『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その3 『鬼滅』我妻善逸からみるマイノリティ思考

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こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「『鬼滅の刃』からみる人生を後悔しない方法」をおおくりします。

前回の投稿で、すっかり自分のしたいことがわからなくなり、自分を見失ってしまった「鬼」状態からいったいどうやったら脱却し、自分らしさを取り戻したらよいのだろうか?という問いを探っていくなかで「理にかなった信念」というキーワードと出会いました。

今回は、自分らしさを取り戻すために必要になってくる「理にかなった信念」を深めることとは一体何なのか、『鬼滅の刃』にでてくる炭次郎や我妻善逸をみながらを詳しく探っていきたいと思います。

では、さっそくいってみましょう。

『鬼滅』我妻善逸からみるマイノリティ思考

「理にかなった信念」を深める

では、どうやったらそのような「理にかなった信念」をもてるのだろうかという疑問がうかびます。「理にかなった信念」の中身である「信じる」ということは、外的な指標がないということです。貸したお金を返してくれるかどうかを、その人がお金がもっているかの外的条件を指数でマニュアル化したクレジットカードの審査、銀行のローンで使われるような「社会的信用」とは異なります。

「理にかなった信念」とは、「みんな」が認めているからとか、外的に与えられた資格があるから信じるという種類の信用ではありません。自ら感じたものから自分で考えたものや、経験と知識が一致することから得られる「腑に落ちた」理解によってえられる種類の信用です。

また、何らかの既存の考えや意見に対しても、鵜呑みにするのではなく、自らの経験と照らし合わして「腑に落ちる」部分とピンとこない部分を見分け吟味し、「ああ、これは確かに本当だ」と納得できたものから構成されています。

今まで便利な多数派の考えを要領よく取り入れてきた人にとっては、人によっては自覚的ですが、多数派の意見と自分の意見を混同している人も少なくありません。要領がいいとは、試行錯誤にかける労力を省くことを意味し、ほぼ無批判でとりいれるため、このような状態になりやすいのです。最近は、あまりに専門知識が分化し特殊になっているので、ごまかしやすいのですが、他人の借り着ではなく、自分の内なる言葉によって認識を深めていく作業なしでは信念はいつまでも深まりません。

例えば、気になっていた絵画の展覧会に行ったときに、まず解説をみないで、自分で見てどう感じ思うのかというのをしっかり味わい、自分の「いいな」と感じた部分は、たとえ解説とは違っていても「いい」と信じる。人は、認知バイアスという既知の情報に引っ張られてしまう性質をもつので、最初に玄人の意見を読んでしまうと視野が誘導されてしまいます。これでは自分で発見した喜びの機会が得られませんし、その意見を盲目的に取り入れちゃうわけで、これでは「信念」は深まりません。スノッブ(センスある人)は気どれても、センスは磨かれません。

ピンとこない部分へは、ありえないとするわけではなく保留する形をとります。このとき、なぜだろう?といった心からでてきた疑問がさらに世界とつながる結び目となってくれるので「理にかなった信念」を深めていく大切な動機をあたえてくれます。

この例で挙げた感覚や感性にかかわる美への感性は、教わるものではなく味わうことで磨かれ、自らのうちに蓄積され身についていきます。そういうことを繰り返していくと自分のなかで美への「理にかなった信念」、つまり審美眼がみがかれていき、キュレーターの解釈から自由になります。

対話する能力の土台

これは他人の意見を突っぱねるというものとは異なります。むしろ、自らの審美眼が育まれたことで、他者の審美眼に対して、自分との違いや距離感のようなものに気がつけるようになります。それが、好奇心や疑問といった対話をするための前提である、「知りたい」という気持ちの種となります。「理にかなった信念」を深めることは、価値観が異なる人を排除するわけではなく、先入観や思い込みにより狭くなった視野を広げていくための土台となります。

精神科医で対話を軸に精神療法をしている泉谷閑示氏は、多くの人が、「価値観の違う人とは会話をしたくない」と思ってしまう理由の一つをこう述べています。

「理解する」ことと「同意する」ことを、なかなか私たちは区別できずに、「わかる」という言葉のなかに渾然一体に放り込んでしまっています。この区別がついていないために、「同意」したくない場合には、人は「理解」しようとする作業をも放棄してしまうのです。

泉谷閑示『こころをひらく対話術 精神療法のプロが明かした気持ちを通わせる30の秘訣』:ソフトバンク クリエイティブ株式会社:62項

「理解する」と「同意する」ことを区別することで、「同意」できなくても「理解」のコースがちゃんと残るので対話が閉ざされるわけではないのです。「同意」を切りはなして「理解」をめざして聴いていけば、意外な発見やまさかの共通する価値観の発見もありえます。そしてこの区別をしながら対話をすすめるには、基地となるとなる「私」がしっかりしている必要がある。つまり「理にかなった信念」が深まっていることを前提としているのです。

