『寺山修司とポスター貼りと。』ブックレビュー

BOOK REVIEW

こんにちは、matsumoto takuya です。今回は笹目浩之さんの著書『寺山修司とポスター貼りと。』のブックレビューです。

この本との出会いは偶然で、たまたま見つけた寺山修司さんのイベントぶらっと立ち寄った際に陳列されていたのを見つけて、なんともなく手に取ったというものでした。それまでは笹目浩二氏も、さらには寺山修司氏のことも全く知りませんでした。

こういう時に、わたしの頭の中で軽く葛藤が巻き起こります。全く世間に知られてない人、別に興味があってきたイベントでもない、全然おしゃれじゃないし、ポスター貼りなんてわたしの人生になんの役にもたたなさそうだし、なによりお金がかかる、という考えと、偶然にみつけてなんか気になるなーという心がかるく対立するのです。

こういう時、わたしはできるだけ後者を選ぶようにしています。わたしは人様に自慢できるほど成功体験は恐ろしいまでにないのですが、失敗経験は豊富なので、こういう時どちらを選ぶとつまらない結果となるということは分かります。わたしは、少年時代からほとんど前者を選んできました。その結果は、他の人たちと同調するのには効果的だったのですが、自分の世界が全く育ちませんでした。虚しい。

そんなこともあって、できる範囲で、ささやくようにか細いほうの心の意見をとるようにしています。この本は、そうして手に取った一冊です

笹目浩之氏は主に演劇のポスターを貼る仕事を創出し、今では寺山修司記念館の副館長であり、寺山修司関連のイベントや、演劇のプロデュースなど多岐にわたる活躍をなされている方でした。そんな彼は、今のあなたの仕事は何ですかと質問されたたら胸を張って「ポスター貼りです」と答えるそうです。権威に媚びる癖があるわたしだったら、寺山修司記念館副館長や演劇プロデューサーという響きがよさげな肩書を言ってしまいそうです。

この本は、そんな彼がどうしてポスター貼りなどという特殊な仕事を創出するにいたったのか、そもそもポスター貼りは何なのか、そして、どうして権威がありそうな肩書を差し置いてはっきりと「仕事はポスター貼りです。」と言う個とができるに至ったか、といった内容が書かれています。全く「普通」ではない匂いがプンプンします。自分と社会の折り合いをつけて生きているひと、自発的に社会に突っ込んで活動している人のにおいです。

この本は、自分として生きたい人と思う方には是非おすすめの一冊にはお勧めの一冊です。

ここでは、彼がなぜ、主体的に活躍できるにいたったのかという点を少し探っていきます。

以下、少しだけ内容を含みます。

ポスター貼りの男の誕生 笹目浩之

なぜ、彼が主体的に活躍できているのか、という点を探っていくまえに笹目浩之氏の経歴をざっと紹介したいと思います。

彼は田舎の出身で、浪人生活に専念するために安い下宿を見つけ東京に出てきて一人暮らしをしながら早稲田大学を目指すも落ちてしまいます。他に受かった大学に通うも気持ちが全くのらず、通うのを辞めてしまいます。親に内緒で仮面浪人という形でもう一度早稲田を目指すもも、仮面浪人するためのバイトに時間をとられ、早稲田へのあこがれもドラマの影響程度だったので次第に熱が冷めていき、お金がかからない行きつけの喫茶店で過ごしたり、ぶらぶらするようになります。

その喫茶店で顔なじみとなった人が演劇好きで、その人に演劇に連れていかれて出会ったのが寺山修司の劇『レミング 壁抜け男』でした。それに感動し、演劇に熱中し、演劇に関係したことをしたいと思った心に沿うかたちで、寺山修司の関係者と出会っていき、劇のポスター貼りの仕事を頼まれて、紆余曲折を得て本業となったのでした。

