあって日常にないもの

人のマーク、スマホ、食事のマーク、睡眠のマーク、人のマークを中心に後の三つのマークが三角をつくる。日常生活のルーティンをイメージする。
日常生活のルーティン

人が何かにハマったりするのは、面白いからという理由だからなのですが、同時に、その「ハマった」ものが普段の生活ではあまりみられない珍しものだからである、と見ることもできます。特別な関心がある場合を除いて、見慣れたもの、ありきたりなものであったらいちいち見向きもしないはずです。

『鬼滅の刃』の大ヒットから読みとれることは、少なくとも、日常ではあまり経験できない内容が含まれている、ということになります。そして、その内容が、日本人の割と多くの人に共通していた、ということです。

また、大ヒットは「不足しているもの」が得られる時にも起こりえます。もし、大きな都市でお茶をする場所一つもなかったところに、カフェができれば、そのカフェはきっと繁盛するはずです。

 『鬼滅の刃』に「ハマった」人の属する世代が10代という少年漫画の対象としている世代を大きくこえて、社会人の20代、30代。40代と幅広い世代に、しかも多くの人が「ハマった」ことからいえることは、日常ではあまりみられず、同時に、日頃の暮らしのなかで「不足している」何かを『鬼滅の刃』という作品が、そっと差し出してくれたということです。

そして、メディアが多様化した昨今、それが短期間に、爆発的にヒットしたということは、『鬼滅の刃』で追体験できるものが、わたしたちの日常ではかなり珍しく、同時に、多くの人が切実に欲しているものである、とみることができるわけです。

コロナ禍がふっとばした臭いものにしていた蓋

2020年、コロナウイルスが世界規模のパンデミックを引き起こし、世界規模でわたしたちは感染防止のための自粛生活を強いられました。

コロナ禍の生活で一体何が変わったのでしょうか。いろいろ考えられると思いますが、物理的な側面からは、集まる機会が減り一人でいる時間が増えたこと、精神的な側面からいえば、「普通」や「常識」というものが絶対的でも永続的なものでもないことが自覚できてしまったことだと思います。

わたしたちの生活スタイルの劇的な変化は、いままでは見ないようにしてきた問題を浮き彫りにしました。今までよりかかってきた不変で絶対だと思っていた「普通」が揺らぐ中で、みんなと一緒にいることができなくなることで浮上してくる問題とは、「自分ってはなんなんだ」というタイプの問題です。一人でいる時間が増えて、いい機会だから何かしようと思っても、自分のしたいことが実はわからないという現実の自分に、強制的に直面したわけです。

 

「me too」運動、パワハラ等のハラスメントについての下からの告発、「毒親」という言葉、組織内の個人の保守・画一化による成長の停滞といった、先が見通せないタイプのニュースが明らかに増えていくにつれ、かつての慣習や生活スタイル、規範といったようなものに影を落とすようになりました。それでも、大きなビル群、同じ制服に身を包んだおなじ組織の身内と、決まったペースで決まった時間に、繰り返し顔をつきあわせてたことで、「なんだかんだ変わらないよ」とその不安に蓋をすることができていた。それと同時に、現代の日常が個々人に要求するテンポがあまりに息つく間をあたえないので、せわしなく、疲れ切っており、「自分を知る・自分と向き合う」という実存的なテーマは向き合うだけ時間の無駄であり、そんなことを考える時間もなかった。それでも、世の中がいいもわるいも、なんやかんや回っていたのです。

それがコロナ禍により、経済的な不安ももちろんありますが、わたしたちは半ば強制的に今までごまかし続けてきた「自分についての問題」に向き合わざるおえなくなってしまったわけです。それが、コロナ禍にみられる私たちの不安の増大の背景の一つといえます。

今までどおりの全幅の信頼で「普通」によりかかるもどうもしっくりとはまらず、かといって、方向転換し自らの人生を充実させて安らぎとハリを得ようと思っても、いままで見ないようにしてきた自分の空っぽさや、予期せぬ無力感や無意味感や不安といったものがとぐろを巻いている。このように、いままで見ないようにしていた「臭いもの」への蓋がコロナウイルスのパンデミックにより吹っ飛ばされてあらわになり、わたしたちを戸惑わせているのが、コロナ禍の特徴の一つといえます。

そんな中『鬼滅の刃』ブームが日本中を一気に駆け巡りました。

かつての「普通」が絶対的なものではないという自覚、一人でいる時の無力感・無意味感、時には焦燥感そして不安。このあたりに『鬼滅の刃』が世代をこえた異常なほどの大ヒットと無視できない関係が隠れていそうなのです。

死は「生きてるか」と問いかける

ここでいったん、話を『鬼滅の刃』の内容にうつします。

死や苦悩という一見ダークなものが『鬼滅の刃』を通奏低音のように流れています。

主人公の竈戸炭次郎をはじめ、主要な登場人物のほとんどは、親しい人をなんらかの事情で失っています。ほとんどの登場人物が身近な人の死を経験しているという前提は、通常では「いきんなや」とか「真面目すぎ」と、つい言ってしまいがちな言動にたいして、真にせまる迫力を登場人物にあたえ、これが『鬼滅の刃』の世界観に説得力をあたえています。

死はいくら富豪になろうと、どんなに権力をにぎろうと、例外なくわたしたちに訪れるものです。もちろん、わたしたちは知識でそれを知っています。でも、それは本当でしょうか?この物語の登場人物が経験したような深さの認識と同じ深さで死の認識をわたしたちはできているのでしょうか?

