こんにちは、matsumoto takuya です。今回は、「なぜ『鬼滅の刃』は世代をこえて異常なほど大ヒットしたのか?」から「『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法」までのシリーズの最終回をお送りします。
前回の投稿で、「日輪刀」から「自分らしさ」とはなんなんだろうか、というあたりを見ていき、自分らしく生きることと今の日本の社会制度自体は、実は矛盾しないということを見ていきました。
最終回は、『鬼滅の刃』の物語と自分らしく生きることの関係性をひも解きながら今の日本で自分らしさをとりもどし、自分らしく生きることの意義を探っていきます。
では、さっそくいってみましょう。最終回「煉獄杏寿郎の遺言の意味」です。
目次
「内発的」な自由への意思のしるし
日本の社会制度は、敗戦により外国に用意されたもので、先人が自発的になんらかの独裁に反抗して、獲得したわけではありません。そのため、どうして社会において、自由を持った個人が必要なのか、どうして個人は市民としての責任を背負うのか、といった理由がいまいちピンとこないのは確かです。本来は、個人的な生きづらさや社会の問題が積み重なった鬱憤をどうにかしたいという、切実な要請から望まれるものだからです。
そのうえ、自由の価値について個人差によって理解のバラツキがあり、身体的に切実だった衣食住、インフラの確保のほうが重要で、自由の問題は後回ししても、しかたがないところもありました。
それでも、自分の人生に責任をもち、今のわたしたちの生活に自由が残るように活動した先人や、現に今も活躍している人は、少数派ですが確かにいます。欧米と比較して、主体として生きている人が身近におらず、強力な同調圧力の中で、自分らしく社会とつながりをもって活動している人の器量には驚かされます。
それは、明晰さによって、社会制度の啓蒙に苦心した学者、具体的な法整備を試行錯誤しながら整えた人、文字通り我が道を行くことで閾値を広げてくれた人、志をもって仕事を生み出した人、上下関係にながされやすい組織の中でも人知れず踏ん張りながら、下のものに横のつながりを用意した人、閉じがちな日本社会で鬱屈した心を和ませ、ほぐしてくれる芸人やタレント、スポーツ選手・作家、芸術という言葉ではない記号で、心の奥底にイメージを届け支えてくれた人とさまざまです。
わたしたちは、先人が築いた社会という大枠の質を深めていく、最も重要な段階にいます。もう欧米から言われたから、もしくは、欧米のマネをしてれば成功が約束された後進国の季節はとうに過ぎ去っています。
主体的に生きることは、上から命令されてできることではありません。まず自分が、自分らしく個性を成長し発展させがらな、自発的に社会で「私」を表現して関係を創っていけることで、自分の問題を「お上」にまかせて流されず、自分で自分の人生の責任をとれるようになることで実現します。これは、先達がうまくできなかった課題でもあります。
わたしは正直いうと、コロナ禍の最中で、少年漫画原作である『鬼滅の刃』が、ここまで幅広い世代で爆発的に流行ったことにたいして、最初は引いてしまっていました。日本は娯楽までも画一化されて、しかも世代までも「少年」の次元で単一化しているのか、という不気味さを覚えたからです。でも、実際に見てみると、いやそうでもないんじゃないか、と考えなおしたのでした。
この、『鬼滅の刃』の爆発的な幅広い層への大ヒットが教えてくれることは、悪い内容ではないんじゃないか。『鬼滅の刃』が、人間が人間性をとりもどすために頑張って生きる物語であり、それに共感している人が多いということは、「私」が人間らしく生きるために頑張って生きる物語、つまり、自分らしさを切り離すことなく「私」として生きることへの機運が、かなり高まっていると言うことができるからです。
