『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法 その2 「鬼」からの脱却~自分らしさを取り戻す~

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こんにちは、matsumoto takuya です。今回も前回にひきつづきシリーズ「『鬼滅の刃』からみる自分らしさを取り戻す方法」をおおくりします。

前回までの投稿で、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の「炎柱」煉獄杏寿郎にスポットをあてて、「犠牲」は一概に正しくはなく、人間が「自分らしくいきる」ことのために、犠牲は犠牲たりうるということを見ていきました。

今回の投稿は、現代の日本では半ばデフォルト状態となった「自分がしたいことがわからない」状態から自分らしさを取り戻すにはいったいどうしたらいいのか、という点を探っていきます。

では、さっそくいってみましょう。

街中の中で一人立ち止まっている青年、存在感が薄い通行人たち、街並み、個の目覚め

珠代さんからみる主体の回復

知らず知らずに自分のこころが動かなくなり、「鬼」化するワタシ。そんな「鬼」化してしまった「ワタシ」が、どうやったら「自分の心のまま正しいと思う道を進むよう」なことができるというのでしょうか。

それにはやはり、もう一度、自分のこころの声がききとれるようになる必要があります。でなければ進んでいく方向性が分からず不安にになり、また「世間」やなんらかの「匿名の権威」に服従することになってしまいます。

では、自分のこころの声が聴きとれる状態というものを再び作っていくには、どうすればいいのかといえば、自分が自分を愛することにつきます。主体である「私」を取りもどすということは、
自分が自身である「心・身体」の声を、条件なしに受けいれられるかどうかにかかってくるからです。

しかし、すっかり自分のしたことがわからない自分を見失っている状態で、この自己愛という言葉を思い浮かべてみると、子供じみてみっともない半人前の甘えだろう、という答えが、条件反射的に頭によぎることでしょう。しかしこれは、知らず知らずに取り込んだ「世間」の声であり、「世間」からの精神的な独立をはばむために「自分を否定せよ」と命令する「にせの自己」による脅しのようなものです。

 『鬼滅の刃』では、「鬼」でありながら医者であり、鬼舞辻無惨への服従を拒絶し、主人公の「炭次郎たちを援助する珠代さんという「鬼」が登場します。「鬼」は無惨の支配から逃れられないようにするため、無惨によって「呪い」を身体の内側に仕込まれており、その「呪い」が内側から鬼が無惨に反抗しないように脅し、反抗する場合は「鬼」は「呪い」に内側から食い殺されます。「鬼」が無惨の支配から逃れさせないように、内側から監視し強迫するのです。

なぜこんなことをするかといえば、「鬼」が追い詰められたさいに、鬼殺の剣士に自らの情報が洩れることを恐れたからですが、同時に、無惨は支配するものが自分から離れていくと自分が保てず怖いのです。「愛と支配」の章でとりあげたように、サディストは支配できるマゾの存在なくして独り立ちできない未熟な存在です。同時に、無惨は部下の「鬼」を一ミリも信頼していないことがわかります。自分の支配欲をみたすためには必要だが、信頼していないから首輪をかけるわけです。

珠代さんは「鬼」になりながらも、炭次郎の妹である禰豆子と同じように、人間としての誇りと尊厳の感情を失わない気概がある稀有な存在として登場します。彼女は「鬼」として生きることのさもしさに心底うんざりし、無惨からの決別を決意し、彼の仕込んだ呪いを外すことに成功したことで、無惨の支配から自由になり、立ち向かえるようになりました。

鬼舞辻無惨が身内の「鬼」の内側に「呪い」を仕込んだのと同じように、わたしたちは同調を繰り返すうちに「世間」や「みんな」といった多数派の声である「ザ・あるべき姿」が思い込みとして内在化されてしまい、わたしたちを精神的に独立しないように内側から、罪悪感や無力感、無意味感をつかってあたかも自分がそう思っているかのように迫ってきます。ちょうどクロワッサンの内側みたいな感じで「ザ・あるべき姿」重層化し、「私」の声をさえぎる障子のようになっているといえば分かりやすいかもしれません。

