こんにちは、matsumoto takuya です。2020年1月8日二度目の緊急事態宣言がなされました。今回の宣言が最後となるよう願ってます。今回も前回にひきつづきシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?その4」をおおくりします。
前回の投稿で、1977年を軸に孤独という側面をもつ自由のルーツを探っていくなかで、「個性を大事に」といって個性を半ば発達させておきながら、実際に自由や個性を積極的に表現することを許さない社会という「ズレ」が日本に生じ、この「ズレ」が孤独の不安を強め「私」をうしなってでも「匿名の権威」やなんらか権威に同調して不安を解消したいという傾向が増大している今の日本の姿がみえてきました。「私」が窒息しそうな環境であるからこそ余計に「私」の側にたつ『鬼滅の刃』のストーリーが心に響き、世代を超えての大ヒットを生んだのではないか?という理由の背景あったのです。
その延長である2020年代、その「ズレ」はわたしたちにどうのような影響を与えるのか?『鬼滅の刃』が流行した2020年代にいきるわたしたちは日本は「私」として生きることに関してどのような環境に至ったのでしょうか?
目次
圧縮された過渡期
このように、今を生きるわたしたちは、1977年頃のような中世的な価値規範のメリットでが小さくなり、今後さらになくなっていくにもかかわらず、デメリットである公私混同の上下関係をデフォルトとした社会を余儀なくされています。中世的なうまみも近代の自由のうまみも奪われ、デメリットだけしょわされたかっこうです
もう少し踏み込んでいえば、 世代が若くなるにつれて、求めている内容が、「私」としてあること(Be)への肯定から生まれる精神的(精神とは個人的なもの)な喜びへシフトしているのに対して、自分と他人の内面が未分化な人間関係を受容したうえでの安心は、個人を満たすことができる精神的な満足とは質的にかみあいません。そのため、個人の意識下に釈然としないなんとも言えないわだかまりを残すことになるのです。
もう少し踏み込んでいえば、 わたしたちが求めている内容が、個性化の発展にともなって「私」としてあること(Be)への肯定から生まれる精神的(精神とは個人的なもの)な喜びへシフトしているのにたいして、再同調先の旧来の日本の価値規範は同質性を基本とし、意思がどうこうより群れることから得られる安心感に比重がおかれています。自他の区別が未分化であり、よって個人への尊重、配慮の文化が育っていない自分と他人の内面が未分化な人間関係を受容したうえでの安心は、個人を満たすことができる精神的な満足とは質的にことなるため、意識下に釈然としない欲求不満がひそむ余地をうみ、なんとも言えない「ズレ」を感じさせます。
この意識下の欲求不満をかかえた精神のバランスをなんとか取ろうそして、同調先の人間関係に度の超えた承認欲求を求めることや、自分のように再同調しないで生きている人への不寛容、いじめ、もしくは上下関係や属性でのマウンティングというかたちで漏れ出てくることになります。
また、自他の区別のない人の善意は、自他の区別がある価値観にシフトしている人に窮屈さを感じさせます。
例えば、職場の直系ではない先輩が後輩にランチをおごったとします、たまたまその人はお腹の調子がわるかったのですが、先輩に悪いとは思うもののランチを少し残すことになりました。後日、その先輩はその後輩が無礼にも「おごってやった昼食のランチをあいつは残しやがった」と陰口で吹聴します。そのおごる行為は上下関係的に完食しないと失礼にあたるからです。その先輩にとっては先輩からランチをご馳走してもらっておいて残すことは先輩の顔に泥をぬった無礼者となり、よって世間に晒して懲罰を、という発想になる。一方で、後輩からしてみれば、無理して食べたくもないランチを貴重なお昼休みの時間を削って、個人的にとりたて尊敬しておらず、別段、一緒にいたいと思っていない相手と過ごすことになったあげくのはてに、このような陰口を吹聴され、「見返りが欲しいなら、はじめからおごるなよ」という気持ちになるわけです。