『鬼滅の刃』の大ヒットが照らしだしたのは、今の日本社会の歪みや、「私」として生きたいという個々人の抑圧された欲求だけではありません。それは、いにしえより日本人が脈々と引き継ぎ洗練させてきた精神性、一つとして同じものはなく、独立している「こころ」、その「こころ」を喜べる「こころ」が、暗いニュースが増えつづける日本でも、やっぱりわたしたちの中に失せることなくたしかに宿っているということです。
その日本人の魂とも呼べるものが、外国からそうしろと命令されたわけではなく、「内発的」に、わたしたち一人一人の胸の内に湧き上がってきたしるしが『鬼滅の刃』への幅広い世代にわたっての共感なのだ、という解釈もできるはずです。「私」という自由の概念が、市中の裕福な個人のうちにぽつぽつ芽生えはじめた大正時代から、約100年の激動のなかで、機は熟され、ようやく実を結ぶステージにきたといえます。
日本の独自性が余すことなく垣間見れる世界観のなかで、人間としての誇りの感情をメインに紡がれる『鬼滅の刃』という物語が、今の日本の多くの人にハマった理由は、「私」として生きることは、日本人としてもアリなのだ、というイメージを与えてくれたからではないかと、ここまで書いてきてふと、そう思います。
いままでさんざん、上から目線で欧米の知識人層から「いいかげん因習をてばなして、主体的になれ」といわれ続けてきた、わたしたちのうんざり感も反抗という意味である意味健全といえます。いくら西洋の社会制度のもとで生活し、洋服をきているのが日常で和服が非日常になった現在であっても、過去の先人が積み重ねてきた精神面での規範は、幼い頃の大切な記憶も織り込まれているため、そう簡単にはないがしろにできないのもまた人間です。
わたしたちは、自分や大切な人の人間らしさを諦めるように迫ってくる逆境のなかで、『私』として社会でどう生きるのか、という具体的な行為や、そのような人が集まる組織や社会がどのような姿になるのか、ということが可視化された物語を追体験することで、日本にはそのような文化を喜ぶ人がいて、自発的に引き継がれてきたのだ、というイメージを見出しているのではないか。そういう精神面での文化的な後押しをしてくれる後見人のようなイメージを求めている人が、今の日本では潜在的に多かったのではないかと思うのです。
「先」に「生」きる人間が背負うもの
ロックバンド『ZAZEN BOYS』 の向井秀徳作『自問自答』という曲の歌詞にこんな一節があります
若い父親と小さい娘が
なんか美味そうなもんにかじりついていた
笑っていたガキが笑っていた
なーんも知らずに
ただガキが笑っていた
純粋な 無垢な
真っ白な、その笑顔は
汚染された俺らが生み出した
この世の全てを何も知らずただ笑っていた
ZAZEN BOYS 『自問自答』作詞作曲MUKAI SHUTOKUより一部引用
若い父親は、「美しい嘘」で子どもを守っている、子どもは何もしらず、「なんかうまそうなもんにかじりつ」きながら「笑って」いる。その若い父親の「美しい嘘」すらも、自分らでうみだした何かで「汚染されて」いること、若い父親自身は気がついていない、その光景を俯瞰してみている一人の人間のまなざし。これは私の意訳です。
それでも、「なーんも知らず」ただ「笑っ」いる「ガキ」に、その「ガキ」がその人らしく成長し大人になり、社会で活躍することができるように支援することが、大人であるわたしたちの責任だということに、誰も異論をはないでしょう。では、わたしたちに何ができるのでしょうか。
元京都大学理学部長、日高敏隆は、「子どもはたちは遊びながら、自分で学び取ろうとする」とし、こう続けます。
そのとき大切なのは、学ぶきっかけを教えてくれる人である。ムシャムシャと食べる人がいれば、「ああ、食べられるんだ」とわかる。そういうお手本がまわりにたくさんいることが必要である。よくこどもに「自分で考えろ」という。でも、自分一人で考えたって、たぶん大したことは考えられない。広い意味での「先生」が絶対に必要だとぼくは思っている。「先に生まれた人」がである。近所の八百屋のおじさんだってかまわない。おじさんが葉っぱに水をかけているのをみて、「水をかけると葉っぱはしゃんとするんだな」と思う。「そうやって売るのはインチキじゃないかなあ」と思うかもしれない。大事なのはきっかけである。