 自分のしたいことが再び分かるようになるには、まずは自分を縛っている思い込みをひとつひとつ外すことが必須の作業になってきます。珠代さんが、無惨の仕込んだ呪いを外せたことで、無惨に対抗でるようになったように、知らず知らずに取り込んでしまった「にせの自己」の脅す絶対的にさえ感じる思い込みを外すことが、個性を失った「鬼」状態から脱し、いま・ここにある心・身体とつながった「私」という人間性を取り戻すための第一歩となります。


というわけで、とりあえず幕開けとして自己愛と他者への愛、自己愛と利己主義の違いを理性の面で認識し、誤解をといて足かせを外していきましょう。

自己愛と利己主義は別物

もし、自分に向けられる愛が利己主義と同じ現象であるなら、愛と自己愛は排他的な関係になり、自己犠牲をすることは美徳ということになります。これが「ニセの」自己である「世間」が語るありがちな答えとなります。

しかし、これは本当でしょうか。フロムはこの意見に、以下の3つの問いを投げかけ、次のように述べています。

  • 現代人の利己主義はほんとうに、知的・感情的・感覚的能力をそなえた一個人としての自分自身に対する関心なのだろうか
  • 現代人は、みずからの社会的・経済的役割の付録にすぎないのだろうか。
  • むしろ自己愛が欠如しているから利己主義的になっているのか。

利己主義と自己愛の心理学的な側面について論じる前に、他人にたいする愛と自分への愛は両立しないという考えが論理的に間違っていることを指摘しておく必要がある。隣人をひとりの人間として愛することが美徳だとしたら、自分を愛することだって美徳だろう。すくなくとも悪ではないだろう。自分だって一人の人間なんだから。そのなかに自分を含まないような人間の概念はない。自分を排除するような論理は本質的に矛盾している。聖書は述べられている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考えの裏にあるのは、自分の個性を尊重し、自分を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解するに切り離せない考えである。自分を愛することと他人を愛することは、不可分の関係にあるのだ。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木 昌訳:紀伊国屋書店:同上:94項

注)フロム・・・エーリッヒ・フロム。20世紀を代表する社会心理学者。著書『愛するということ』が日本でリバイバル中。筆者はこのシリーズではメインの参考としている

さらに、心理学上の基本的な前提としてこう続けます。

「他人に対する態度と自分に対する態度は、矛盾しているどころか、基本的に結びついている。これを愛の問題に重ねあわせてみると、他人への愛と自分への愛は二者択一ではないことになる。それどころか、自分を愛する態度は、他人を愛せる人すべてにみられる。原則として、「対象」と自分とはつながっているのであるから、他者への愛と自己への愛とを分割することはできない。

同上:94項

といっています。「原則として、「対象」と自分とはつながっているのであるから、他者への愛と自己への愛とを分割することはできない」という個所はわかりにくいところですが、いいかえると、他人についての認識のレベルと態度は、自身について認識のレベルと態度に一致するということです。

例えば、『鬼滅の刃』の主人公である炭次郎は、自分の独自性である嗅覚や、自分が実際に見て感じたものを信じ、それをもとに考えられた信念を誇りにし尊重しています。

彼が自分自信の感覚や感情を大事なものとし、それをもとに思考して得た信念を尊重できているからこそ、同じように、かれは他人のうちにある独自の感覚、感じ方、それらをもとにした想いや考えがあるという想像力が働き、それは重要なものである、という態度を他者に向けることができるのです。

鬼についても見てみましょう。鬼は力と引き換えに自分を忘れます。自分の内面を尊重しようにももうわからない。鬼は、自身にたいして人間らしさや個性についての認識がないので、他の鬼に独立性をもった独自な世界観があるという想像力がはたらきません。そのため、他人を「自分と同じような存在」としてしかみれないのです。自他の区別ができない鬼にとっては、言葉上の尊重の表面上の意味は理解できるのですが、その内容についてはキレイごととしか認識できない。デリカシーがないというよりは、それを感じる能力が退行しているか欠如しているのです。