「理にかなった信念」を深めていくことは、異なった意見をもつ人との対話をするために必要な、「私」という土台を構築する作業なのです。

漫画化・文筆家のヤマザキマリ氏は、思い込みで決め込むことについてこう言っています。

人というのは、どうしても自分の見たいように、思い込みたいように、解釈したいように他者を捉えようとする。だから自分の想定した規格に合わない人物が現れると、対処に戸惑い、苛立ちを覚える場合もある。そうした視の振り幅を極力しぼった狭窄的なものの見方は想像力を怠惰にし、いじめや戦の発生の起因にもなりかねない。

社会的な立場や役職でその人となりを決め込むのは楽だが、それに慣れてしまった社会がバランスを崩すのは歴史を振り返れば一目瞭然である。思い込みどおりではないものも受け入れられる社会と人間の成熟は、想像力の修練なしではあり得ない。

ヤマザキマリ『多様性を楽しむ』昭和に学ぶ明日を生きるヒント 小学館新書:184項

日本は宗教が強制されていない国なので、倫理は世間が担っているのが実情です。自分がない状態では、世間のおしつける「あるべき姿」やステレオタイプのイメージに服従することになり、必然的に、「社会的な立場や役職でその人となりを決め込む」視点が強化されてしまいます。「思い込みどおりでなないものも受けいれられる」には想像することができる「私」が必要です。

一見矛盾しているようですが、日本社会で増し続ける生きづらさ、不寛容への処方箋が、じつは、一人一人が「理にかなった信念」を深めて、自分に責任をもって生きてることなのです。

クリティカルシンキング・批判的思考

「理にかなった信念」を深めていく過程は、クリティカルシンキングと呼ばれる思考法と同じです。

クリティカルシンキングは批判的思考と訳されることがあるので誤解されやすですが、相手の意見をなんでも批判し否定するというという意味ではなく、自身の推論過程(考え)もふくめて、証拠や経験に照らし合わせて、意識的に吟味する内省的な思考方法のことをいいます。内省や対話によって自身の考え言葉によって深めるなかで、これは本当に自分の気持ちなのか、それとも知らず知らずに自分だと思い込んでいた「あるべき自分」なのかを「ほんまいな」と自問自答して再確認することで、考えの質を高められます。

権威や管理する側からあたえられ鵜呑みにしてきた情報、多数派というだけで実は妥当性があいまいなものへの信仰にも近い信用が「根拠なき信念」です。「あるべき自分」といった「根拠なき信念」たいして、おおよそが本当に自分の考えであると思い込んでいるらこそ、クリティカルシンキングは有効です。

クロワッサンの断面図、中央にハートマーク、クロワッサンの幾重にも重なる層を認知バイアスに例えてている。

「理にかなった信念」を深めていくことは、無機質な知識を、自らの感覚・感情経験とを結びつけることで認識を獲得していくことである、と言いかえられます。身になっていない情報は柔軟性にかれるため人を縛りますが、認識は人を自由にしてくれます。いまは正しいと信じているが、必要であるならばその考えに「ほんまかいな」と問をいれることで、バージョンアップできるゆとりがあるからです。

これを繰り返すことによって、いままで「世間」や「普通」、「みんな」といった多数派だからということで鵜呑みにしていた情報、その見方に縛られていた状態から、その情報を吟味できる自分が確立されていきます。なにより、自分の気持ちが表現された言葉や思い、考えは、よそからとってつけた考え思いよりも「重さ」をもち、聴く側に説得力を感じさせます。

心の声を遮っていたもの

少しずつ、絶対的なものだと思い込んでいた縛りが減っていくということは、意識と心・身体の間に何重にもなって重なっていた「ザ・あるべき姿」がのけていくということです。すると、心の声が聞き取りやすくなっていきます。

わたしたちは、言葉によって認識を獲得する不思議な存在です。この言葉という道具の獲得によって、ヒトは他の動物を圧倒できるにいたったことからわかるように、言葉はわたしたちにとって重要で強力な道具です。しかし、この言葉に「根拠なき信念」のような余計なイメージまでもとりこんでしまうのもまたヒトなのです。