きっかけさえあれば、子どもは案外すっと進んでいける。そうなれば、自分でどんどん学んでいくだろう。なにかを教える必要ない。大人はちゃんと生きていればそれでいいのである。子どもはしっかり見ているものだ。そして、そこから大切な何かを学ぶはずだ。
日高敏隆『ぼくの世界博物誌 人間の文化・動物たちの文化』玉川大学出版部
子どもは「しっかりと見ているもの」です。子どもだけではありません、下の世代は上の世代をよく見ています。「先生」が口で言っている内容を自分でできていないのに、それを子どもにするよう命令する時、子どもは、その「先生」のしたことを学び模倣します。子どもより力のあるはずの大人が、自分にできないことを自分より力の弱い子どもにするように押し付けるのが「正しい」大人なのだ、ということを学び模倣するのです。「先生」が卑怯を教えちゃだめでしょう。マナーやルールと異なり、道徳が「人」の実際のふるまいをとおしてしか教えられないのと同じようにです。
ひとえに、その社会の若者が生きたいと思えるか、死んだほうがましだと思うのかは、その社会ですでに先に生きている人たちの実際の後ろ姿、ふるまい、生き様にかかっている。これは人間が群れを成し模倣する動物であることからくる必然です。
「先に生まれた人」自身が自分の人生に、自分の言動に責任をもって「私」として「ちゃんと生きている」こと。悔いなく生きている後ろ姿、表情、ふるまい、そしてそこから伝わるものすべて、それが、子どもに与えられる最高の支援であり、今のわたしたちの社会で、本当に不足している支援なのではないかとわたしは思います。
この支援は、「あるべき自分」という鎧のなかですっかり委縮してしまった「ワタシ」がデフォルトである社会から、心と身体をもった個人の領域と集団の領域の両面をもった社会に変えていこうという試みです。いまの日本のゆっくりと、しかし、着実にすすむ閉塞・空虚・当惑をどうするのか、という問いへの一つ答えでもあります。
破壊するのではなく洗練させるということ
これは、先人たちが築いてきた過去の文化を、拒絶し破壊することでしょうか。そうではないんじゃないか。これは洗練させるということなのではないか、とわたしは思います。先人たちの努力と、多くの試行錯誤を積み上げてきたものがあるからこそ、経済発展や社会インフラ、法の整備があるからこそ、わたしたちは、人間としての目的にようやく「内発的に」手を伸ばせる局面に立てています。
園芸や、作物を育てる時、花が咲くステージに来ている植物に、本葉が出始めたステージにするタイプの肥料をいつまでも施していたら、その植物は「葉ボケ」という状態におちいり、無駄に背丈や葉っぱを生い茂らせる代わりに、いつまでたっても花を咲かせず、結実もしません。それどころか、無駄に大きくした図体には、それまで悪さをしなかった虫や微小な生物であるカビがはびこるようになり、病気になって、やがて花ひらく喜びもしらず枯れていきます。
同じように、先人の成してきたことに誠意を示したいなら、過去のやり方や規範にナイーブに固執し、先人たちが築いた社会を内側から病ませてしまうのではなく、先達が残したものを、今の状況にあわせてしっかりと修正しつつ、維持し深めていくことのほうが妥当です。より高い局面にたてたからこそ、その社会に生きるわたしたちの抱える問題も、より高次の局面に移行しているからです。
何かを手放し、なにかを新たにうけいれることは、「安全・安心」なものではないように思われるかもしれません。けれどそれは、閉じた世界に他の世界へ通じる道を創ることができます。
わたしたちは、日本人と西洋人の二つの精神性の上に築かれた社会のなかで生活しています。そのどちらかを否定するよりも、共通の価値観を見出していったほうが豊です。