つまり、自分がする自身の感覚、感情、思い、考えといったものへの配慮の程度と、他人の感覚、感情、思い考えといったいったものへの配慮の程度は結びついているです。

日本は多数派の同調圧が強く、少数派にたいして排他的な環境にあります。「私」が感じているものが「みんな」と違う場合、その感覚や感性、そして思いを表現した場合、いじめられる可能性がとても大きいので、わたしたちは知らず知らずに、「私」が感じているものについて多数派と合致しない部分を見ないように放置し、世間やみんなといった多数派の意見に合わせる条件反射のような癖がついています。それが、成長過程で繰り返されるにつれて「私」の声が聞こえなくなっていき、いつしか、したいことがわからなくなるという状態におちいりやすい。これが社会人になると権力を伴う環境に身をおくので、その傾向が一層強まります。

その一つの結果として、自分の感覚、感情、思い、考えに尊重・配慮する姿勢がとれないように、他人の感覚、感情、思い考えといったいったものへ尊重・配慮できない人間ができあがります。
一流企業に入社できた有能で健康は人が、なぜ、パワハラをしたり、過労死、鬱になってしまうかの理由の一つもここにあります。

「自分を愛することと他人を愛することは、不可分の関係にある」のです。他人を愛するには、むしろ、自分を愛することを前提としているのです。

健全な自己愛が欠けると利己的になる

次に、利己的な人についてみてみましょう。フロムは利己主義について、こう解説しています。

利己主義と自愛とは同一のものではなく、まさに逆のものである。利己主義は貪欲の一つである。すべての貪欲と同じく、それは一つの不充足をもっており、その結果、そこには本当の満足は存在しない。貪欲は底知れぬ落とし穴で、決して満足しない欲求をどこまでも追及させて、人間を疲れさせる。よく観察すると、利己的な人間は、いつまでも不安げに自分のことばかり考えているのに、けっして満足せず、常におちつかず、十分なものをえていないとか、なにかを取り逃しているとか、なにかを奪われるかという恐怖に、かり立てられている。彼は自分よりも多くのものをもっている人間に、燃えるような羨望を抱いている。さらに綿密に観察し、とくに無意識的な動的な運動を観察してみると、この種の人間は、根本的には自分を好んではおらず、深い自己嫌悪をもっていることがわかる。

この一見矛盾した謎は容易にとくことができる。利己主義は、まさにこの自愛の欠如に根ざしている。自分をこのまない人間や自分をよしとしない人間は、常に自分自身に不安を抱いている。かれは純粋な行為と肯定の基盤の上にのみ存在する内的な安定をもっていない。彼は自身に気をつかい、自分のためにあらゆるものを獲得しようと貪欲の目を見張らねばならない。これと同じようなことは、いわゆるナルシスト的人間にもあてはまる。かれは自分自身のために物をえようと腐心するかわりに、自分自身を賞賛することに気をかけている人間である。このような人間は、表面的には自分自身を非常に愛しているようにみえるが、実際は自分を好んでいないのであり、彼のナルシシズムは-利己主義と同じようにー自愛が根本的に欠けていることを、無理に償おうとする結果である。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社:133項

自分を受け入れられない場合、人はその不安から貪欲になるも、満たされない状態に縛り付けられるわけです。ナルシストも、その貪欲の内容が他者評価に偏っただけだとわかります。

『鬼滅の刃』でもっとも利己的な鬼である親分の鬼仏辻無惨を例にみていきましょう。

無惨は圧倒的な力をもっているにもかかわらず、相手にすることさえも馬鹿らしい取るに足りない酔っ払いに「いまでにも死にそうだな」と絡まれた際に激昂します。また、鬼でありながら無惨と戦い、無惨の呪を自力で外した珠代さんが抱いた無惨についての感想も「無惨は、いつもなにかに怯えています。」(アニメ『鬼滅の刃』第八話「幻惑のかおり」より)というものでした。