この結果が見に見えるので、彼にとっては実質選択肢がなく、相手が善意であることには違いないので、嫌な顔をすことも出来きないまま、無理して完食する以外に選択肢がなくなってきます。ちなみにこの例では、日本の暗黙のルールを破ったのは後輩ですが、日本の社会のルール(パワハラ)を犯しているのは先輩です。
あからさまなパワハラ以外にも、この防御しずらい善意からくる「ズレ」たコミュニケーションから蓄積される窮屈さも、比較的若い世代が上の世代と職場の外で付き合うことを避けるようになった原因だと考えられます。時に善意は、他人に精神的な苦痛を与える最たるものになりえます。
そんなことをいいだしたら、いままでどおり人と気軽にコミュニケーションなどとれなくなる、というような意見をおもちの方がいるかもしれませんが、たしかにその通りです。
この現状をよくよくみていくと、西洋の歴史で中世末期以降の特徴である「主体の確立への模索の時代」に生きた人々の精神状況と、とても似ていることに気がつきます。
この現状をよくよくみていくと、西洋の歴史で中世末期以降の特徴である「主体の確立への模索の時代」に生きた人々の精神状況と、今の日本人が置かれている精神状況がとても似ている境遇に置かれていることに気がつきます。
当時の西洋は、固定的な社会構造が資本主義の発展により流動化し、宗教改革にともなう中世から近現代の価値規範への転換の初期段階にあり、不安な落ち着かない気分が生活をおおっていた時代でした。時計も発明され、「時は金なり」という性格を人々にあたえ、禁欲的かつ経済的に非生産であることに自他ともに憤りを感じるようなった時代でもあります。
この時代を見てみると、かつての絶対的な社会基盤を母体にしていた自他の区別がない価値規範にしたがうことで得られるメリットよりも、デメリットのほうが露呈するようになります。個の目覚めを経験したのにもかかわらず、それを許さない社会という「ズレ」が、かつての封建的なしがらみを断ち切ることで個に目覚め始めた個人に抗いがたい孤独の不安や無力感を感じさせるようになります。西洋では、「私」というせっかく手に入れた自由・個性をすててまで、新興宗教に熱心になる期間を経由して、個人の権利が生み出された後は、「世間」や「みんな」といった「匿名の権威」の同調に駆られ服従にいたる、という歴史を経験しています。
その結果、西洋では全体主義が蔓延したのですが、この状況は、今の日本とかなり似ているのです。
西洋が15世紀末から近代の20世紀にいたる400年という長い年月をかけ、大変な混乱と失敗と試行錯誤をしながら経験した文化様式の変化を、私たちの社会は4,50年で一気に集約・圧縮された形で経験していることになります。いまの日本の生きるわたしたちが、個の確立・自由について社会全体レベルで困惑気味なのは至極当然といえるのです。
『鬼滅』がハマった世代
上の世代は前世代から引き継いだ既得権益・権力があり個の自覚がない人が多数派を占めているため、まだ何とかなりそうです。しかし、中・下の世代の多くは権力を持たず、かつての規範を盲目的に信じられないなかで、多様性を掲げた教育やスマホの普及で個性化はより進んでいます。そのため、中堅以下はより現代のシビアな抑圧に晒されているといえます。
ここに、『鬼滅の刃』がハマった世代が重なります。
ここで回り道をしましたが、ようやく、今の日本をいきる私たちが個性化の発展を妨げている「何らかの障害」が説明できます。
それは、個性をなかば発展させながら、「私」として生きることを許さない社会の「ズレ」であり、「私」という個性をすててまで「匿名の権威」に同調・同化してしまった人間の同調圧力と逆恨み的な排他性です。「ズレ」と、その結果である同調圧力と排他性は負のシナジーです。
「私」という人間性を失い、そのことを考えることさえできなくなり、人間をひたすら物のよう扱い消費する存在、同時に、意識下に無力感と虚しさを抱える存在が『鬼滅の刃』の「鬼」です。いまの日本は、「私」を失った「鬼」にするための土壌にはもってこいの環境にあります。
