こんにちは、matsumoto takuya です。今回はシリーズ「『鬼滅の刃』が少し引くほど大ヒットした理由とは?」の続編シリーズ「『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法」をお送りします。
今の日本は、表面上は「多様性のある社会」が推奨され、個性の重要さがますます強調されている一方で、実際の社会では「私」として生きるのは「自粛」するのがデフォルトの旧態依然であるということは社会にでた経験がある人はすぐわかると思います。
さらには、これほどの多様化したメディアやSNSといった情報にアクセスできる環境にありながら「実は自分のしたいことがわからない」という人が少なくないのではないでしょうか。
このシリーズは、「なぜ『鬼滅の刃』が幅広い世代で爆発的にヒットしたのか?」で考察してきた日本の現状をふまえながら、多くの人が共感に至った『鬼滅の刃』から、その特徴や共感内容をみていき、「私」を見失いやすい日本の環境、その環境で「私」という主体をとりもどす方法を、様々な視点から探っていきます。
今回は序章として、「自分らしくいきること」と半ば対立する概念で、同時に日本ではわりと受け入れられている「犠牲」について『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』をみながら探っていきたいと思います。
注)『鬼滅の刃』の内容は「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」までを参考にしています。ここまでのネタバレを含みますのでご注意ください。
目次
『無限列車編』からみる犠牲の精神性の是非
二つの犠牲
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』では犠牲が、主題の一つとなってるように思えます。鬼殺隊幹部である「柱」の煉獄杏寿郎は命を賭して、鬼から鬼殺隊の後輩である炭次郎たちや列車の乗客を救います。そのさまはわたしたちに強く訴えかけてくるものがあります。しかし、一方で那田蜘蛛山の鬼の累がつくる家族も役割のための自己犠牲を個人(支配下の鬼)に要求します。これらは同じものなのでしょうか。
フロムは、その犠牲の行為の動機の違いで、犠牲が持つ意味は全く異なってくると言っています。
注)フロム・・・エーリッヒ・フロム。20世紀を代表する社会心理学者。彼の仕事の内容がいまの日本と類似点が多く有益なので筆者がシリーズ「なぜ『鬼滅の刃』は世代をこえて異常なほど大ヒットしたのか?」と同様に参考にしている。
―――――このマゾヒズム的犠牲は生の達成をまさに生の否定、自我の滅却のうちに見ている。それはファシズムがそのあらゆる面にわたってめざすもの――――個人の自我の滅却と、そのより高い力への徹底的な服従―――――の最高の表現にすぎない。それは自殺が生の極端な歪みであると同じように、真の犠牲の歪みである。真の犠牲は精神的な統一性を求めて非妥協的な願望を前提とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻を隠しているに過ぎない。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:294項
ファシズム・・・個人の意思を無視して全体へ奉仕することを要求する権力体制
「精神的な破綻」とは、自らの意思を持って選択し決断し行為できない状態のことを指します。それとは反対に、精神的な統一性とは、自らの感覚、感情、それをもとにした思考や知性を社会で表現できる精神的に自立した個人のことです。
フロムの定義をまとめると下記のとおりです。
- マゾヒズム的犠牲・・・犠牲の目的が、マゾヒズム的犠牲のような生の否定、主体の滅却のうちに見て いる場合:鬼、ナチズム、ファシズム、子どもの意志を無視する虐待・ネグレクトの自覚がない親の子ども、DV 等
- 真の犠牲・・・犠牲の目的が、人間が個性(人間性)を進展、成長させる可能性の確保に見ている場合:煉獄杏寿郎?