ざっと、彼の経歴を眺めると、劇に感動し、劇が好きになり、好きなことに関わるように仕事を選んだというよくある筋書きで、ああこのパターンね、かれはラッキーだったね、とつい先走って思いがちです。

しかし、そこには大事な見落としがあります。彼はそもそも、わざわざ浪人のために東京で一人暮らしをするために安下宿を探したり、両親を説得したりと、自分の心に耳を澄ませそれに沿うようにしてその時にできることを実際に行為してきた点です。仮面浪人をしようと思い立ったりしている点も見逃せません。

確かに、彼の人生を決定的に方向付けたものは熱中できる演劇に出合えたからなのですが、そのような人生を左右する感動的な出会いをキャッチできる前段階のようなものを用意できる力が十分育まれていたこそ、その出会いが本物の出会いになったといえるのです。そんな前段階のようなものがもう一つあります。

追い立てられない暇な時間と無駄なこと

感動的な出会いをキャッチできる前段階のようなものの一つに、追い立てられない暇な時間と無駄なことを自分自身に用意できるかどうかというものが挙げられます。これは、世間でいう狭い「成功」を求めるタイプの人の努力をしない努力が必要です。

なぜこんな変な言いまわしになるかといえば、ここでいう世間でいう狭い意味での「成功」はそうしないといけないんだという無根拠な恐れからでてきたもので、その手の努力はしないではいられない駆り立てられた努力だからです。

ではその努力の中身は何なのかといえば、自分の感じ方、思い、考えまでをみんな同じになるようにすることです。人間の標準化とも呼べそうなものです。が、そうしないとなにか罪悪感と不安を感じ、逃げるように「何かしなきゃ」と駆り立てられてしまう。しかも、これは結構時間を取られます。

わたしたちは、この狭い意味での「成功」にとって役にたたないことをすることに、罪悪感を仕込まれているように思えます。この罪悪感のなかで、追い立てられない暇な時間と無駄な時間を自分自身に用意することは、ある意味努力がいるのです。

さて、自分を標準化するために、みんながやっていることを追い求めてしまうとそれだけで時間がつぶれてしまいます。そのうえ、「働かざる者食うべからず」という日本ではおなじみの世間体に脅されて仕事をしはじめると、ひたすら与えられた要求をこなすことに時間をつぶされます。世間から認められている、同調しているという安心感は得られますし、やることは増えていくので、まっとうな悩みにさえ感じないで過ごせるかもしれません。

それはそれでいいではないか、と思われる方がいるかもしれませんが、そうやって得られる「成功」に虚しさを感じる人もいるのです。なぜなら、その成功には「私の心」がないからです。

わたしたちはモノではなく人間なんですから。江戸時代の儒学者、貝原益軒は”志とは己によりて有するところ、別人に管するにあらず”(辻本雅史『「学び」の復権 模倣と習熟』岩波現代文庫)といっています。これは学びについてのスタート地点のことを言っているのですが、これは生きること全般に言えることだと私は思います。まず、精神的に自立した1人の人間にならなければなりません。

それに、そうこうしていくうちに、いろいろな責任だけが増えるので時間はあっという間に過ぎていきます。これでは、感動的な出会いには永遠に出会えませんし、自分の世界観が育ちません。自分の世界観とは自分の世界に対する何かへの関心であり興味であり愛です。自分の世界観が育たないとは、世界に関する無関心と同じことです。

世界観を広げていくこと、関心を広げて深めていくことで、感動できる出会いにつながるし、その出会いに気が付くことができるそして大事に思えるようになってそれが自分の方向性となる。というような流れの起点が世間的に無駄だと思われていることや暇な時間を自分に用意することなのです。

そういうわけで、笹目さんに動機を与えた演劇『レミング 壁抜け男』という運命的な出会いの前の、おもろいものはないかと自信の完成のアンテナをはってブラブラしていたことは大きな意味があったのではないかとわたしは思うのです。

