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Cinema Rivew
By スタンリー・キューブリック
こんにちわ、matsumto takuya です。今回はスタンリー・キューブリック監督の映画『アイズ ワイド シャット』を取り上げます。
この映画は、アメリカの映画監督、脚本家、プロデューサーであった巨匠スタンリー・キューブリックによって最晩年に制作された作品です。
彼の作品は、ハリウッド映画で珍しく芸術性が高い映画として評価されています。主演はトム・クルーズ、ニコール・キットマンというハリウッドの大俳優、女優が演じています。
見終わった直後の感想としては、後に引く興奮と軽い混乱といえばいいのか、面白いのだけど見てはいけないものをのぞいてしまったぞ、という不思議な高揚感で落ち着かなくなりました。物語に引っ張り込まれ、内容への理解が追い付かないうちにエンドロールを見ていたというのが正直なところです。
この映画は、映像、音楽、物語それぞれ別個にあってもなりたつほど質が高く、「芸術」を鑑賞するという意味においては、展覧会と通じるところあると思うので今回のブログのテーマにしました。
これからこの映画の良さや、スタンリー・キューブリックがこの映画に込めたものは一体なんなのかといった謎を、わたしなりの視点で探っていきたいと思います。
以下内容を含みます。
導入としての挿入音楽
「ズンチャチャー、ズンチャチャー、、、」とどこか懐かしくも不気味な感じがするワルツのメロディーと刺激的なニコール・キッドマンのセミヌードからこの映画は始まります。この音楽だけでも、この物語が通り一辺倒の勧善懲悪的なもしくは単純なラブコメ路線で終わらない、そんな兆しを匂わせます。ジョスリン・プークという人が音楽を担当しているそうなのですが、只者ではないです。同時に、画面に出てくるトム・クルーズ演じる医者のビルとニコール・キットマン演じるその妻アリスの日常描写がこの上なく優雅。この視覚と聴覚交える甘美で影のあるプロローグで既にわたしはキューブリック監督の世界観に引きこまれてしまったのでした。
ただのラブコメではない。
物語は、医者としても家庭人としても社会的に成功し自信あふれるビルが信頼している妻から、精神的実体験の告白をされるところから動き出します。今まで妻のアリスをすっかり信頼していた公明正大の鏡のようなビルは妻の告白(精神的な不倫の告白)によって動揺し、自分とは違う男に抱かれている妄想が頭から離れなくなる中で、妻が語った内容と同質のシチュエーションをエスカレートしながら経験していくというのがあらすじです。ラブコメでないというよりはラブコメの下、もしくは先に隠れた「真実」を暴露する試みといったらいいのでしょうか。
世界の春樹との共通点
こう書いてみると、村上春樹の小説『ねじまきどりクロニクル』の物語の出発点が似ています。妻の予期せぬ精神面の告白、「真実」に直面し、自分が持っていた世界観が確固たるものではなかったことに驚くも受け入れられない、今まで信じていた世界観の平衡感覚がずれていくなかで自分では想像もしていなかった「真実」を経験し、精神的に大きく変化・成熟していくという点です。
「他者」の発見
どんなに信頼している相手であったとしても、独立した独自性を持った心というものがある限り、完全に相手を知ることはできない。さらには自分自身の心ですら実は完全に知ることはできない。時として人間は、理屈では説明できない存在であり現実に起こっている出来事も実際は、後付けで都合の良い説明でしかない。こう急につきつけられたら、動揺するじゃないかと思われる方が多いかもしれません。
主人公のビルもそうでした。自分が信じてきた世界観が転倒したかのような動揺のなか、ビルはもう十分知っているとたかをくくっていた「他者」への認識を再考せざるを得なくなります。(なんせ、一番知っていると思い込んでいた妻のアリスのことすら完全に理解できていなかったのですから)そして、他者についてどんなに理解しよと努めても完全には分からないこと、さらには、自分自身にすらそういう狂気に惹かれている未知なる部分があることを認めざるをえなくなってくるのです。ここにきて、かれは他の人が自分とは違う独自で独立した世界観を持っていること、を本当の意味で発見していきます。
経験することの怖さ
物語の結末は、ビルが助けた娼婦を結局はビル人が原因で殺してしまったかもしれない、という状況でおわります。自分も含めて自分が思っていたような理路整然とした説明がつく世界というのは、一種の思い込み、まだ目がひらけていない子供の夢想であって、かつて絶対的だと信じていた世界観は世界の真実への相対的で暫定的なひとつの見方でしかないのだ、ということを一夜にして突き付けられたら、わたしたちはどのような反応をするのでしょうか。ビルでなくても混乱すると思います。