二つの精神の底にある共通の価値観なんてあるのでしょうか。あるとすれば、人間の潜在能力を「信じる」ということです。まだ実現するには至らず、裏切られることも、失敗することもあるが、いづれは、一人一人が自発的に社会のなかで活動でき、生きた知性が、歌の面白さがわかるセンスが、違いをおもしろがれる「こころ」が残りつづける社会をきっと打ち立てられるという信念です。
料理家の辰巳芳子さんが言っていたのですが、昆布という海藻とカツオという海の幸を、世界の人々が認めるレベルの出汁にまで洗練させたユニークで知的な民族は、世界では他に類を見ないそうです。日本酒だってそうです。ブドウ果汁をほっとけばできるワイン、麦芽汁をほっとけばアルコールになるビールやウイスキーとは異なり、日本酒の原料であるお米は、ほっといてもまともなアルコール発酵はしません。お米に麹(こうじ)合わせることで日本酒を創造したのです。わたしたち一人一人の中に埋まっているものはけっして捨てたもんじゃありません。
このような信念を引き継ぐことは、わたしたちには荷が重過ぎるでしょうか?確かに、楽でも簡単でもないでしょう。
しかし、意識に上ろうが上るまいが、本音をいえば自分らしく生きたくない人間はいないはずです。自分が自分らしく成長することを喜ばれて、嬉しくない人などいない。「「私」として社会で生きること」が先人の築いてきた文化を破壊するのではなく、洗練させることになり、それが今の社会への貢献と一致するのであるなら、これほど意味と意義が得られる人生は、そうそうないのではないでしょうか。そこには生きている実感があるはずです。人間の理性はその意味でこそ重要になってきますし、「よしやるか」、と磨きたい欲求が湧き出てくるはずです。
UCLA医科大学精神科臨床教授で『脳をみる心、心をみる脳』の著者であるダニエル・J・シーゲルと児童青年心理療法士のティナ・ペイン・ブライソンは、ニューヨークタイムズでベストセラーとなった『自己肯定感を育む子育て』のなかでこういっています。
だからこそ、鍛錬、達成、成功などのとらえかたを、脳と子どもの最適な発達ににとって重要なものに合わせて改良しなければならないと、わたしたちは考える。現代の研究が強調しているところによれば、自己肯定感から生まれる幸せやそれに伴う達成感のような本当の心の健康は、幅広い興味や研究にとりくむことから生まれる。
そういう多様性は、子どもの内面が成長するにつれて、脳の様々な部分を刺激して発達させ、脳全体の成熟を促すからだ。人は、自己肯定感が高まっている時にこそ素晴らしい成長をする。
『子どもの「才能」を最大限に伸ばす「自己肯定感」を高める子育て:ダニエル・J・シーゲル/ティナ・ペイン・ブライソン:訳者 桐谷知未:大和書房:275項
人間の知性は、好奇心や関心といった心の導きに沿う形で展開していくことで、効率よく伸びていくようにできているようです。これは、子どもに限定されることではありません。今のように経済構造が流動化し、AIが台頭してくる時代では、生涯学習はあたりまえとなってきます。
自発的に生きることには勇気がいります。それどころか、フロムがいうように愛すること全般に勇気がいります。数量化できないテーマを効果的に伝えることができるとすれば、実際に身近にいる人間の存在以上の説得力はありません。逆境でくじけそうになった時、その人らしく生きてきた人が身近にいれば、それでもなんとかなってきた、ということが理屈をこえて信じられるからです。
こどもたちや、これから日本で生まれてくる命より「先」に「生きる」者として、くじけそうになりながらも、今、実際に勇気をふり絞っている「私」は、孤独かもしれませんが、この意味で、おおきなつながりのなかにちゃんといます。炭次郎をはじめとした鬼殺隊員らを導いたのは、父親や母親、師匠の鱗滝さん、富岡義勇ら鬼殺隊の幹部という、実際に存在している、生きている温もりをもった先人の後ろ姿であったのと同じようにです。
