Updated on 1月 16, 2021
「ソール・ライターのすべて」
目次
All about Saul Leiter
Book Review
(株)青幻舎
こんにちは、matumoto takuya です。今回は前回とりあげた「永遠のソール・ライター」展に関連して、彼について書かれた本「ソール・ライターのすべて」(株)青幻舎についてレビューしていきます。
この本には、ファッション、ストリート、ヌード、絵画まで彼のとった写真が、彼の言葉とともに網羅的に収められています。基本的には彼の写真がベースで、ページをめくっているうちにぽつりぽつりと彼の言葉に出くわす構成となっています。
彼の美しい写真に劣らず、詩のようなたたずまいで読者を待っている彼の言葉はとても魅力的で温かい。展覧会でみた彼の作品と通じるものを感じました。欧米からも「美しい本」と評価されているそうです。
写真はもう見たよ、というお方がいるかもしれません。そんなかたにも彼の言葉だけでも十分読むに値しますよとお伝えしたいです。それに、彼の言葉が写真を眺めているうちに出くわす感じが、また味わい深く言葉に説得力を感じました。
これから、彼の言葉をメインにとりあげていき、彼の作品はいったいどんな思いがあって生まれたのか、筆者の拙い考察をふまえながら探っていきたいと思います。
以下、本の内容をふくみます。
ソール・ライターが魅了された美とはなにか
“The secret of happines is for nothing to happen.”
‘幸せの秘訣は、何も起こらないことだ。’
「ソール・ライターのすべて」(株)青幻舎:1頁より引用
上記の言葉からこの本は始まります。初見でこの言葉を読んだとき、わたしは正直しっくりきませんでした。安直に考えればとても消極的なものに感じられるからです。しかし、すぐに、
”I had the hope that the result would like a photograph rather than a fashion photograph.”
‘私が望んだのは、撮影の結果がファッション写真以上の”写真”になることだった’
同上:5頁より引用
と続きます。かれは、普通の写真からそれ以上の”写真”を望み、そのために彼は写真家になり、さらには「普通」の写真家の大通りを通ることに甘んずることなく粛々と自分の道を切り開いていったわけです。決して消極的な意味で冒頭の言葉をいったわけではなかったのです。彼はその望みを成し遂げたのですが、かれはどうやって「ファッション写真以上の”写真”」を撮ったのでしょうか。その心構えや被写体になるものをどういった眼差しでとらえていたのでしょうか。
「とるに足らない存在でいること」、と「とにかく多すぎる」
”There is tremendous advantage of being unimportant”
‘取るに足りない存在でいることは、はかりしれない利点がある’
”There is just too much.”
’とにかく多すぎる’
同上:(上)10頁、(下)12頁より引用
この二つの言葉は上述の禅問答のような言葉のすぐ後にでてきます。 この二つ言葉にわたしは彼の思想が集約されているように感じました。
彼のいう「取るに足りない存在」とは、名声だとか肩書だとかがないことを指します。それらは、なくても「ファッション写真以上の”写真”」を撮れるようになることとは関係がない。それどころかむしろ、「取るに足りない存在」でいることが、いいのだといっているのです。まず、看板だ、肩書がなければ、成功の実績がなければダメだと自分を窮屈にしてしまうわたしにとって、励まされほっとさせられます。彼は、こんなこともいっています。
”I have a great respect for people who do nothing”
’私が大きな敬意を払うのは、なにもしていない人たちだ。’
同上:48頁より引用
この言葉を読んだとき私の肩がすっと軽くなりました。よくよく考えてみれば、何もしないことは確かに罰すべき悪事を働いているわけではありません。わたしたちは、知らず知らずに経済原理、広告の暗示とうですっかり、なにもしないでいることに罪悪感を刷り込まされています。かれの言葉はその「呪いの暗示」を薄めてくれます。
話を冒頭の二つの言葉のうち、二つ目へ。
「とにかく多すぎる」と彼はいいます。では、一体何が「とにかく多すぎる」のでしょうか。ここには、精神的な写真をとるまえに世界を見つめるときの態度のについての意味と、具体的な写真に映す対象に対しての意味という、二つの内容が含まれていると考えられます。
肩書や虚栄心や成功への野心などで頭のなかが「いっぱい(just too much)」の状態になると移ろいゆく世界の美を見逃してしまうのではないかということです。「見る」ということは、いま、ここで行われます。彼は「いま、ここに」で「見る」ことができるから、多くの人が見落としてしまう、移ろいゆく美を見逃さずにとらえられたのです。それは、周りの多数派うの評価や権威によって自身の評価をすることから卒業していていたからともいえます。
”It is not where it is or what it is that matter but how you see it”
’重要なのは’、どこで見たとか、何をみたとかということではなくて、どのようにみたかということだ。
同上:90頁より引用
世界の美を見逃さずに「見る」には, 実はそういう知らず知らずに自分自身にこびりついてしまっている世界のへの見方を剥がしした先にあるといえるかもしれません。
話を戻しますと、そうやって、頭のなかがいっぱいでなければ、いま・ここにある美に気づくことができる。そうやって世界をみることができれば、フレームに写すべきもの外すべきものが直感でつかめる。そして直観にしたがったフレーム内の余計な部分を捨てることで、彼の写真には情緒的な余白がうまれ、不思議な美しさをもった「とにかく多すぎない」写真が生まれるというわけです。従来のファッション写真がファッション写真以上のになりえないでいたのは「とにかく多すぎ」たわけです。
自分を信じることと無頼漢は違う~孤独と孤立の違い~
”I don’t attach as much importance to sequencing(in an art book, for example)as other people do.