泉谷閑示氏は「言葉にくっついているある世俗的な価値観をはがすこと」の重要性をこう言っています。

一度ある言葉を獲得してしまうと、その言葉についてじっくり考えたり、そこにどんな手垢がくっついているのか、人々はこの言葉をどんなふうに使っているののか、それは真実からどれだけはなれているだろうか、そういうことを吟味せずにただただ使ってしまいます。お金と同じです。ですから、言葉と一緒にある価値観、すなわち言葉の手垢が自分に入ってきてしまっていることに気付かないでしょう。しかし、それが後々、物事をみたり判断したりする上で大きな影響をおよぼすようになるのです。それを思うと、言葉を不用意に扱うのは、実はとても恐ろしいことでもあるといえるでしょう。

ですから、物事の真の姿を見るためには、「言葉という道具」一つ一つについて、付着している手垢を一度洗いなおしてみることが、欠かせない作業になってくるわけです。

泉谷閑示『普通がいいという病』講談社現代新書:39項

 「物事の真の姿を見るためには、「言葉という道具」一つ一つについて、付着している手垢を一度洗いなおしてみることが、欠かせない作業になってくる」という意見は重要です。例えば「普通」という言葉については多数派という言葉が結びつき、「多数派」は「正しさ」や「正常」という言葉と結びつきますが、「多数派」イコール絶対的な「正しさ」ではありませんし、「普通」イコール普遍的な「正常」というわけでもありません。

いままで多数派だからと妄信していた内容を改めて検討し、自らの経験とつながった認識に深めていくことは、「手垢」を落とした言葉を再獲得することでもあります。その過程で、自分がの気持ちを理解する精度があがり、「能動にみせかけた受動」ではなく、「私」からうまれた動機に育っていきます。

狭霧山での修行の本質

他人の借り着で鵜呑みにしていた考えを、自ら感じ思ったことを吟味しなおしたり、たとえ稚拙な内容であってもの、自らの心・身体の声と合致した自分の言葉にしていくこと。この過程で、今まで放置してすっかり縮んだり途切れてしまった「私」が息を吹き返してきます。これが多数派の洗脳ともよべうる「根拠なき信念」という呪いを解き、「理にかなった信念」を育てていくことの中身です。

ここで『鬼滅の刃』に戻ってみましょう。

この「理にかなった信念」を深める過程は、主人公の竈戸炭次郎が狭霧山で鱗滝左近寺の監修のもとおこなった修業と本質的な意味で同じです。ひたすら心・身体の声を聴きとろうとすることで、ながらく放置してしまいすっかり心・身体の声からズレてしまったチューニングを合わることで、自身の本来の能力を素直に引き出せるようになることを目的にしている点で同じなのです。

それまでは、自意識が心・身体を「コントロールする」という一方的な関係であったものを、心・身体を主人に理性が補佐役として支えるという協働の関係へ移行するわけです。これが、健全な自己愛がある状態の人間の中身です。

生きることの主役はなんといっても、今、ここに生きている替えのきかない心・身体を持った「私」です。この「私」という主役を張るために「理性」が重要になるのであって、「理性」が目的になって「私」そのものである心・身体を下僕のように扱うのはそもそもが本末転倒なのです。

汝自身を知れ~言葉にする~

この言葉は、デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言として有名です。古代ギリシア人はどこか抜けていたのかな、と思う人もいるかもしれません。しかし、ほんとにそうでしょうか?感動したドラマの内容を誰かにつたえようと、SNSやブログに書こうとしたり、だれたに言葉でつたえようとしたときに、自分が思っていたよりも感動を表現できずにもどかしい思いを経験した人は多いと思います。普段わたしたちは自分が自分のことを一番分かっているように思っていますが、わかったつもりになっている、というあたりがリアルなところではないでしょうか。

そう考えると、自分自身とは、自分のなかの「内なる他者」とも呼べる存在であると言えます。例えば、なにかを喜ぶこと、悲しむこと、楽しいと感じるといった感情は、我慢はできても自分の意志で生み出すことは出来ません。そういう演技しかできない。自分が自の声にひたすら耳を傾けるということは、この自分にとって一番身近な「内なる他者」を尊重する、ということにほかなりません。

自分の自身への態度と他者への態度が一致するという心理的前提がある、ということを自己愛のくだりで紹介しましたが、自己愛はこのように「内なる他者」である自身を尊重することを日々の生活で実践しています。そのため、尊重する能力が鍛えられ、他者への尊重する能力も自然と引き上げられるわけです

それとは反対に、自己愛が不足している人は、「内なる他者」である自身の心・身体に耳を傾け尊重するどころか、「あるべき自分」になるように下僕のようにコントロールしているので、他者にたいしても尊重ではなく、ついつい自身への態度と同じように、傾聴することがでなかったり、「あるべき姿」を押しつけたりといったコントロール指向になってしまうわけです。

鬼舞辻無惨が身内の鬼に「呪い」を仕込み手綱をはなさないのと同じように、信じられないと理性はなんでもコントロールしようとしてしまう性質をもっています。


「自分を知る」ということは、人がみな異なる個性をもっていることから、マニュアルはありませんし、だれも代わりにはなれないので、古今東西、簡単には手に入れられないものの一つです。進路選択や就職の際に自己分析が苦手だった人は少なくないのではないでしょうか?