ここにきてスタンレー・キューブリック監督がこの映画に関したタイトルの意味が見えてきます。
タイトル「アイズ ワイド シャット」の意味への一つの解釈
「アイズ ワイド シャット」直訳すると、「目を大きく閉じる」です。まるで禅問答のようなタイトルです。ここには二つの人間の状態に対する意味があると私は考えます。
一つは、「他者」を真の意味で発見できていなかった、物語前のビルの状態。社交性を身に着け一定の成功をして、世界について自分はすっかり分かっているとたかをくくっているが、じつは「真実」については全く見えていない状態という意味です。
もう一つの意味は、たとえ「真実」が見えるようになったとしても、人間は完全に「真実」を理解することはできない、妥協的な理屈をくっつけて相対的なものとしてしか理解できないような不完全であいまいな存在、それがわたしたち人間なのだという意味です。プラトンがアリストテレスの口をかりていった「無知の知」の内容ともいえます。
トム・クルーズだからいい
わたしは、こういう哲学的なテーマが設定されている映画の主演が、トム・クルーズであるときいて少し以外でした。知性はあるが公明正大だけどやや軽い人物像が付着していたからです。公明正大で分かりやすいラブストーリを演じてきたトム・クルーズは、いいも悪いもそういうイメージがわたしの頭にくっついていました。
しかし、このイメージがついている彼だからこそ、妻の告白にはじまる「真実」と対峙した時の驚き、受け入れられない仕草、混乱といったものがとても自然に映ったのです。くわえて、有名で超絶イケメンです。これ以上のはまり役は当時いなかったのではないでしょうか。
「真実」と日常とのバランス = 商業的成功かつ芸術性
わたしがこの映画のすごいと思うところは、真実性を暴露するタイプの物語の中に、家族的な要素、モラル時な要素が入っておりながら、主人公らがが真実を経験しながらも、最後の一線を超えずに崩壊を持ち堪えたてなんとか新しい秩序ある未来の可能性を暗示させて終わる点です。
物語はのきっかけを作った、妻の精神的裏切りの告白自体も実際にはことは及ばなかったし、夫への倦怠と軽い嫉妬の腹いせに、妻のアリスも明らかに体目当ての中年とダンスはするが一線は超えない。ジムの方も、妻の告白に動揺する中で、性的な衝動に没入するかが、その性という強力な誘引に屈していくものの最後の一線は踏み外さず、患者の娘とも、肉体的に若く美しい娼婦とも、狂気の乱行パーティでも一線は超えない。もしここで、主人公の彼らが、最後の一線を超えていたら、この作品への印象派大き変わっていたと思います。
「真実」せは日常と違い、受け入れやすいものではなく、かつはっきりした答えはありません。しかしここに世界の神秘や芸術性があります。もしこの映画が「真実」に傾いきすぎていれば、商業的には成り立たなかったでしょうし、一般受けをねらった想定内の「非日常」(わたしは、これは日常に含まれると思います。)では、そこらのハリウッド映画のまあまあな映画として埋もれていたでしょう。
そう考えると、キューブリック監督は、この「真実」と日常のバランス感覚が天才的に鋭敏であったいえます。
「真実性」への愛
ある程度生きていると人によってまちまちですが、「真実」と直面することが増えてきます。その内容は容赦なく、あまり知りたくもない内容であることが多い気がします。だからといって知ってしまった以上は無知でいる子供の「夢の国」に戻ることはできない。生きることは一方通行なのです。わたしたちは受け入れていく以外にないわけですし、それによって成長すること、学ぶことができるのが人間の持つ良さでもあります。「真実」の受容はかつての価値観の一部喪失でもあります。それに伴う混乱、動揺、不安、緊張の中で崩壊せずに歩みをすすめ成熟し、変わってしまったものも変わらなかった部分も含めて完全に説明がつかない世界で生活を続け生きていくことができる、それがが人間のリアルじゃないか。こうキューブリック監督は作品をとおして言いたかったのではないでしょうか。
以上、映画『アイズ ワイド シャット』への一つの考察でした。長々とおつきあいありがとうございました。
「アイズ ワイド シャット」
[監督]スタンリー・キューブリック
[主演]トム・クルーズ、ニコール・キットマン
[提供]Warner Bros.Entertainment Inc.