西洋の人々は、「自由からの逃走」の結果、ナチズム、ファシズム、といった全体主義におちいり衰退・自滅の道へすすみ、愚かで悲惨なアウシュビッツを生み出しました。内側から、人々が人間性を鈍化させていき、狡猾なロボットのような冷たい存在に変わっていったわけです。わたしたちは、もうそれを歴史で知ってしまってます。
後ろにはもう戻れない、今のぬるま湯状態から抜け出せずはまっていると衰退と悲惨が待っていることをもう知っているし、そのぬるま湯は身体から熱を奪って気分が悪くなってきている、となると、わたしたちは旧来の中世的規範から近代的な精神への過渡期を個々人が先に進むしかないわけです。『鬼滅の刃』にはまった世代の一人一人置かれた境遇と『鬼滅の刃』の炭次郎たちの境遇が重なってきます。
映画『ショーシャ ンクの空に』でこんなセリフがあります。「必死に生きるか必死に死ぬか」です。シェークスピアの『ハムレット』のなかでも「生きるべきか、死ぬべきか」というセリフがあります。わたしたちは生きるべきだし、どうせもらった一回ぽっきりの命なら「私」を忘れ、自身の言動で無自覚に人を傷つける「鬼」ではなく、「鬼」の侵害に立ち向かい必死に生きる「生きている人間」のほうを選びたいものです。
「鬼」化が完成された世界
自分を疎外する、忘れる、見失うということは、服従している世間体の他に「自分のしたいことが分からなくなる」「興味、関心が動かなくなる」ということであり、単語でいえば無関心です。自分を忘れた人は同調先の価値観に同化するにいたります。
中世末期(15世紀末)から近代(19世中ごろ)までの間の、個の目覚めによって自由と孤独を自覚した人間の精神史をまとめたものが次に引用した文章です。
個性化が一歩一歩進んでいくごとに、ひとたび人は新しい不安ににおびやかされた。第一次的絆は、ひとたびたちきられると、二度と結ぶことはできない。ひとたび楽園を失えば、人間は再びそこに帰ることはできない。個別化した人間を世界に結びつけるのに、ただ一つ有効な解決方法がある。すなわちすべての人間との積極的な連帯と、愛情や仕事という自発的な行為である。それらは第一次的絆とはちがって、人間的自由な独立した個人として、再び世界に結びつける。しかし、個性化の過程をおし進めていく経済的、社会的、政治的諸条件が、いま述べたような意味での個性の実現を妨げるならば、一方でひとびとはかつて安定をあたえてくれた絆はすでに失われているから、このズレは自由をたえがたい重荷にかえる。そうなると、自由は疑惑そのものとなり、意味と方向を失った生活となる。こうして、たとえこのような自由を失っても、このような自由から逃れ、不安から救いだしてくれるような人間や外界に服従し、それらと関係を結ぼうとする、強力な傾向が生まれてくる。
・・・どのような絆からも自由であるということと、自由や個性を積極的に実現する可能性をもっていないということとのズレの結果、ヨーロッパでは、自由から新しい絆への、あるいはすくなくとも完全な無関心への、恐るべき逃避がおこった。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:46項
フロムの近代人の描写は最後には当時の現代(1940年代)につうじていきます。その結果、無関心が社会に蔓延し、ナチズムをはじめとした全体主義が勃興することになったのは周知のとおりです。
『鬼滅の刃』の世界でいう鬼舞辻無惨と同レベルの非情な行為を、表上はとち狂った「鬼」ではなく、自分は「普通」であるという自覚のもと社会適応をしていた規律にかたくなに厳しい人間の集団がおこなったという点で、より残念なかたちで全体主義に陥った人間の無能さや愚かさ、不気味さを歴史は証明してしまいました。
思考停止し、上から「正しさ」をあたえられて多数派に盲従する人々を多数派にかかえた民主主義は少なくとも、わたしたちにとって重要で大切なことを暮らしから失う道を約束されているのです。
道具を使う人間と使われる「鬼」