真の犠牲は、その人がその人らしく意思を持って選択し決断し行為できる状態とそれが実現できる社会を可能にするためのものです。そうではない犠牲は、精神的な破綻(自らの意思を持って選択し決断し行為できない状態)を隠しただけであり、管理者が管理対象をただ支配・操縦しやすくするため、もしくは、無力感・無意味感・弱小感からどうにかして逃れるため他者評価にすがる自己弁護からひねり出される犠牲です。
その人がその人らしく成長し社会で生きること、もしくはその可能性を目的にするかぎりで、犠牲は犠牲たりうるということです。このフロムの分類は、平等であること、自由であること、愛するということに精神的な価値の土台をおいています。
『鬼滅』煉獄杏寿郎のケース
「柱」である煉獄杏寿郎の犠牲は、人が個人を成長・発展させ社会で関わりあう可能性のための犠牲だと言いたいところです。しかし、映画を慎重に観てみると、「マゾヒズム的犠牲」も含まれているようにもうつります。
煉獄杏寿郎は鬼殺の剣士の名門の家に生まれ、天賦の才にも恵まれ、父親も鬼殺隊の元幹部である「柱」を務めたことのある有力者でした。彼は、父親にあこがれを抱き、認められたい一心で努力を重ね若くして「柱」に選ばれるまでの実力を獲得し、後輩から尊敬されるにいたります。外見上、かれはパーフェクトな人生のようにうつります。しかし、それは集団という外からみた評価です。かれの個人的な満足のほうはどうでしょうか。
彼の父は、鬼殺隊の剣士としてのやる気をいつしか失い、自分の期待に応え頑張った息子の努力の結果をほめることはありませんでした。また、彼の母親は身体が弱く、彼が少年の頃に「力は弱きもののためにある」という教えを印象づけて他界しています。かれは本当にほめて欲しかった時期に、ほめられたい相手から、ほめられたいという承認欲求が満たされないでいたのです。
鬼の魘夢(えんむ)の鬼気術が暴露したもの
教わった「力は弱きもののためにある」を実践し、努力に努力を重ね「成功」を重ねても、彼の中では拭い去れないもどかしさが募ります。本心は満足できず満たされないことへの「悲しさ」を無理して気丈に振る舞うことで見ないようにしていた事実が、「下弦の壱」である鬼の魘夢(えんむ)の鬼気術(鬼が持っている特殊能力)により、彼の願望をうつした「夢」で明らかになります。彼の明るい振る舞いがが、どこか力の入った機械的的な明るさのように映るのはそういう事情のためだったのです。
煉獄杏寿郎は父親や母親への幼少時代の愛着を捨てきれず母親の価値観に服従しています。服従とは、外側にある何らかのものに服従だけでなく、内側にある外から取り入れたか価値観に従うこともふくまれます。
彼は母の言いつけである「力は弱者のため」という内容を知識としてはわかるのですが、腹の底では確信できないでいたのではないかと考えられます。腹のそこで納得できないからこそ、その懐疑を滅却しようと、もっと母のいいつけを守れば、満たされない想いが解決できかもしれないとの儚い希望のもと、「強さは弱者のためにある」を実践をするために「力」をつけるストイックな努力を続けていたのではないかと考えられるからです。
外から見れば、彼はたしかに立派です。しかし、わたしには、彼自身は救われていなかったのではないと思えたのです。これでは彼の母親の彼にかけた期待のために、彼の個性と人生が犠牲になってしまっているからです。彼が、本当に欲しているのものは、親に愛されているという実感あり、いいかえれば、「私は私でいていいのだ」という真の自信でした。
彼の母親が子供だった頃のかれにかけた言葉は結果として、彼が彼らしく生きることをあきらめ、ひたすら終わることなき苦渋の努力と砂を嚙むような忍耐、欲求不満をかかえながら、自分を隠し表面的な明るさを演じ続ける人生を歩かせてしまう「呪縛」のようなものになってしまっています。彼の母親の言葉は、「彼に彼らしい人生を捨てなさい」という意味ではなかったはずなのにです。
鬼の猗窩座(あかざ)が煉獄に惹かれたわけ
彼は、自らの懐疑の炎を見ないようにするために、「教え」を実行できる「力」を求め、血のにじむ努力を己に課し続けていると考えると、それは、人間性を失ったため、内に虚ろと無力感をかかえ、力へのサディズム的努力にかられている鬼と、本質的に同じ状態だといえてしまいます。
これは辛いはずです。鬼である猗窩座(あかざ)が彼に惹かれたのはそのためだといえます。彼らが内に抱えた問題はとても似ていたのです。「私」としての人生を取り上げられてしまっていたことからくる落ち着かなさ、不安からの死に物狂いの逃走です。
劇中では、彼の内面にある願望のさらに奥にある彼の無意識の世界がでてきます。そこは「息がむせるほどの」灼熱につつまれています。一見すると、努力家で正直者の炎の剣士らしい無意識だと思いがちですが、物語の描写を丁寧にみてみれば、彼の内面はすさまじい葛藤の摩擦があったことを示していることがわかるはずです。同じ「熱」でも、炭次郎の内面にある無意識の世界にでてきた太陽のようなあたたかさとは違います。かれは、人知れずこころの最も深いところで、強烈な葛藤をかかえひとり苦しんでいたのだ、と解釈することができるのです。
もう一つの物語
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』のストーリーは、かなり荒い簡略化であることを承知の上、煉獄杏寿郎というという強者が、さらなる巨大な力をもつ強敵から自己犠牲をして弱者を救うというストーリーです。しかし、同時に、強者であるはずの彼が弱者であるはずの炭次郎らに救われた物語ではないか、とも私は思うのです。わたしがそう思ったのは、絶命直前になされた煉獄杏寿郎と炭次郎らとの対話のシーンでした。