しかし、これはなぜか異常な罪悪感を覚えます。もちろん誰にも迷惑をかけていなので罪ではないのですが、日本育つとこの価値観が以上に膨れ上がって自分に迫ってくるように感じてしまうのは私だけではないと思います。

人間を信じる勇気

この恐れが、わたしたちに、「あるべき姿」を次から次へと押し付けてきて駆り立ててきます。『鬼滅の刃』的にいえば「心の無限ラットレース編」状態です。

そのうえ、この恐れは主体的に生きたいと思い立ち、いざどうしようか右往左往している時にも容赦なく襲ってきます。ここではそれに負けない信念をもつ必要があります。それは人間の人間性を信じる勇気です。人間には自分も含まれます。人間の成長できる可能性を信じられる勇気を持つこと、それが、感動的な出会いの前段階に必要なもう一つの重要なことです。以下この人間への信用を信念と呼ぶことにします。

そうやって生きることはある種の心もとなさがつきものです。なんせ同調していたからこそ得られる孤独への鎮痛剤が得られないのに、肝心の信念が全くもって頼りない。だからこの信念を育てて大きくする必要があるということです。どうやって信念を深めることができるかは、実際にそうやって生きている人と出会い実際に目の当たりにするのが一番説得力があるように私には思えます。笹目さんの場合は寺山修司でした。

「人間」を信じていると「人間」と出会える

自分の人間としての成長を信じ生きようとする人は、社会で孤立してまうというような先入観がわたしたちにあります。しかし、笹目さんのエピソードは、そういう人は、同じように人間を信じて勇気を持って生きてる人の存在に気が付き、気が付かれ、そして惹きつけられる繋がっていくという事実を教えてくれます。自分を標準化しみんながいいと思っていることに同調しなくても孤立はせず、自分として社会のなかで自発的に活動している志を持った他の人に出会えるのです。

そうゆう自発的なつながりによって信念を持てた人は社会と再び結び付けらるということです。ロボット的人間関係、利害関係者だけではなく内実がある関係がそこにはあるんですね。

別の角度から見れば、心もとなさを背負っていきているからこそ、同じように人間を信じて生きている先人や言葉に気が付けます。笹目浩之さんは、寺山修司の劇『レミング 壁抜け男』に感動したそうですが、若き日の笹目青年が自分を信じて勇気をもって試行錯誤をしてきて、自分なりの問題意識を育んだからこそ寺山修司の内実あるメッセージが響いたのではないでしょうか。このメッセージが偽物か本物かは心がなければ判断できないものです。

なぜ彼の本がおすすめなのか

話を信念に戻します。信念を深めるには、実際にそうやって活動している人と出会い見習うというほかに、いろいろな方法があると思います。その中の一つが、そうやって生きてきた人の何らかの創作物に触れるということがあります。本はその中でも代表格です

信念をもって社会と折り合いをつけて実際に生きている、もしく生きた人が人が自分と同じように悩み、時に弱気になったりしたのだということが分かるとほっとしますし、その後の展開を読むことで、お先真っ暗のようにしかみえなかったその先のイメージが自分の中に「痕跡」として残ります。

自分が弱気になりやっぱ同調欲に駆られている時、「世間」に服従するのが正しいという刷り込みを信じるのか、(自分)人間の可能性を信じる信念の二つの考えが綱引きしているような心の状況にあるということができます。そういうときにこの「痕跡」は信念をもつ味方となってくれるのです。

笹目浩之さんの著書『寺山修司とポスター貼りと。」は、まさにその「痕跡」得られる内容のある一冊でした。冒頭でわたしが、自分として生きたい人と思う方には是非おすすめの一冊といったのはそういうわけがあったのです。

以上、「『寺山修司とポスター貼りと。』ブックレビュー」でした。おつきあいありがとうございました。

参考文献

『寺山修司とポスター貼りと。』

[著者] 笹目浩之

[発行者] 角川文庫

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