注)筆者は、『鬼滅の刃』はアニメ版と、劇場版『鬼滅の刃 劇場版 無限列車版』しかみていませんのであしからず。

本当に自分の力に自身があるのなら、バカなことをされてたとしても、腹をたてたり不快は感じるでしょうが、ムキになって急にキレたり激高することはないはずです。ひとは健全な自己愛が欠けているからこそ、他者からの評価に過剰に反応してしまい、利己的になったり、ナルシストになったりする存在のようです。

フロムはこう続けます。

利己主義と自己愛とは、同じどころか、正反対である。利己的な人間は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、そのひとは自分を憎んでいるのだ。そのように自分に対する配慮を欠いているのは、その人が生産性に欠けていることの表れにほかならず、そのせいで、その人は空虚と欲求不満から抜け出すことができない。当然ながらその人は不幸だ。人生から満足をつかみ取ろうとして必死にもがくが、自分で自分の邪魔をしている。自分を愛しすぎているかのように見えるが、実際には、ほんとうの自分を愛せないことをなんとか埋めあわせ、ごまかそうとしているのだ。

エーリッヒ・フロム:鈴木 昌訳:紀伊国屋書店『愛するということ』:同上:96項

ここで言われている「生産性」とは、自らを受け入れることで可能となる自発的な表現・創造といった生み出し与える活動や人間関係をとおして満足を感じる能力のことです。「利己的な人間は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎる」から自分としての力を実感できず、不安に駆られて、支配欲にはしったり、他人からの評価に過剰に反応するようになるのです。

ナルシストと健全な自己愛がある人は正反対です。利己主義と自己愛は、同じどころか正反対です。

さて、わたしたちが知らず知らずに取り込んでいた「ニセの自己」こと「世間」や「みんな」、「普通」といった多数派の呪縛が一つとけたところで先に進みましょう。

脱「鬼」化の作業

最近、独りキャンプ、釣りや「おひとり様」へのサービスが珍しくいことではなくなりました。かつては、「世間」からイタい目でみられるので控えられてきたこういう一人に引きこもる行為が増えてきたということは、日本社会の閉塞感、鬱屈感、同調圧力からくる束縛されるうんざり感が、体裁を気にしていられないレベルにまできてしまったことの一つの表れといえます。

自分の関心が動かなくなってしまったことや、いまや建前以外なにものでもない人間関係の虚しさに気がついたり、一人でいる時に何とも言えない無力感や空虚化を感じる自分に気づき、問題に向き合おうとする人は、今日、珍しくなくなったような気がします。しかし、かれらは、ある共通の試練に直面しているかもしれません。

それは、自分が本当はなにをしたいのかを見失っている状態で、自分の世界観を広げるために一人の時間をふやして活動している時に感じる不安・怖さ・心細さです。

これは依存の離脱症状みたいなものです。自分を放置して「世間」や「普通」、「みんな」に「同調」することで得られていた安心がなくなるなかで、そこから離れて自分の世界観を再構築するために一人で行動している時に感じる恐さの正体は、いままで「自分がない自分」を正当化してくれた「あるべき自分」といった世間体です。かつて、自分が従ってきた「世間」が、「私」として生きようとする時に、今度は自責となってブーメランのように襲いかかってきます。ここでしんどくなり、やっぱり「私」を捨てて「みんな」に同調していたほうがわたしなのよ、という誘惑にかられるのです。

フロムは「愛するということ」ができるようになるには、「信念」を育て深めていくことが重要であるとのべています。ここで「愛するということ」としてで書かれている内容は「主体の確立」、「主体の再確立」もしくは「自分探し」についてもあてはまります。

この「信念」を深めていく作業によって、群れることの禁断症状から少しずつ抜け出ていき、すっかり萎んでしまった心・身体の声が息をふきかえし、「私」としての生きる力が増していくようになるのです。

