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Leo Lionni
@板橋区立美術館
こんにちは、matsumoto takuya です。今回は板橋区立美術館で開催中の『だれも知らないレオ・レオーニ展』をとりあげます。
レオ・レオーニという名前にすぐにピンとこない方もいらっしゃるかもしれませんが絵本『スイミー』,ネズミの『フレデリック』の著者と聞けば思い出す人も多いかもしれません。
日本では絵本作家として親しまれているレオ・レオーニはアメリカやイタリアではイラストレーターとして先に成功を収めたようです。
今回の展示会のテーマに「だれも知らない」という言葉が添えられているのは、『スイミー』やネズミの『フレデリック』といった作品と同時に絵本作家であるレオ・レオーニ自身にスポットを当てているために、そういうタイトルとなっているみたいです。彼がイラストから絵本を新たな表現の場に移したのはなぜなのか。彼にとって絵本は一体どういう意味を持っていたのか。彼の絵本に込めた想いとは一体何なのかといった。はたまた彼にとって芸術とは、そして芸術家とは何なのか。といったレオ・レオーニの内面に迫る展示がなされ、絵本の名作の背景にひそむ真実の一端が垣間見れる展覧会でした。
ちなみに、板橋区立美術館はレオ・レオーニとの繋がりが深く、この展覧会はレオ・レオー二の展覧会の締めにあたる催しだそうです。
わたしは彼の絵本の内容を展覧会で知って驚いたのは、温かい気持ちになれるのはもちろんのこと、大人であるからこそよけいにはっとさせられる内容だったからです。
今回は、レオ・レオーニの絵本の内容にどうしてはっとさせられたのか、その点をすこし探っていきます。
以下展示内容の一部を含みます。
絵本に込めた想い
彼の絵本はとても親しみやすく、愛らしくどこか生きている感じがするイラストのよってストーリーもすらすらよめます。しかし、今回の展示で個々の絵本の内容を眺めていると、その内容は、決して子供向けと馬鹿にできない内容になっていることがわかります。
例えば『フレディー』、『スイミー』、『ペツェッティーノ』、『コーネリアス』は自分の個性を大事にして、世界と関りを持っていくお話です。いいかえれば、自分が唯一無二の個性を持った存在に気づき、その個性をもった自分として世界と関係を再び結んでいく物語といえます。
物語は、主人公がまず、自信が個性を持っている存在であるという現実を受け入れるところから始まります。今までいた同じような仲間からその個性を無視されたりバカにされる孤独を初めて経験し、主人公は勇気をもって一度その群れから離れる自分の目で世界を観るようになります。そして自分と世界を受け入れていく中で自信を深め、元の仲間のもとにもどり個性を生かし仲間と協働すろことでそれまで解決できなかった問題を解決できたり、仲間の関心を閉じた世界からより外に関心を促したりできるようになり物語の幕を引きます。
ここには、とんでもない人生訓が込められています。
例えば、恋とは違う概念に「愛すること」がありますが、それをするには相手を尊重できる力が十分なければできません。そして尊重は相手らしさを認識できて初めてできることです。相手らしさに気が付けるには自分が自分の個性に気が付いてなければできない。つまりみんな同じだろうと思っている段階では、内実のともなった尊重ができませんし愛することもできません。尊重のない社会では、心の温かさや他者や世界へ関心がうごかない。愛することの反対に無関心がありますがそういう状態になってしまう。それでも快適な「社会」があるではないかという人がいるかもしれませんが、その社会にいる人の中に「心」がなかったらなんも意味がないでしょう。この物語にはこういった本当の絆がどういったものなのかが語られているのです。
また、民主主義が機能するのも実はこの点にかかっています。人類は違いとの出会いによって文明や文化を発展してきたわけですから。
レオ・レオーニは彼の物語のメッセージを身をもって生きた人です。物語の主人公の境遇、言葉、悩みはレオ本人が経験したことから紡がれた言葉たちだったわけです。口ではいくらでもいえますが、彼のように実際にその困難に向き合いごまかさず実践してきた人が言う言葉には説得力と労りのようなものが感じられます。
彼は、このようなメッセージを伝えることができる職業が芸術家だと考えていたようです。彼は当初イラストを仕事にしていました。なぜ彼はイラストから絵本に制作の場を移したのでしょうか。
「イラスト」とアートは別物ではないが・・・
そもそもイラストってアートっぽいイメージがありますが、レオ・レオーニがいったいどういう姿勢でイラストに向かあっていたのかを起点に考えるとこの2つは別物なのかもしれません。彼がイラストレイター時代の展示を見るとno.04-42「ニューヨーク近代美術館開館25周年ポスター」、no.04-45「ニューヨーク近代美術館 30周年記念 展示会図録「The Family of Men(人間家族)ハードカバー版」、no.04-47「アルコア 雑誌広告」などは、今見ても斬新で創造性があり、時間の流れに耐えうる味わいがありました。
しかし、上述のとおり彼は1960年代後半にそんなアート性のあるイラストの世界から絵本を活躍の場に切り替えます。その理由はその頃からマーケティングが台頭してきて、彼が思うアート性、メッセージを残せる裁量がイラストレーターにあまり残されていないと感じたからだそうです。彼は、当時のイラスト中に創造という思想が表現できる裁量があったからこそやりがいを見出してたのです。(ここでいう思想はおもに、作家の感じたこと、思い、それをもとに考えたものです。)
商いと「つまらない」イラスト
マーケティングがもはや主人となったかのような現状の商業イラストはどうでしょうか?主に日本の現代演劇ポスター収集・保存・公開プロジェクトを行っている笹目浩之氏によると、年を追うごと演劇ポスターの沈滞ムードが漂ってきていたらしいのですが、それは「90年代に入って劇団とは名ばかりのプロデュース形態が増え、演劇に経済論理が持ち込まれた影響だ」笹目浩之『寺山修司とポスター貼りと。』より引用)と語っています。現代の商業イラストの置かれた環境は1960年代よりもくらべものにならないほど経済原理であるマーケティングが加速しています。きれいである、または、目の引くが心にとどまらない一過性のデザインが溢れている現状はイラストレーターの質が落ちたというよりも、イラストレーターという職業で実現できる創造性がマーケティング原理により限りなく狭くなっているからかもしれません。
そんなわけで彼は自身の能力で社会と折り合いをつける場所としてイラストではなく絵本作家を選らんだというわけです。
経済は私たちが接している一つの面にすぎない。お金は心の、つまり愛することの代用はできないということを、批判ではなく喜ばしいことを肯定するかたちで、偏ったものの見方を提示するレオ・レオーニ。かっこいいわけです。
今回はこの辺で、お付き合いありがとうございました。
「だれも知らないレオ・レオーニ展」
[場所]板橋区立美術館
[開館時間]9時30分~17時(入館は16時30分まで)
[期間]2020年10月24日(土) ~2021年1月11日(月・祝)
詳しくは公式サイトにて