東京大学名誉教授の養老孟司氏は、こんなことを言っています。

人は自分のことを死なないと勘違いするようになりました。そんなことはない、と仰るかもしれません。でも、現に高層団地から死は排除されていました。人間は死ぬということが知識としてわかっていても、実際にはわからないのです。

養老孟司『死の壁』:株式会社 新潮社:26項

養老孟司氏は、解剖学の献体(生前に自分の遺体を医学の発展のために利用承諾した人の遺体)を都会の高層団地に引き取りに行った時に、高層団地の作りが棺を運搬することを全く想定していない造りであったために棺の搬出に苦労したことで、そういう考えが腑に落ちたそうです。 

現代に生きるわたしたちは、死からキレイにきりはなされた生活のなかにいて、構造上、リアルな死と向き合う必要がなくなっています。これは衛生観念が発達した近代以降は当たり前のことように感じられますが、歴史を見れば、ながらく死は人の生活の身近にあったようなのです。

人類の歴史を見ると、生活のなかの実際の身近な死と接することでその知識を認識まで深めていました。しかし、現代に近づいていくにつれて、その傾向が変わります。

20世紀を代表する社会心理学者のエーリッヒ・フロムは現代人と死との関係をこのようにいっています。

我々の現代は単純に死を否定し、そのことによって、生の根本的な一つの面を否定している。死や苦悩の自覚が、生の最も強力な刺激の一つとなり、人類の連帯性の基礎となり、また歓喜や激しさや深さをもつためにかくことのできない経験となることを認めるかわりに、個人はそれを抑圧することを強いられている。しかし抑圧が常にそうであるように、抑圧された要素は、視界から消えても存在することをやめない。こうして、死の恐怖はわれわれのあいだに不条理な存在として生きている。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社

「死や苦悩の自覚が、生の最も強力な刺激の一つとなり、人類の連帯性の基礎となり」とはどういうことでしょうか。これは、実際に身近な人の死に接すると、人はその反対である「生」がどのようなものであるのかということに気がつくということです。人間はみな唯一無二であり、同じ人間は二度と生まれてこないこと、等々を喪失の痛手のなかで認識していき、それが、生きていることの貴重さの自覚や、まだ「生きている」人の尊さへの気づきを与えてくれます。喪失はほんとうに辛いことですが、その経験はより深い眼差しで他者見ることを可能になり、世界との結びつきを改めて強めてくれます。失ってはじめて自分にとって何が重要であったのかということを痛みを通して学んでいく、それが人間なのです。

また、わたしたはやはり自然に服する生き物なのだということを実感させられます。生きているということは変化する心・身体をもった存在であるということ。生き物は生まれ変化を繰り返しやがて死ぬ存在であること。その生き物の環の中に、わたしたちも含まれているのだ、という腑に落ちた理解を、「死」に触れた経験はもたらしてくれるのです。

このように「死」は、人々に「生」の側面をあらためて気がつかせてくれる働きを持っていたのですが、現代のリアルな「死」から切り離された環境は、衛生と引き換えに、わたしたから「わたしたちも生き物なのだ」という気づきの機会までなくしてしまっていたようです。

それが、コロナ禍により死が突如他人事となくなり、日本のみならず世界中で『鬼滅の刃』と似たような雰囲気がうまれています。いままでは、辛気臭いこと言わないで、なるだけ楽観的にいこうというような態度が支配的であった雰囲気に変化がうまれ、「真面目」と一蹴されてきた内容についても、それはそれで「あり」だという空気感が広がってきたのです。

「今・ここ」と全集中

『鬼滅の刃』の世界では、主人公の炭次郎をはじめ、自身の身体の声を大切にし、みずからの感性を有効に役立てて活躍する人物がメインにすえられています。例えば、炭次郎は嗅覚が、我妻善一は聴覚の鋭敏さが特徴です。みな異なった感受性を持っていて、それぞれの登場人物に特別な魅力を与えています。 

また、特殊な呼吸法である「全集中の呼吸」も身体への尊重がみてとれます。かれらが、集中している先は「今・ここ」です。そして、生きている身体の声を聞き取れるのも「今・ここ」だけです。かれらは、「いま・ここ」にある心・身体に意識を集中して耳をすますことで「生」の力を引きだしているのです。身体の中にあるものが心であり気持ちです。かれらは心・身体をとても大切にしていることがわかります。

これに対して、現代に生きるわたしたちはどうでしょうか。今・ここにある身体の声や感覚・自分の気持ちや想いに集中できているでしょうか。養老孟司氏は、こう言っています。