フロムが活躍していた20世紀初頭と違う点は、この自分を見失うプロセスのテンポの速さです。現代の私たちの生活は、資本主義、都市化、科学技術・情報化といったものが爆発的に発展し、もはやほとんどの業界は1947年代よりいっそう流動化しています。そんな不安定な中で、わたしたちは巨大な会社にこき使われ、もしくはあおられ、会社は株主にこき使われ、国家は株主はグローバル金融市場にあおられ翻弄され崇拝し、その圧倒的な機構のまえで個人はますます無力感を痛感させられ圧倒されています。
また、個人の視点からみると、スマホなどの常時ネット接続環境とSNSの登場は、かつての日本では一枚岩の「匿名の権威」として君臨してしていた世間をどんどん分散させている印象をうけます。これにより、わたしたちはより同調・同化がしやすいのですが、かつての日本人が同調してきた一枚岩の「世間」に比べ、はるかに規模的に安定性が欠けるので、より食い込んだ同調をせざるおえないか、上辺の関係性しかえられない環境下にあります。
脳科学、心理学等を駆使して承認欲求をくすぐるように設計されたSNS、そのコントロールされた適度な間隔をおいた通知が「不安」→「同調」→「不安」→「同調」というループを促します。個人をここまで依存させた道具は、今までの歴史には見られなかったものです。
デジタルは個人の表現の場を世界に広げた点でとても有益ですし、双方のやりとりを可能にするものであり、連絡手段として便利なものです。しかし、デジタルが手段ではなく目的になってしまった場合、それは「私」を見失わせる最も効果的な悪手に変わります。
「川」をわたるための「筏」として
西洋人が中世末期から近現代にいたるまでの間、個の目覚めにあたり、どういう過程をたどったのか、どういう試みをしどういう失敗をし、どうやったら成功するのかといった諸条件についての情報は、本質的に近い状況にある今日のわたしたちにとって有益です。
『鬼滅の刃』の大ヒットと、フロムの著書『愛するということ』のリバイバルが時を同じくしているのは偶然ではないのです。フロムの残した仕事は以前として有効どころか、ますます、、、というより、今にしてようやく、日本にいきるわたしたちの姿と合致した真実を描き出しているとわたしは思います。
科学や経済は、最新であることが重要ですが、人間の本質が問題となる場合、新しさは絶対ではなくなります。人間存在の本質は、人間が人間を辞めない限り変わらないからです。それは、2000年前に西洋にあらわれた青年(キリスト)の教えや、2500年前にアジアで活動していた青年(ブッダ・仏)の思想が未だに、現代社会で生きていることを見ればわかります。
わたしたちがかかえる人間らしさの悩みや問題については、すでに過去の誰かが悩んでいて、傑出した人がなんらかの問題解決のヒントを創出しています。そう考えた時、フロムの残した仕事は、今の日本の社会の「圧縮された過渡期」という激流を渡るための貴重な筏となってくれるはずです。
『鬼滅の刃』に共感する人が多いのは、この意味での「筏」を『鬼滅の刃』の中に見出しているからではないでしょうか。それは、逆境のなか「私」として生きる者同士が築き上げる社会に生きるときに模範となる規範です。
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ここまでは、時間という縦の軸と西洋・日本といった地理的な横の軸、そして、それらを社会の下部構造と人々の社会心理の観点から、『鬼滅の刃』が爆発的に幅広い年齢層に大ヒットした理由をマクロの視点で探っていきました。
ここからは、『鬼滅の刃』の物語の個別の内容面を除いて言い「鬼」化しているわたしたちの社会の姿を明らかにしていきます。
次回は題して「『鬼滅』炭次郎と無惨からみる愛と支配」です。
お付き合いありがとうございました。
参考文献
[放送局] TOKYO MXほか
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
シェイクスピア 『ハムレット』福田/恒存訳 新潮社
監督 フランク・ダラボン『ショーシャンクの空に』キャッスル・ロック・エンターテインメント