To me the content is more important.”
‘私は、他の人々ほど(例えば、美術書の中での)配列に重きを置かない。わたしにとって重要なのは内容だ。’
同上:156頁、より引用
かれは、権威や見栄、多数派にいる安楽さよりも、写真自体のの内容が良いか悪いかが肝心だと思っていました。これは一見当たり前のようですが、少し務めた経験がある人なら、そういうことを実行できているひとは多いとはいえないと分かるはずです。
そこには、勇気と想像以上の労力が必要とされるからです。ある意味で保身よりも孤独を引き受けることだともいえます。これがわたしたちはなかなかできないのです。
それは自分勝手で意固地でそんな人とは仕事なんか一緒にできないよ、という意見があるかもしれません。しかし、かれは、複数の有名雑誌のもと共同する仕事もこなしていました。受動的な「絆」による「群れ」と、主体的な意思の元に集まる「連帯」の区別がついてないのではないかと思われます。
”Max Kozloff said to me one day、”You’re not really a photographer ”you do photography,but you do it for your own purposes-your purposes is not the same as others’.”I’m not quite sure what he meant, but i like that. I like the way he put it.”
‘マックス・コズロフ(美術史家・評論家)が、ある日私にこう言った。「あなたはいわゆる写真家ではない。写真は撮っているが、自分自身の目的のために取っているだけで、その目的はほかの写真家と同じものではない」彼の言葉が何を意味するかがちゃんと理解できたかどうかわからないが、彼の言い方は好きだ。’
同上:194頁より引用
肩書や多数派より自分の感性を信じることと、それらを否定し拒絶することは同じではありません。また、じぶんとは異なる意見を否定し説き伏せることでもありません。意見に反対なら、粛々と自分の信じながら自分の考えを押し付けるのではなく、他社と共同する。自信とは自分を信じることであり、いいかえれば孤独だということです。しかし、彼の言葉からわかるように、孤独は孤立とは違うのです。
そのうえ、この言葉からは軽やかさがうかがえます。なんというか、かっこいいですね。しかし彼の考えを語るのは簡単ですが実践するのはやさしくはありません。かれは、いったいどういった経緯があってその境地に至ったのでしょうか。
幼少期に傷つけられた自尊心とその克服、そして大成
かれがこのような生き方になった理由のひとつとして、彼の父が大きく関係していたようです。
”I’ve never been overwhelmed with a desire to become famous.
it’s not that I didn’t want to have my work appreciated,
but for some reason — maybe it’s because my father disapproved of almost everything i did — in some secret in my being was a desire to avoid success.”
‘私は有名になる欲求に一度も屈したことがない。
自分の仕事の価値を認めてほしくなかったわけではないが、
父が私のすること全てに反対したためか、
成功を避けることへの欲望が私の中にどこか潜んでいた。’
同上:210頁より引用
彼の父であったウルフ・ライターはユダヤ教のラビでした。厳格で子供の意思に無関であった父親とソール・ライターは良好な関係を築けませんでした。彼の父は、精神的なものに気づくことができないためか、「しつけ的」にしか子供と接することができないタイプだったようです。
彼の父は、精神的なことへ無関心な代わりに、成功や名声といった価値に重きを置いていました。彼の意思や感性、芸術といったものに打ち込もうとする彼の内面性をことごとく、「成功」することと関係がない、否定的なものとみていたようです。
全ての子供にとって父親は生活を握っている絶対的な存在です。ソール、ライターは自尊心を損なう犠牲をはらいながらラビ養成大学まで、父の期待に応えるために我慢します。うすうす、父親とは心がかよった関係を築くことは不可能なのだと知りながら、心のどこかで父親に愛されることを諦めきれない、そんな暗澹たる気持ちがこの経歴から透けてみえます。
その後、彼は父親への愛着から卒業し、自らが主人として選択し生きていく過程を繰り返すことで自信を取り戻していったようです。最終的に、かれは意思をもった寛容な伝説の写真家となり、幼少期のトラウマを克服したいえます。
彼の、「成功」への特異な低評価は、幼少期に自尊心を傷つけられた過去の傷や、精神的に父親から独立を果たす戦いの名残りのようなものからの大きな影響があったとみることができるのです。
着目すべきは、かれが幼少期の不幸を乗り越えたという点です。かれの言葉はその経験から紡がれています。自信を持ちたい、自尊心を深めたいと思っているひとは少なくないと思います。かれの生き方やそこから産み落とされた言葉には、そのヒントが隠されているかもしれません。
何気ないソール・ライターの言葉を探っていくと、かれの言葉に潜む裏テーマのようなものが見えてきます。それは、あなたであることはすでに世界を味わうために必要なものは実はすべてもっているんだよ。あとは、自分を信じてあなたとして、不思議で美しい世界と関りをもってごらん。というメッセージです。かれの言葉の側面には、わたしたちへのエールが隠されているのです。
「ソール・ライターのすべて」
著者:ソール・ライター
発行者:安田 英樹
発行所:株式会社青幻舎
印刷・製本:山田写真製版所
プリンティング・ディレクター:熊倉 桂蔵
制作管理:板倉 利樹
企画:砂糖 正子(コンタクト)
ブックデザイン:おおうちおさむ(ナノナノグラフィックス)
編集:鎌田 恵理子(青幻舎)
2017©Saul Leiter Foundation