「鬼」「滅」の「刃」と最高法規
これだけ個人の能力が抑圧され、妨害され、そして、思考停止を迫るのが今の日本の現状だとすれば、逆から見れば、潜在能力が途方もなく眠っているということです。その意味で、日本はまだまだ捨てたものではなく、「これから」の国です。
わたしはこのことを言いたいがために、見切り発車で、つらつらと書きつらねてきようなものです。
『鬼滅の刃』は、日本で多くの人の共感を獲得した作品です。「私」として生き、社会とつながっていくことと、『鬼滅の刃』で炭次郎たちが行っている、戦いの本質的な意味が同じであるなら、つまり、人間であることの誇りと尊厳の感情を守るため、これ以上、人を人間らしさを失った「鬼」にさせないために、人間性をうしなった「鬼」の被害をださないため、圧倒的に感じる「鬼の元凶」に屈せず戦うこと、と同じであるなら、自分に向き合い、自分らしく生きようとすることは恥ずべきことではなく、むしろ胸が張れることだと言えるはずです。
『鬼滅の刃』の「藤の家紋の家」の人々の言葉を、ここでもう一度、引いてみたいと思います。彼らは、「私」という人間性を失った「鬼」への同情と皮肉をこめて、「鬼」と戦うひとたちに、こう祈りをつげます。
どのような時でも、誇り高く生きてくださいませ
アニメ『鬼滅の刃』第十五話『那田蜘蛛山』
サイコパスという、人から言われて最もショックな言葉があります。表面上は親切で明るいかもしれないが、付き合ってみると、人間性が欠けた、建前しかない人だと分かる場合に使われる、破壊力抜群な悪口です。今の日本の環境は、後天的にこのサイコパスの方向へ、わたしたちを引きずる豊かな土壌になっしまっています。
いくつさきは、人間性(個性・自由)を失い、経済合理主義であるコスパでしか世界をみれないこころの貧しい「鬼」、自分たちの信じる価値観以外はありえないと思考停止する想像力が欠如した「鬼」、 支配・服従でしか関係を築けない「無能」な「鬼」か、一見クールに傍観をきめているものの、内に虚ろをかかえた、臆病で「無力」な「鬼」の集まりです。
「私」が自分らしく社会とつながっていくことが、今の日本社会の生きずらさの螺旋を断ち切る「刃」となります。その「刃」は、心と身体の温もりが、頭の冷静さによって支えられることでできています。それは、陽の光をすいこんだ「刃」です。邪なるものたちきるライオンのような勇ましい力づよさと、太陽のような温かさにより、力を与えられています。だからこそ、「自分らしさ」そして、それが活きるように「「私」として生きること」は、重要で尊い最高の価値として、日本の最高法規にきざみこまれてあるのです。
「私」が自分らしく生きること、それが、わたしたちの暮す社会から、人間性を喰らう「鬼」を「滅」することができる唯一の「刃」なのです。
煉獄杏寿郎が遺した言葉
最後に、『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』で、自らの命を犠牲にして、「鬼」から後輩を守った炎柱の煉獄杏寿郎が、散り際に後輩にのこした言葉を載せて締めくくりとします。
俺は信じる。君たちを信じる。
劇場版『鬼滅の刃』無限列車編、最終シーンより
長々とお付き合いしていただき、ありがとうございました。
参考文献
[放送局] TOKYO MXほか
「自由からの逃走」
[作者] ERICH FROMM
[訳者] 日高 六郎
[発行者] 渋谷 健太郎
[発行所] 株式会社 東京創元社
『自問自答』
[歌]ZAZEN BOYS
[作詞・作曲] MUKAI SHUTOKU
『ぼくの世界博物誌 人間の文化・動物たちの文化』
[著者]日高敏隆
[出版]玉川大学出版部
『「自己肯定感」を高める子育て―子どもの「才脳」を最大限に伸ばす』
[著者]シーゲル,ダニエル・J.〈Siegel,Daniel J.〉/ブライソン,ティナ・ペイン〈Bryson,Tina Payne〉
[訳者]桐谷 知未
[出版]大和書房