この、つかみどころのない「内なる他者」を、知ることができるようにしてくれる道具が言葉です。言葉という道具は、世界に定義を与えることで漠然とした世界から対象を切り離し、わたしたちに認識を可能にさせてくれます。心にのこったこと、腹がたったこと、もやもやしたことといった感情やそこから生まれる思いを適切な言葉に当てはめていく作業をとおして、つかみどころのないものに輪郭をあたえ可視化する。言葉にしてはじめて、自分はこんなことを感じていたのか、思っていたのかという自分の気持ちに気がつけるようになったり、言葉にして自覚したことがきっかけとなって、過去にしまいこんでしまっていた感情が連鎖的にでてきたりします。

 「自分を知る」のに望ましいのは、相手の好みにすり寄らないでいられる信頼できる人との会話なのですが、仲がいいからこそ、もしくは尊重し配慮したいからこそ、話せないないような内容の場合も多いでしょう。そういう場合は、書くことをおすすめします。これを内省といいますが、内なる他者との対話も立派な対話の一つです。

コピーライターの梅田悟司氏は著書、『言葉にできる」は武器になる。』でこういっています。

 では、自分の意見を述べる際に、実際に知っていなければならないものとは何だろうか。
 それは自分自身の気持ちであり、意見にほかならない。
 そのため、いざ自分の意見を語ろうとしたとき、頭に浮かんだ言葉をその場で組み合わせながら話そうとしても、理解を得られないのは当然の結果と言える。
 必要なのは、「内なる言葉」として現れる考えを深く知る以外にない。
 漠然と考えるだけで終わらせることをやめる。そして頭に思い浮かぶ断片に言葉というかたちを与え、組み合わせ、足りない文脈をくわえるプロセスを行いたい。この繰り返しによってはじめて、内なる言葉は鮮明なものになり、地層が上がるように思考に厚みが生まれていく。

梅田悟司『言葉にできる」は武器になる。』日本経済新聞出版

とりあえず、自分と向き合う時間を創り、自分の気持ちを書き出すことをしてみることが重要です。例え断片的なものしか言葉にできなくても、意識的に自身を知ろうとし、耳をかたむける姿勢をとっていることは、すでに経験となってその人の内省力を向上させています。梅田氏は「最初から大きな効果や変化を求めてはならない」ともアドバイスしています。急がば回れではないですが、完璧にやり遂げるというよりは、肩肘はらずに耳をかたむける姿勢を長続きさせることのほうがよっぽど効果を発揮してくれます。他者との関係とそこは同じです。

自分のなかでモヤモヤしていることがあって仕事や大事な人に集中できなかったり、仕事に身が入らない、長続きしない、自分のしたいことがわからないといったことで悶々としている人には、梅田氏の『言葉にできる」は武器になる。』(日本経済新聞出版)は、考えが煮詰まらないような工夫が紹介されており、おすすめの一冊です。

カオナシと諸刃の剣

早稲田大学名誉教授の池田晴彦氏は、これからの日本で必要になってくる能力をこう言っています。

 その点は経営者だけでなく従業員もたいして変わらない。個性を発揮して会社の営業に貢献するというより、上にいわれたとおりに一生懸命働けば、マイホームを買って平均的な幸せが手に入るという、従来型の思考パターンから抜け出ることができなくなった。

 そうやって企業も労働者も一体となって転落の道を進んだわけだが、こうした思考パターンから抜け出せないのは、さっきも話したように教育の画一化の弊害だ。自分の頭で考えずに、上の言うことをよく聞くだけの人材は、一見、経営者にとっては都合がいいように思えるかもしれないけれど、企業の戦力としては完全に不必要で、雇用としてお荷物になることが目に見えている。グーグルなどの企業を見ればわかるが、イノベーションをもたらすアイデアは場所も時間も選ばない。もはや単なる勤勉は評価されず、いかに画期なアイデアを出すかだけが勝負となってくる。

 そういう時代にマジョリティーにつく人が幸せになれるとは思えないよね。結局は単純労働するしかなくなる。ではどうすべきか。さまざまな意見を認め、情報を集め取捨選択し、そして自分の頭で考える。