夜明けになり、煉獄に致命傷を負わせた鬼の猗窩座(あかざ)は、弱点の陽の光を避けるため闇に逃げだします。煉獄の死を悟った炭次郎はなりふり構わず泣きながら鬼が消えていった方角の闇に向かって罵詈荘厳と煉獄への賛辞を声のかぎりに叫びます。煉獄杏寿郎への命を救われたことへの感謝、尊敬から、彼がしてきたそれまでの血に臨む努力を労いたい気持ち、圧倒的に生身の人間では不利な条件かつ鬼の土俵で戦う不条理さ、そして、それでも鬼に結局は負けてしまったという悔しさ、その人の命がいままさに目の前で終わろうとしている。炭次郎は煉獄の気持ちを代弁せずにはいられなかったのです。
それを目の当たりにして、煉獄杏寿郎ははじめて心のそこから安心した表情をみせます。この時、彼の胸のなかの懐疑が消えたように私に目には映ったのです。嬉しかったはずです。
かれは、母親の言いつけにしたがって「力を弱いもののため」に使い、また鍛錬することに我慢に我慢を重ね自分を押し殺すことに一生を費やした。しかしそれは、咀嚼され身になった「私」の意見ではなく内在化した彼の親の価値観への服従であり、満たされない腹の奥底では懐疑の炎がメラメラと揺れていた。大好きな母親への喪失が予感される中で母親の庇護を欲するのが当然の幼い頃の記憶、そして、それがどうしようもない善意だからこそ、批判できず、自分の気持ちを犠牲にしてしまっていた。
彼の命は人知れず欲求不満と懐疑の炎のなかで自分の人生が終わろうとしていました。もしここでそのまま死んでいたとしたら、彼は死に際で、自分は後悔しない人生を歩いたと自分の気持ちに嘘をつかずに胸を張って思えたでしょうか?
炭次郎が彼の気持ちを汲み取り、それをまるで自分のことのように共感して、かれを肯定したいという気持ちを全身全霊で表現しているのを目の当たりし、「嬉しい」という喜びを実感することで、彼は「自分が何のために人を守ってきたのか」を理解できた、腑に落ちたわけです。この会話と内面への理解がもたらす感情経験味わったことではじめて「私が命を賭して守った弱いものはやはり守るべき価値のあるものだった」と腹の底から思えたのです。
彼はこの時はじめて、「力は弱きもののためにある」という考えが、母へのマザーコンプレックス的な「あるべき姿」への教条的な服従ではなく、自らの感情経験と結びついた、自分の想いとなり、ながらく遠ざけられていた精神的な満足、安らぎを得たのだともいえます。これは一人の人間の成長の物語でもあったのです。
人を救う力
精神的に自立し自分らしく生きる能力という「力」の観点からみて、煉獄杏寿郎は「弱かった」。その意味で弱き存在であるかれが、自分らしく生きる能力では強い炭次郎に、親にずっと密かに期待しながら失望を余儀なくされ続けていた「なにか」をあたえられ、ようやく救われたのだと見ることできるます。「なにか」の中身をもう言う必要はないでしょう。
その意味で、強者であるかれは人を救ったのであり、同時に救われたわけです。この映画には、単純に外的な力だけが人間を救うことができる力ではない、人間だけが持ちうるもう一つの力の奥深さが見事に詰まっているように思えます。
このように、「犠牲」は一概にすべて正しくはありません。場合によっては恥ずべき行為です。そして、道徳の内容自体は良いとしても、教条的に自己犠牲の道徳を教えることは、わたしたちが思っているほど絶対的に正しい影響をあたえるわけではなく有害な場合もありうるということです。人間的な親密な人生を送るよりも、欲求不満をかかえた過酷な人生、煌びやかな社会的な評価のかげで鬱屈した不自然さを抱える人生をその人にもたらせてしまう可能性がおおいにあるということです。彼が、上弦の参、鬼の猗窩座(あかざ)となっていた可能性だってありうるのです。道徳は人間のためにあります。そして人間には自分も含まれるはずです。
彼の中の葛藤がとけた後、炭次郎とのやり取りとでみせる彼の表情はとても人間味があるようにうつりました。まるで肩にのしかかっていた呪いの重荷が降りたかのようでした。もしあの絶命前の一時に、彼の無意識の領域を除けたとしたら、かれの無意識にはどのような景色が広がっていたでしょうか。そこはもはや息もできないほどの灼熱地獄ではなかっただろうとわたしは思います。
命が尽きようとする間際、煉獄杏寿郎は炭次郎に自分と同じような境遇をもつ弟への遺言をたくします。それは、かれが最後の最後の内的に葛藤し自ら見出したからこそ、はじめて誠実に聞こえる言葉です。縛られることなく自分らしく生きてほしい、「自分の心のまま正しいと思う道を進むよう」に、という人間味溢れる熱いメッセージです。
次回は、現代の日本で半ばデフォルト状態となった「自分がしたいことがわからない」状態から「自分の心のまま正しいと思う道を進む」には、いったいどうしたらいいのかという点を探っていきます。
お付き合いありがとうございました。
[放送局] TOKYO MXほか
「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
『愛するということ』
[著者]エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳
[出版]紀伊国屋書店