人間は変化しつづけるものだし、情報はかわらないものである、というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代です。

これがわたしが言うところの「情報化社会」です。「私」はかわらない。変わっていくのは世の中の情報である、という考え方の社会です。脳中心の社会といってもいい。

養老孟司『死の壁』:株式会社 新潮社:28項

注)近代は現代も含みます

近代以降のわたしたちの意識は、「全集中」とは反対の方向に向いてしまっている。むしろ、変化する「心・身体」の声から離れてしまい、変化しない「情報」として自分自身を認識してしまっていると、養老孟司氏は言っています。

現代の都市生活は、身体が開放的になれる自然環境は、ごくわずかでほとんどが人工物です。さらに、せわしなく急き立てられてうごく人の流れのなかで、スマホという便利な情報入手ができるツールの登場により、人と直接かかわらない状況で、頭のなかが常にデジタルな情報で溢れかえっています。

筋力とおなじように使われなかった能力は衰えていきます。自信の身体の感受性やそれを聞き取る能力も衰えていきます。すると、どういうことが起こるのかといえば、『鬼滅の刃』の全集中とは逆の結果がおこります。つまり、身体に秘められた力がなえ萎んでいくのに対して、意識が「今・ここ」にはないデジタル化された情報でいっぱいになり、常に過剰にはたらいてしまうため今、余計に身体の声をうけとる容量が埋まってしまうということです。

 これは人が何か行動をする際の動機にも関係してきます。自身の心・身体から生まれる気持ちや感覚から切り離されてしまえば、その人の行動の動機は、外から得られる他者評価や損得勘定といったものに置き換わっていくことになります。

自分のしたいことがわからない、関心がうごかない、元気がない、生活に生きている実感がない、といったことは現代の特徴だといわれて久しいですが、身体の声との親密な関係から、それからきりはなされた「脳中心」のライフスタイルに変化したことと密接な関係があるのです。

身体の飢え~脳中心の生活~

一人でいる時とは、だれかに気を配ったりしなくていい状態であり、言い換えれば、あるがままの自分である時です。そして、あるがままの自分とは肉体であり、心・身体です。

わたしたちは、コロナ禍により、一人でいる時間が増えたわけですが、あるあるがままの自分でいる時間が長くなってくると、あることが問題になってきます。コロナ禍により「みんな」と足並みをそろえる圧力が一時的になくなると、かえって何をしていいのか分からない自分に直面するという問題です。自分自身に「何がしたいの?」と問いかけても返答がかえってこないわけです。

現代人について養老孟司氏が「脳中心」といったのは、自意識が自身の心・身体をきりはなしてしまっていて、自意識が独裁者のように心・身体を無視して見下すようにふるまっているということです。 『鬼滅の刃』が舞台とする大正時代に比べ、現代の都市生活では、土や自然に触れる機会そのものが、ほんの100年あまりで激減しました。日本特有の季節の風土や風情に根差しして生きるある種の安定感が失われ、「脳中心」の「今・ここ」はない心配事や脳内でつくられた「あるべき姿」ばかりがあくせく空回りしつづける環境下にあるのです。

そんな現代の反響のように『鬼滅の刃』の世界では死は日常的にでてきます。その背景のなかでいま・ここにある心・身体を尊重し信じ引き立てることで、「生」を全力で生きている炭次郎たちが浮かび上がり輝かしく映る。わたしたちは、『鬼滅の刃』の中に、日常で切り離してしまっている、人間の生きている心・身体、つまり、日常で切り離してしまっている「私」自身をみいだして、「生」への飢えを満たしているのではないでしょうか。

一人でいる時とは、だれかに気を配ったりしなくていい状態であり、言い換えれば、あるがままの自分である時です。そして、あるがままの自分とは肉体であり、心・身体です。


わたしたちは、コロナ禍により、一人でいる時間が増えたわけですが、あるあるがままの自分でいる時間が長くなってくると、あることが問題になってきます。コロナ禍により「みんな」と足並みをそろえる圧力が一時的になくなると、かえって何をしていいのか分からない自分に直面するという問題です。自分自身に「何がしたいの?」と問いかけても返答がかえってこないわけです。なぜ、こんなことになるのでしょうか?

次回は、このあたりから探っていきたいと思います。

お付き合いありがとうございました。

参考文献

「アニメ『鬼滅の刃』」

[原作者]吾峠呼世晴週刊少年ジャンプ』(集英社

[監督] 外崎春雄

[シリーズ構成・脚本・アニメーション制作] ufotable

[企画]アニメプロデューサー アニプレックス 高橋祐馬

[製作]アニプレックス集英社ufotable

[放送局] TOKYO MXほか

劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編公式サイト

「死の壁」

[作者] 養老 孟司

[発行者] 佐藤 隆信

[発行所] 株式会社 新潮社

「自由からの逃走」

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 日高 六郎 

[発行者] 渋谷 健太郎

[発行所] 株式会社 東京創元社

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