 そう言ってみれば、マイノリティの思考をもつということだ。

池田晴彦『自粛バカ』:発行所 株式会社 宝島社:158項

  「マイノリティの思考をもつ」という過程は、自分の世界観の再構築もしくは、主体の再確立と同じ内容です。うのみにしていた多数派の意見や、「世間」から与えられた視点で世界をみていた状態から、「さまざまな意見を認め、情報を集め取捨選択し、そして自分の頭で考える」「私」の視点を再獲得していく作業をいいかえたものが、「理にかなった信念」を深めていくことなのです。これは、すでに多数派の視点は獲得できているので、自閉的になるのとは意味が全く違います。

「理にかなった信念」についてもうすこし見ていきましょう。

この深められた「理にかなった信念」は、思考と判断力の母体となるだけでなく、どんな友情や愛にもかかせない特質であるとフロムは書いています。

他人を「信じる」ことは、その人の基本的な態度や性格や人格の確信部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。

・・・同じ意味で私たちは自分を「信じる」。私たちは自分のなかに、ひとつの自己、いわば芯みたいなものがあると確信する。どんなに境遇が変わろうと、また意見や感情が多少変わろうとその芯は生涯をつうじて消えることなく、変わることもない。この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。自分のなかに自己がしっかりとあるという確信を失うと、「私は私だ」という確信が揺らいでしまい、他人に頼ることになる。そうなると、「私は私だ」という確信が得られるかどうかは、その他人にほめられるかどうかに左右されることになってしまう。

エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:183項

フロム・・・エーリッヒ・フロム・・・20世紀を代表する社会・心理学者。近代人の自由と孤独を社会心理学から考察した。著書で『愛するということ』が日本でリバイバル中

「理にかなった信念」をふかめる作業は、自分にぺたぺたとくっつけてきた不純物である借り物の考えを剥がすことであり、それは「私」の中の「芯」を掘り当てる作業という側面もあわせもちます。そして、「私」には「芯」があるのだという腑に落ちた認識が、同じように他人のなかにも「信じる」に耐えうる「芯」があるという認識へと通じていきます。

 『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』に抜かれるまで映画興行収入の一位であった宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』(スタジオジブリ)では、他者の人格・やり方を表面的にとりこむ「カオナシ」というキャラクターが登場します。「理にかなった信念」を深めることは、ちょうど「カオナシ」が行ったことと逆のプロセスです。「顔」とは個性の例えとしてよく目にします。カオナシの要領よく他人の個性やり方を要領よく取りいれる能力は、現代の社会で成功を手に入れるには有利で便利な能力かもしれません。しかしその能力は、わたしたちのなかの「芯」である「私」を見失う側面を併せ持つ「諸刃の剣」でもあるのです。

先ほど登場してもらった梅田悟司氏は、自分の本当の気持ちを言葉にできるようになることをすすめる理由をこう述べています。

 こうした本当の自分に丁寧に向き合うことこそが、外に向かう言葉に変化をもたらすことだけで
なく、今後の人生を変えていくことになる。
 さもなければ、「こうしなけらばならない」といった本当の気持ちではない「あるべき自分」から発せらる建前が先行し続けることになる。こうした建前を突き破ることができなければ、あなたの意見はいつまでもどこか借りてきたようなものになってしまい、迫力も説得力もないものなってしまう。

梅田悟司『言葉にできる」は武器になる。』日本経済新聞出版

誠実さが信頼の礎でああることはだれでも知っていることです。しかし、梅田氏も言うように、「「あるべき自分」から発せられる建前を」「突き破ることができなければ」相手に信頼を理屈でではなく、はらから感じさせてあげることはできません。フロムが「愛するということ」は個人的な能力を高めることなくしてあり得ないというわけがここにあります。

わたしは「カオナシ」を見るたびに、処世術としてとりいれた建前である「あるべき自分」を自身にとりいれているうちに自分を見失っていき、器用にふるまうも内心は虚ろで、腹から他人を信じることができず、それゆえどうしても表面的関係にならざるおえない、わたしたち現代人の姿がどうしても頭に浮かんでしまいます。

我妻善逸からみるマイノリティ思考

「アニメ『鬼滅の刃』第十三話『命より大事なもの』」では、「他人を「信じる」」という態度が我妻善逸の言動からみてとれます。

炭次郎の不在時、炭次郎と面識がない鬼殺隊の一員である嘴平伊之介(はしびらいのすけ)が木箱に入った炭次郎の妹であり「鬼」になってしまった禰豆子の存在に気づき、鬼殺隊として「鬼」の禰豆子を殺そうとしたとき、同じ鬼殺隊である我妻善逸が止ようとする場面です。  