「理にかなった信念」と「根拠なき信念」

「信念」は二つに大別されます。「理にかなった信念」と「根拠なき信念」のふたつです。重要になってくるのは「理にかなった信念」です。以下、「理にかなった信念」と「根拠なき信念」をまとめてみました。

  • 理にかなった信念・・・自分自身の経験や、自分の思考能力・観察能力・判断力に対する自信に根差しし、大多数の意見とは無関係な、自身の生産的な観察と思考にもとづいた独立した確信(炭次郎の信念)
  • 根拠なき信念・・・ある権威、あるいは多数の人びとがそう言っているからという理由だけで、何かを真理として受け入れたもの(例:鬼にとっての無惨、「みんな」、「普通」、「世間」)

すっかり自分がわからなくなったり、生きている実感がないことにうんざりして、自分らしく生きようと再び歩き出した人の内面では、この二つの「信念」が綱引きしている状態にあると例えられます。 

「理にかなった信念」は「自分は無力じゃない、大丈夫やってごらん、がんばれ、がんばれ」といった自己愛が、「根拠なき信念」は「どうせ、結局、自分は無力で、どうでもいい、じぶんなんてそんなもんだろ、役に立たっていない、コスパ悪い、いまさらださい、みっともない」といった自己否定を内容とします。

これは、自意識による、心・身体(自分自身)への態度という視点からみたとき、自分が自分自身を「あなたは無力ではない」と自身を信じる態度と、「おまえは無力だ」と信じない態度の綱引きであるといえます。自意識が、炭次郎の視点で自分自身を尊重するのか、それとも、無惨の視点で自分自身を見下すのかの綱引きであるともいえるでしょう。

二人の人間の綱引き、左は「多数派」の例えとしての鬼、右は「私」

健全な自己愛とは、自意識と自身の心・身体との信頼関係とたとえられます。はじめから信じるつもりがない相手から、信じてもらうことは出来ない話です。信頼関係は、まず信じることから生まれます。

健全な自己愛とは、自意識と自身の心・身体との信頼関係とたとえられます。はじめから信じるつもりがない相手から、信じてもらうことは出来ない話です。信頼関係は、まず信じることから生まれます。
 「理にかなった信念」を深めていくことは、信頼を一度うしなった自身(こころ・身体)との信頼関係をもう一度結びなおすということなのです。

では、どうやったらそのような「理にかなった信念」をもてるのだろうかという疑問がうかびます。「理にかなった信念」の中身である「信じる」ということは、外的な指標がないということです。貸したお金を返してくれるかどうかを、その人がお金がもっているかの外的条件を指数でマニュアル化したクレジットカードの審査、銀行のローンで使われるような「社会的信用」とは異なります。

次回は、自分らしさという人間性を失った「鬼」状態から脱するために、言いかえれば、自分らしさを取り戻すために必要な「理にかなった信念」の深め方ついて、踏み込んで見ていきたいと思います。

お付き合いありがとうございました。

参考文献

「アニメ『鬼滅の刃』」

[原作者]吾峠呼世晴週刊少年ジャンプ』(集英社

監督 外崎春雄

シリーズ構成・脚本・アニメーション制作 ufotable

[企画]アニメプロデューサー アニプレックス 高橋祐馬

[製作]アニプレックス、集英社、ufotable

放送局 TOKYO MXほか

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」
[原作] 吾峠呼世晴
[監督] 外崎春雄
[脚本] ufotable
[キャラクターデザイン] 松島晃
[音楽] 梶浦由記、椎名豪
[制作] ufotable
[製作] アニプレックス,集英社、ufotable
[配給] 東宝,アニプレックス
[封切日] 2020年10月16日
[上映時間 ]117分
その他 PG12指定

劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編公式サイト

「自由からの逃走」

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 日高 六郎 

[発行者] 渋谷 健太郎

[発行所] 株式会社 東京創元社

「愛するということ」

[作者] ERICH FROMM

[訳者] 鈴木 昌

[発行所]紀伊国屋書店

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