・・・俺は、自分が信じたいと思う人をいつも信じた。鬼殺隊でありながら、鬼を連れている炭次郎。でもそこには必ず事情があるはずだ。それは、俺が納得できる事情だと信じている。

・・・「炭次郎、、、俺、、、守ったよ。お前がこれ、、命より大切なものだって、いってたから。」

『鬼滅の刃』第十三話『命より大事なもの』より引用

彼は炭次郎と再会した際に、鬼殺隊である炭次郎が「鬼」を連れていることに気が付いていました。鬼殺隊員は「鬼」を殺すことが仕事であり、「普通」ではないありえない事態です。しかし、彼は自らが実際に接した炭次郎から得られた印象から、「炭次郎は信じられる奴だ」と判断し、たかをくくらず、ありえないと決めつけないで、その「普通」ではない状況にたいする判断は、炭次郎の話を聞くまで保留しよう、と決断したわけです。その「信念」のもと、かれは身体を張って炭次郎の「命より大切なもの」を守ったのです。これが、クレジットカードの発行の際にもちいられる「社会的信用」とは異なる種類の「信じる」ことです。

もちろん「理にかなった信念」も持つことは、まだ関係性を築けていないどのような他人にたいしても無条件で100パーセント信用するということではありません。完璧な人間、完全な聖人君子はこの世にいません。自身の経験にもとづいて判断した、信じられる程度で信じるということです。

我妻善逸が炭次郎を信じることができたのは、自らの感覚を信じて観察し、炭次郎という人物を信用に足る人物で、しかも相当に信頼できる人だと判断したからです。自分がこの人は少し怪しいな、とか、まだわからないなと感じ判断したなら、無理して心を完全に開く必要はないのです。もちろんマナーは欠かせないことに変わりはありませんし、フルオープンができるような強さが欲しいところですが、超人ではないわたしたちには、等身大のオープンマインドが必要です。

閉じた組織に長居すると性格が歪むわけ

この我妻善逸の行動には、人格が何たるかが如実に表れています。信頼するということも、正義について行為すること、そして愛するということも実は集団に属する能力ではなく、個人の領域に属する能力であるということです。 

精神的な価値において、信頼や正義はそれ自体は価値をもっていません。コスパがいい、お金のため、他人ウケのためでもありません。わたしたちはそれを喜ぶから価値ありと判断しているのです。わたしたちが、なにか良いと思うのは、それが良いと評価されているからではなく、それを喜ぶからです。精神的な価値は、それ自身では意味を持っていませんが、個人にどうふるまうかの方向性のようなものを与えてくれます。「私」を見失っているということは、この精神的な価値を見失っているということです。その場合、自分の行動の動機がその他の価値、例えば、経済的な価値、もしくは集団が決める価値や慣習になってきます。

組織内で、ハラスメントや個々人の倫理が問題になるとき、組織のトップは「コンプライアンスを強化します」と、お決まりの文句をくりかえします。しかし、個人の権利が問題になっている場合、上からの命令であるルールやマニュアルによる強制では根本的な解決はできません。同じように、ネグレクトといった子どもの意志への配慮ができない親にも同じことが言えます。

なぜなら、これは個々人の人格にある「モラル」が問題だからです。ルールやマナーがタッチできるのは、あくまでドライな表面的な行動であり、個々人の内面まで強制はできません。「私」であること、「尊重すること」、正しくあろうとすること、に精神的な価値が見出せていない人間に、いくら集団からの評価で説教しても馬の耳に念仏です。処世術的なポーズとしてとりあえず具体的に禁止された行為をしぶしぶ我慢することしか期待できません。ハラスメントや虐待が違うかたちで繰り返されるだけです。

マナーはルールの一種です。マナーやルールは集団に属する領域にあり、それに対して、モラルは個人に属する領域にあります。問題がいまいちしっくりこないのは、日本では、この二つのことなる意味をもった言葉が混同されているところにあります。例えば、「あの人は礼儀が分かっていない」という言葉を考えてみると、処世術的なマナーが守れていない、という意味でも、マナーはしっかりあるのだが人間として酷い奴だ、という意味でも通じます。同じことが道徳という言葉にも言えます。

ルールは個人に強制できるが、モラルは個人に属する精神的な価値なので強制はできない。これが政教分離という社会の基本原則なのですが、守っていないというよりは、その意味の理解があやふやになってしまう点が、「私」を実質的に表現することを許さない日本社会で「適応」した弊害の一つといえます。

モラルが実際に行動に移されるには、信頼や、正義、尊重、「私」であること(人権)、愛といったものを、その人が個人的に喜びを見出しており、保身や利害のなかで目をつむりたい誘惑があるなかで、それらの精神的な価値を守るための行動にうつす決断ができなくてはなりません。つまり、主体が確立されて自発的に行動できるまでに成長・成熟した「私」を必要とします。

ハラスメントが「普通」となっている古い体質の組織や閉鎖された村のような環境にいる人は、「私」を犠牲にして「世間」や上下関係に服従することが「大人になることだ」と言われてその集団に適応した人たちです。「私」を犠牲にさせておいて、海外の先進国の人権ランキングや、ハラスメントの被害者の告発というような、外圧が強まったからからこうしなさいと命令されて、「はいそうですか」とすぐに「私」という主体を確立できるわけがないのです。

人の権利にかかわる問題は、その社会にいる一人一人が、精神的に自立でいているかどうか、「私」として社会で活動できるまでに、社会が成熟できているかどうかの問題です。概して、「世間」や「普通」、「みんな」といった「匿名の権威」に同調・同化することを余儀なくされ、古臭い権威主義が根深い日本の環境では、もともと法令は厳しく設定されていますし、私的な領域はグループからの村八分的な制裁もこわいこともあいまって、個人がすっかり委縮してしまっています。

画一化され閉じた価値観、上下関係をいまだに押し付ける人間が多数派を占める組織や社会の環境が、精神的な価値のもとに行為できる「私」を委縮させることで、信じること、尊重すること正義を実行する能力も委縮させてしまうのです。彼らは、表面的なルールやマナーに異常にきちっとする外見とはうらはらに、「私」という人格主体が犠牲にされているため、組織がずれた慣習、行動をしているばあいは渦中にいる人は自覚できないわけです。

脱「鬼」化は社会貢献

問題の本質は、現状の社会の規範が「私」を自粛にすることを含んでしまっている点です。「私」を犠牲にすることを踏まえたうえで仕事をすることが「大人になることである」、「一人前の社会人である」という誤解です。第5章で「市民の責任」のくだりで触れましたが、わたしたちが無知で不完全な存在であり、現実が不条理にみちているなかで、できる範囲で活動していくことが避けられないとしても、その不条理や混乱の原因にめをつむどころか肯定してしまうことは、社会がまともに機能するために個々人に課せられた市民の責任の放棄となってしまいます。責任を果たす能力がない無知で無力な存在は「大人」ではなく子どもでしょう。

外から与えるという方法では、「いい子」を演じている子供のようなわ我慢がいいところで、その場しのぎでしかありません。自分がかつて上からされた理不尽を自分が下にしないように上から命令され、自発的にではなく受動的に従うことは、個々人にフラストレーションをため込ませ、結果、社会に閉鎖的な鬱屈したムードを還元するのが落ちでしょう。地道ではありますが、この手の問題は、社会のなかの個人の質をたかめることが解決の道筋だと思います。

そもそも、なぜ、閉鎖的な社会、パワーハラスメント・モラルハラスメント等々の圧制や、それに屈した日和見主義、「世間」に同化服従し、村八分にすることが避難されるかといえば、人間が、他者との会話や相互理解をとおして自己認識する言語的な存在だからです。

「自身の継続的なアイデンティティー」について、重要なことが書かれているのが次に引用した文章です

 間違ったひとことが鞭や侮辱に結びつきかねない状況で、そもそも誰が話そうなどと思うだろう。

 話す時間に寝ることができるなら、だれが話そうなどと思うだろう。人の個人性を奪う手段は、髪型を統一し、同じ服を着せ、全員の名前のない集団にすることのみではない。互いに個人としてかわすことのできる会話の欠如もまた、個人性の喪失につながるのだ。実際、会話が不可能な理由はあまりに多い。極度の疲労、会話に必要な体力の欠如、恐怖心を克服する難しさ、といった問題もあるが、それ以前に、単に会話の仕方を忘れてしまうという理由もある。そしてなにより、主体性をなくしたという感覚。

 どうやって「私は」といえばいいのか?誰が言うのか?誰に言うのか?

・・・・

 ハンナ・アーレントが「人間的なことがらの絡み合い」と呼ぶもののなかで―――すなわち他者と会話や相互理解を通して―――自己認識へと至る言語的な存在である我々は、他者から個人として認識されることを必要とする。我々の認識は、孤独の中でひとりでに成立するのではなく、他者とのつながりややりとりによって形成されるものだ。そして、他者とのつながりの中で、他者によって認められるのは、人間としての尊厳でさえない。尊厳以前に、自分の「自我」を自覚し、理解するというそれだけのために、人は他者を必要とするのである。

・・・・

つまり、自信の継続的なアイデンティティーが証明され、確認され、問われるのは、他者との会話においてなのだ。他者との会話によってはじめて、体験したことを理解し、それを経験として形式化することが可能となる。人間のあらゆる特性や相違点、類似点、多様性―――すなわち個人性―――は、他者の承認または拒絶をとおしてはじめて浮き彫りにされるのだ。

カロリン・エムケ 浅井晶子訳 『なぜならそれは言葉にできるから』 みすす書房

カロリン・エムケは強制収容所や紛争地での虐待、レイプ、圧制を受けている少数派の声を世界に発信しているジャーナリスト・哲学者です。前段は、「人間としての権利」をはく奪された人たちがおかれた環境とその精神状態を要約したものですが、残念なことに、程度の絞りをゆるめれば、わたしたちの社会の実情と重なってきます。自分の自身への確信、に「私」としての他者との会話の経験をとおして、「他者らか個人として認識されること」を必要とするのです。

日本に生まれ育ち、なぜか自信がない人、社交的なのだがどうも人工的な不自然さを感じさせる人、公の場で自分の言葉で相手の目を見て語りかけることができない人が多い理由の一つがここにあります。「互いに個人としてかわすことのできる会話の欠如」した社会では、立場、上下関係、属する集団における相手との関係のなかでその都度「私」を変えざるおえません。

「自身の継続的なアイデンティティーが証明され、確認され」るどころか、逆に自身のアイデンティティの中断を余儀なくされ、それが喜ばれる社会環境に適応してきたのですから、看板にたよることなき本当の「自信」が得られず、パワハラ、個人の意思の無視、精神的虐待といった「人であることの権利」について無自覚であることは当然の帰結といえてしまうのです。

他者との関りにおいて、継続的に自身のアイデンティティが証明され、確認されない場合、わたしたちは自分自身に確信をもつことが難しくなり、また、使われないため、もしくは過去に「私」として会話して拒絶され侮辱された経験からくる恐怖心から、「私は」からはじまる表現能力の発達が妨げられます。第二章であげたとおり、現在の日本の閉塞感や生きずらさ、社会問題の多くは個人の領域への軽視から端を発してします。また、自信と人間の能力に大きくかかわる言語能力が制限された状況は、個人にとっては生きずらいうえに、自身に秘められた潜在能力が埋もれたままです。

ここから見えてくることは、実は自分らしさを取り戻して生きることこそ、今の日本がかかえる問題の解決にもっとも必要とされてる社会貢献の一つであるということです。戦後の日本は、焼け野原で衣食住が何よりも不足し、それを供給することが何よりの社会貢献でした。今の日本で最も不足しているのは我妻善逸のようなマイノリティ思考をもち、他者を個人として認識できる、「私」として自発的に活動できる個人の存在です。

自分に向き合うことは、目に見えて生産的ではないことからくる焦りや、社会の役にたっていないことへの罪悪感を感じる人がいるかもしれませんが、俯瞰で眺めることさえできれば、「鬼」状態から脱すること、そしてその過程も含めて、社会の役に立っているのです。

次回は、『鬼滅』の竈門炭次郎を見ながら、「理にかなった信念」をふかめていいくことで、自分らしさがどのように戻ってくるのかについて考察していきます。

お付き合い、ありがとうございました。

参考文献

「アニメ『鬼滅の刃』」

[原作者]吾峠呼世晴週刊少年ジャンプ』(集英社

監督 外崎春雄

シリーズ構成・脚本・アニメーション制作 ufotable

[企画]アニメプロデューサー アニプレックス 高橋祐馬

[製作]アニプレックス、集英社、ufotable

放送局 TOKYO MXほか

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定

劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編公式サイト

『自由からの逃走』

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 日高 六郎 

[発行者] 渋谷 健太郎

[発行所] 株式会社 東京創元社

『愛するということ』

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 鈴木 昌

[発行所]紀伊国屋書店

『普通がいいという病』

[著者]泉谷閑示

[出版社]講談社現代新書

『こころをひらく対話術 精神療法のプロが明かした気持ちを通わせる30の秘訣』

[著者]泉谷閑示

[出版社]ソフトバンク クリエイティブ株式会社

『自粛バカ』

[著者]池田晴彦

[発行所] 株式会社 宝島社

『そのうちなんとかなるだろう』

[著者]内田樹

[発行所]株式会社マガジンハウス

『回避性愛着障害 絆が稀薄な人たち』

[著者] 岡田尊司

[出版社] 光文社

『ハンナ・アーレント』

監督 マルガレート・フォン・トロッタ

heimatfilm:2012年

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